プロローグ ―星の導き―
古墳時代仁徳天皇期(約1600年前)の歴史ファンタジー!
まだ神々が人と混じり合っていた頃。
日本書紀では悪神として描かれている“天香香背男”と“両面宿儺”は、
本当は領民を守る豪族だった?
圧倒的な朝廷の力に立ち向かう星の民の星神信仰、
そして一振りの神剣が導く運命――
豪族たちの誇りを賭けた抗戦は、はたして勝機があるのか――
歴史に埋もれ忘れ去られた壮大なる物語が今、開幕する。
岩肌が湿り気を含んだ冷たい空気に包まれている。奥深い山中にある、星の民が古くから“岩室”と呼ぶ洞窟。星見はその岩室の中央に静かに座していた。洞窟の天井には無数の星座が描かれており、ところどころに錆びた釘が突き立っている。その釘と足下に結わえつけられた麻糸が微かに揺れ、かすかな音を立てた。
一つ、また一つ。星見は小柄な体を伸ばし、天井の星座にそっと釘を打ち足していく。硬い石の表面に金属が当たる軽やかな金属音が、洞窟の静寂を切り裂いた。
釘を打ち終えると、今度は麻糸の端を丁寧に掴み、膝もとへと導く。糸が地面すれすれまで伸びたところで、星見は両手を合わせ、祈りの声を小さく上げる。声というよりは、深い吐息と囁きに近い。岩壁に反響する淡い音が、星見の鼓動と同調しているかのようだった。
「星神よ……どうか、そのお声をお聞かせください」。
その瞳は闇の奥に溶け込んでしまいそうなほど深く、そして揺らめいている。星見は星の民に代々伝わる儀式のひとつ、“星の言葉”を読み解くための祈祷を行っていた。天井に刻まれた星々の位置を、麻糸と釘によって「繋ぐ」ことで、星の運行を微かに留める――そう信じられてきた古の術式だ。
やがて、星見の呼吸が不意に乱れた。瞳の奥に閃光のような像が走り、彼女は苦しげに眉をひそめる。まるで天空そのものが悲鳴を上げているかのような、不穏な気配が意識の底へと広がっていく。
「これは……朝廷の影……」
星見の脳裏には、燃え盛る火の手と血の色がまざまざと浮かび上がった。かつて、この星の里を蹂躙した大和朝廷の兵たち――あの忌まわしい光景が再び迫っている。
「星見」
洞窟の入り口から聞こえた声は、どこか低く落ち着きがある。星見は瞼を閉じ、軽く深呼吸をしてから振り返った。そこには、里の首長である天香香背男の姿がある。岩壁の反射で彼の横顔だけが照らされている。逞しい体躯をしているが、その瞳にはどこか陰りが漂っていた。
「カガセオ様……来てくださったのですね」
星見は小さく頭を垂れた。カガセオは儀式の邪魔をしないよう、洞窟の奥までは踏み込まず、静かに立ち尽くしている。その姿は不思議と落ち着きと威厳を感じさせるが、一方で深い疲労を帯びてもいた。
「予兆があったのか」
カガセオの声は穏やかでありながら、星見が抱える何かを察するように、微かに強張っていた。星見は躊躇いながらも、打ち明ける決意を固めたように口を開く。
「はい……星々が、再び朝廷の軍勢が迫ってくると告げています。先の大侵攻で懲りたはずの彼らが、再度この里を狙う気配を感じるのです」
星見の視線は、洞窟の天井に描かれた星々へ吸い寄せられている。紙一重の差で何かが狂えば、先の侵攻の二の舞だ――そう思うだけで、胸が苦しくなる。
カガセオはわずかに表情を曇らせた。洞窟の外から微かに吹き込んでくる夜風が、彼の長い前髪を揺らす。
「……やはりな。星神が我らを守ってきたとはいえ、朝廷の力は増すばかりだ。いつまでもこのままでいられるとは思えない」
「ですが、私たちは星神に守られて……」
星見の声は震えを帯びていた。それを聞きながら、カガセオはそっと目を伏せる。彼の胸の奥には、かつての惨劇の記憶が生々しく残っていた。
「俺は父も母も、妹も守れなかった。いや、荒狭の妻子だって、朝廷に殺されている……。みんな星の加護を信じていたのに、それでも失われた命は戻らない」
悔恨と苦痛が、カガセオの声を重くさせる。星見もまた、胸を締めつけられる思いを噛み締めていた。あのとき、もっと早く未来視の力を使いこなせていれば、もっと多くを救えたかもしれないと。
洞窟の闇が深まる中、カガセオは星見へと視線を向けた。その瞳には、再び決意の光が宿っている。
「星見、俺たちは今も生きている。そうだろう? 星神が我らを見放さなかった証とも言える。だが――」
「だが……?」
「朝廷の脅威は、星神だけに頼って防ぎきれるものではない。俺たちだけで支え合ってきた里に、そろそろ限界が近いのかもしれない。次の侵攻が来れば、多くの血が流れることになるだろう」
カガセオの声が洞窟内に低く響き、星見は眉を寄せる。いつか来るかもしれないと感じていた事態が、こうして明確な言葉となると、改めて恐怖が胸を突き上げてきた。
「それでも、カガセオ様……私たちは星の民です。星神への祈りさえ続けていれば、未来への道はきっと開かれます」
星見は必死にそう言ったが、その声音からは自信が揺らいでいるのが見て取れた。カガセオは穏やかに星見の肩へ手を置く。少しだけ強く、しかし優しい力。いつも無言で彼女を支えてきたその大きな手が、今は熱をもって彼女の不安を受け止めているようだった。
「おまえは星を読む巫女だ。おまえの導きが、この里にとってかけがえのない力となる。だが、どの道を選ぶかは、俺自身が決めねばならない。星見、おまえも悔いることのないよう、思うままに俺を導いてくれ」
星見はカガセオの言葉に涙がにじみそうになるのをこらえながら、かすかに頷いた。ひんやりとした洞窟の空気の中で、二人の体温だけが確かに溶け合っている。
突如として、洞窟の外から吹き込む風が一際強くなり、麻糸がはためいた。岩室の天井に穿たれた釘がカタカタと小刻みに揺れ、星見は思わず視線を戻す。星座の模様が歪み、まるで天が乱れるかのような錯覚さえ生まれる。
「星見、その星の導きが告げるのはいつ頃だ?」
「定かではありません。ですが、遠くないうちに、きっと。ここ数日の星々の乱れ方は尋常ではありません。もしかすれば、明日にも――」
「そうか……もう時間はないということか」
カガセオは苦悩を押し殺したような硬い表情を見せる。だが、そのまなざしの奥にはまだ希望の光が灯っている。彼はゆっくりと息を吐き、一度だけ拳を握り込んだ。
「俺たちは、星の民だ。誇りは捨てずに、この里を守り抜く。けれど、もし――もしそれができないときは……」
星見はもう一度、天井を見上げた。星神の象徴である三神――天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神。そのおおもとに連なる星の力がどこまで里を守ってくれるのか、不安と信頼がせめぎ合う。
「大丈夫です、カガセオ様。星神は、きっと私たちを見捨てません」
自分に言い聞かせるかのような言葉が、岩壁に反響する。
カガセオは星見の言葉をしばし噛みしめ、やがて「そうだな」と短く答えた。そして、洞窟の出口へと向かう足を進める。彼の後ろ姿には、ある種の決意が宿っていた。
星見は再び釘の打たれた天井を見上げる。まるで夜空が凝縮されたかのようなその星座の向こうには、一筋の光があるのだろうか。
「星よ、私たちをどうかお導きください。
再び血を流さずに済む方法があるのなら……」
彼女の祈りは、星座と結ばれた糸を伝い、遙か古の神々へと届いているに違いない。だが星見の胸には、拭いきれない不安がいまだ暗い影を落としていた。星神の加護を信じるがゆえにこそ、今回の予兆がいつになく恐ろしいものに感じられるのだ。
星見は深く息を吸い、吐き出す。朝廷は再び来る――その真実を自分以外の里の者たちが知れば、再び悲劇が繰り返されはしないか。
ドッ、と外で誰かが焚き火の薪をくべる音が響いた。里の人々が朝を待たずに夜警をしているのだろう。星見はゆっくりと立ち上がり、岩室の外へ向かう。カガセオと話を続けなくてはならない。今後の方策について、そして星の啓示をどう活かすか。
洞窟を出た瞬間、夜空が大きく広がり、無数の星が瞬いているのが目に飛び込んでくる。空気はひときわ冷たく、星々が研ぎ澄まされた刃のように光っている。
「この星々が、いつまでも私たちの味方でいてくれますように――。」
そう願わずにはいられない夜の幕開けだった。やがて、遠くの空に微かに揺れる赤い星に、星見は胸騒ぎを覚えながら、そっと唇を噛んだ。