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星は決して堕ちぬ  作者: 銀 護力(しろがね もりよし)
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第三章 ―迫る影―

乾いた風が、大和の宮殿の渡り廊下を吹き抜けた。遠くからは雅やかな管弦の響きがかすかに届き、まるでこの地が平穏そのものに包まれているかのようだ。しかし、その穏やかな空気の裏にこそ、朝廷内で蠢く権力争いの影が潜んでいる――蘇我足人ソガノタリヒトはそれを知り尽くしていた。


彼は厳めしい顔立ちをしているが、口元に薄い笑みを絶やさない。その佇まいは、朝廷の重臣というよりは、どこか狡猾な策士のようにも見える。実際、彼が今この宮の中で構想を練えているのは、天皇の威光を最大限に利用しながら、自己の野心を満たす策に他ならなかった。


「星の民の里、再び制圧を最優先とすべし」――それが仁徳天皇の名のもとに下された公の方針であり、朝廷内でも周知の事実になりつつある。あの地方豪族たちの多くが既に服属したこの時代において、星神などという得体の知れぬ神を崇め、中央に従おうとしない存在は目障りでしかない。星の民は古くから強靭な独立心を誇り、神秘めいた力で朝廷軍を退けてきたという。その事実が、タリヒトの苛立ちと好奇心を同時にかき立てていた。


「蘇我の名を世に轟かせるためにも、星の民など放置しておけぬ」

そう内心で呟きながら、タリヒトは宮殿の渡り廊下を足早に進む。彼の近習が後に従いながら、先日の朝議の報告書を捧げ持っている。


「タリヒト様、本日の戦略会議には、経津主神フツヌシ様と武甕槌神タケミカヅチ様も参席されるとのことです。殿下(仁徳天皇)からも、『星の民との戦に抜かりなきよう、万全を期すべし』とのお言葉がありました」


近習の言葉に、タリヒトの目が僅かに細められる。

経津主神と武甕槌神――朝廷の二柱の武神。まさに戦場では無双の存在であり、その神力は人智を超える領域にあると噂される。彼らが動くということは、それだけ大和朝廷が星の民への強硬姿勢を明確にした証拠だった。


「そうか。ならば尚のこと、この機を逃す手はない。フツヌシ殿とタケミカヅチ殿は己の武勇を誇り、正面から一気に蹂躙しようとするだろう。だが、それだけでは足りぬ。星の民は狡猾だからな。彼らの首長・天香香背男アメノカガセオは、我らが想像する以上に粘り強く抵抗してくるかもしれん」


タリヒトは口元を歪めて笑う。彼は過去に星の里を襲撃し、虐殺を主導した張本人でありながら、完全な制圧には至らず、結果的に一部の民を逃がしてしまったという因縁がある。当時は自らが率いた部隊で徹底した殺戮を行ったものの、最終的には荒狭アラサやカガセオの奮戦で攻撃が停滞したと、後から報告を受けた。あの里の抵抗が彼の中に燻る苛立ちを増幅させていた。


「今回こそ、星の民を根絶やしにし、あの十握の剣とやらを朝廷の宝物庫に収めてやる。……フフ、そうすれば、私の一族こそが次代の勢力の中枢を担うことになるだろう」


タリヒトの瞳には邪な光が宿る。星の民を討つことは、単に仁徳天皇の命に応えるだけではない。彼自身の野望の礎ともなる。

先の戦で奪い損ねた“十握の剣”――あれを手中に収めれば、朝廷内での地位は確固たるものとなり、誰もが蘇我足人の名に頭を垂れるようになるだろう、と彼は信じている。


彼はやがて奥の広間へ通され、そこにはすでに異様な雰囲気が満ちていた。経津主神フツヌシ武甕槌神タケミカヅチが揃って腰を下ろし、鎧のような神衣を纏った姿のまま、鋭い視線をタリヒトに向けている。二柱とも血の気が多く、戦をこそが己の存在意義とするかのように思える。タリヒトも、この武神二柱が持つ生々しい殺気には、さすがに僅かな汗をにじませた。


「蘇我足人、遅かったな」

フツヌシが低く、ほとんど唸るような声で言う。彼は強靭な体躯を持ち、まるで人の姿を借りた獣のような獰猛さだ。一方、タケミカヅチはやや背が高く、双子のように酷似した相貌ながら、どこか冷淡な光を宿す瞳をしていた。


「いえ、平にご容赦を。ご両名にはぜひ、星の里の制圧に協力を賜りたいと考えております。あのまつろわぬ民を一掃するには、並みの兵力では足りません。お二方の武力を存分に振るっていただければ、ことは容易に運ぶでしょう」


タリヒトはへりくだった口調で言いながらも、腹の底では別の計算を巡らせている。二柱を煽ることで、思い切り星の里に攻め込ませ、自分の計略で首長や主要人物を捕らえてしまえばいい。その後、戦果は“蘇我足人が主導した”という形にできれば、最大の栄誉を得られるに違いない。


「ふん。さっさと出陣させろ。俺たちを退屈な会議に縛りつけるな」

苛立ちを隠さないフツヌシが、拳を握って床を小さく打った。タケミカヅチも軽く顎を引きながら、低く囁く。


「星の民とやらの血の味を、もう一度拝んでみたいものだ。前に少しばかり手を合わせたが、あれでもまだ生き延びているとは……しぶとい連中よ」


神々しいはずの神名を持つ二人の武将は、もはや人が持ち得ないほどの力を誇りながらも、戦に飢えた獣のごとく苛烈だ。タリヒトは表向き穏やかな笑みを作りつつ、内心でその獰猛さを利用しようと算段を固める。


「もちろん、早晩には大軍を動かす段取りとなりましょう。陛下(仁徳天皇)のご判断もすでに頂いております。だが、その前に少々、地固めが必要かと。星の民を孤立無援にしてから叩くのが最も効果的。お二方の貴重な武力を、より確実に活かすためでもあります」


「何だと? 回りくどいことをしろというのか?」

フツヌシが不機嫌そうに眉を吊り上げる。タリヒトは、相手を刺激しすぎない程度に言葉を選んだ。


「いえ、いかにあの里が荒狭やカガセオら武勇に長けた人物を抱えていようと、所詮は辺境の小勢力。猛攻を仕掛ければ踏み潰せましょう。しかし、奴らは飛騨の両面宿儺とも通じているという話があります。あれはただの豪族ではありません。いくつもの豪族や山賊をまとめあげ、並外れた戦闘力を誇っているとか。二方向から挟み撃ちにされれば、さすがにわが軍も消耗が大きくなる」


両面宿儺――その名を聞いて、タリヒト自身にも苦い思い出がちらつく。かつて仕留め損ね、長い間しつこく追いかけたというのに、終局まで討ち取りきれなかった屈辱がある。そもそも、星の里が宿儺を匿ったという事実も、彼の怒りを買っていた。


「よって、まずは近隣豪族を懐柔し、星の里へ物資を送っているルートを断ち切っておくのが得策です。小さな結びつきでも、彼らが糧を得られないようにしてしまえば、飢えと恐怖で自滅していくでしょう。……人は腹が減ると、誇りなど簡単に捨てるものです」


そこで初めて、フツヌシが唇に獰猛な笑みを浮かべた。「なるほど。腹を空かせて弱ったところを、一息に叩くというわけか」


「ええ。さらに、星の里の外にも潜ませた兵や忍びを使って偽情報を流します。以前も荒狭を欺き、里の防壁を崩したことがありますが、同じ手を使うなら、今度はより大きな罠を仕掛けられましょう」


フツヌシとタケミカヅチが顔を見合わせ、「それで? 俺たちの出番はいつだ?」と問う。タリヒトは自信満々に微笑む。


「星の民が焦りと飢えで追い詰められたら、あるいは飛騨の宿儺がこちらからの攻撃を嫌って動いたら――そのときこそお二方に出陣いただく。戦場を猛威で蹂躙し、一気に星の里を灰にする。これで完遂です。私が責任をもって、蘇我氏の軍勢も並行して動かしますので」


部屋の薄暗がりを切り裂くように、フツヌシが笑い声を立てる。

「よかろう。退屈するのも嫌だが、準備が整うなら、思う存分に暴れさせてもらうとしよう。今度こそ、奴らを根絶やしにしてやる」


タケミカヅチも片唇を吊り上げて笑う。「ああ、今度こそ生かしてはおかぬ。星神とやらがどれほどのものか、血と炎の中で思い知るがいい」


朝廷の“武神”と呼ばれる二柱が苛烈な闘志を露わにし、蘇我足人はその光景を満足げに眺めた。彼の胸中には、これほどの力を動かせるのは自分だけ”という優越感が膨らんでいる。今や皇族の信用も手にし、フツヌシとタケミカヅチをも従える形となれば、星の民など一溜まりもあるまい――そう確信していた。


「では、近々にも軍議を開きましょう。星の民と両面宿儺を一度に叩くべく、各地の豪族を脅し、あるいは金や官位で釣り、奴らを孤立させるのは私の得意分野です。賢明な豪族であれば朝廷の威光に従わぬはずがない。誰であれ、逆らう者には容赦なく刃を向けるまでです。――フツヌシ殿、タケミカヅチ殿、存分に暴れましょう」


タリヒトの瞳が妖しく瞬く。広間の空気が、まるで血の香りを孕んでいるように感じられた。


そして彼は思う。もう一度、あの星の里を焼き尽くしてやる。 あの時は取り逃がした連中も、今回は絶対に逃がさない。父母を失ったカガセオがいかに抵抗しようと、荒狭がどれほど血を吐こうと、容赦なく踏みにじり、誇り高き巫女や戦士たちをも屠り去ってやるのだ、と。


こうして、朝廷軍の凶刃が再び星の里へと向かうべく動き出す。

古の武神たちの猛威を携え、そして蘇我足人という策士の冷徹な計略を携えて。


星の民は何を失い、何を守るのか――。 その答えを握るかのように、タリヒトの笑みは果てしなく深い闇を帯びていた。


やがて、彼は次なる段取りを急ぐため、後ろに控えた近習に声をかける。

「行くぞ。我らが力を存分に振るうために、近隣の豪族たちへ手を回さねばならん。反抗する者がいれば、容赦なく潰す。従う者には多少の恵みを与える。それが一番手っ取り早いからな」


こうして、朝廷の大軍は確実に、星の民と両面宿儺を狙う牙を研ぎ澄まし始める。すでに幾つもの周辺豪族が朝廷へ寝返りつつあるという報告も、タリヒトの手元には届いていた。里を孤立させる策は着々と進行し、暗雲はじわじわと星の里に押し寄せようとしている。


遥か遠い尾張の地で、まだその事実を知らぬ星の民。彼らにとって、真の危機はまだ始まったばかりだった。


――遠ざかる廊下の先で、蘇我足人の靴音が乾いた床を打ち、そのたびに彼の野心が響き渡っているように思えた。やがて廊下の角を曲がりきったとき、風が吹き込み、掛けられていた幔幕をひと際大きく揺らしては、静寂の境内に絡む。まるで、大きな嵐の前触れを告げるかのごとく。


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