救国の英雄:郭子儀:06
〇冀州の風
天宝十三載、秋――
黄河よりもさらに北、平原と小さな山々(やまやま)に囲まれた冀州の地。ここは風が冷たく、荒れた野に農家の屋根が点を打つようにぽつぽつと並んでいた。
「本日より、郭子儀、冀州刺史としてこの地を治めることとなった!」
その声が冀州の州庁に響いたとき、人々の表情には驚きと期待が混じっていた。
――あの郭子儀が、この田舎に?
「陛下はどうして、あの名将をわざわざこの地に……」
「なにせ今の冀州は、盗賊どもがのさばって、兵もまとまっておらぬと聞く」
「まさか、安氏の動きに備えて……?」
民の声は、秋風のように不安と共に街を駆けた。
郭子儀は、そんな空気を読みながらも、静かに歩いた。五十七歳のその背には、歳月の重みと、戦を経た者の落ち着きがあった。
「冀州には、力と仁、どちらもいる。――まずは人の心を、束ねねばなるまいな」
郭子儀はまず、兵の鍛錬からはじめた。怠けた者には罰を、よく努める者には褒美を。その裁きは公平で、だれも文句を言わなかった。
「刺史さま、わたしどもの村に、夜な夜な盗賊が……」
老女が涙をこぼしながら訴えると、郭子儀はうなずいた。
「すぐに兵を出す。恐れることはない。民の嘆きは、国の恥じゃ」
そして、その夜――
郭子儀はみずから五十騎を率い、馬にまたがって闇に消えた。
風が鳴る。葉が散る。やがて月が顔を出したとき、茂みの中から盗賊の影が現れた。
「囲め!」
そのひと声と同時、火矢が放たれた。
混乱のなか、郭子儀の太刀がひときわ鋭く光った。
翌朝――
村人たちは、捕まった盗賊たちが縛られて並ぶ姿を見て、目をみはった。
「まことに、刺史さまの働きはありがたい……!」
「うむ。だが、この地を守るのは、わしひとりではできぬ。村々の者たちが助け合わねば、冀州の平和はつくれぬのじゃ」
郭子儀のことばに、村人たちは深く頭を下げた。
そしてその後――
冀州の道には兵の行列がよく見られるようになり、夜道にも灯りがともるようになった。民は畑を耕し、子どもたちは笑いながら走った。
ある日、部下のひとりがそっとつぶやいた。
「将軍、冀州も……見違えましたな」
「うむ。だが、油断はならぬ。風は、北より吹き始めておる」
郭子儀は空を見上げた。遠く、西の方角に、黒い雲がわずかに見えた。
――安禄山の名が、まだ都にとどろく前のことであった。
〇安禄山、叛く
天宝十四載、春――
郭子儀は五十八歳、太原の地に立っていた。北の空はどんよりと曇り、まるでこの先の不安を映しているかのようだった。
その年、かつての名将・安禄山が大きな反乱を起こし、唐の北部はあっという間に崩れはじめていた。
「安禄山め……。まさかここまで大胆な行動に出るとはな」
郭子儀は、鋭い目で北の荒野を見据えた。
「我が太原にて防衛線を固めるのだ。ここを死守せねば、唐の都は危うい」
郭子儀はまず、軍勢を集めた。兵士たちは疲れていたが、将軍の毅然たる態度に励まされた。
「我々(われわれ)には郭将軍がいる。必ずやこの乱を食い止められるはずだ」
村人たちも不安を抱きながらも、郭子儀のもとに武器を持って集まった。
「民も戦わねばならぬ時が来たのだ」
郭子儀はそう言って、彼らに剣を握らせた。
太原はもともと戦略的に重要な場所だった。北の国境に近く、安禄山の勢力が侵入してくる可能性が高かったからだ。
郭子儀は防衛のために堅い防衛線を築き、兵を各地に配置した。
「敵はどこから攻めてくるかわからぬ。だが我らの防衛線を破ることはできぬ」
戦は熾烈を極めた。安禄山の軍は数も多く、激しく攻めてきた。しかし郭子儀は冷静で、的確な指示を兵士たちに送った。
「守れ! 前線を決して守るのだ!」
その声はまるで雷鳴のように響き渡った。
ある晩、郭子儀は地図を広げて部下と話していた。
「安禄山の勢力は日増しに強まっている。油断するとすぐに突破される」
「では、どう防ぐのがよいでしょうか」
「それは、兵たちの士気を高め、互いに信頼させることだ。いくら堅い城壁でも、心が乱れれば守れぬ」
郭子儀の言葉には深い意味があった。彼は単に軍事的な手腕だけでなく、人の心も大切にした。
やがて数日が過ぎ、安禄山軍の攻撃は激しくなる一方だった。しかし郭子儀の兵たちは持ちこたえ、死にもの狂いで戦った。
「太原は我らの砦だ。これを守らねば、唐の命運は尽きる」
郭子儀は自ら兵の先頭に立ち、旗を高く掲げた。
その姿はまるで不動の山のようであった。
この戦いは長く続き、多くの犠牲も出たが、郭子儀の防衛線は決して崩れなかった。
そして――
「戦いは、ここからが本番だ」
郭子儀は静かにそうつぶやき、すぐれた知略を巡らせた。
――これはただの戦いではない。唐の命をかけた大きな戦いの始まりであった。
〇李光弼との連携
天宝十四載、安史の乱が唐の国を大きく揺るがせていた。
その中で、郭子儀は五十八歳。彼は強い意志と深い知恵で、乱の渦中にあっても冷静に対応していた。
当時、反乱軍を率る首領・安禄山は、戦の激しさの中で目を失い、失明していた。それでもなお彼はまだ生存し、唐の北部を揺るがせていた。
そんななか、郭子儀は一人の若き将軍を推薦した。李光弼だ。
李光弼はまだ若いながらも勇ましく、冷静な判断力を持っていた。郭子儀はその力を信じ、河東節度副使という重要な役職に任命したのだ。
河東は反乱の戦場となっていた場所。李光弼はそこで、安禄山の反乱軍の郎党である史思明と対峙することになった。
史思明はずる賢く、手強い敵で、常山を拠点に唐にとって大きな脅威となっていた。
郭子儀は李光弼に言った。
「河東で史思明をしっかりと抑えよ。お前を信じている。共に協力し、乱を終わらせよう」
李光弼は力強く頷いた。
「郭将軍、必ず任された役目を全ういたします」
やがて李光弼は河東に赴き、郭子儀と連絡を取りながら戦いの準備を進めた。
両者は戦況を細かく伝え合い、戦略を練った。
「史思明は油断ならぬ相手だ。だが我々(われわれ)が力を合わせれば必ず勝てる」
郭子儀の言葉に、李光弼は応えた。
「はい、将軍。必ず勝利を掴みます」
戦いが始まると、両将軍は息を合わせて敵軍を包囲した。
史思明は激しく反撃したが、郭子儀と李光弼の冷静な指揮に次第に押されていった。
郭子儀は命令を下す。
「李副使、前線を強化せよ。私と連携を密にせよ」
李光弼はすぐに兵を動かし、戦線を固めた。
こうして常山での戦闘は決定的な勝利へとつながった。
史思明は敗走を余儀なくされ、反乱軍の勢力は大きく衰えたのだ。
郭子儀はその知らせ(しらせ)を受け、静かに微笑んだ。
「李光弼はよくやった。唐の北の守りが一歩前進した」
彼の目にはまだ続く戦乱の厳しさが映っていたが、確かな手応えも感じていた。
「これからも力を合わせて、唐を守らねばならぬ」
郭子儀の心には、国を思う強い意志が燃えていた。
乱はまだ終わらない。しかし、郭子儀と李光弼が共に戦う限り、唐の未来はきっと明るい――そう信じてやまなかった。