覗き見
配信サービスなどなかったころの話だ。映像作品はレンタルビデオ店で借り、録画はビデオテープに頼っていた。
当時、俺は古びた集合住宅に住んでいた。部屋は狭く、壁は薄く、隣人の生活音が筒抜けだったが、家賃が安いという一点だけで決めた部屋だった。
ある夜、テレビをつけようとリモコンを操作したときのことだ。誤って入力を「ビデオ」に切り替えてしまった。画面に映っていたのは、どこかで見た事のある部屋だった。初めは故障かと思った。けれど、映像はノイズ混じりながらもはっきりしていて、どうやら誰かがビデオを再生しているらしい。驚いたことに、映し出されていたのは俺の好きな洋画だった。
おそらく、同じ型のテレビを使っている隣人――左右か階下か階上か――の映像が、偶然こちらのテレビに入り込んでいるのだろう。これは運がいい。無料の映画鑑賞ができるのだから。
俺はそれ以来、夜になると密かに「誰かのビデオ」を楽しむようになった。相手の好みは俺とよく似ていた。アニメやホラー映画、時々、古い海外ドラマ。どんな人なのか気になったが、覗き見がバレたら気まずい。だから、深く考えず、ただ黙って映像を楽しむことにした。
もちろんというか、時にはアダルトビデオが再生されることもあった。ちょっとよその誰かとその時間を共有したくはなかったので、使用はしなかった。視ることは視た。
その日も俺はテレビをつけた。写っていたのは低予算の映画かアダルトビデオかと最初は思ったが、どうやらホームビデオのような、素人が撮影した映像に見えた。
男と女が口論している。部屋は薄暗く、画質は粗い。会話の内容までは聞き取れないが、険悪な雰囲気は伝わってくる。隣人が撮影したものなのか?
俺は興味を持ち、そのまま見続けた。やがて、男が激昂し、女の腕を乱暴に掴んだ。女が悲鳴を上げる。強く突き飛ばされた女が、テーブルの角に頭をぶつけた。まるでサスペンスドラマのようだが、ぶれる映像や計算されていない構図が、逆に現実だと伝えてきた。
床に倒れた女の頭のあたりから、じわじわと血が広がってゆき、血だまりを作ってゆく。女は動かない。これは見たら拙いやつなんじゃないか――俺はじわりと冷や汗をかくのを感じたが、その様子に目が離せない。
その瞬間、男がピタリと動きを止めた。そして、まっすぐこちらを見た。
「お前、見ているな」
思わず息が止まった。
男の視線が、まるでカメラ越しに俺を捉えているようだった。そんなはずはない。ただの録画映像のはずだ。見ているのは撮影しているカメラのレンズのはずだ。
それなのに、男はゆっくりと、確信を持ったように言葉を続けた。
「お前……誰だ?」
俺は慌ててリモコンを操作した。テレビの電源を切ろうとしたが、画面は消えない。入力を変えても、チャンネルを変えても、男の顔が映り続けている。
「……覗き見していただろう?」
男がにやりと笑った。テレビ画面の中で、どこかの部屋の中の男が歩き出す。
そして、画面の隅に何かが映り込んだ。それは、俺がいる居間の部屋のドアだった。カメラが、ゆっくりと俺の部屋の中へと移動する。
リモコンを握りしめる手が震えた。こんなことはあり得ない。なのに、映像の男は不敵に笑いながら、ゆっくりとドアの前へと進んでくる。
――ドアの向こうから、ノックの音がした。
ドン、ドン、ドン。
画面の中の男と、現実のドアの向こうの男が、同じリズムでノックを続ける。
俺は恐怖で混乱した。こめかみのあたりで脈が激しく打ち、頭が緊張のあまりガンガンと痛む。俺は息を殺し、震える手でテレビの電源を抜いた。
その瞬間、音がピタリと止まった。
俺は、二度とテレビをつけることなく、部屋を引っ越した。
海外のビデオは情緒がないことを、この時に知りました。