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第一話 秋、色葉散る







『あなたと一緒になれる日を、指折り数えて居りました。』










「けいやく……?」


 まだ七つになったばかりの秋葉(あきは)に、()はたしかにそう言った。


「そう。契約。君が血を分けてくれたから、私たちは契約したんだよ」


「……それって、あなたの命がたすかったってこと?」


 いまいち彼の言っている意味が理解できなくて、秋葉はきょとんとした顔で尋ねる。

 彼はふっと柔らかく微笑んで、


「あぁ。もう大丈夫。君の血のおかげだ」


「えへへ。なら、よかった」


 さっきまで血まみれの瀕死状態だった彼が、すっかり元気になったみたいで秋葉は一安心した。


 今日は、なぜか朝から不安定な胸騒ぎがしていた。

 理由は分からなかった。でも、なにやら胸の奥底から突き上げる衝動のようなものを、ずっと彼女は感じていた。


(山に行かないと……!)


 どうしようもない焦燥感が、彼女を急き立てていく。母に「女の子がはしたない」と咎められながらも急いで朝食を掻き込むと、一目散に山へと駆け出した。

 そこで、彼と出会ったのだ。


 それは、秋葉が両腕で抱きかかえられるほどの小さな龍だった。純白の鱗は七色に輝いて、とても美しいと感じた。


「どうして瞳を閉じたままなの?」


 もう治ったはずなのに、一向に目を開けない彼を不思議に思って尋ねる。


「あぁ、これかい? 生まれつきなんだ」


 彼は穏やかな様子で言う。


「もしかして、目が見えないの?」


 たちまち秋葉の顔色が曇った。鮮やかな新緑、さらさらと流れる青い小川。こんな素敵な世界を見ることができないなんて、なんて悲しいことなのだろう。


「そうだね……。でも、心で感じてる」


「こころ?」


「そうだよ。私は心で見ているんだ。光溢れる新緑や、流れる水の生命の息吹。……もちろん、君の素晴らしい霊力も」


「……よく分からないわ」


「見えてないけど、見えてるってことさ」


 風のざわめきと川のせせらぎが強くなった。二人はしばしのあいだ、聞き耳を立てて世界の音を楽しむ。


「ありがとう」


 不意に、彼は浮き上がった。


「君の名前は?」


「私は、秋葉! 秋の葉っぱで秋葉よ」


「秋葉、か。良き名だ」


「あなたのお名前は?」


「私の名は――」


 その時、にわかに強風がどうと吹いた。


「きゃっ」


 風はひと塊りになって、轟々と渦を巻いていく。そして彼を包み込んだと思ったら、遥か上空へと()り上がって――消えた。


「……」


 秋葉は呆然と空を見上げる。秋の空は、からりと晴れ上がって爽やかだった。

 これが、秋葉と()との出会いだった。







 朝が嫌い。

 秋が嫌い。


 ……自分自身が一番嫌い。



 四ツ折秋葉(よつおりあきは)の朝は早い。


 秋の空がまだ薄暗いうちに布団から出てきて、さっと畳んだら木綿の着物を手早く着る。

 過去に誰が着ていたか分からないそれは、まだらな鼠色で、ところどころ擦り切れて継ぎ接ぎだらけのボロ布だった。


 次は、手入れのされていないがさついた黒髪を麻紐で高く結って、冷水で顔を洗う。

 全体的に整ってはいるが、吊り目がちで強さを感じさせる瞳が、初対面の人間に悪印象を与える顔立ちをしていた。

 

 全ての支度が終わったら、家――とは呼べない粗末な納屋(なや)を出る。

 それから少し歩いて、裏山を半分ほど進んだ開けた場所で朝の鍛錬を始める。これが、彼女の日課だ。


 まずは、集中力を養う瞑想から。大地に腰を下ろして呼吸を整える。そして、()()()()()()()の身体に、霊力を流し込む。


「……今日も駄目か」


 でも、そんなものは流れない。

 昨日も。

 今日も。

 きっと、明日も。


 もう何度目かも分からない失望を噛み殺して、次は体術の稽古に入る。霊力が流れる器である肉体も鍛えなければ、いつか霊気に負けて壊れてしまうかもしれないからだ。


 秋葉には、そんな体中を蝕むような霊力など、これっぽちも持っていないが。


 それでも、身体を動かすと気持ちが良い。気分が高揚していくのを感じる。流れる汗と激しい息遣いは、今の彼女が唯一『生きている』と実感するひと時だった。


(負けるもんか……!)


 こうして、秋葉の変わらない毎日が始まるのだ。





「遅いよ、何やってんだい!」


「ごめんなさい! すぐ取りかかります!」


 秋葉の朝はまだまだ続く。今朝は体術の特訓に集中しすぎて、朝食の準備に遅れてしまった。

 彼女は薄汚れた割烹着をさっと羽織って、急いで持ち場についた。


「ったく……。お前は『無能』なんだから、せめて仕事くらいはちゃんとしておくれよ」


「は〜い」


 気の抜けた返事をする。その声音には、もはや何の感情も宿っていなかった。

 これは諦念なのかもしれないし、もう、どうでもいい。周囲に期待をしても無駄なのだから。


 秋葉たちが用意している朝食は、旦那様()()()()お父様、奥様()()()()お母様、そしてお嬢様()()()()妹の春菜――この三人への栄養満点で上等な食事。あとは使用人たちへの賄いだ。


 この賄いにも等級がある。屋敷内での地位が高い者ほど、主人たちの食事内容に近いものを口にできるのだ。


 秋葉は、質の悪い麦飯のおむすびとたくあん二切れ。これらは一番下っ端の者たちの食事だった。

 でも麦飯は栄養があるし、僅かながら塩も振ってある。それに、たくあんだって噛みごたえがあって美味しいし、彼女にとっては文句のつけようのない朝食だ。

 たまに、焼きたての魚や温かい味噌汁が恋しくなる日もあるけれど。


「ほら、無能。もたもたやってるんじゃないよ。早く行くよ」


「あっ、はい!」


 そんな使用人たちの朝食は、もっと後の時間だ。

 まずは主人たちに食事を出し、それから家令や侍女長などの位の高い者。秋葉たち下女の食事時間は、いつも昼に差し掛かっていた。




「旦那様、奥様、お嬢様、おはようございます」


 屋敷の使用人一同の声が重なる。

 お膳の上には豪華な食事が並べられていた。白飯に一汁三菜。それから少量の甘味または果物。これが四ツ折家の主人たちの朝食である。


 使用人たちは仕事の手を一時止め、主たちへの朝の挨拶に向かうのが慣例だ。

 当主の四ツ折夏純(よつおりかすみ)、妻の冬子(ふゆこ)、そして()()()春菜はるな

 三人が揃うと、下座にずらりと並んだ使用人たちは畳に頭を押し当てて、朝の挨拶をするのだ。


(あぁ〜、お腹すいた……。どうせ紋切り型の言葉を並べるだけなのに、何で毎朝こんなことをしなくちゃいけないのかしら。阿呆らしいわ〜)


 大勢の使用人たちの中には、()()()秋葉の姿もあった。彼女は後列に正座して、気怠そうに周囲に合わせて首をかくんと動かしている。


「お前たち、今日も一日励みなさい」


 当主のくだらない一言で、やっと解放される。本当に無駄な時間だと思った。

 父親のこういった権威を示したいだけの行動が、昔から彼女にはさっぱり理解できなかった。


「!」


 不意に、妹の春菜と目が合った。くすりと彼女の口の端が吊り上がって、秋葉は嫌な予感がよぎった。


 春菜は可憐な少女だった。ぱっちりした瞳に長い睫毛。明るい栗色の巻毛に、枝のようにか細い手足は、以前一度だけ見た外国の人形にそっくりで。

 桃色を基調にした花柄の鮮やかな小紋が、秋葉の薄汚れた木綿に比べて別の世界のように眩しかった。


「おつけを作ったのは、だぁれ?」


 にわかに、春菜の鈴を転がした声が響く。その瞬間、下座にはぴりぴりとした空気が走った。可愛らしい声の中に含まれた毒に、彼らは気付いていたのだ。


「……私だけど」


 右手を挙げながら、秋葉が立ち上がる。春菜は少しだけ顎を上げて、姉を自らの前に呼び出した。


「なにか、文句あ――……っ!?」


 秋葉が妹の前に立った折も折、春菜は汁物の入った御椀を姉の顔に投げ付けた。


「あっ、つっ……!」


 まだ湯気が上がる液体が、顔面を熱する。それはすぐに零れ落ちたが、熱気の残像が彼女の皮膚を焼いて、刺すような痛みを覚えた。


「なにするの!?」


 秋葉の怒鳴り声が響いた。緊迫した空気が、姉妹のあいだに落ちる。秋葉は妹を睨み付け、春菜は涼しい顔で姉を見ていた。


「塩辛すぎて食べられないわ。いくらわたしが恨めしいからって、意地悪は止めてくれない?」


「はぁ?」


 呆れて物が言えなかった。意地悪をしているのは、どちらだろうか。

 だが、周囲の視線は違っていた。四方八方から怒りや軽蔑の眼差しが、秋葉を突き刺していく。


「……」


 こんな仕打ちも、冷たい視線も、彼女にはもう慣れっこだった。

 ()()()から、幾度となく傷付いて、傷付いて、心は何度もはち切れそうになった。


 でも、負けたくないと思った。たしかに自分はもう無能かもしれないけど、無能なりにやれることはあるはずだ。

 それに、負けを認めたら、もう胸を張って生きることができない気がしたから。無能でも、前を向いて堂々としていたい。


 秋葉は歯を食いしばって、立ち上がる。


「もし春菜が塩辛いと感じたなら、それは謝るわ。でも口に合わないからって、食べ物を粗末にするのは間違っていると思う」


「は……」


 うっすらと笑みを浮かべていた春菜の顔が、微かに曇った。


「食べ物は神様からの恵み。そして食卓に並ぶまでに、多くの時間と人々の手間や心がこもっているわ。

 それにここ数年は飢饉も多い。こうやって毎日十分な食事にありつけるだけでも、とても幸せなことよ」


「……だから?」


 春菜の声が低くなる。彼女の表情にはもう可憐さなど残ってなく、全身から冷え込んだ霊力が溢れ出て、周囲の空気を揺らしていた。


 下座にいる使用人たちは恐ろしさで震えたが、秋葉は負けん気から怯むことなどしなかった。


「だから、御椀を投げるなって言ってるの。貴重な食べ物を粗末にするのは止めなさいよ。

 あと、少しでも気に食わないことがあれば、人に当たるのもおかしいと思う。いくら霊力が高くても、最低限の礼儀は重んじるべきだわ」


「このっ――」


 気色ばんだ春菜が立ち上がり、右手を振り上げようとしたちょうどそのとき、


「秋葉、謝りなさい」


 父親の静かな声が、姉妹を引き裂いた。

 時が止まったように、姉妹は目を見開いて父を見つめる。だが春菜の口元は、微かに吊り上がっていた。


 数拍して、父の鋭い視線が秋葉を射抜いた。


「二度も言わせるな。春菜に謝るんだ」


 当主の言葉は絶対だ。ここにいる限り、消して逆らってはいけない。

 秋葉は諦めたようにふっと軽く息を吐いてから、妹に向かって頭を下げた。


「申し訳ございませんでした……」


 姉の謝罪の言葉に春菜は満足して「片付けも、お願いね?」とだけ言って食事に戻った。


 秋葉は俯いたまま、畳にこぼれた残骸を丁寧に拭き取る。悲しみが瞼を熱くしたが、彼女なりの意地でなんとか堪えた。


 最後は姉が妹に謝罪をして幕を下ろすのが常だった。


「……」


 妹の勝ち誇った視線を感じる。不意に、ズキリと胸が内側から棒でつつかれた気がした。

 もう吹っ切れたはずなのに、秋葉の心はたちまち重石を積まれたように沈んでいく。


 別に、妹の待遇が羨ましいわけじゃない。

 もとより物欲なんてない自分は、贅沢三昧の家族を呆れてはいるが、恨んでいるわけではない。


 ただ、家族の輪から弾かれたという残酷な事実に、時折り心が押し潰されそうになるのだ。

 結局、自分たち家族の繋がりは『霊力』という、目に見えないちっぽけなものしかなかったんだって。



 春菜の小さな身体には、『千人に一人』と言われているほどの、とてつもなく巨大な霊力が宿ってある。


 それは、かつては秋葉のものだったのに。


 


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