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首吊り縄からの景色

作者: 雉白書屋

 夜。とある部屋。そこはその男の身体から漏れ出たのではないかと思うほどに陰鬱な空気で満たされていた。

 表情筋は死んで、いや、身体そのものが生命活動を放棄しているかのよう。では、漂うこの臭いは腐臭か。もし、死神がいるのなら嗅ぎつけ、そしてこう囁くだろう。


『さあ、早く首を吊れ』


 言われなくともそうするつもりだった。彼は椅子の上に立つと、首吊り縄に手をかけた。


 ――えっ


 すると彼は驚いた。その輪っかからは当然、向こうにあるこの部屋の黒いカーテンが見えるはず。

 なのに、目に映ったのは


「じ、地獄……? う、うおっ、と、と……」


 彼は驚き、椅子から足を踏み外しそうになった。

 縄を強く掴んでバランスを取り、フッーと息を吐く。

 いったい今のはどういうことだ。……いや、ただの幻覚。鬱病。自律神経失調症。食欲不振睡眠障害その他諸々と、これまで幻覚は見たことはなかったが条件は揃っているだろう。死の恐怖を前に一瞬それが見えてもおかしくは……


「地獄だ……」


 一瞬ではなかった。その輪っかの中には、はっきりと地獄の景色が映し出されているのだ。

 そこはまるで火山地帯のようであった。倒れ、焼け死んでいるのは罪人か。……と、思いきや今、動いた。生きている。いや、死んではいるのか。とにかく悶え苦しんでいる。まさに地獄の苦しみ。などと笑えない。地獄とはこれだけではないだろう。他にも堕ちた者を苦しめるものが色々と用意されているに違いない……。

 そう考えた彼はブルッと震え下を向いた。これはいったいどういうことなのだろうか。いや、どうもこうもない。おれは死を恐れているのだ。だからこんな幻覚を見ている。だが、それがなんだ。現世もまた地獄。引きこもり、体力不足で自殺の準備をするのにも息が上がる始末。いまさら生きることなど……しかし、もし幻覚でないとすればこれは……


「ん?」


 顔を逸らした彼がまた輪っかを覗き込んだときであった。地獄の光景。赤と黒。その端に似つかわしくない色があるではないか。白と青。ほっそり見えるそれは……


「天国……?」


 目を細め見るとそれは間違いなく天国であった。次いで、顔を寄せれば幽かに花と太陽の匂い。尤も、嗅ぎとれたそのほとんどは地獄での肉が焼けるような臭いであったが。


 幻覚じゃないとすれば、今このまま死ねば地獄行き確定ということだろうか。

 と、これまでを振り返ってみれば、確かに自分は良い人間とは言えない。そもそも、良い人間なら自殺するしかないという状況に陥るまでに友人など周りの人間から手を差し伸べられるだろう。

 友人はいない。家族もいない。あるのは借金。事業に失敗や派手に遊んだとかではなく、要領が悪く、仕事クビになったり体を壊して辞めたりを繰り返し、生活のためにという地味な借金だ。

 だが、刑務所に入ったことどころか警察のお世話になったこともない。自分より悪人などはたくさんいるのにどうして……と彼は嘆いた。

 そしてはっと気づいた。いや、だから天国行きのチャンスもあるということか……と。彼はまさに一筋の光。僅かに見える天国を前に、そう解釈した。

 つまり善い行いをすれば天国に。このまま死ねば地獄に。

 試す価値はあるかもしれない。

 彼は椅子から降りると冷蔵庫の片隅にあった乾燥し、固まった食パンを水道水で喉の奥に流し込み、外に出た。

 深夜だ。できることは限られているが、空き缶、ゴミ拾いに精を出す。首吊りの準備をしているときにも感じたが、目的をもって体を動かすのは気分がいい。

 尤も、体力的にそう長くは続かず、家に戻ってきた。

 ふっーと息をつく。悪い気はしない。そしてまた輪っかを覗き込んだ。


「お、増えている……か?」


 先程のが二パーセントだとすると今は四パーセントくらいか。輪の中の天国の割合が僅かだが増えているように見えた。


 だが、自分でも何だが、あの程度で……と、彼は思ったが、もしかしたら天国と地獄どちらに行くかは自分の精神性にかかっているのではないか。天界から神や天使が善行、悪行をカウントしているのではなく、人間の、自分の心の清潔さによって決まるのではないのだろうか。

 もしくは自分は今、絶妙なバランスにいるのか。わからないが、やることは決まった。



「い、いらっしゃいませ……」


 か細い声。ひきつった笑み。緊張で湿る脇の下と背中。苦しい、怖い。しかし、あの地獄よりはマシだ。どちらの? どちらでも。

 まずは小さなことから少しずつと始めたスーパーのアルバイト。存外、気分が良かった。他のパートや店長からはあの人、大丈夫だろうか……と、訝しがるような顔をされてはいたが精一杯愛想を振りまいた。なので、少しずつだが客を含め、周りからの評判は良くなっていった。部屋も片付けた。借金もいずれ清算するつもりだ。酒も遊びもしないのでそう難しくはないだろう。

 早寝早起き。体操に散歩に読書に植物を愛でるのが今の趣味。それもこれも全て天国に行くためである。

 首吊り縄は部屋にそのまま残してある。戒めであり、時折、貯金箱を覗くように見ると、増えているその天国の割合に微笑む。

 そして、ある日。その時はきた。 

 輪っかの中を覗けばそこは一切の濁りなし。天国の光景それ一色であった。


「……しかし、男は友人にも恵まれ、もう自殺の意思はなく、首吊り縄を片付けるのであった……と月並みな話。ふふっ、おれらしい、平凡極まる人生。だが、それでよかったんだなぁ」


 彼は自嘲気味に笑った。そう、天国に行きたいその一心で行動していた彼の心は長い歳月、いつの間にか穏やかになり、自殺の念は消え失せていたのだ。


 が……。



「……ん? なんだ? ボロボロで……」


 遠くに見える、天国に似つかわしくない貧相な身なりのその者はヨタヨタと何かに怯えているように後ろを振り返りながらこちらに向かって来ていた。彼は目を凝らし、見つめる。老人。なにかを叫んでいるようだった。彼との距離が縮まるにつれ、その顔に浮かんだ恐怖の色が鮮明に見える。

 

「なにが、おい、なにがあったんだ。天国でそんな怪我を、あ、あ、あ」


 彼の目の前で倒れたその老人。そこへ無邪気な笑みを浮かべて群がる子供とそれに大人。それらはどう見ても暴力に歓喜しているようであった。


『ここは……天国では……』


「なにを、なにを言って、あ、が……が……」


 よく言葉を聞こうと前のめりになった彼。そう前のめりに。

 目の前に広がっていた天国は霧散し、今あるの殺風景な部屋。畳。畳。畳。畳の模様がハッキリと。視界はやがて暗く暗く……その時、思い浮かんだのは、虫が散るように消えた天国。その最後、一瞬だけ、遠くのほうで見えた一筋の黒煙。

 そしてなにか参考になるかも、といつか読んだ本。天国、地獄に関する内容。目を逸らしていたこと。


 自殺者は地獄行き。

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