第三話 龍神の花嫁
月を照らし出す清酒の表層に、小さな紅葉がひらりと舞い落ちた。
彼は少しのあいだだけその雅な趣きを楽しんだあと、ぐいと猪口の中身一気に煽った。
「そういや、明日じゃねぇか」
可愛らしい紅葉を眺めていたら、不意に思い出した。明日は、あいつの祝言の日だ。
……あの、とんてもない霊力を持つ勝ち気な少女と、ついに婚姻を結ぶのだ。
彼は微かに瞳を伏せてから、何かを断ち切るように素早く顔を上げて、ニヤリと口の両端を吊り上げた。
「同じ種族のよしみだ。いっちょ派手に祝ってやるか」
◆
秋晴れの青い空と、神聖さを感じる澄んだ空気。まさに祝言に相応しい天気だった。
四ツ折家は早朝から大忙しだ。
龍神の花嫁の支度。それは家門の誉であり、とてつもなく光栄なことだった。
何年も前から準備をしてきた絹の白無垢が、花嫁の前に広げられる。繊細な生地が織りなす見事な光沢ととろみに、春菜も冬子もうっとりとした顔で眺めていた。
神と契約した娘は、十七歳になったら嫁入りすることになっている。龍神もそれを待ち望んでいたように、今朝から春菜の額の印は淡く光を放ち続けていた。
龍神様が呼んでいるのを感じる。春菜の心は幸せで満たされていた。
「なにするの!!」
どすりと鈍い音が蔵に響いた。
宴の準備に参加しようとお勝手にやってきた秋葉は、突然数人の男女に攫われて、屋敷の離れにある古びた蔵の中に放り込まれてしまったのだ。
家令が汚物を見るように秋葉を見下す。昔はあんなに優しい眼差しをくれていたのに、冷淡な視線に彼女はぞくりと粟立った。
「旦那様の命令だ。今日は四ツ折家にとって大事な日なので、儀式が終わるまで無能はここにいなさい」
「なっ……なんで――」
「旦那様から、『一族の恥は絶対に表に出るな』との伝言だ」
秋葉が抗議する前に、重い蔵の扉が閉じた。ガチャリと鍵のかかる音がする。一瞬で太陽の光が消えて、辺りは真っ暗になった。
「ふぅ……」
彼女のため息が、蔵に貯蔵された穀物によってかき消された。
声を上げて人を呼ぶのも億劫だった。彼らは既に去っただろうし、ここで叫び喚いたって、どうせ自分の声は届かない。
いや、仮に届いても誰も聞いてくれないだろう。
しかし頭の中は、思いのほか冷静だった。闇夜みたいな静寂が、心を沈めてくれたのだろうか。
夜は、落ち着く。
昔は朝が来るのが待ち遠しかった。早く太陽を浴びたくて、明日になるのが楽しみだった。
いつからだろうか。今は、世界が眠りについている夜のほうが、愛おしく感じる。
それでも。
(絶対にここから出なきゃ……!)
今日は龍神様への嫁入りの日。
もう御印は春菜に移ってしまったし、霊力もなくなってしまった。
それでも、あのとき彼と契約をしたのは、間違いなく自分だ。まだ希望はあるはずなのだ。
秋葉はおもむろに立ち上がり、瞳を閉じて精神を集中させた。
今こそ、これまでの修行の成果を見せるときだ。全身の霊気を両手に流れるように想像する。
びりびりと指先が痺れだす。少しのあいだ、それを蓄えて……。
(今よっ!)
秋葉はカッと大きく目を見開いて、
「はあぁぁぁっ!!」
全身の霊力を扉にぶつけた。
…………。
…………。
…………。
だが、やっぱり何も起こらない。霊気の滓どころか、空気さえも動かなかった。
「駄目か……」
矢庭に、落胆が重たく肩に乗っかってくる。
今日だけは奇跡が起こって欲しかった。だって、龍神様の花嫁になるために、これまでずっと頑張ってきたのだから。
「……」
――でも。
「私には物理があるもんねー!」
次の瞬間、彼女はドンと蔵の扉を思いっきり脚で蹴った。僅かだが、周囲の板が揺れる。
今度は体当たりをして、さらにもう一度蹴りを入れてみた。
なにも修行は霊力だけではない。肉体も鍛えてきたのだ。
何がなんでもこの扉をこじ開けてやる。
◆
「やーーっ!」
「たぁーーっ!」
彼が地上に降り立ってみると、なんとも元気な少女の声が耳に入った。
「とぉーーっ!」
声は際限なく続き、どこかくぐもっていた。でも全く疲れを見せずに、瑞々しい生命力を感じる。
「あそこか」
なんとなく引き寄せられて声のもとへ向かってみると、離れにぽつんと建ってある古めかしい蔵の中からその声が聞こえてきた。
「やぁ――きゃあぁっ!?」
秋葉の渾身の体当たりが宙に掠って、前につんのめる。すると、大きな何かにしっかりと受け止められて、すぐにまっすぐな姿勢に戻された。
顔を上げると、そこにはこれまでに見たこともないほどの美しい青年が、興味深そうに彼女を見つめていた。
魂を吸われそうな蠱惑的な瞳は、藍だったり橙だったり黄昏のような不思議な色をしていた。艶のある漆黒の髪が、彼の堀の深さを一層際立たせている。
上背もあって、彼女がもたれかかった胸板は筋肉でがっしりとしていた。
「お前は……。あのときの……」
彼は目を見張って小さく呟く。だが幸いにも、彼女に声は届いていないようだ。
秋葉はしばし彼に目を奪われたあと、はっと我に返って弾くように身体を離した。
「あっ……、ありがとう、ございます……!」
「相変わらず活きが良い娘だな。こんな場所で何やってたんだ? 怪我は……なさそうだな」
「うっ……」
「花嫁は、早く準備しねぇといけないんじゃねぇか?」
「花嫁……? あぁっ!!」
秋葉の大声に、彼は思わず耳を塞いだ。
「私、行かなきゃ!」
次の瞬間には、彼女は慌てて走り出す。
「助けてくださって、本当にありがとうございます〜!」
「お〜う、達者でな〜!」
彼は彼女を見送ったあと、ふと冷静になって首を傾げた。
「なんで今日の主役が蔵に閉じ込められてんだ?」
◆
丁寧に白粉を塗って、仕上げに鮮やかな紅を唇に引く。清楚な白無垢に包まれた雪のような白い肌に、赤い口元が艶やかに映って、花嫁の美しさを一層引き立てていた。
「春菜、とても綺麗だわ」
「あぁ。龍神様の花嫁に相応しい」
「ありがとうございます。お父様、お母様」
春菜がにこりと微笑むと、ぱっと周囲を明るく照らす。それはまさしく春の風が吹いたみたいだった。
つくづく、秋に生まれたのが腹が立つ。春のほうが断然美しいのに。
父は、最初に生まれた姉を『秋葉』。対として妹を『春菜』と命名したらしい。
忌々しい秋。春は世界の始まりを告げるのに、秋はただ死を迎えるのを待つだけだ。
(……ま、今日で『秋』は本当に終わるけどね)
大声で笑いたくなるのを必死で堪えた。早く、姉の惨めに沈む姿を見たいと思った。
(あの日……一生懸命頑張って良かった…………)
その時。
けたたましい雷鳴が轟き、大地が割れるほどに激しく揺さぶった。同時に、滝のような大雨が降り注ぐ。
龍神の来訪を示す合図だ。
春菜と両親が急いで屋敷の外へ出ると、もう雨が上がって太陽が顔を出していた。中庭はさっきの轟音からは想像もできないくらいに、春のような穏やかな空気に満ちあふれていた。
その中央に立っていたのは――……。
「龍神様!」
その青年は、息を呑むような美しさだった。
白皙の美貌に銀色の長い髪が神秘的で、閉じられた瞳からは、優しさが溢れ出ている。
長身だが細身の身体が、どこか中性的な雰囲気を帯びていた。
春菜は、ぬかるみも気にせず一目散に龍神のもとへ駆け寄る。そして勢いよく抱きつくと、彼はふわりと優しく受け止めた。
「会いたかったよ。私は白龍。名は光河だ。君の名は?」
「春菜と申しますわ、光河様。あぁ……わたしは今日という日をどんなに待ち望んでいたか……」
白龍はいつまでもしがみつく春菜の額の、神の印をそっと撫でて微笑んだ。
「この霊力……。あのときと変わっていない。活き活きとした素晴らしい霊気だ」
「光河様のために、霊力を磨いてまいりましたの」
「では、儀式を――」
「待って!!」
次の瞬間。
秋葉が息せき切って二人のもとへ駆けてきた。
光河はぴくりと眉を動かし、春菜は眉間に皺を寄せて顔を強張らせる。
「龍神様、私です! あの日の契約……覚えていませんか!?」
「……」
光河は声の主のほうへ顔を向けた。見えてはいないが、まじまじとその少女を見つめる。
そこからは、全く霊力を感じなかった。
秋葉は彼の無反応にひどく傷付きながらも、めげずに話しを続けた。
「十年前、怪我をしているあなたを、私の血で――きゃっ!」
「ちょっと、いい加減にしてくれない?」
いつの間にか花婿から離れていた春菜が、秋葉を思い切り突き飛ばした。
まだ湿ったままの土が、秋葉の着物を泥で汚す。顔を上げると、妹の冷ややかな視線が彼女を射抜いていた。
「なにするのよ!」
「それはこっちの台詞よ? 霊力のないお姉様が、龍神様の花嫁になれるわけないでしょう?」
「でも、私は契約を――」
「契約? なら、その御印は? 身体のどこにあるの? 見せてくれる?」
「そ、それは……」
「ほら、契約なんて最初からしてないんでしょう? いくら私が羨ましいからって、盲言を吐くのはみっともないわ。可哀想な人……」
春菜の蔑みの言葉が、秋葉の胸を深く抉っていく。途端に絶望が襲いかかって、彼女の目の前は真っ暗になった。
盲言なんかじゃない。
あの日、確かに龍神様に血を分けたのに。
『契約』って言われたのに。
そのとき、秋葉と光河の目が合った気がした。今も閉じている彼の瞼の下から、困惑や憐憫の感情が嫌でも読み取れる。
「う……うぅっ……」
ついに、彼女の瞳から涙が溢れ出した。
なんで、こんなことになったのだろう。
なんで、自分の霊力はなくなって、春菜にいってしまったのだろう。
妹を助けたことは、後悔していない。それが、人として当然のことだと思っているから。
でも、その代償がこんなことになるなんて。
私、何か悪いことをしましたか?
なんで、私の霊力は消えてしまったの?
なんで、家族は私のことを……。
もう泣く以外には、なにもできなかった。
霊力を回復させるために修行に励んだ日々も、冷淡になった家族から認められたいと頑張った日々も、全て無駄だったのだ。
「よ〜う、白龍」
不意に、秋葉を庇うように、一人の青年が彼女と妹の間に立った。
「黒龍か……!」
光河は旧友の神力を感じ取って、僅かに口元を緩める。
「来てくれたのか」
「当然よ。腐れ縁の婚姻なんざ興味津々だろ〜。酒と肴で、しっかり祝わねぇとなぁ〜」
「はは。相変わらずだね。祝福に来てくれてありがとう」
「はっ」
彼――黒龍の目つきがにわかに鋭くなった。黄昏色の瞳が、みるみる怒りに染まっていく。
「こんな状況、祝える雰囲気じゃねぇだろ」
そして吐き捨てるように言った。たちまち剣呑な空気が彼らを包み込んでいく。
「どういうことだ……?」
「なぁ、白龍。お前は、その娘と婚姻を結ぶんだな?」
「勿論だ。私の印がここにあるからね」
白龍は春菜の額に手を触れる。すると光を増して彼に呼応した。
黒龍はその様子をしげしげと眺めたあと、
「全く……。お前は昔から抜けてると思っていたが、女を見る目も節穴だなぁ〜、おい」
ニヤリと口元を吊り上げた。
白龍が不思議そうに首を傾げていると、黒龍はおもむろに秋葉のもとまで向かって、彼女を抱き上げた。
「じゃあ、この娘は俺が貰うぜ」
「えぇっ!?」
「はぁっ!?」
「……」
秋葉は目を剥き、春菜は目を白黒させ、白龍は閉じた瞼をぴくりと動かした。
黒龍はそんな周囲の反応を無視して、秋葉の顎を掴んでくいと持ち上げる。
「俺は黒龍。名は憂夜だ。お前の名は?」
「わっ……私は、秋葉……です……。秋に、葉っぱで秋葉」
「秋葉か。良い名前だな」
「ありがとうございます……?」
秋葉は間抜けな声で礼を言う。独特の空気を持つ黒龍の勢いに気圧されて、もう何がなんだが分からなくなっていた。彼の飄々とした雰囲気に、どんどん呑まれていく気がする。
「ならば、秋葉。――お前、俺の嫁になれ」
「はい……………………えぇぇえっ!!」
秋葉は仰天して大音声で叫んだ。
憂夜は彼女の腰を抱いて、ぐいと身体を引き寄せて楽しそうに言った。
「余りもの同士、仲良くやろうや」




