救国の英雄:郭子儀:04
〇父上のお話
夕日が朱く空を染めるころ、郭子儀は縁側で火鉢を抱え、子どもたちに囲まれていた。
「父さま、お役目って難しいの?」
末娘が、つぶらな瞳で尋ねた。
「うむ……難しいが、面白いぞ。では、今日はひとつ、都のことや、この晋州のことをお話ししようか」
子どもたちは身を乗り出し、耳をすませる。
【唐の国のいま】
「いま、我が国――唐――は、玄宗皇帝さまの御代じゃ。都は長安。大通りには絹や香の品が並び、楼閣は空をつくほど高い」
「でも、戦いはないの?」
「戦いもあるぞ。西には吐蕃、北には回鶻や契丹が睨んでおる。だから、節度使という武官が置かれ、辺境を守っておるのじゃ」
「せつどし?」
「そう。安西・河西・平盧・范陽・朔方――それぞれが、兵を持ち、土地を治め、戦いに備えておる。彼らは皇帝さまの目となり耳となる、たいそう重要なお役目じゃ」
長男の郭曜が、うなる。
「そんな大事な役なら、父さまがなればいい!」
「はっはっは、それはお前らがしっかり育ってからじゃな」
【晋州というところ】
「さて、晋州はどんなところか、知っておるか?」
「山が多くて、寒いところ!」
「うむ、よく見ておるな。晋州は山西道の南端にあり、黄土高原の西に広がる盆地じゃ。風は冷たく、空気は乾いておるが、麦や粟の出来はなかなか良い」
「食べものは?」
「晋州の名物は“羊湯”じゃ。羊の肉を骨ごと煮込み、塩と山椒で味をつける。熱々(あつあつ)のうちに白い餅を沈めて食べるんじゃ」
子どもたちは目を輝かせた。
「食べたい!」
「母さまに頼んでみるがよい。ちょうど今夜は、羊肉が手に入ったと聞いたからな」
【都と地方をつなぐ心】
「父さま、どうしてそんなに都のことがわかるの?」
「わしはかつて、長安で学んだからな。だが、都にいる者ばかりが賢いのではない。地方で汗を流し、土に生きる者こそ、国を支える柱なのじゃ」
「しちゅう? 何それ?」
「おぉ、小蓮には難しかったな。柱というのは、お家を支える大事な木じゃ。国という大きなお家を支えるのが、民であり、役人であり、兵であるということじゃよ」
【明日へとつながる語らい】
縁側の外では、月が昇り始めていた。炭の匂いがほのかに香り、犬の遠吠えが聞こえる。
「父さま、わたし、お役人になる!」
「それなら、字を覚えねばならぬな。明日から書簡の読み方を教えてやろう」
「うん!」
子どもたちは順番に郭子儀の膝に抱かれ、火鉢で手を温めた。
「この晋州から始めよう。わしは、民のことをよく見て、よく聞き、そしていつか、国を守る大黒柱になるのじゃ」
月明りの下、その声はやさしく、けれども力強かった。
〇 開元二十九年――。年若い兵たちが馬に乗り、はるか西の空をにらんでいる。その先には、吐蕃――いまも荒々しい風が吹く高原の国がある。
郭子儀は、ひとりひとりの顔を見まわしたあと、ゆっくりと腰をおろした。
「よいか、おまえたち。おれたちが立っているこの地――長安から西へつづく辺境は、いま、国を揺るがすほどに、重い意味を持っておる」
青年将校のひとりが、手をあげた。
「敵は……吐蕃でありますか?」
郭子儀はうなずいた。
「そうだ。おまえたちがまだ子どもだったころ、ちょうど開元十四年から十七年――つまり、いまから十数年前の話じゃが、唐は吐蕃と、くりかえし使者を送ったり、剣を交えたりしておった」
語りながら、郭子儀の眼差しは遠くを見つめていた。
「張九齢という宰相がおってな。あの人は清らかな心と、鋭い知恵をもって国政をおさめておった。おれがまだ下っ端の軍官だったころじゃ。張どのの政治は、まことに見事なもんだった」
「張どの……?」
将校がつぶやくと、郭子儀はうなずいた。
「開元十八年から二十三年にかけて――つまり、十年ほど前の話じゃ――国の力は最盛期に達しておった。経済も軍事も、これ以上ないほどに充実しておった。張九齢、そして裴耀卿といった賢臣たちが、朝廷をよく支えておったのじゃ」
兵のひとりが、ぽつりと尋ねた。
「では、なぜ……国はこんなにも、きな臭い空気になったのでしょうか」
郭子儀は、静かに目を閉じた。
「それはな、宦官という、皇帝に仕える者たちが――少しずつ、だが確実に、力を持ちはじめたからじゃ。そして、軍人たちの中でも、節度使という地位にある者たちの力が、だんだんと強くなっていった」
「……節度使?」
「いまでこそ、おれもその名に近づきつつあるが……当時は、辺境を治める強大な軍司令官のことをそう呼んだのじゃ。そして、安禄山――あの男が頭角を現したのも、まさに開元二十四年ごろのことよ。異民族の出じゃが、口もうまく、武にも秀でておった」
名前を聞いたとたん、場に緊張が走る。安禄山のうわさは、すでに兵のあいだにも届いていた。
「そしてな――開元二十五年には、張九齢殿が失脚し、かわって楊国忠の一派が力を持ちはじめた。皇帝陛下も、徐々に私情で人を用いるようになってきたのじゃ」
郭子儀は、にぎった拳をふところにしまい込んだ。
「開元二十六年から三十年――つまり、ここ数年のあいだに、宦官が台頭し、楊貴妃の一族が朝廷に深く入り込んできた。政治はしだいにゆがみ始め、唐という大国の屋台骨に、じわじわとヒビが入りはじめた」
誰もが、言葉を失っていた。
「だがな――おれたちは、まだあきらめるには早い。祖国のために剣をとる。知恵と誇りを胸に、正しき道を歩む。それが、武人というものじゃ」
そう言って郭子儀は立ち上がり、うねる風の中に、まっすぐ前を見据えた。
――唐の空は、まだ青かった。
〇盟友との出会い
開元三十年――いまの都は静かに見えて、その奥底では熱い風がうずまいていた。
郭子儀、四十四歳。ひときわ背が高く、まゆの濃い男である。じっと黙っていればただの兵にも見えるが、その目の奥には、深く静かな湖のようなものがあった。
「郭どの、命が下りましたぞ!」
伝令の兵がかけこんできた。息を切らしながら、勅書を差し出す。郭子儀はそれを受け取ると、ゆっくり開いて読んだ。
――河西節度使幕僚としての任を受けよ。
郭子儀は、ふっと息を吐いた。喜びを声にすることなく、ただ小さくうなずいた。
「おれに何ができるかは、戦場で示すのみよ」
河西節度使――それは西域、すなわち西の果てに広がる辺境をおさめる大役である。そこは吐蕃や西突厥など、異民族たちの気配が渦巻く地。
ふつうの兵では、心が折れてしまう。だが郭子儀は、まるで風のようにその任を受け入れた。
翌年――開元三十一年(七四三年)の春。河西の地はまだ寒く、空気には砂まじりの風が吹いていた。
「情勢はどうか」
幕僚としての郭子儀は、軍だけでなく政にも目を配っていた。農地の分配、水路の整備、隊商の往来――何ひとつ見逃さない。
「こりゃただの軍人じゃないぞ」と、だれもがうわさした。
そんなある日、郭子儀の前に、ひとりの若き将軍が現れた。
名は李光弼。
身なりは質素であったが、眼差しは火のように鋭い。彼は左清道率として、そして後には安北都護府、朔方都虞候と、次々に軍職を歴任してゆく男である。
「郭どの。拙者――いや、わたしもまた、この辺境の風に鍛えられた一人です」
李光弼は、まだ若い。その声に、どこか理を求めるまっすぐさがある。
「ほう。では、剣より筆が得意か? それともその逆か?」
郭子儀の問いに、李光弼はにやりと笑った。
「戦においては、どちらも振るうものかと」
「ふむ。おもしろい」
郭子儀はうなずいた。その後、李光弼は王忠嗣のもとで兵馬使として抜擢され、戦場でその才を開花させてゆくことになる。
だが、このときすでに郭子儀は見抜いていた。
(こやつ――戦の才能があるやも知れぬ)
そして、それは的中する。やがて彼らは安禄山の乱において、東西の両翼となり、唐の命運を支える存在になるのだった。
だが、このときはまだ静かだった。風は冷たく、砂は赤く、空には雲が流れていた。
郭子儀はふと、はるか西を見た。
吐蕃の地――その先に、何が待っているかなど、だれにもわからない。
「だが、わしにはまだ道がある。歩むだけじゃ」
そして、彼はまた歩き出した。
西へ、西へ――風の中を、青く澄んだ目で。