項垂
「よおうなだれてるその兄ちゃん」
すぐ近くで若い男の声が聞こえた。誰かが絡まれているらしいが、しかし僕にはそれどころではなかった。
「あれ、ひょっとして日本人じゃなかったか? Hello?」
「はろ、うぇる。い、いや、あってるよ。日本人だ」
「そりゃよかった」ニカッと人懐っこい笑みを浮かべた。軽薄そうな見た目に反して幼い印象を受ける。
「ごめんだけど、僕がお金持ちの日本人観光客に見えて声をかけたんだと思うけど、でもそれは時間の無駄だよ」
僕は、両手を広げてみせた。入学式のために買った吊りのスーツをさらに着古している。新しいを買うお金もないし、学会のためだけに買うのももったいないからと先送りにしていたらとうとう院の卒業式まで同じもので出席することになりそうである。いや、このままでは、卒業式に出席することもないかもしれない。
「そもそもボクは、貧乏な大学生だ。研究室の予算で学会発表に来たから大した手持ちもないし、どころか、たったいま荷物を全部持っていかれて手持ちなんて本当にゼロなんだ」
「たった今知り合ったばかりの奴だけど、俺でよけりゃ話してくんない? 力になるぜ。いったいどんなことがあった?」見てみれば、男の身なりは悪くない。物乞いや追剥には見えなかった。高そうなチャイナ服風のシャツを若者らしく着くずしている。丸眼鏡もよく磨きこまれていて場違いだ。
「どんなことって言われても、バカな話だよ。
片言の英語で道を聞かれて、僕はこの辺の人間じゃないって言ったのに粘るから地図を一緒に見てあげたんだよ。で、気がついて見たら僕が持ってるのは、ほら、この地図だけってわけ。聞いてきた女の人もどっか行くし」
「そりゃひっでえ話だ兄弟」男は肩を抱いてきた。なれなれしい。「道を聞いてきたやつもグルだなそりゃ」
「そうだろうね」なんてありふれた手口に引っかかってしまったんだろうか。「自分が情けないよ」
「なあ、その地図、空港前駅の改札前においてある奴だよな」
「そうなのか」確かに見覚えがある。そういえばこの町に入ってから中国語が入ってない地図を見たのはあそこだけだ。
「ここから空港前って近くないんだよな。地元の奴が駅に入って地図だけもらって帰ると目立つんだぜ」
「じゃあ空港前から追いかけてきたのか?」
「いやいや兄弟。縄張りってのがある。ここらいっとう治安がいいホテルのごみ捨て場にいこう。そこがこいつらの縄張りさ。
兄ちゃんもシャンティ・ホテルにお泊まりさんだろ?」
ごみ捨て場には。確かに、僕の発表資料が詰まったスーツケースが置き去りにされていた。
「助かったよ。資料と身分証があれば何とかなりそう、まぁ財布は全滅だけど」
「はっはー高い授業料だったな。これをやるから元気を出しな」
彼の指先には白い薬包が挟まれていた。
「観光客にゃ人気の上物よ。この辺に来たならこいつはお目当ての一つだろ?」
もはや日本であらゆる薬物は違法であり、国際社会の目も年々厳しくなっている。しかし、この町では違う。伝統的漢方薬はその文化的価値から規制を免れていた。先進国の観光客が―これはここの都市部からの客を含むが-超解放的な薬を求めてここを訪れる。
「客室でひとりで、こっそりキメろよ。人様に迷惑かけないようにな」
「でも、言った通り財布がなくて」
「金ならまた今度でいいさ」