第六章 ―覚醒―
不吉な濃霧が、渓谷と山の稜線をゆっくりと覆っていく。日中だというのに空は重苦しい雲に閉ざされ、周囲の空気はまるで血の臭いを孕んでいるかのようだ。天香香背男は飛騨の山肌を見下ろせる崖の端に立ち、朝廷軍の陣形を睨むように眺めていた。
「宿儺たちと共に、一度は敵を退けることができた。――だが、これほどの大軍が控えているとは……」
心臓が早鐘を打つ。すでに朝廷軍は新たな部隊を送り込み、飛騨全体を包囲しようとしているようだ。疲労の色が濃い宿儺の兵たちや、里から駆けつけた星の民の精鋭たちも、連日の戦で消耗が著しい。少しの誤算が全滅へと繋がってもおかしくない状況に、カガセオは唇を結んだ。
「カガセオ様……」
後ろから聞こえた声に振り返ると、そこにいたのは妹分のように接してきた輝夜。慣れ親しんだその瞳には不安が隠せない。だが同時に、星の里の誇り高い戦士として、闘志の炎も宿している。
「もう限界です。朝廷軍は人数が多すぎる。宿儺殿の兵も先の戦で傷ついています。私たちは……どうするんですか?」
静かな問いかけに、カガセオは言葉を失いかけた。戦うか、退くか。退く場所など、もはや無いに等しいが、正面切ってぶつかっても勝ち目は薄い。
両面宿儺が奇襲や地形を活かす戦術で粘り込んでいるが、敵が本腰を入れて攻め始めれば、囲まれて滅びるのは時間の問題だろう。
「……もう一度、星見や荒狭たちと相談しよう。まだ打つ手が残されていないわけじゃない」
そう答えようとした矢先、東の空で火の手があがった。周囲が息を呑む。遠くでは宿儺の陣営らしき地点でも煙が見える。まるで朝廷軍がいくつもの拠点を同時に狙い始めたかのようだ。
「くそっ……ここまで追い詰められるなんて」
カガセオは奥歯を噛みしめ、胸の奥に隠した焦燥をこらえた。以前、大侵攻で失った家族の姿が脳裏をよぎる。もう二度と仲間を同じ目に遭わせたくない――その思いだけが、彼を支えているようにも思えた。
星見が行う“巫女的儀式”は、岩室で行われていた。今は臨時で飛騨に組まれた祭壇に星の図を描き、天井に釘を打って麻糸を垂らすという、星の里伝来の聖なる儀式だという。
荒狭や輝夜、宿儺の配下らが周囲を警戒する中、カガセオは星見のそばでその不思議な光景を見守っていた。
炎の明かりに照らされる天井には、星座を模した模様が書かれ、そこに何本もの釘が打たれている。麻糸は床の石に結ばれ、微かに振動していた。
「星見……おまえは何を見ようとしているんだ?」
カガセオが声をかけると、星見は閉じた瞳をうっすら開き、静かに口を開いた。
「星神に……“この戦いを覆す導き”を問いかけています。古くは、我々の祖神が天地開闢に関わり、天と地を結んだとされます。星の民はその血を継ぎ、星の動きから未来を読み解いてきました……」
闇の中、星見の白い衣が揺れ、麻糸の先が震えたように見える。カガセオはその瞬間、不思議な胸騒ぎを覚えた。星見の言葉には、何か神々しくも恐ろしい響きがあるからだ。
「……何が見えた?」
「まだぼんやりしています。ですが、一つだけはっきり分かるのは――カガセオ様の剣が、星の力に応えるときが来たということ」
星見はそう言って、カガセオの腰にある“十握の剣”に視線を注ぐ。父から受け継いだこの神剣には、不思議な力が宿っている。実際、前の戦でもその切れ味は並外れていたが、カガセオはまだ本当の意味で刃を振るっていない気がしていた。
何故なら、この剣の真の力を解き放てば、自分自身が何か大切なものを失ってしまうのでは――そんな漠然とした恐怖を感じるからだ。
「十握の剣……父が命をかけて守ったあの夜以来、俺は剣に頼りきりになるのを避けてきた。自分の力で戦わないと、またあのときのように後悔すると思って」
カガセオは拳を握りしめ、無意識のうちに眉を寄せる。星見は小さく頷いた。
「あなたの気持ちは分かります。けれど、今のままでは、朝廷軍の猛攻を凌げません。剣が示す力――祖神である造化三神の加護を、正面から受け止める時が来たのかもしれないのです」
その言葉はカガセオの胸を突き刺した。敗北の恐怖、仲間を失う痛み、星の民の誇りが崩れる恐れ――あらゆる負の感情が押し寄せる中で、剣だけが希望になるならば、迷っている暇などないのかもしれない。
――その瞬間、外から激しい悲鳴と叫び声が聞こえてきた。
宿儺の兵が駆け込み、「大軍がもう目と鼻の先まで迫っている!」と報告する。どうやら朝廷は待ったなしで全力を投入してきたらしい。
「くそっ……時間がない!」
カガセオは祭壇の上へ走り出ようとするが、星見はその袖を掴む。
「お待ちください。儀式を、まだ完遂しておりません。星神との“結び”を立ち上げるには、もうひとつ踏み込んだ祈祷が必要なのです」
「祈祷……? そんなことしてる余裕なんて――」
「ただ斬り合うだけでは、今の朝廷軍に勝てません。どうか、私を信じて。星の民を救うために、私の未来視が必要だと仰ったのは、カガセオ様でしょう?」
星見の目は揺るぎない意志を帯びている。カガセオは迷いながらも、星の民の巫女としての彼女の力を知っているがゆえに、咄嗟に否定はできなかった。
息を詰まらせるようにして、祭壇の中心へと戻る。星見は両手を広げ、麻糸を何本か手繰り寄せると、静かに唱え始めた。
「天之御中主神……高御産巣日神、神産巣日神よ。どうか、我らが子孫を見捨てたもうな。星の理を開き、この地に宿る魑魅を退ける道を示したまえ……」
巫女の唱える祝詞が低く、けれど確かな響きをもって洞窟状の祭壇内に広がる。かすかに冷たい風が吹き込み、釘の打たれた天井画が軋んで音を立てた。カガセオはその呪術じみた光景に飲まれ、息をのむ。
すると、星見の目が不意に開き、まるで星を宿したように輝き始めた。薄暗い空間の中、幽かな閃光が彼女の周囲を満たしていく。
同時に、カガセオの腰の十握の剣が、まるで呼応するように熱を帯び始めた。鞘越しに伝わる熱量は、まるで何かが剣の中で目覚めるかのようだ。
「これは……!?」
カガセオは驚きに声を上げる。剣を握る手に力が入り、鞘を外そうとした瞬間、一気に膨大な情報――あるいは啓示のようなもの――が頭に流れ込む錯覚に襲われた。星見が放つ光と、剣の奥底に潜む力が混ざり合い、カガセオ自身の意識が強引に引き込まれていく。
(父上、母上、妹よ。俺は……今、皆を救える力を手に入れるのか……?)
脳裏でそう問いかけたとき、かすかに星の囁きが聞こえた。
“お前は星の民を導く宿命を背負う者――誇りを捨てず、血を流しても守る意志があるなら、我が神威を与えよう。”
それは天か地か、あるいは剣の声か。いずれにせよ強烈な意志がカガセオの全身を貫いた。
「……うわあああっ!」
思わず叫び声を上げたカガセオの右手から、迸るような熱が広がり、十握の剣が激しく発光する。まるで炎のごとき光が鞘を溶かし、刀身を白刃ではなく灼熱の輝きへと変えているかのようだ。
星見はその光景を見ながら、祈りの声をさらに高める。汗が頬を伝い、巫女服が湿っているのが見えるが、彼女の意志は揺るがない。
「カガセオ様……星神が、あなたを導いています。どうか、その声を拒まないで!」
その叫びを受け、カガセオの瞳には漆黒の闇を突き破る炎が宿る。ここで退けば、皆が死ぬ。自分だけが生き延びても意味はない。全身に駆け巡る痛みをこらえながら、彼は剣を抜いた。
ギラリ――。
刀身が光の柱と化した。周囲の闇を切り裂き、熱ささえ感じるほどのオーラが迸る。カガセオは踏みとどまろうとするが、膝が震え、心臓は壊れんばかりに鼓動を打ちつけた。
これが……十握の剣の真の力。
神威を解放した“覚醒”――!
途方もない力が腕を通じて流れ込む一方で、どこか魂を削り取られるような恐怖もある。だが、カガセオはそれを拒まない。もう後戻りはできないのだ。
「うおおおおっ……!」
絶叫とともに剣を振るう。すると、祭壇の上空を衝撃波が駆け抜け、天井画の星々が揺れ動くかのように見えた。星見が目を閉じ、「祖神よ……」と熱い祈りを続ける。
カガセオの耳には、一瞬、遠くで仲間の悲鳴や戦場の音が鳴り響くのが聞こえた。朝廷軍がもうすぐそこまで来ているのだ。しかし、この剣なら――
「よし……行くぞ」
カガセオは荒れ狂う力を噛み殺しながら、祭壇を飛び出していく。その姿に星見は小声で、「気をつけて」と呟き、倒れ込むように膝をついた。消耗が激しいのか、彼女も限界ギリギリの状態だ。
闇を破るようにして外へ出ると、そこには荒狭たちが総崩れになりかけている光景があった。すでに朝廷軍の前線が崖下まで侵入し、宿儺の兵や星の民の戦士が必死に迎撃しているが、数で押されている。
「カガセオ様!? その剣は……」
輝夜が驚愕の面持ちで叫んだが、カガセオは答えるより先に剣を掲げた。
ゴオッ!
炎のような光が剣の先端から迸り、朝廷兵の列を焼き払うかのように吹き上がる。兵たちが悲鳴とともに飛び散り、地面が焦げるような臭いが風に混ざった。
「な、なんだ、この力は……!」
朝廷軍の先頭にいた指揮官が戦慄に凍りつく。カガセオ自身も、その凶暴なほどの光の威力に肝をつぶしそうだった。しかし、今は戸惑っている暇はない。
「荒狭! ここは俺に任せろ。おまえは兵を立て直し、宿儺殿と合流しろ!」
その声に、荒狭は一瞬戸惑うが、すぐにハッと息を呑み、頷く。「わ、わかった。……おまえ、その剣で何を――いや、いい! とにかく助かった!」
荒狭は仲間たちを呼び集め、後方へ下がって隊列を組み直す。その間にもカガセオの剣から放たれる光が、朝廷兵を圧倒していた。小さな炎の渦が甲冑を焦がし、槍を手にしていた兵たちが絶叫する。
(こんな力……本当に俺が扱っていいのか?)
カガセオの脳裏に不安が渦巻く。彼自身が放っているのか、剣の意思で放たれているのか、もはや区別がつかないほどに強大な力だ。敵を為す術もなく焼き払う光景は、まるで地獄絵図を見ているかのようで、背筋が凍る。
だが、その背後で聞こえる戦友たちの声が、彼を奮い立たせる。“星の民を救わねば”という誓いが、カガセオを踏みとどまらせるのだ。
「うおおおっ!」
更なる斬撃を放つと、炎の気が剣先から奔流を描いて敵陣へ走った。朝廷兵たちは思わず後ずさりし、これ以上前進してこようとしない。
「す、すごい……星見が言っていたのは、こういうことか……」
輝夜が呆然と呟く。荒狭も顔を歪めながら見つめる。宿儺は遠巻きに血染めの鎧姿で、「あれが十握の剣か……」と唸っていた。まるで数百の敵を相手に一挙に払うような神威は、想像以上の衝撃だったのだ。
ただ、カガセオ自身の体からは、確実に何かが削ぎ落されていくような感覚があった。 大量に汗をかき、呼吸が乱れ、胸が苦しくなる。力を制御できなければ、自分が飲み込まれるかもしれない。
けれど、ここでやめるわけにはいかない。
まだ朝廷軍の本隊は、これから押し寄せてくるんだ……!
カガセオは奮い立ち、剣の火を弱めようと試みる。あまりにも激しい出力で周囲まで焼き焦がしてしまうのを恐れたのだ。
確かに朝廷兵は一時的に押し返せたが、神力の乱用は、カガセオ自身を蝕んでいるのが手に取るようにわかる。痛みが胸を刺し、視界がぐらりと揺れた。
「カガセオ様、大丈夫ですか……!」
どこかで輝夜の声がするが、遠くに聞こえるようだ。星見はまだ祭壇に留まり、意識を保てるかどうか、という状況だろう。彼女の助言を受ける余裕もない。
こんなに……苦しいのか……この剣を真に扱うというのは……
霞む視界の中で、カガセオはぐっと意志を奮い、剣の柄を握りしめた。宿儺や荒狭、輝夜、星見、そして守るべき民の顔が浮かぶ。死を覚悟して突き進むしかないのか――それも覚悟のうちだ。
「まだだ……まだ終わらせはしない!」
血を吐くような声を絞り出しながら、カガセオは再び強く踏み込み、剣の光を凝縮する。殺意剥き出しの朝廷兵たちは、一瞬その動きに怯んだ。
――その瞬間、青く燃えるような閃光が剣先から散り、雷鳴にも似た轟音が山間に轟いた。
朝廷兵たちの数列がまとめてなぎ払われ、悲鳴が渓谷に反響する。焼け焦げた土の匂いが鼻を突き、逃げ惑う敵の鎧が陽光を乱反射した。
しばしの間、誰もが息を呑んだ。まるで天地が裂けたような光景に、味方の兵さえ足を止める。カガセオの全身は震え、片膝をついている。剣からはまだ薄い火の尾が揺れていた。
(これが“天地開闢を果たした神の力”というものなのか……)
圧倒的な破壊力に勝利の予感すら感じる一方で、カガセオの胸中には強烈な不安が渦巻く。果たして、これほどの力を使い続けても、自分は正気でいられるのか?
だが――少なくとも今は、朝廷軍を押し返し、時を稼ぐことに成功した。崖下の兵たちが慌てて隊列を整え直す気配があるが、また一気に攻め立ててくるには時間がかかるだろう。
せめて、皆が体勢を立て直す隙だけでも作れたなら……
カガセオは荒い呼吸をしながら、剣を支えに立ち上がる。宿儺が近寄ってきて、カガセオの背を支えるように腕を差し出した。血で濡れた宿儺の鎧が重々しいが、その眼差しには敵わぬほどの敬意と驚きが混ざっている。
「おまえ、こんな力があったのか……。だが、やつらはまだ終わらんぞ。いずれ、さらなる強者を投入してくるはずだ」
宿儺の言葉に、カガセオは縦に首を振った。痛む体をなんとか動かし、周囲の兵たちに声を張り上げる。
「今が……好機だ。皆、急いで体勢を整えろ! 傷ついた者は安全な場所へ退避し、残る者は宿儺殿の指示に従え! ――この戦い、まだ終わってはいない!」
その呼びかけに、星の民や飛騨の兵たちは歓声にも似た声を上げ、動揺を乗り越えるように奮い立った。ひとまずの勝ち目は見えたわけではないが、カガセオの神剣が放つ光は希望の象徴となり得る。
だが、その代償は……?
カガセオは胸の奥で湧き上がる虚脱感と痛みを押し込み、皆の顔を見渡す。彼らはまだ勇気を失っていない。ならば自分は首長として、最後まで戦わなければならないだろう。
この覚醒の力が、朝廷の大軍を相手にどこまで通用するのか――それはまだわからない。しかし、もう弱音を吐いている暇はない。これから先、さらに苛烈な激戦が待ち受けていると、星見の未来視も告げている。
カガセオは息を整え、地を踏みしめて再び剣を握り直した。 剣先に炎のごとき余熱がまとわりつき、まだ野獣のように唸っているように見える。
(父上、母上、妹よ。俺は皆を守るため、この力を使い続ける。 たとえ、この身がどうなろうとも――!)
そう心に誓い、カガセオは夜の闇と血煙が混じる戦場へと目を移す。背後では星見が倒れかけながらも、「星の導きは、まだ……」と掠れた声を発していた。荒狭と輝夜も踏みとどまり、宿儺は不敵な笑みを浮かべて周囲に指示を飛ばしている。
そして、朝廷軍の本隊が控える麓では、再び鬨の声と太鼓が山々を揺らし始めていた。 これからが本当の死闘であり、覚醒による一時の優位など、すぐに揺らぐだろう。
だが――カガセオはこの一瞬に宿る光こそが星神の加護だと信じ、苦しみと恐怖を抱えながらも前を向いた。
光と闇の狭間で、彼の剣はなおも燃え盛る。 その炎は、星の民と飛騨の誇りを宿し、さらに狂気とも呼べるほどの力を撒き散らしていた。これが果たして勝利を掴む鍵か、それとも破滅の導火線となるのか――誰もまだ、それを断言できない。