第七章 ―激戦―
山間を覆う霧が薄くなり、朝廷軍の喚声と戦太鼓の音がいっそう明瞭に響き渡るなか、星見は傷ついた体を引きずるように歩いていた。背後では、崩れかけた祭壇から兵たちが次々と駆け出していく。十握の剣を覚醒させたカガセオは、そのまま前線へ赴き、既に幾度も猛威を振るっているらしい。
だが、星見に安堵の暇はなかった。カガセオが振るう“神の力”をかすかに感知するたび、彼の魂が燃え尽きかけるような不吉な予感に苛まれる。その上、戦火は今や飛騨と星の里の境目だけでなく、里の近くにも迫っているという報せが入り始めていた。
(星神は何を求めているのでしょう……。私たちに、これほど苦しい道を歩ませて)
星見は巫女装束の袖を握り、目を伏せる。もしカガセオが己の寿命を削って剣を振るっているのだとしたら、どうすればその負担を軽減できるのか。巫女としての自分がもっと役に立てないのか。
焦燥感だけが彼女の胸を掻き立てる。
そのとき、先行していた見張り役の兵が慌ただしく駆け寄ってきた。
「星見様、敵がこちらへ向かっているとのこと! 豪雨を思わせる足音が森に広がっているそうです。どうしますか?」
星見はぐっと奥歯を噛む。星見自身、直接戦う力はないが、この里の民を守るために何かしなくてはならない。祈りだけでは、この脅威を退けられないのが現実だった。
星見は飛騨に築かれた、崩れかけた仮設の祭壇近くで指示を出しながらも、心のなかでは本拠たる星の里の防備を案じていた。
「急ぎ、星の里にも伝令を走らせて! もし朝廷軍の別働隊が尾張方面から向かったら、里の神殿のあたりを重点的に守るように伝えるのです。弓の手勢を高台に配置して……私も、あちらが危うくなれば戻らねばなりません」
だが言葉を言い終わる前に、再び違う方向から雄叫びが聞こえた。何かが砕け散るような衝撃音まで聞こえる。星見は息を呑んだ。もはや戦火は至るところに広がっているのだ。
(どうか、カガセオ様が無事でありますように……)
星見は祈りの言葉を胸の奥で繰り返しながら、巫女としての役目を果たすべく、神殿方向へと足を向けた。もし朝廷軍がそこを蹂躙するなら、星の民の心の支柱が折れる。どんな形でもいい、少しでも時間を稼がなくては。
「こっちだ、みんな散開して! 奇襲隊は獣道を迂回して敵の背後を狙って!」
輝夜は声を張り上げながら、機敏に岩場を駆け下りた。長い槍を背負った部下たちが指示に従い、小さな集団に分かれて木立の中に消えていく。
彼女が率いる“輝夜衆”は、もともと星の里の遊撃隊だ。多勢を相手にするときは、正面からぶつからず地形を活かすのが定石だと心得ている。
それでもこの大決戦は桁外れだ。武神クラスの神々――経津主神と武甕槌神がここにいると聞いたとき、輝夜は背筋が凍った。かつて父母を失った大侵攻を率いたのも、蘇我足人たちとこの武神たちの力があったがため。今回の戦は、まさに“本気”の朝廷軍が襲いかかってきている証拠だ。
「輝夜様! 前方に大きな土塁が築かれているようです。敵兵がそこを拠点にして、矢を放ってきています!」
一人の若い戦士が報告に戻ってくる。輝夜はすぐさま指示を出した。
「いいわ。向こうは自分たちが主導権を握ってると思っている。でも、あの土塁の裏手には下り坂があるはず。そこを使えば、横から回り込めるかもしれない。――ただ、注意して! あの武神どもがいるなら、簡単に切り崩されかねないわ」
気をつけろ、とは言っても、相手は人間離れした存在。普通の兵士が束になってかかっても勝てる相手ではない。どうにか地形を使って少しずつ敵を削るしか策はないのがもどかしい。
輝夜は荒れる息を整え、ちらりと遠方を見る。そこにはカガセオが炎のごとき剣を振るい、兵たちを退けている姿がちらと見えた。剣先からは尋常ならざる光が噴き出し、朝廷軍が尻込みしているのがわかる。
(あんなに強くなったのね、カガセオ様。でも、その分……)
カガセオが大きな代償を払っているのではないか、という予感が胸を締めつける。しかし、今は個人的な感傷に浸っている余裕はない。あの力を支えるためには、輝夜自身が作戦を指揮して“隙”を作らぬよう敵を撹乱しなければいけない。
「みんな、行くわよ! 星見姉さまやカガセオ様、それに宿儺殿だって、ここで一歩も退かない覚悟で戦っている。私たちも負けられないわ!」
輝夜が指を弾くように高く叫ぶと、部下たちは口々に気合の声を上げ、森の奥へ散っていく。朝廷軍が圧倒的な数で押し寄せる中、この少数精鋭の動きがどれだけの効果を生むかはわからない。それでも、輝夜は信じている。地形と奇襲こそが星の里の戦い方。その可能性を示すのが自分の役目だと。
「おおおおっ!」
荒狭は怒りの咆哮を上げながら、朝廷兵を次々となぎ倒していた。その背後には飛騨の戦士たちも混じっており、宿儺の力が加わったことで一段と猛攻が可能になっている。
眼前に立ちはだかる敵兵は、荒狭から見ればただの“朝廷の駒”にすぎない。だが、過去の大侵攻で妻子を殺された怒りが、今も彼の剣を突き動かしていた。
ジャキン!
鋼が鋼をかち割る音。荒狭の大剣が甲冑を深く抉り、敵兵が地面に崩れ落ちる。血の雨が飛び散るが、荒狭はまるで気にも留めず次の標的を探す。
「もっと来い! 俺の恨みを、血で贖ってもらう!」
その殺気に朝廷の兵もたじろぐが、背後からまた新たな斥候が続々と流れ込んでくる。まさに際限がないように思えるほどだ。
「荒狭殿、そちらは大丈夫か!」
宿儺の声が響き、荒狭は振り返る。両面宿儺もすさまじい剣技で前線を突き崩しているが、やはり敵の多さに苦戦を強いられている。山道のあちこちで激突が起こり、どちらの側も大量の血を流していた。
「問題ない! だが、もっと叩き込まないと連中は退かないぞ!」
荒狭が叫ぶと、宿儺はニヤリと笑い、敵兵を斬り伏せた剣を遠距離に伸ばすかのように振り下ろす。まるで目の錯覚のように、遠方の兵が一瞬で斬り裂かれていく。
(さすがに、あの力は並じゃない……まるで四本の腕で戦っているみたいだ)
だが、その宿儺も奥のほうから近づいてくる二つの異形の気配に気づいた。荒狭も同様に、ぞわりと背筋に寒気を覚える。
「あれは……フツヌシ、タケミカヅチ!」
誰かが叫び、戦士たちの視線が一点に集まる。深い霧を裂くように、二柱の武神――経津主神と武甕槌神が姿を現す。光のない瞳で周囲を睥睨し、その巨躯には神々しいほどの殺気をまとっている。
「貴様ら、まだ抗うか。この地を支配するのは朝廷だ。まつろわぬ者は、すべて斬り捨てる」
フツヌシが低い声を響かせた瞬間、周囲の兵が一斉に喝采を上げる。武神を後ろ盾にした朝廷軍は、恐るべき結束力と士気を得ている。
「面白い……来いよ、武神とやら! 飛騨と星の民を舐めていると痛い目を見るぞ!」
宿儺は挑発するように構え、荒狭も大剣を握り直して血走った目を細めた。この二柱こそが、かつて虐殺を招いた張本人だと聞く。心の底に燃える復讐が、荒狭を奮い立たせる。
ガキィン!
瞬く間に鋼の閃光が交わり、宿儺の剣とフツヌシの太刀が激突する。すさまじい衝撃波が吹き荒れ、巻き込まれた兵が吹き飛ぶほどの威力だ。荒狭は武甕槌神の槍を受け止めようと突っ込むが、その槍先は狙いを外さず、荒狭をかすめて肩口を裂く。
「ぐあっ……!」
荒狭が吐血しながら後退する。タケミカヅチは冷徹な眼差しで追い打ちをかけようとするが、飛び込んできた飛騨の戦士たちが一時しのぎに体を張って阻止する。
「雑兵どもが……邪魔をするな!」
タケミカヅチの口から洩れる血のような声。槍が左右に閃き、何人もの戦士が地に伏していく。荒狭は再度突進しようとするが、肩の傷から血が止まらず、動きが鈍る。
(くそ……勝てるのか、こんな化け物に……)
宿儺もフツヌシとの死闘に没頭している。彼の異能の剣技ですら、フツヌシの切り返しを完全に捉えきれない。逆に斬り返され、身体のあちこちを剣圧でえぐられていく。
一方、輝夜が率いる奇襲隊は周囲の兵を瓦解させてはいるものの、武神二柱に近づくのは恐ろしく、誰もが足をすくまされる。奇襲どころか、近づけば瞬時に薙ぎ払われるのが目に見えているのだ。
そのとき、星見が悲痛な叫びを上げながら駆け寄ってきた。
「荒狭様、宿儺殿……だめです、あの二柱は普通の手段では倒せません。どうか撤退を……!」
しかし荒狭は血塗れの顔で振り向き、吐き捨てるように言う。
「ふざけるな、星見! ここで逃げたら全てが無駄になる。俺の復讐はまだ……!」
彼の声には凶気とも呼べる執念が宿る。それを聞いた星見は苦しげに言葉を失ったが、横合いから別の声が轟いた。
「星見! 荒狭!」
現れたのは、炎の剣を帯びたカガセオ。覚醒した十握の剣が眩いオーラを放ち、周囲の朝廷兵を牽制している。血走った目をした荒狭に向かい、カガセオは必死に叫んだ。
「おまえも捨て身のまま戦うな! 宿儺殿の剣技でも歯が立たない相手だ。ここは……俺が、やるしかない!」
そう言うや否や、カガセオは剣を握りこんで駆け出した。フツヌシとタケミカヅチの戦場へ一直線に踏み込む。宿儺は肩で息をしながらその背中を認めると、苦笑を浮かべた。
「ふん、さっきはあれほど暴れまわっていたのに、体はもう限界か……仕方ない、カガセオに任せるしかないのか」
そしてカガセオは神剣を振りかざし、フツヌシとタケミカヅチの間に割って入る。華麗とは言えないが、力強い足どりで、燃え盛るようなオーラをまとった刃を振り下ろした。
「ほう……これが噂の星の民の神剣か」
フツヌシは軽く太刀で受け止めるが、その一撃だけで肩が揺れ、地面がひび割れる。神剣の炎と武神の力が拮抗し、周囲の空気が焼け付くようだ。タケミカヅチも槍を構え、横合いから突きかかった。
ガキィン!
鋼がぶつかり、甲高い音がこだまする。カガセオは剣を返してタケミカヅチの槍先をはじくが、相手の底知れぬ腕力に膝が崩れかける。神剣の力こそ絶大だが、武神たちの戦闘経験と狂気的な強さは計り知れない。
まさに死闘――その場にいる誰もが息を詰めて見守る中、武神二柱が神速の連撃を繰り出し、カガセオもまた炎のオーラで応戦する。宿儺と荒狭は周囲の兵を片付けながら隙を狙うが、あまりに激しい衝突が続くため、近づけずにいた。
そんな激闘のさなか、両面宿儺に思わぬ隙が生まれた。
周囲を守っていた飛騨の兵が次々と朝廷軍の物量に押し流され、宿儺は一人で複数の敵を相手にせざるを得なくなった。さらに、タケミカヅチが投じた槍の一閃が偶然宿儺の足元をかすめ、バランスを崩してしまう。
「あ……ぐっ!」
激痛が走る。視界が一瞬暗転しそうになる。そこへ立ちふさがった朝廷兵の一団が、狂ったように宿儺を斬りつけはじめた。宿儺は反撃しようとするが、既に何度も切り傷を負っている体が思うように動かない。
「宿儺殿っ!」
カガセオがそれに気づき、武神の攻撃を強引に受けながら宿儺に駆け寄ろうとする。だが、フツヌシが背後を取って斬りつけてきたため、カガセオは咄嗟に剣を返し、かろうじて防御に専念せざるを得ない。
そして、宿儺は複数の刃を受けながら大地に膝をついた。 なおも剣を振ろうとするが、腕が動かない。あまりにも深い傷を負いすぎたのだ。
「く、くそっ……!」
血が砂利に滴り、彼の周囲に赤い小さな水たまりを作っていく。周りの飛騨兵が必死に駆け寄ろうとするが、間に割り込んだ朝廷兵に阻まれてしまう。
「あああっ、宿儺様――!」
飛騨の民の絶叫が上がり、荒狭が反射的に飛び出そうとする。だが、タケミカヅチが邪魔をして進路を断ち切る。「どけっ、化け物が……!」荒狭は叫ぶが、槍の一撃で再び弾き飛ばされる。
「すまぬ……カガセオ、荒狭……」
宿儺は血まみれの顔を上げ、唇の端から血を零しながら呟く。大地が朦朧とした意識を吸い取るように、重くのしかかってくる。だが彼の瞳には、最後まで死の影を恐れぬ高潔さが宿っていた。
「あの日……星の里に匿われた恩を、返し切れたかな……」
青白い顔で苦笑し、やがて力が抜けていく。周りで飛騨兵が悲痛な声を上げ、星の里の戦士たちも言葉を失うなか、宿儺は激流に巻き込まれるように静かに崩れ落ちていった。
両面宿儺、討ち死に――。
「な、宿儺殿……嘘だろう……」
荒狭は掠れた声を漏らし、膝から崩れ落ちそうになった。あの豪胆な男が、まさか……。近くでカガセオが、武神の斬撃をぎりぎりで受け止めながら、宿儺の最期を目の端で捉える。
「……宿儺……!!」
悲壮な感情が胸を引き裂き、カガセオはふいに剣の力を限界まで引き出そうとする。燃え盛るようなオーラが再度渦巻き、周囲に斬撃と炎が降り注ぎ、朝廷兵が慌てふためく。タケミカヅチとフツヌシも後退を余儀なくされ、一瞬の隙が生まれた。
カガセオはその隙に駆け寄り、宿儺の亡骸を見下ろす。胸に手を当てるが、もう鼓動はない。熱い血が指を濡らし、彼の心を苛立ちと絶望で満たしていく。
「なぜ、ここで……。やっと力を合わせられたのに……」
小さく呟き、血で汚れた額に手を触れる。飛騨の英雄、両面宿儺。彼の壮絶な最期を、星の民の首長として見届けるなんて、思いもしなかった。あの男の剣技や豪快な笑い声が、もう二度と響くことはないのか――。
カガセオの胸に、こみあげる涙がにじむ。隣に現れた星見が震える手で唇を噛み、「宿儺殿……」と呟く。今だ戦いは終わらないが、心を揺さぶる痛みがどうしても止まらない。
「……俺は、この死を無駄にしない」
カガセオは低く、しかしはっきりと宣言する。荒狭もぬぐいきれぬ涙をこぼしながら歯を食いしばり、「宿儺殿の意思は、俺たちが必ず……」と唇を震わせた。
その後、カガセオの怒りは頂点に達し、十握の剣の炎を盛り返して朝廷軍を斬り払いはじめる。輝夜がその援護をし、奇襲隊は一旦引いたあと再度突撃。武神二柱に対しては満足な手段を持たないが、星の民と飛騨連合軍の総意が「ここで踏ん張る」という一点に集約された。
激戦の果て、武神たちも神剣にやや押される形になり、大きな決着には至らず、一時的に朝廷軍が下がる事態となった。勝敗が決したわけではないが、星の里と飛騨連合に対し、容易には踏み込めないと悟ったのだろう。何より、カガセオの剣が放つ炎のごとき力は、朝廷兵の士気を挫くには十分すぎるほどだった。
こうして戦場は膠着状態へと移行し、かろうじて星の里側は“壊滅”を免れた。だが、その代わりに失ったものも大きい。両面宿儺という英雄の死は、飛騨の兵たちに大きな絶望を与え、戦死者も数えきれないほど増えた。星の民も多くの若き戦士を喪い、その心に深い喪失感が広がっている。
宿儺の亡骸は部下たちの手で丁重に移され、燃えるような夕陽を背に、カガセオは静かに跪く。その表情は沈痛の極みにあるが、瞳にはなお決意の炎が絶えず宿っていた。
「宿儺殿……あなたの犠牲を絶対に無駄にはしない。飛騨を、星の里を、どうにか生き残らせてみせる」
荒狭も両拳を地に置き、涙と血が混ざった顔で嗚咽する。輝夜は言葉を失い、ただ空を見上げる。星見は祈りに似た仕草で両手を合わせ、英雄の冥福を静かに願っていた。
一方、朝廷軍は深手を負った武神二柱を後退させ、陣を整え直しているという情報が届く。最終的な決着はまだ先だ。かつての大侵攻をはるかに上回る戦いの規模に、星の民の不安は募るばかりだった。
(私たちはこれから、どれほどの血を流すのだろう。
でも、それでも……、進むしかないのか――)
人々の胸中には様々な感情が渦巻く。復讐心、恐怖、誇り、仲間を失った虚しさ――カガセオや荒狭、輝夜、星見もそれぞれが苦悩を抱えつつ、夕闇に沈む戦場を見つめていた。
そして、赤く染まる空に宿儺の死が刻まれたこの日、星の民と飛騨の連合軍は一時の休息を得たが、その実態は茫漠たる暗雲の只中にいるも同然だった。