救国の英雄:郭子儀:10
〇自宅で息子たちと
七六〇年の秋、長安。郭子儀は六十三歳になった。
自宅で息子たちとゆったりと話す時間を楽しんでいた。
「父上、今の唐の情勢について、報告に参りました。」
そう言い出したは、長男だったが、みな年齢も同じく、かなりの経験を積んでいる者たちだ。
郭子儀は嬉しそうに口を開いた。
「知っておるわ。乱はまだ収まらんが、我が唐は徐々(じょじょ)に立て直しておる。粛宗皇帝もわしを信じ、重用してくれておる。」
息子たちはわずかに顔を見合わせ、苦笑いを浮かべる。
「父上、よくご存じですな」と次男が軽く笑う。
郭子儀は顔をほころばせつつも、まだ熱心に話し続ける。
「そうだな。しかし、李光弼は太尉や中書令に任命され、反乱を抑えるために奮闘している。だが、まだ史思明の残党が北で暴れておる。」
三男が腕を組み、にやりと笑った。
「父上。あまり日々ピリピリしていては疲れるでしょう。そろそろ引退をお考えになられては?」
郭子儀は軽く手を振り、「まあまあ」と制しながら続けた。
「節度使とは、地方で軍事と政治を任された大将軍のことじゃ。お主らは忘れておるかもしれんが、わしは朔方節度使も務めたのだぞ。」
息子たちは苦笑いしつつも、父親の話を否定せず、まるで昔話を聞く子供のように聞流した。
「それにしても、父上の慎重な戦略があったからこそ、国は乱を乗り越えられたのだろうな。」長男が言う。
「そうだな。わしらも父上を見習って、油断せずに国を守らねばならん。」次男が静かに頷いた。
郭子儀は満足そうに笑い、こう締めくくった。
「お主らがそう思ってくれるだけで、わしは嬉しい。だが、くれぐれも油断するな。今はまだ穏やかな時だが、また新しい戦いがやってくるかもしれん。」
「はいはい、父上、また説教ですね。ありがたく、聞き流しますよ。」三男がにっこり笑って答えた。
そんな息子たちとのやりとりに、郭子儀は目を細め、家族の絆を深く感じていた。
夕暮れの長安で、父と子たちの温かい会話は、乱の時代を生き抜く強い心を育んでいたのだった。
〇雨の夜、忠義の火は消えず
七六二年のある夜――。
長安の天は重く、冷たい雨が静かに宮城を濡らしていた。
郭子儀、六十五歳。
広間の奥に座り、静かに両手を合わせ、目を閉じていた。
今しがた、宦官が小声で告げたのだ。――「粛宗皇帝、崩御なされました」と。
「……そうか」
長く仕えてきた主君が、この世を去った。
郭子儀は、涙を見せなかった。いや、見せてはならなかった。
「今は、乱を起こす時ではない」
都は不穏だった。皇太子が新たな皇帝・代宗として即位する――この交代の時期こそ、政変や陰謀が起きやすい。
けれど郭子儀は、ただ一言だけ、重臣たちに言い渡した。
「誰も剣を抜くな。忠義は、皇帝の血筋にこそ尽くすものだ」
彼の声は、まるで山を揺るがす雷のように、都中に響いた。
――翌朝、代宗即位の礼が穏やかに行われた。
郭子儀はその日、新帝の玉座の前に立った。
「わたくし郭子儀、代宗陛下に、命を賭けてお仕えいたします」
代宗はその言葉を聞き、立ち上がって深く頭を垂れた。
「父が信じた将軍、私も信じよう」
郭子儀は、ただ黙ってその若き帝を見守った。忠臣は、主を選ばぬ。ただ国と民に尽くす――それが、彼の生きざまだった。
そのころ、もう一人の名将――李光弼もまた、戦場に立っていた。
反乱軍の首・袁晁が浙東で兵を挙げていたのだ。
「代宗さまの治世は、ここから始まる。ならば、俺も剣を抜くのみよ」
李光弼は、荒れた道を駆け、兵を率いて前線へ向かった。
彼もまた、国のために己のすべてを捧げる覚悟をもつ将軍だった。
この年、李光弼は臨淮郡王に封じられ、その功績は民の間でも語られた。
郭子儀はその報せを聞くと、そっと目を細めた。
「光弼か……よくやった。あやつも、民に仕える志は変わらんようじゃ」
長安の空は、ようやく雨をやめ、うっすらと東に光が差していた。
郭子儀は静かに立ち上がると、夜明け前の庭に出て、ひとつ大きく息をついた。
「乱の時代こそ、心を静めることが肝要じゃ。忠義とは、嵐の中に咲く松のようなものよ」
そうつぶやく彼の背に、いつしか朝日が差し込んでいた。
郭子儀の静かな一日は、こうして始まった――唐の未来を、また一歩ずつ支えるために。
〇武を使わずして、国を守る
唐の都――長安が、静かに沈んでいた。
七六三年、春のこと。
北西から黒い雲が迫ってきた。
吐蕃の大軍、その数二万。
山を越え、城門を打ち破り、ついに皇帝の座す都を占拠した。
代宗皇帝は、身を守るため、慌てて都を離れた。
人々(ひとびと)は泣いた。恐れ、震え、道端にひざまずいた。
「唐は、もう終わりなのか……」
しかし――その時、ある老人が立ち上がった。
その名は、郭子儀。六十六歳。
白髪混じりの髭をたくわえ、背筋をぴんと伸ばして馬にまたがる。
「わしが長安を、取り戻してみせよう」
兵は少なかった。戦いで疲れた兵士がわずかに残るのみ。
誰もが無理だと笑った。
だが郭子儀は違った。剣を振るうかわりに、筆を持ったのだ。
「兵で攻めれば、都は焼ける。民もまた、巻き込まれる。
――ならば、話し合おうではないか」
敵将は驚いた。老将郭子儀から届いた書状には、こう書かれていた。
「おぬしらが求めるのは戦いではなかろう。国を燃やしても、何も得られぬ。
長安を荒らさず、静かに退けば、我は兵を動かさぬ」
敵将は苦しんだ。郭子儀の名声は吐蕃にも知れ渡っていた。
「この老いぼれに刃を向ける事は危険だ。我が数万の兵でも太刀打ちできないかもしれぬ……」
そして、三日後。
吐蕃軍は、一滴の血も流さず、都から撤退した。
無血開城――すなわち、戦わずして城を取り戻す奇跡。
郭子儀は再び、都の門に立ち、泥にまみれた兵士たちに向かって頭を下げた。
「みな、ご苦労であった……民を守れたのは、おぬしらのおかげじゃ」
街は静かに息を吹き返し、炎に包まれることなく、子どもたちの笑い声が戻ってきた。
それから間もなく、代宗皇帝が都へ帰還し、郭子儀を抱きしめて言った。
「子儀、お前は剣ではなく、心で国を救った。まさに我の宝よ」
郭子儀は、ただ静かに笑った。
「戦は、勝てばよいのではない。守るべきものを壊しては、何の意味もないのじゃ」
その夜、長安の空は雲もなく、月が美しく照っていた。
老将はその下で、そっと瞼を閉じた。
戦いが終わっても、まだやるべきことは山ほどある。だが――今日一日だけは、心静かに休もう。
そうつぶやいたその声は、風にのって、長安の家々(いえいえ)へと、やさしく届いていった。