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梅干し

即興小説トレーニング様はサービスを終了なさっておりましたので、これはシンプルに 梅干し をお題にもらって書いただけのものです(構想執筆六時間くらい)


 覚悟して開けた床下収納からは、泥まみれの甕があらわれた。

 新生児一人くらいならすっぽり入りそうな、床下収納に入るぎりぎりの大きさの、古びた甕だった。


「かわいそうに……」


 横から覗き込んだ母が両手を合わせ、甕のために祈り始める。

 昔はバリ島へシンギングボウル留学までしたひとだから、甕の中身の鎮魂にも余念がない。まるで怪談だ。


 どうやって汚れた甕を取り出そうか、悩んでいたのがばかばかしくなる。私はまずポケットからスマホを取り出して、ぱしゃぱしゃ写真を撮った。

 スマホと手首をぐるぐる回して、いろんな方向から、続いてアップでも撮る私へ、母は非難のまなざしを向けた。

 母にとって私は、いつも冷たい娘らしい。

 私だって泥だらけの甕を抱きしめてわんわん泣いてみたい気持ちが無いではないが、有休は有限だから有休というのであって、夕方にはまた県外のマンションに母を連れ帰り、留守居の祖母へ報告をしなければならない。明日からの水・木・金の三日間で、母だけでもなんとか手続きをすすめられるよう下準備をするのが、娘の責務だった。


 私はスマホをしまいこみ、ゴム手袋をはめなおした。さきに、甕の周りを埋めていたどろどろの除湿剤や砂糖のビニール袋をかきだすように取り出す。そのままゴミ袋へ。こういったゴミも被災ゴミに分類されるが、分別としては生活ごみ同様となる。

 『自宅が被災したら』という手引き書のPDFは昨晩、祖母と母を寝かしつけたあと既に確認している。


「お母さん、金庫開けて見てきて」


 中の通帳、権利書、証書その他もろもろは避難の際に回収してあるが、納戸や倉庫の鍵はそのまま中にあるはずだ。母を金庫へ追い払い、私は全身の力をこめて、やっとのことで甕を床へ取り出した。くぐもった接地音。

 中身は梅干しだ。



 『カリフォルニアから来た娘』という言葉がある。臨終の近い患者とその家族の前に突然あらわれて、医療方針にケチをつけて引っかき回す厄介者をさす言葉だ。

 もとは医療業界の言葉だそうだが、医療現場のみならず、相続や不動産売買、保険業界などでも幅広く応用できる概念と言える。

 それでいけば、私もカリフォルニアから駆け付けた口だ。昨日、洪水被害にあった実家から年寄りふたりを回収するため、午後休をとって三つ離れた県から駆け付けた。土砂崩れの心配がなくなるまで、しばらく同居することはもう決まっている。



 家族という一つの小さな社会、あるいは一匹の大きな生命体の臨終に際し、最大限敬意をはらえるなら、私だって気持ちがいい。けれど私だって仕事があるし、生活がある。


 私はつづけて床下収納庫のねじを外して、まるごと床から抜き去る。床下は浅く水でひたっていて、メジャーを伸ばして突いてみると、水深は五センチくらいと分かった。



 鍵を持って帰って来た母へ、私はその下水独特の臭気が上がってくる床下を指さしてみせた。


「業者入れて汲みだしてもらおう」

「勝手に抜けるんじゃない?」

「本気で言ってる? これ以上は抜けないからいま残ってるんじゃないの?」

 けれど母は煮え切らない。

「じゃ、二人ですくう?」

「ねえ、業者入れようって言ってるじゃん」

 昨日今日とで有休を1.5日とるのだって大変だったのに、どれほどかかるかもわからない作業に時間をついやせない。

「でも何十万円もかかるらしいし……」

「無理だよ」

 手引きによれば、床下浸水の際には水と泥をすくいだし、高圧洗浄機で清掃の上消毒しなくてはならないのだという。女二人でなんとかなるとも思えない。


 私はまたスマホと手首をぐるぐる回して、フラッシュ機能と懐中電灯とを駆使してなんとか床下の被害写真を撮影した。

 逆立ちするみたいに、穴に頭を突っ込んで、なにかよからぬものが流れ着いていないか、中をぐるりと照らして見渡す。

 顔を見ないですむタイミングだったから、顔をつっこんだまま、言う。


「マンションに引っ越したら。修繕費とかおばあちゃん向けにバリアフリーにリフォームすることとか考えたら、この家売って引っ越したほうがのちのち良いかも」

「分かってるよ」

 私のいらだった声と同じくらい、いらだった声で母が言い返す。

「あなたはドライすぎる。つめたい」

「じゃあ勝手にすれば」

 昔から、私がなんと言おうと、いつもいつもいつも勝手にする母である。ドライと言われようと一言言わずにはおけない私はよほどウェットな人間だと思うし、自己嫌悪の種でもある。


 私は身を起こして、庭へ向かった。

 床下の換気口のところにゴミがわだかまっているのを見つけ、それをどけると汚れた水がちょろちょろ流れ出す。ほうっておくとときどき、流れ込んだと思しい落ち葉がまた内側から水をせきとめるので、私は外からそれを取り除き、見張った。

 水がぬけるならそのままでもなんとかなるだろうか。それともやっぱり高圧洗浄は必要になるのだろうか。



 古い家だ。今後維持費が高くつく恐れがある。

 『カリフォルニアから来た娘』としては、午後休をとって車をとばし県外から駆けつけて、年寄りふたりを拾って身の回り品および貴重品を車に満載して避難しただけで、じゅうぶんやったと言えるはずだ。あとは勝手にすればいい……と思うとともに、虚脱感というか、疲労感というか、悲しみというか苦しさというか、とにかくいじけた気持ちが襲ってきて、汚れた川を見ながらうなだれる。



 梅干しのために祈られたのが、かなりこたえた。

 あれは認知症の祖母が最後に漬けた梅干しだ。おそらくそういうことだろうと思う。


 命と財産が守れたんだからいいじゃない。

 ふたりが荷物をまとめているあいだに、私は畳をあげたりカーテンを外したり、電化製品のコンセントを抜いて持ち上がるものは高いところにあげ、三和土にある靴箱は見捨てる決断までした。

 私だってスーパーマンじゃないんだから、存在も知らなかった床下の梅干しまでは救えない。それとも私が謝ればそれで気が済むのか……



 気持ちが落ち着くのを待って、私は室内に戻った。

 母は梅干しの壺の前にひざまずき、蓋を開けて中を覗き込んでいた。

 明かりをつけないままの薄暗いキッチンで、窓から射す青い光に、母の痩せた背が照らされており、骨壺でものぞきこんでいるようだ。

 私が母をほっとけないように、母だって祖母をほっとけないのだと、改めて悟る。

 母は心細げに私を見上げる。


「食べられるかも」

「お母さん、梅干しはもうだめだから。口まで汚れてなくても泥はねしてるかもしれないから」


 私は母をどかし、ごみ袋めがけて甕をひっくりかえす。何もかもこの手のひらですくえればいいのだが、しがない会社員の身分では、なにぶんそうもいかない。薄暗いキッチン、梅干しの酸っぱい匂い。私だってこんなことをやりたいわけではない。やってくれる人が他にいないからやるだけだ。


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