第五章 ―宿儺(スクナ)の誓い―
陰鬱な雲が飛騨の山々を覆いはじめていた。まだ陽が上る前だというのに、辺りは夕刻のような暗さを纏う。両面宿儺は仮の館の縁側に座り、渓流をはるか遠く見下ろして思案にふけっていた。
すでに、彼の配下からは“朝廷軍が大量の兵と共に飛騨の境目へ迫りつつある”との報せが何度も入っている。今度の攻勢は、明らかに規模が違う。
「いよいよ来たか――」
宿儺は低く囁き、帯刀したままの剣の柄に手を触れた。先日、星の民の輝夜が訪れた際、朝廷が再度動き出していることは既に聞き及んでいたが、こうも早く、そして大軍を率いて押し寄せてくるとは。
伝承では、「両面宿儺には四本の腕と二つの顔があった」という。だが現実の彼の姿は人並みの体躯――とはいえ、傷だらけの逞しい身体に鋭い眼光、そして“異能”とも言われる剣の力で周囲を圧倒してきた。朝廷から見れば、まさに“危険な反逆者”である。
「宿儺様、よろしいでしょうか」
一人の配下が小走りで近づいてきた。岩と丸太を組み合わせただけの質素な建物は、足音を吸収せず、微かな空気の揺れさえも響かせる。男は深く頭を下げて、宿儺の前に控える。
「何の用だ」
宿儺は静かに顔を上げる。その瞳には深い憂いが浮かんでいたが、口調は堂々としている。
「……先ほど、北の山道に朝廷の先遣隊と見られる部隊が姿を現しました。こちらへ向かっている可能性が高いと判断しています。数十名程度との情報ですが、背後に主力が控えているのかもしれません」
「そうか。ついに牙を剥いたな。……やはり奴らは、飛騨を制圧してから星の里へ向かう腹づもりか」
宿儺は短く息を吐いた。両方から挟み撃ちにする算段だろうか――想定内ではあるが、こちらも兵数は決して多くない。厳しい闘いは必至だ。
「同盟を申し出たばかりの星の民はどう動く?」
彼の脳裏をよぎったのは、輝夜の凛々しい姿と、星の里でかつて命を救われた記憶。彼女が帰還してから日が浅いゆえ、星の民がここに援軍を送るには時間がかかるかもしれない。まして物資も乏しいと聞いている。自らの判断で戦うしかないのだろうか――
「宿儺様、いかがなさいますか。このまま守りを固めて朝廷軍をやり過ごすか、それとも先手を打って攻撃しますか。配下の者たちは、すでに武具を手に待機しております」
男の声には微かな焦りが混じっている。飛騨の地は険しい山や渓谷に守られてはいるが、それが必ずしも優位というわけではない。敵がじわりと兵を送り込み、補給路を断たれると、籠城にも限度がある。
宿儺は硬い床に手をついて立ち上がった。その動作は大柄で豪快だが、どこか静かな気迫を漂わせている。
「まずは奴らの出方を探る。下手に飛び出して深追いすれば、罠にかかるかもしれん。だが、我々を舐めているとわかったなら、一撃で粉砕してやろう」
声を発した瞬間、背の刀から淡い光が揺らめいた。宿儺の“異能”はすでに周知の事実であり、部下たちもその凄まじい威力を知っている。
「……わかりました。手分けして見張りを強化し、もし朝廷が攻め寄せるなら、我らも迎え撃つ態勢を取ります。ご指示をお待ちします」
男が頭を下げて去っていき、宿儺は館の奥から甲冑を運び出させるよう命じた。いつでも出陣できるよう準備するのだ。
「星の民からの援軍が間に合えばいいがな……」
ぽつりと呟く。弱音のようにも聞こえるが、その瞳は鋭く冴えている。宿儺は自らの剣に触れ、かつて星の里で救われた日々を思い起こした。あのときの恩を返したい――その思いは真摯だが、それよりも迫る敵の勢いを前にして、こちらが倒されるわけにはいかないという必死さのほうが強かった。
朝廷軍の先遣隊は、予想どおり飛騨の深い山道を伝って侵入してきた。斥候の数は少ないが、装備はきわめて整っており、どうやら“本隊に先立ち、飛騨の状況を確認する任務”を帯びているらしい。
宿儺が拠点とする渓谷の集落では、見張りの兵が慌ただしく報告に走り回り、周辺の防柵を固めていた。やがて、暗い雲の切れ間から陽が覗くと同時に、山裾から数十名の朝廷兵が隊列を組んで進んでくるのが見えた。銀の甲冑が光を反射し、彼らの動きには一分の隙も感じさせない。
「来たな……」
宿儺は門の上からその光景を睥睨し、配下の兵に合図を送る。息を潜め、奴らの出方を待つのだ。ここは飛騨の地形を活かし、一本道のような狭い坂道に罠を仕掛けてある。
すると朝廷兵の先頭が足を止め、小さく隊列を整えた。何か相談しているのか、あるいは上官が指示を出しているのか――霧がかった空気の向こうで小隊が2つに分かれるのが見える。一隊は坂道を慎重に進み、もう一方は崖沿いに回り込もうとしているのだろう。
「ふん、賢いな。こちらを包囲して一気に崩す気か」
宿儺は歯を食いしばり、低く嗤う。
「だが、それほど甘くはないぞ。」
彼は静かに息を整え、部下に合図を送る。仕掛けた木材と石を一気に転がすのだ。狭い道を埋め尽くすほどの丸太と岩が一気に下方へ転げ落ち、道を塞ぎ、朝廷兵を押し潰そうとする。轟音とともに土煙が上がり、悲鳴が遠くの谷にこだまする。
しかし、さすがは朝廷の精鋭だろう。即座に隊列を乱さずに退避し、何名かが岩を受け止めているのが見える。槍を抱え込むようにして岩を逸らす兵や、隊を鼓舞するように叫ぶ指揮官らしき姿もある。
「ちっ、しぶとい……」
宿儺は舌打ちし、即座に先頭部隊への突撃を命じた。こちらは地形に慣れた戦士が少なくとも数十名いる。この程度の斥候なら一網打尽にできるはず――そう踏んでの判断である。
突然の突撃が号令とともに始まる。飛騨の戦士たちは、斧や弓矢を手に暗い木立を抜け、朝廷兵の横腹へ一斉に襲いかかった。
「てやあああっ!」
先陣を切る宿儺の雄叫びが響き渡る。彼は手にした剣を横に一振りし、遠距離にいた兵の甲冑をまるで虚空からの一撃で切り裂いていく。血しぶきが舞い、一瞬にして周囲を呑み込む戦慄が走った。
「化け物め……!」
朝廷兵が動揺した声を上げる中、宿儺はさらにもう一振り剣をはじき、目を見張るような衝撃波を放った。薙ぎ払われた空気が敵兵をなぎ倒し、木々までも揺らしている。
「退けるものか。朝廷の犬どもよ、ここは俺の地だ! 踏み入るなら、その首を置いていけ!」
宿儺の声が轟き、配下たちも士気を上げて朝廷兵を押し返す。彼らはこの山間に精通し、地形を熟知しているため、侵入者には圧倒的に不利な環境。勢いは完全に宿儺たちに傾いていった。
だが――
斥候隊の後方から、続々と新手の兵が現れる気配があった。どうやら“先遣隊”というよりは“小規模な本隊”に近い規模らしい。霧の合間から黒い甲冑が次々に現れ、その数は宿儺の想定を超えている。
「こんなにも多いのか……!」
宿儺は衝撃を隠せず、思わず拳を固めた。敵の増援は恐らく百や二百ではきかないだろう。朝廷がどれほどこの地を徹底して制圧しようとしているのか、嫌というほど痛感する。
山肌を巻くように散開してくる彼らは、すでに坂道の罠など意に介さずじわじわと押し上がってくる。飛騨の戦士たちは奮戦しているが、数の上では圧倒的に不利。無尽蔵に湧くかのような敵兵を前に、次第に押し返されはじめた。
――宿儺は自分の心拍が高鳴るのを感じていた。
まずいな。このままだと、いずれ押し潰される。
俺の剣だけで無限に斬り払えるわけでもない。配下の兵の負傷も増えてきている……。
一人、また一人と傷つき倒れる仲間の姿が視界の端をよぎる。朝廷兵は統制が取れており、槍や弓で遠巻きに押し込んでくる。焦りと怒りが宿儺の胸を猛火のように駆けめぐり、“四本の腕”を持つだなどと畏れられてきた彼の超人的な力も、相手の数に押されて徐々に消耗していくのがわかった。
それでも宿儺は真っ直ぐ立ち、剣を振るい続ける。崖のふちに敵を押し込んでは斬り倒し、その血煙が宙を舞う。だが、不意に背後から矢の烈風が飛んできた。彼は咄嗟に剣を背中へ振り、矢を打ち払う。
「くそ、際限がない……!」
宿儺の汗が額から滴り落ちる。ここまで追い詰められたのはいつ以来だろうか、と思考の片隅が呟く。
やがて、一息ついて周囲を見回したとき、黒い甲冑の群れがさらなる増援の合図を送ったのが見えた。大旗が翻り、轟々と太鼓の響きが山々に反響する。
「宿儺様、まずい。これだけの兵を相手にしていては、飛騨の民が持ちこたえられません!」
配下の戦士が血に染まった腕を押さえながら駆け寄る。宿儺も脇腹に浅い切り傷を負い、鈍い痛みが走っていた。
「……星の民からの援軍が来るのを待つわけにもいかないか」
宿儺は苦悶の表情を浮かべ、ぎりりと歯を食いしばる。できるだけ長く持ちこたえるしかない。もし星の里から救援が届けば形勢を逆転できるかもしれないが、そんな保証はどこにもない。
だが、次の瞬間、こちらの兵士が一人、崖上から手を振って叫んだ。
「宿儺様! 南の谷から星の里の旗印が――!」
宿儺ははっと顔を上げる。視線を焦点に凝らし、木立の向こうを睨むと、確かに遠目に見慣れぬ旗が揺らめいている。飛騨の民とは違う、鮮やかな星の紋。
「来たのか……星の民!」
彼の胸が大きく鼓動する。まさか、これほど早く駆けつけてくれるとは――思わず歓喜に似た笑みがこぼれそうになる。
そこから先は、まるで一気に流れが変わり始めた。星の民の若い戦士たちが山肌を縫うように駆け降り、朝廷軍の背後を攪乱しはじめる。あの勇猛な男、荒狭の怒号が聞こえ、輝夜らしき声も混じっている。
朝廷兵の中には、星の里や飛騨に精通していない者も多く、地形を活かした奇襲に動揺を隠せないようだ。宿儺も全力で剣を振るい、上方からの援軍と挟み撃ちの形を作り出そうと配下を指揮する。
やがて、敵の増援をしばし押し返した後、宿儺は少し開けた岩場へ移動し、そこで待っていた天香香背男と対峙した。荒狭や星見、さらに輝夜らが側にいて、皆が呼吸を切らしている。
「カガセオ……来てくれたか」
宿儺は短く言葉を発し、血の滲む唇を拭う。肩で息をするカガセオは、小さく頷きながら握り拳を胸に当てる。
「星見は罠の可能性を警戒していたが、俺たちは飛騨がやられるのを見捨てられない。恩があるのはこちらも同じだからな」
その言葉に、宿儺の顔に笑みが走った。
「ふん、恩がどうこうより、お前も朝廷との戦いに覚悟を決めたわけだな。ありがたく受け取っておくぞ」
二人は短い言葉を交わしながらも、その背後では戦火が依然として燃え盛っている。数百、あるいはそれ以上の朝廷兵がまだ山道を埋めつくし、飛騨と星の民の連合軍を飲み込もうと迫ってくる。
「とはいえ、これほどの数を相手にするとなれば、正面からぶつかり続けるのは得策じゃない。俺の剣で何人かは倒せるが、勝ち切るにはもっと策が要る」
宿儺が言いかけたところで、荒狭が血走った瞳で口を挟む。
「策なんぞあっても、奴らは止まらない! 叩いて斬って、殲滅するしかないだろう!」
宿儺はちらと荒狭を見やる。先ほどの戦場で彼の武勇を見たが、確かに鬼神のような勢いだった。一方で、その激情が短慮を招く危険もある。
「荒狭、おまえの言うとおり、戦うしかない状況かもしれない。だがこれだけの朝廷軍、完全に打ち破るには俺たちだけでは厳しい。まだ本隊が控えている可能性だってある。ここで粘りつつ、奴らを疲弊させるしかない」
カガセオが苦しげに言葉を探す中、星見が震える声を挟む。
「今朝、星を読んだとき、まだ最大の難関が来ていないと感じました。ここで勝った気になっていても、後から大軍勢が……」
言葉に詰まる星見を、輝夜がそっと支える。「つまり、今は連合で時間を稼ぐしかないってことね」
宿儺は目を閉じ、一つ深呼吸する。次の瞬間、まるで啖呵を切るように声を張り上げた。
「ならば、ここに誓おう。俺とおまえら星の民は、同胞としてこの朝廷軍を迎え撃つ! 飛騨を守り、星の里を守り抜くために、お互い命を懸け合おうじゃないか!」
彼の言葉に、カガセオは静かに眼差しを重ねる。「こちらこそ、飛騨の民を救うためなら、俺たちも命を惜しまない。……宿儺、共に進もう」
そう言うや否や、宿儺は手の甲を差し出し、カガセオはその上に自分の手を重ねた。二人の間には鮮明な火花が散るかのような熱があった。
「これが、俺たちの誓いだ。二度と後には引かん。星の民のためにも、この飛騨のためにも、俺の剣は振るわれる」
そうして強く手を握り合った瞬間、闇雲に見えた戦局の中に一筋の確かな光が立ち上る。連合軍としての意識が芽生えた以上、無計画には動かない。星の民の機動力、飛騨の地形を知り尽くした宿儺の兵……その組み合わせならば、朝廷軍を一時退けることは不可能ではない。
ふと、宿儺はカガセオの腰に帯びられた長い剣に目を留める。
「それが噂の“十握の剣”か……興味があるな。見せてもらうことはできんか?」
カガセオは苦い表情で少しだけ目を伏せる。「すまない。これは父の形見であり、里の宝物でもある。易々と人目に晒すわけにはいかないんだ」
その言葉に対し、宿儺は「そうか」と短く頷き、それ以上深くは尋ねない。闇雲に剣を覗き見るほど無粋ではないし、真の力を秘めた神剣というなら尚更だ。
「ともかく、今は共に戦い、あの大軍をどうしのぐかだ。おまえらがいてくれたおかげで、ひとまず一命は取り留められた。礼を言うぞ、星の民」
彼は胸の中で沸き立つ熱と、決して揺るがぬ決意とを確認するように呼吸を整える。飛騨と星の民の“共闘”はここに誕生した。
山深い谷を抜け、敵の本隊にさらなる援軍が到着するまで、それほど時間はないと読まれている。宿儺は、ひとまずは退却しながらも、谷底の天然の要塞へと移動する作戦を決めた。そこで時間を稼ぎ、敵を散り散りに分断する形を狙うのだ。
そして、星の民と共に反撃へ――。
形だけ見れば苦しい戦いに変わりはない。だが、宿儺もカガセオも、そして荒狭や輝夜も、星見も、“まだ諦めるわけにはいかない”と胸中で叫んでいる。
このままでは終わらせない。誇りを守るために、仲間を守るために。宿儺は自らが背負う飛騨の民の思いと、かつて星の里で命を救われた恩義とを同時に感じていた。ここで逃げ出すような男ではないし、あの朝廷の圧力に屈するわけにもいかない。
この誓いが、やがては戦の趨勢を大きく左右することになる。
だが、すでに朝廷軍の本体は陰に迫り、さらに強大な武神の存在が控えている――その現実を、宿儺自身もうすうす察していた。もし、経津主神や武甕槌神が自ら先頭に立ったなら、飛騨や星の民がいかに抵抗しようとも、簡単には勝てまい。
そのときこそ、あのカガセオとやらがどれほどの覚悟であの剣を扱うかだ。
果たして、星の神剣が天の光を放つのか――。
宿儺はそんな予感を抱えながら、黒ずんだ雲間からこぼれるわずかな月明かりを仰ぎ見た。
この飛騨の地と、星の里を同時に叩こうとする朝廷の企みが、今まさに牙をむき始めている。
だが、恐れてばかりはいられない。誓いを立てた以上、飛騨と星の民は運命を共にするのだ。
「ふん……。来るなら来い。どれだけの軍勢でも、この飛騨を甘く見るなよ」
宿儺は夜気を深く吸い込み、改めて握りしめた剣を見つめた。先刻まで血に染まった刀身が、月光に照らされて微かに青白い光を放っている。そして、その瞳にはゆるぎない決意が燃えていた。
“星の民と飛騨の力を合わせ、新たな未来を切り拓く”――それこそが、両面宿儺の誓いである。