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救国の英雄:郭子儀:03

礼部試れいぶしにのぞむ


 てんかける風がみやこの空をなでていた。


 とうの都・長安ちょうあんは、春の気配けはいつつまれていた。


 郭子儀かく・しぎ、二十五歳。


 かれは、ふたたび礼部試れいぶしにのぞんでいた。これは中央政府がおこなう大切な試験で、これに合格すればだたる官吏かんりとなるみちひらける。


 大きな試験会場しけんかいじょうに入り、せきにつくと、試験官しけんかんまえち、こえった。


諸君しょくん本日ほんじつ試験しけん進士科しんしかおよび明経科めいけいかかれ、それぞれの能力のうりょくおうじて評価ひょうかする。詩作しさく時務策じむさく重視じゅうしするが、文章ぶんしょう誠意せいいめることがなにより大切たいせつだ」


 郭子儀はじ、そっとこころなかでつぶやいた。


(……何度なんどけてるから、よくっているのだけれどな)


 唐代とうだい科挙かきょは、もとはずい時代じだいからはじまった制度せいどだが、則天武后そくてんぶこうのころにととのえられた。貴族きぞく子弟していだけがかんくのではなく、庶民しょみんでもまなべば官吏になれるというゆめをもたらす試験だった。


 進士科はとくむずかしい。三十歳さんじゅっさいで明経科に合格ごうかくするものは「年寄としより」とわれ、五十歳で進士科に合格する者は「わかい」と言われる。そんな世界せかいだ。


 詩をみ、政策せいさく立案りつあんし、経典けいてん解釈かいしゃくする。さらには書道しょどうも、身体しんたい容貌ようぼうも、言葉ことばちからためされる。


 とりわけ礼部試は、中央の官庁かんちょう・礼部が行う重要な本試験だった。地方ちほうでの郷貢きょうこうとおけた者だけが、ここにあつまってくる。


 会場では、試験官のはなしつづいていた。


「……行巻こうかん禁止きんしとする。これは受験者じゅけんしゃ事前じぜん詩文しぶんおくり、官人かんじんに取り入る風習ふうしゅうであるが、公平こうへいく。みとめられぬ」


 行巻──それは若者わかもの自作じさくの詩文をもって有力者ゆうりょくしゃちかづき、ちからりる慣習かんしゅうだった。


 科挙がどんなに実力主義じつりょくしゅぎをうたっていても、人間にんげんいとなみであるかぎり、そうしたうらはたらいてしまう。


 さらにえば、科挙のそとにも「蔭位おんいせい」という制度があった。高官こうかんは、それだけで官吏になれる道がのこされていた。


 それでも郭子儀かくしぎは、正々堂々(せいせいどうどう)と試験に立ちかっていた。


 かみふでくばられる。静寂せいじゃくおとずれた。


 郭子儀は筆を持ち、ゆっくりと詩をはじめた。


 おさないころ、ちちれられて華州かしゅう田畑たはたあるいたおもす。


 とうというおおきなくにささえる者になりたい。たみのためにはたらきたい。


 そのこころざしは、いまむねおくわらずともっていた。


(さあ、ここからだ。勝負しょうぶは)


 春風しゅんぷうが、郭子儀かくしぎの紙の上をやさしくなでた。



春風しゅんぷう晋州しんしゅうへ――郭子儀かく・しぎの旅立ち


春のかぜが、にわうめはなをそっとゆらすあさ、家の門前もんぜんに、一人ひとり使者ししゃが立っていた。手にっているのは、まっしろ封筒ふうとうおもてには、きれいなでこう書いてあった。


郭子儀かく・しぎどの、進士科しんしか合格ごうかく


そのこえいたとたん、家の中が春の花のようにぱっとひらいた。


「おおっ! おまえさん、とうとうやったか!」


ちちがひげをゆらしてわらい、


「ほんとうなのね? ありがたや……」


はは両手りょうてを合わせてそらを見上げた。


つま洗濯せんたくかごをひっくりかえしたまま、しぎのもとんできた。


「あなた……あなた……すごいわ!」


小さな子どもたちは理由りゆうもわからず大はしゃぎし、


「とうちゃん、えらいひとになったの?」


と、何度なんどもたずねてくる。


近所きんじょの人たちも、ぞろぞろとあつまってくる。


郭家かくけのしぎどんが、とうとうやったとな!」


「これで晋陽しんようあかるくなるのう!」


人々のよろこびのこえつつまれて、家はちょっとしたまつりのようだった。


数日後すうじつご、またべつの使者がやってきた。


郭子儀かく・しぎどの。晋州しんしゅう刺史しし任命にんめいされもうし上げます」


「晋州か……」


しぎはしずかにうなずいた。やまかわうつくしいまち。しかし、知らぬ土地とちで、たみをおさめるおもつとめ。きしめねばならぬ。


そのよる、しぎは妻ときあってった。


「おれは、晋州へくことになった。かんとしてのはじめての務めじゃ。だけど……そなたと子らをのこしていくのは……」


妻は、にっこりわらった。


「残していくなんて、だれがめたの? わたしたちもれてってくださいな」


「えっ……」


「あなたががんばる場所ばしょに、わたしたちもついてく。それだけのことです」


その言葉ことばに、子どもたちも大きな声で「ぼくも行く!」「あたしも行く!」とさけんだ。


しぎは、むねおくがあたたかくなるのを感じた。


「そうか……いっしょにてくれるのか」


春のひかりのような家族かぞくのぬくもりが、彼の決意けついを、なおつよくしてくれた。


そして数日後。


しぎの家族をせた馬車ばしゃ荷車にぐるま、家からりたうしには布団ふとん鍋釜なべがま、子どもの絵本えほんまでみこんで、晋州へけて旅立たびだった。


村人むらびとたちは道の両側りょうがわならび、声をかけた。


「しぎどん、元気げんきでな!」


「晋州でも、おまえさんらしくまっすぐにやるのじゃぞ!」


「家族でいくのか、ええのう、ええのう!」


門をるとき、しぎは一度いちどふりかえって家を見た。小さな屋根やね、梅の木、土間どまのにおい。心にしっかりときつけた。


旅はながかった。雨にぬれたも、風がつよい日もあった。だけど、家族でいれば、道はこわくない。


子どもが川にはしゃぎ、妻が「もう少しだからがんばって」と声をかけてくれる。そんな旅のなか、しぎの中には、あたらしい町での未来みらいが、すこしずつかたちをとって見えてきた。


**


晋州の町にはいった日。


町の人々が門の前に集まって、彼らをむかえてくれた。


「ようこそ、かくどの!」


とおいところから、よくぞいらしてくださった!」


しぎは、ふかあたまげた。


「これよりこの町のため、ちからくします。どうぞよろしくおねがい申しげます」


春の風がふいた。


それは、晋州という新しい地にいおりた、一つの家族のあたたかな始まりだった。



晋州しんしゅうの静かな朝


郭司馬かく・しば、またお早いですね」


そう言って、年のいった書吏しょりがうれしそうに笑った。


今日きょうあさ空気くうきんでおるな。よし、戸籍帳こせきちょうひらこうか」


郭子儀かく・しぎ晋州しんしゅう司馬しば――地方官ちほうかんの一つ――は、そのころ三十歳さんじゅっさいそこそこの若者わかものだったが、まちひとびとからはずいぶんしんせられていた。


それもそのはず。毎朝まいあさ夜明よあまえ役所やくしょて、帳簿ちょうぼを読み、うったえをき、山村さんそんから老農夫ろうのうふにもひざまじえてはないた。たかぶった態度たいどもなければ、官服かんぷくすそをひるがえしてえらぶることもない。


こまりごとがあれば、司馬しばさまのところへけ」


そうってどもたちまでもが、郭子儀かく・しぎあとってはたけみちけてくるほどだった。


雨漏あまもりする役所やくしょ


晋州しんしゅう役所やくしょふるびていた。瓦屋根かわらやねにはこけえ、あめのたびに庁舎ちょうしゃにはおけならんだ。


だが、郭子儀かく・しぎ愚痴ぐちひとつこぼさなかった。


修繕費しゅうぜんひがないなら、自分じぶんなおすしかあるまい」


そうって、日曜にちようには屋根やねのぼり、わらなわ雨漏あまもりの箇所かしょ補修ほしゅうする。たみともあせながし、むぎ収穫しゅうかく見守みまもった。


役人やくにんというものは、たみのことをらねばな」


かれはいつも、そうつぶやいた。


報告書ほうこくしょ宿やど誠実せいじつ


月末げつまつになると、郭子儀かく・しぎみやこ報告書ほうこくしょおくった。かみきよらかにととのえられ、文字もじは読みやすく、事実じじつもとづいて淡々(たんたん)としるされていた。


「この郭司馬かく・しば誠実せいじつにしてさいあり」


それをんだ長安ちょうあん高官こうかんたちは、こぞってそうくちにしたという。


あるみやこから派遣はけんされてきた役人やくにん晋州しんしゅうたずねた。


「おうわさ本当ほんとうでしたな。あなたの報告書ほうこくしょには、いち文字もんじ虚偽きょぎがない」


郭子儀かく・しぎは、ただわらってった。


たりまえです。たみらしを、ありのままにつたえねば、役人やくにんれですからな」


ふゆよる火鉢ひばちかこんで】


ふゆると、晋州しんしゅう北風きたかぜきびしい。ゆきい、家々(いえいえ)はかたざす。


そんななか郭子儀かく・しぎ火鉢ひばちかこんで、町人ちょうにん農民のうみんはなしていた。


今年ことしむぎわるかったそうじゃな」


「はい、しもはやくて…」


「わかった。年貢ねんぐ来年らいねんばそう。無理むりをさせても、えるものてはならぬ」


その言葉ことばに、年寄としよりはなみだをこぼし、若者わかものはうなずいた。


人柄ひとがら上官じょうかんうごかす】


あるはるのこと、郭子儀かく・しぎのもとに、みやこから文書ぶんしょとどいた。


長安ちょうあん太守たいしゅさまより、直筆じきひつでのおたっしです」


そこには、こうかれてあった。


――郭司馬かく・しば行実こうじつ模範もはんであり、これを厚遇こうぐうすべし――


晋州しんしゅう役人やくにんたちはかお見合みあわせ、よろこびにわいた。


司馬しばさまのご努力どりょくに、ようやくお天道様てんとうさまづかれましたな」


郭子儀かく・しぎしずかに火鉢ひばちつめ、ぽつりとつぶやいた。


「わしは、ただひとみちあゆんだまでじゃ」


そのかおは、きびしくもやさしかった。

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