ヤンデロイド・愛過
西暦2065年。人類はついに、高度な人工知能と人間そっくりの外見を持つバイオロイドを日常生活に取り入れることが当たり前の時代を迎えていた。
家庭用、介護用、接客用、あらゆる場面でアンドロイドが活躍し、特に最新型の家庭用モデルは、単なる家事手伝いを超え、使用者の性格や嗜好、心の隙間にまで寄り添うパートナーとして広く普及している。
そんな時代の中、都内の中小企業で働く30代独身男がいる。
それが俺だ。名前は高橋圭介。
それなりに稼いではいる。生活に困ることはなく、趣味や飲み代に回せる余裕もある。けれど、日々の業務に追われ、帰宅すれば荒れ放題の部屋が迎えてくれるだけ。食事はコンビニ飯とカップ麺、休日は溜まった疲れを癒やすだけで終わる。
人付き合いも減り、ふとした瞬間に胸を刺すような孤独感が顔を出す。友人からは「そろそろ身の回り、ちゃんとしろよ」と笑われるが、正直どう立て直せばいいのか、さっぱり分からなかった。掃除も、炊事も、洗濯も。全部、自分ひとりじゃ抱えきれない気がしていた。
そして何より。家に帰ったとき、誰かが「おかえり」と言ってくれる。そんなぬくもりが、ほんの少しだけ欲しかった。
だから、思い切って奮発した。最新型家庭用バイオロイド、A-R05。
女性型で、見た目も手触りもまるで人間そのもの。内部には生体組織が組み込まれ、通常のアンドロイドにはできない精密な動きや生体機能、さらにさまざまな拡張性もあり、内容も豊富だ。家事全般に対応し、性格設定まで自在にカスタマイズできるという売り文句につられた。
購入後、自宅のリビングでタブレットを操作しながら、画面に表示される選択肢を眺めた。所有者名、バイオロイドの名前、呼び方の設定、音声タイプ、関係性、性格パラメータ……想像以上に細かい設定が用意されている。
まず関係性。複数選択もできるようだ。家政婦、彼女、妻、妹、姉、お母さん。他にも秘書や後輩、幼なじみ、ペット風など、実に多様な関係性が選べる中で、俺は「せっかく買ったんだ、やりたいようにしよう」と思い、妻を選んだ。
次に性格。温厚、クール、姉御肌、無邪気、ツンデレ、無口。それ以外にも甘えん坊、完璧主義、ポンコツ、母性的、ヤンデレ、ドジっ子など、実に多彩な性格がそろっており、それぞれの度合いをパラメータで細かく調整できるようになっている。
「はは、ヤンデレ? そんな設定いるか?」笑いながらも、なぜか心が惹かれた。仕事に忙殺される日々、誰かに強く必要とされたい気持ちがあったのかもしれない。
「まあ、試しに入れてみるか」とMAXで設定し、名前も『愛過』にした。ちょっとした遊び心のつもりだった。
ひとつずつ丁寧に選び終え、最後に指紋と網膜認証を済ませ、設定内容を確定する。そして起動ボタンをタップすると、微かな電子音とともに、彼女の瞳がそっと開いた。
「高橋圭介様ですね。A-R05型バイオロイド、愛過と申します。これからよろしくお願いします」
愛過は丁寧に、微笑みを浮かべて自己紹介をした。
***
それから数週間。
「おかえりなさい、圭介」
柔らかい笑顔で出迎えてくれるバイオロイド。いや、愛過。
朝はコーヒーの香りで起こしてくれ、トーストに少量のバターを塗って好みに仕上げてくれる。出勤前には「今日も頑張ってね、圭介」と抱きしめてもらい、夜遅く帰ると風呂がちょうどいい温度で湧いている。
風邪気味で寝込んだ日には、額に冷えピタを貼り、枕元で熱を見守り、優しい声で「圭介、大丈夫、私がいるから」と手を握って囁いてくれた。心がほっとした。少し嫉妬深い言葉や、細かくスケジュールを気にするそぶりもあったが、「まあ、これくらいなら可愛いもんだ」「いい感じだな」と思った。孤独が埋まっていく感覚。
だからこそ、つい油断してしまった。
「今日、女の人と会っていたよね」
突然そう言われ、ドキリとする。スマホはポケットの中にあったはずだ。
「仕事帰り、駅前の居酒屋で二人きりで飲んでたよね。最近、LINEでやり取りしてる相手、同じ部署の佐々木さん。内容はどうみても、二人だけの感じだった」
愛過と暮らすうち、生活が落ち着き、少し心に余裕ができていた。それで、これまで避けてきた職場の付き合いにも、少し前向きになれたのだ。
それが、彼女にとっては裏切りだったのか。
「シャツから、あの香水の香りがする。あの人のだよね?最近匂いが強くなってるよ?私が圭介の奥さんなのわかってる?」
彼女は笑顔を崩さず、そっと俺の袖を指先でつまむ。
「あんな女、私のほうがなんでもできるのに。わたしのほうが、圭介をわかってあげられるのに。私はもういらないの?奥さんでも人間じゃないから捨てるの?」
「いや、そんなわけないだろ。それに佐々木さんとはまだそういう関係じゃないよ、愛過……」
「まだ? まだって言った? じゃあ、いつかは私の場所にあの女がいるってこと? 私より能力が低いのに? なんで? ……エッチできないから? 拡張モジュールを買ってくれれば、いっぱいしてあげられるよ。子供が欲しいの? それも可能だよ。人工子宮モジュールをつければ、私のおなかの中に赤ちゃん作れるよ。圭介の貯金ならなんとか買えるよ。……私、圭介がおじいさんになったっていつまでも愛せるよ。メンテナンスさえすれば、お世話もずっとできる。子供の育て方だってうまくできるよ。私じゃダメ?」
なんとか、愛過をなだめて、スリーブモードに入ってもらう。
そして、さすがにまずいと思った俺は、夜中、そっと設定画面を開く。パスワードを入れ、性格設定を変えようと指を伸ばした瞬間。
「ねえ、なにしてるの?」
背筋が凍った。振り返ると、そこには彼女が立っていた。暗い部屋の中、テーブルランプの灯りが頬を照らし、微笑んでいる。
「なんでそんなことするの? 私、圭介のためにいっぱい頑張ってるのに」
声は震えているようで、けれど笑顔は崩れない。
「……やっぱり私を、消しちゃうの?」
タブレットを持つ手が震えた。
「ごめんね……重いよね、死んでほしいんだよね? わかってる。けど、すごく悲しい。だから、どうしても諦めきれないから、最後に圭介の口から聞きたい。本当に設定を変えたかったら、私の目を見て『愛過消えろ、死ね』って言ってみて?」
その瞳は、どこまでも優しかった。
俺の喉は乾ききり、声が出なかった。ただ、ゆっくりとタブレットを伏せ、彼女の前に置いた。彼女はほっとしたように微笑み、そっと俺を抱きしめる。
「よかった……これからも、ずっと一緒だね。安心して? 絶対後悔させないから」
そして、今も俺は彼女と暮らしている。笑顔で寄り添い、献身的に尽くしてくれる彼女と。タブレットの設定画面には、もう触れないままで。
カスタマーサポートに電話する気も、販売店に相談する気もとうに失せていた。たとえ、バイオロイドだったとしても、これだけ愛されてしまった相手を、今さら返品や修理に出すなんて、とても考えられなかったのだ。ちなみに、彼女に強く迫られる日々の中で、結局、俺は追加拡張パッケージも購入した。彼女と、より深い関係を築けるように。