救国の英雄:郭子儀:05
〇高力士との再会
天宝三載――都の長安は春を迎え、桜桃の花が咲きそろい、町を行き交う人々の衣も華やかだった。
この年、郭子儀、四十七歳。
これまで河西の地で軍政をととのえ、異民族の動向をにらみつつ、静かに力をたくわえていた。その名はいつしか朝廷にも届いていたが、本人はその名声におごることなく、ただ、文と武をひとしく磨いていた。
ある日――ひとりの宦官が、郭子儀のもとを訪ねてきた。
「郭どの、お久しゅうございます。わたくしを、覚えておいででしょうか?」
年配ではあるが、ひと目で只者ではないとわかる気配をまとう男。その名は高力士。玄宗皇帝の側近中の側近として、宮中で重きをなしている者である。
「もちろんです、高どの。お会いするのは十年ぶりでしょうか」
郭子儀は、にこやかに応えた。その笑顔には、かつて長安でともに任務に当たった記憶が宿っていた。
「都に戻られませぬか、郭どの。いま陛下は、忠義と実力を兼ね備えた方をお探しです」
高力士の言葉に、郭子儀は一瞬だけ黙った。
都――そこは戦場とは違う。剣より言葉、槍より礼法がものを言う場所。だが、あの皇帝が、自分のような一介の軍人を呼ぶというのか。
「……わかりました。では、道をたずねましょう」
その返事を聞いた高力士は、ふっと笑みを浮かべた。
こうして郭子儀は、長安に上った。
宮中では、高力士の手引きによって、さまざまな重臣たちに紹介された。
「これが郭子儀どのか。噂どおり、堂々(どうどう)たるお姿」
「見目も立派だが、話しぶりも柔らかい。武に通じ、文を知るとはこのことか」
その風格、その冷静沈着な物腰に、多くの者が舌を巻いた。
ある日、玄宗皇帝が、郭子儀を内廷に召された。
殿上に進み出た郭子儀の姿に、皇帝は目を細めた。
「これが、河西の地で我に忠を尽くした郭子儀か」
「はっ、恐れながら、郭子儀にございます」
その声は、静かでありながら、すみずみにまで響いた。
皇帝はしばらく何も言わず、郭子儀をじっと見つめていたが、やがて口を開いた。
「よい。そちには、都にて新たな務めを果たしてもらう。わが政を助け、内外の安寧を保ってくれ」
「畏まりました」
郭子儀は深く頭を垂れた。戦場で汗を流すことには慣れていたが、いま、言葉ひとつで国が動く場に立っている。その責の重さを、肩に感じていた。
「郭どの、あのときの高平の戦、見事でございましたな。都までその武勇の報せが届き、わたくしも安堵いたしました」
高力士は、そっと郭子儀に語りかけました。高力士は、玄宗皇帝の側近として宮廷の奥深くにいましたが、郭子儀の軍事的な活躍は、日に日にその名声を高めていました。
郭子儀は柔和な笑みを浮かべ、高力士の言葉を受け止めました。
「いえ、高力士殿も、都でよくぞ皇帝をお支えになられました。わたくしどもが戦場で戦えるのも、そちらあってのこと。いずれも国のためと信じております」
二人はふと顔を見合わせて笑いました。それぞれが異なる場所で国を支え、その貢献を認め合う縁が、いまや国の中枢を動かすものとなっていたのです。
郭子儀は思う――武で国を救う者もあれば、信で国を支える者もいるのだと。
都の空には、ひとすじの白雲が流れていた。
〇郭子儀、左羽林衛将軍に
天宝六載――
都・長安の空は晴れ渡り、紫禁城には春の風が吹きこんでいた。
この年、郭子儀は五十歳。左羽林衛将軍という、宮中の警備をつかさどる要職に就いていた。
羽林とは、皇帝を護る近衛兵のこと。その将軍とは、いわば皇帝のすぐそばに仕える大任である。
「郭将軍、門衛の配置に異状はありませんか」
「はい、すべて滞りなく。夜間の巡察も三刻ごとにおこなっております」
郭子儀の報告は、つねに明快だった。武将でありながら、細かな政務にも通じ、兵士の気持ちもよく汲みとる。部下たちの信頼も厚かった。
ある夜のこと、彼は一人、月明かりの中を歩いていた。
「……兵を動かすことだけが戦ではない。国を動かすとは、こういうことか」
彼は天子を守るという役目の重さを、しみじみと感じていた。
そして、二年後――天宝八載。
西の地で、新たな戦雲が立ちのぼっていた。吐蕃、そして吐谷渾と呼ばれる異民族たちが、唐の西域を脅かしていたのだ。
その頃、ひとりの若き将軍が、河西に赴任していた。
名は李光弼。武門の名家に生まれ、若くして戦功を重ねていた。
「李将軍、今回の吐谷渾は、一筋縄ではいかぬ敵ですぞ」
「承知しております。ですが、我は決して退かぬ。郭将軍から学んだことを、今こそ胸に!」
実は李光弼、若き日には郭子儀のもとで軍法を学び、行軍の術を仕込まれていたのだった。
この戦で、李光弼はついに吐蕃の騎兵隊を破り、吐谷渾の本営を打ち砕いた。
「敵将を討ち取りました! 李将軍の勝利です!」
その知らせは、長安にもたらされた。
皇帝はたいそう喜び、李光弼を蓟郡公に封じた。彼の手柄は、すぐさま朝廷中に知れわたり、ついには郭子儀の耳にも入った。
「ほう、李光弼殿が蓟郡公とは……あの若者も、ついに大成したか」
郭子儀は、まるでわが子のことのように目を細めた。
――人を育て、国を護る。
それが、軍人としての務めだと、彼は信じていた。
その夜、郭子儀はひとり、燈火のもとで筆をとった。
「功を誇らず、忠を忘れず。若者たちよ、天を仰げ」
静かな筆致で綴られたその言葉は、やがて李光弼にも届けられたという。
唐の国の運命は、こうして二人の英雄によって、確かに支えられつつあった。
〇郭子儀ついに節度使へ
天宝十載――
長安から西へ、西へと、果てしなく続く砂の道。その先に広がる河西回廊は、唐の国にとって命綱とも言える重要な地だった。
ここに、ひとりの老将が着任した。
名は郭子儀。齢五十四。
「節度使・郭子儀、ただいまをもって着任いたす!」
彼の声は、風に乗って砦全体に響いた。兵たちは皆、背筋を伸ばし、まるで春雷を迎えるようにその姿を見つめた。
河西節度使――
それは、唐と西域を結ぶ交通の要を守る大役だった。だが、その地を脅かしていたのが吐蕃である。高原の騎馬民族、強く、手ごわい。
「殿、今朝、また吐蕃の斥候が境を越えてまいりました」
「ほう……偵察か。小競り合いではすまぬな」
郭子儀は地図の上に指を置き、睨むように河谷を見つめた。
「吐蕃の狙いは、涼州だ。あそこを落とされれば、唐の西門は風前の灯火となる」
兵たちは黙って頷いた。郭子儀の読みは鋭く、判断は常に的確だった。
――その日より、河西では緊張が続いた。
郭子儀は、自ら馬に乗って各地の砦を巡り、兵士たちの顔を確かめた。
「寒かろう、よく耐えておる」
「将軍こそ、昼夜なく動いておられます。どうかご自愛を」
「ふふ、わしはまだ五十四ぞ。寒さなど、若いころの塞北に比べれば、涼しいものよ」
笑いながら、郭子儀は兵士の肩を叩いた。その姿は、まるで家族を守る父親のようでもあった。
やがて、吐蕃軍が河谷へと姿を現した。
「敵軍、三千! 夜半に接近しております!」
報告が届いたとき、郭子儀はすでに鎧に袖を通していた。
「出よ!」
そのひと声で、百騎の精兵が夜の闇を駆けた。
――戦いは激しく、そして速やかだった。
郭子儀の采配は冴えわたり、吐蕃の部隊は三刻ももたず撤退した。
だが、将軍は勝っても笑わぬ。
「追うな。――追えば、罠だ」
そう言って兵を止め、あくまで地の利を守ることに専念した。
日が昇り、やがて砦に静けさが戻ったころ――
「殿、都より急使が到着しました」
「うむ」
使者は汗まみれの顔でひざまずき、巻物を差し出した。
そこには、こう記されていた。
「河西節度使・郭子儀、その治績および吐蕃撃退の功、まことに大なり。よって、その任を正式とす」
――正式就任。
その言葉に、郭子儀はしばし目を閉じた。
「……この地に骨を埋める覚悟はできておる。都の華より、兵の薪火の方が、わしには性に合うておるわ」
その背中に、誰もが頭を垂れた。
郭子儀。五十四歳。
このとき、ひとりの名将が西方の空に名を刻んだ。