第六話 初の晩、新月
静かな月夜が好き。
秋葉が四ツ折家の納屋に住んでいた頃は、格子の下から月をよく見ていた。
月は三十日かけて、様々な形に変化する。満月、三日月、上弦や下弦の月……。毎日のように形を変える月を眺めるのが好きだった。
あの日から感情を心の底に押し込めた自分と違って、日によってころころと様変わりするそれは、とても魅力的に見えたのだ。
私も、変わりたい。
そう、切に願っていた。
子供の頃は明るい太陽が好きで、夜が来るのが怖かった。
真っ暗で、音のない世界。それは絶望の底へ向かっているようで、希望を運んでくれる太陽が登るのが待ち遠しかった。
でも、いつからだろうか。
いつの間にか太陽が怖くて、夜を待ち望んでいた自分がいたのだ。
それは、唯一の一人になれる時間だからだろうか。
罵倒されたり嘲笑されたり、そんな声が届かないから。妹と比べられることもないから。霊力があってもなくても、全員に平等に来る休息の時間だから。
夜の孤独な時間は、いつしか秋葉にとって大切なものになっていた。
今宵は新月。月は目に見えないが、始まりの日。
自分の新しい人生もここから始まるのだと思うと、自然と胸の奥が熱くなった。
闇を照らす星空が綺麗だ。こんな素敵な夜空を見ていると……。
――じゃあ、また夜に。
「ぶっはぁっ!」
にわかに憂夜の顔が浮かんできて、秋葉は飲んでいたほうじ茶を吹き出した。
慌てて手ぬぐいで口元と寝間着を拭くあいだも、顔は熱を放ったままだ。
(全く……。あいつ、なに言ってんのよ……!)
憂夜のせいで感情が掻き乱されるのを歯痒く感じる。胸は早鐘を打って、妙な汗が止まらなかった。
あのときは頭が真っ白になって、慌てふためきながら彼の背中を押して部屋から追い出した。しかし冷静に考えると、龍神様に対してひどく無礼だったと思う。
(でも……あんなこと言うほうが悪いのよ!)
秋葉も無垢な幼子ではない。夫婦になった二人が、なにをするのかは聞き及んでいる。
でも、あんなに真正面から言うなんて!
「べ……別に嫌じゃ、ないんだけど……ね……」
熱が顔に集中して、つい机の上に顔を突っ伏す。磨かれた木製の表面が、ひんやりとして気持ちいい。
今の自分は、彼の妻に相応しいとは思っていない。
現に、今この瞬間も、彼の神力で肉体が保護されているのが分かる。高い霊力を持つ人間でなければ、神と同じ空間に立つには耐えられないからだ。
その霊気は、それこそ『千年に一人』と呼ばれていた過去の秋葉……そして現在の春菜くらいの強さでなければ。
なのに、彼はこんな自分をすんなりと受け入れてくれて。
……などと、うだうだと悩んでいたところ、秋葉ははっと我に返って弾かれるように顔を上げた。
「いやいやいや! 自分を卑下するのは彼に失礼でしょ!」
憂夜は黒龍で、神様の中でも上位にあたる。そんな雲の上の方から自分は選ばれたのだ。
もっと自信を持ってもいいし、彼に相応しい妻になるためにもっともっと頑張らなければ……!
黒龍と白龍は、陰と陽。白龍は光を司り、黒龍は闇を司る。
人間にとって太陽は生きるうえで欠かせないもの。闇夜は死者の世界に近く、恐ろしく忌むべきもの。
ゆえに黒龍信仰はほとんど存在でず、人々は白龍を崇めていることが多かった。
(憂夜も孤独だったのかな……)
賑やかな従者たちはいるけど、屋敷には他の者の気配はなかった。それに、この場所自体がひどく孤立しているように見える。
妻として、夫に寄り添うことができればいいなと思った。
自分にはまだ夫婦というものが理解っていないけど、きっと互いに助け合う関係が夫婦なのだと思う。
だから、憂夜ともそんな関係になりたい。
「秋葉、ちゃんと晩飯は食ったか?」
「ぎゃあっ!!」
突然の頭上からの憂夜の声に、秋葉は飛び上がった。
「ちょ、ちょっと……! 声くらいかけてよ」
「何度も扉を叩いたぞ。気付かなかったのか?」
「えっ!? そうなの?」
呆れたように憂夜が苦笑いをする。そして、右手で秋葉の前髪をかき上げながら額に手を置いた。ひんやりとした心地良さに、彼女は不本意にも安堵感を覚える。
「考えごとか?」
「まぁね……」
「……」
憂夜は少しだけ秋葉を眺めたあと、
「こっちへ来い」
「わっ!」
秋葉の手首を掴んで、ベッドの上に座らせた。そして、すかさず彼女を抱きしめる。
「な、なにするの!」
憂夜の腕の中が熱くて、自分の身体も呼応するようにかっと熱くなって、脈がどんどん速くなっていく。
頭が彼の胸にくっついて心臓の音が聞こえたけど、彼の鼓動なのか自分の音なのか分からなかった。
「秋葉が落ち込んでるから励ましてやるんだよ」
「べっ、別に、私、落ち込んでなんか――……っつ……!?」
憂夜は秋葉の背中に腕を回して、ぽんぽんと頭を撫ではじめた。赤子を寝かし付けるみたいな規則正しい動きに、またもや安堵感が湧いてくる。
次第に目を閉じて、彼の胸の中に顔を埋めた。
こんな風に抱きしめられたのはいつ振りだろうか。
少なくとも霊力が消えた日から、両親からは抱きしめられるどころか触れられることもなくなった。
(温かい……)
自然と、彼女の腕も彼の後ろに伸びる。彼の背中は、とても大きくて頼もしく感じた。
「……本当にいいのか?」
しばらくして、憂夜が彼女の耳元で囁いた。
「えっ……?」
思わぬ質問に驚いて、顔を上げて彼を見る。黄昏色の瞳は、不安げに揺らいでいた。
「どういうこと?」
彼は一瞬だけ押し黙ってから、
「秋葉は……本当は白龍に嫁入りしたかったんじゃないのか?」
「あ……」
今日はいろんなことが起こったから、すっかり忘れていた。
霊力がある頃に、白龍の花嫁に選ばれた。力を失い神の御印が春菜に移っても、今日のこの日のために霊力を取り戻す努力を続けていたんだっけ。
秋葉は気まずそうに視線を泳がせながら、ぎこちなく首を傾げた。
「あ〜……そう言えばそうだったかも。もう忘れちゃった、かも……?」
「おい」
ガクッと、彼は脱力して頭を垂れた。勇気を振り絞って尋ねたのに、あっけらかんとした答えに拍子抜けだ。
でも、じわじわと嬉しさが込み上げてくる。
「……お前、白龍のために、ずっと鍛錬を続けていたんじゃないのか?」
「それはそうだけど……。でも、自分のためでもあったんだと思う。理不尽な運命に屈するもんかーって。それに……」
秋葉は少しだけ顔を曇らせた。
「それに?」
彼女の本音を早く聞きたくて、彼は思わず続きを促してしまう。
「それに……ね? 薄情かもしれないけど、今の私は、白龍様の花嫁になりたいんじゃなくて、もう一度みんなに自分の存在を認めてほしかっただけなんだと思う。
霊力が消えてから、周囲の人たちの態度が一変したのが怖かった。果てしない孤独が、いつも私を追いかけていたわ」
憂夜は微かに唇を噛んだ。まだ幼かった彼女に、あの仕打ちは地獄だったろうと想像に難くない。
どんなに自尊心を奪われ、どんなに悲痛だっただろうか。
「でも、同時に反省しなきゃいけないことに気付いたの。私は霊力しかなかった。それ以外に人を惹き付けるものを持っていなかった。きっと力に自惚れていたのね。もしかしたら傲慢だったのかもしれない。
だから、霊力を取り戻して、その力を人のために使いたいって今は思うわ。それは白龍様とは別の話よ」
憂夜は大きく目を見開く。彼女は過酷な環境の中で、心が腐ることはなかった。いつまでも前を向いて、堂々と戦っている。
そんなところが愛おしいと感じた。
「……妹のことは恨んでないのか? お前の霊力が消えたのは、あれを助けたからだろう?」
おそるおそる、彼はもう一つの疑問を投げかける。
あの日、不穏な気配を感じて下界へ降りてみたら、秋葉が妹を救う場面に出くわした。彼から見てももう駄目だと感じた妹が、奇跡的に命を吹き返した。
それは同時に、秋葉が霊力を失うことだったのだ。
「……春菜を助けたことは後悔していない。だって、大切な家族なんですもの」
「俺がお前だったら妹を張り倒してるけどな。『てめぇなんてことしてくれたんだー!』って」
憂夜の少しおちゃらけた様子に秋葉はくすくすと笑って、
「私の霊力がなくなったのは、あの子のせいじゃないわ。偶然よ。そういう運命だっただけ」
「そうか。秋葉は強いな」
「そう?」
「あぁ。強い『魂』を持っている。さすが俺の花嫁だ」
「……ありがと」
再び憂夜は秋葉を腕の中に閉じ込めた。彼女も彼に身を任せる。
心地良い沈黙が流れた。この時間をこれからも大切にしたいなと彼女は思った。
「じゃあ、今夜の初夜だが――」
少しして、憂夜の妙にハキハキとした声が甘やかな時間をぶち壊す。突如、生々しい現実に引き戻されて、秋葉の脈がどきりと跳ねた。
「そ、そ、そうだったわね……」
秋葉はつい逃げ腰になる。胸は圧迫されたように重くなって、息が詰まった。ぎょろぎょろと目が泳いで、乾いた唇が微かに震えだす。
(本当に今夜、夫婦の……するの!?)
本音を言えば、まだ心の準備ができていない。だって、花嫁という言葉から何年も離れていたのだから、全然想像ができないのだ。
憂夜はじっと秋葉を見つめる。黄昏みたいな不思議な色に、またもや引き込まれた。
「秋葉はさ……」
「はっ、はいっ!」
「俺のこと、まだ名前で呼んでいないな?」
「えっ……!? そ、そうだっけ……?」
秋葉は首を傾げる。そう言われてみれば、そうかもしれない。
憂夜の視線が彼女を射抜く。
「お前の夫なのに、名前で呼んでくれねぇの?」
ちょっとだけ不貞腐れた様子が、不覚にも可愛らしいと思った。
「い、いや……。呼びたくないわけはなくて……。ちょっと、機会を逃したかんじ……?」
しどろもどろにそう答えると、彼はずいっと顔を近付けた。
「ほら、呼んでみろよ。憂夜って」
「うっ……」
思わず身体を少しだけ仰け反ってしまう。顔が近い。近過ぎる。ただでさえ見惚れるような顔立ちなのに、こんなに近距離に来るなんて。
憂夜は彼女の動揺を楽しんでいるかのように、距離が開いた分また近寄ってきた。彼の吐息が彼女の顔にかかって、ますます胸が高鳴っていく。
「ゆ・う・や」
「ゆっ……」
ぞわぞわする恥ずかしさに、秋葉はつい視線を落とした。
「ゆ…………憂……夜…………」
「よく出来ました」
次の瞬間、彼は嬉しそうにニカッと笑って、愛おしそうに彼女の頭をぽんぽんと撫でた。
「よぅしっ、俺たちの初夜は完了だ」
「……はぁ?」
素っ頓狂な秋葉の声。彼女の間抜け面に彼はくつくつと笑いながら、得意げに言う。
「夫婦になる第一歩は、互いの名を口にすることだな」
「はぁ……」
「それに、秋葉の気持ちはまだ準備ができていないようだ。俺は怖がる女を無理に手籠めにするような無粋な真似はしねぇよ」
「あ……」
どうやら、憂夜には秋葉の気持ちは全てお見通しだったようだ。嬉しさやら恥ずかしさやらで、ほんのり頬を紅色に染める。
「その……いいの?」
「……秋葉が初夜をしたいなら、やるか?」
「べっ……! 別に、私はっ……」
真っ赤な頬の色が、更に濃くなった。
「はっはっは。秋葉はまだお子ちゃまだからな〜」
「私は子供なんかじゃないわ!」
憂夜はおもむろに立ち上がって、
「おやすみ、秋葉」
秋葉の頬に軽く口づけて部屋を出た。
「っ……」
残されたのは、目を白黒している秋葉。
触れた箇所から熱が広がって、身体中が火照っていく。
それに比例して、怒りも。
「不意打ちすなーっ!!」
扉越しに聞こえる妻の雄叫びに、憂夜は声を上げて笑った。
これが、二人の初夜。
新月の今日、ここから始まるのだ。
◆
「憂夜様」
「ん? どうした?」
憂夜が秋葉の部屋を出て数歩進んだところで、不意に狐宵が彼を呼び止めた。声を潜めての呼びかけに剣呑な空気を感じ取る。
「なにかあったのか?」
主人は敢えて落ち着き払った様子で訊く。
「本当に秋葉様を花嫁にしてもよろしいのですか?」
「どういうことだ?」
憂夜の顔が険しくなり、たちまち周囲の空気が彼の神力で震えた。
それでも狐宵は、主の剣幕に物怖じせずに話を続ける。
「私は……反対です。秋葉様からは一滴たりとも霊力を感じません。」
狐宵は真剣な眼差しを主に向ける。そこには非難の感情が映っていた。
(こいつがこんな表情をするのはいつぶりかな……)
狐宵も瑞雪も、基本的に憂夜の意向に逆らうことはない。
だが主が誤った方向へ進もうとする際は、きっぱりと進言をしてくれる。
秋葉との婚姻は間違った道なのだろうか。
傍目にはそう映るのかもしれない。本来ならば神と人間の婚姻は、人間側に莫大な霊力が備わっているからこそ成立するのだ。
現に今の彼女は、自分の神力で守ってやらないと神の世界では生きられないだろう。
――だが。
「なぁ、狐宵。お前、海って見たことはあるか?」
「毎年、全員で下界へ海水浴に行くではありませんか」
「あーそうだっけ? シロも瑞雪も、海遊びが好きだからなぁ〜」
憂夜はすっ惚けた顔をして肩を竦めた。狐宵は白けた顔を主に向ける。
「悪い、悪い。――で、海なんだがな、大波が来る前は一旦潮が引くんだよ。波が大きければ大きいほど、奥へと下がるもんだ」
「……秋葉様が、そうと?」
「あぁ」
憂夜は深く頷く。そしてふっと柔らかく笑った。
初めて見る主の愛情深い表情に、狐宵は驚きを隠せない。
「俺には、秋葉の奥底にまだ眠っている力を感じる。あいつはまだ腐っちゃいねぇ」
「……私にはなにも感じません」
「ま、俺も半信半疑だ。勘だけどな〜」
憂夜はケラケラと笑ったあと、
「だがな、狐宵。婚姻は『条件』じゃねぇ。『魂』だ」
トン、と己の胸を叩いた。
「はぁ……」
「あっ、そうだそうだ」
まだ釈然としない狐宵を気にせず、憂夜は打って変わって妙な明るい声音で言った。
「これまで秋葉を育ててくれた両親には、たんまり礼をしないといけねぇなぁ〜」
主の妙に弾んだ声と、何やら良からぬことを企んでいるような含み笑いに、狐宵は嫌な予感を覚えて顔を引きつらせる。
「憂夜様……神々の理を乱すような行為はなさらないでくださいませ」
「はっはっは。俺がそんな馬鹿な真似をすると思うか〜?」
「貴方様ならやりかねないから、こうやって進言をしているのです!」
「真面目だなぁ〜、狐宵は〜」
「憂夜様が不真面目すぎるのです!」と、彼は声を荒げたあとに深いため息をついた。
この主様は、いつも自由奔放すぎるのだ。今日だってちょっと目を離した隙に、一人で下界へ赴いて花嫁を連れて帰って来るし。
いや、今日だけではない。
白銀を拾ってきたときだって、いつの間にか瑞雪が住み着いたときだって、主の気まぐれで決まったのだ。
……まぁ、結果的にはいつも良い方向へ向かうのだが。
「まぁ、あれだよ、狐宵」
憂夜は従者の密かな悩みなどどこ吹く風で、いたずらっぽく笑った。
「俺は神だが万能じゃねぇ。疲労が溜まって、仕事が疎かになる日もあるってことよ」
「…………はぁ」
主がこれから何をしようとしているのか察した彼は、またぞろ深いため息をつくのだった。
憂夜は足取り軽く去っていく。ぽつねんと残された狐宵は、所在なさげに窓の外の夜空を見上げた。
今日は新月。物事のはじまりの日だ。
それが悪い出来事の始まりではないと良いが…………。




