僕はビンボー道を極めて幸せになりました!
十
日本国内で純粋培養された日本人は思考停止に陥り、お金を払えば何でも買えると錯覚する。いや、現実の問題として、お金を払えば大概のモノは買えてしまう。
生まれた時から大量のモノに囲まれて育ってきた私たちは、資本主義の原理に染まり切っている。もちろん、私もそんな強欲資本主義に染まり切った日本人の一人であったが、途上国フィリピンでの過酷な生活を通じて、真っ当な人間に戻ったのである。
フィリピンでは、旧世代の三種の神器であるテレビと洗濯機、冷蔵庫のない生活を送っていた。途上国の山岳地底で何よりも苦心したのは、手洗い洗濯であった。平日は州政府に勤務しているので洗濯物を手で洗う時間が確保できない。いや、洗濯物を手で洗う時間はあるが、帰宅してから手洗い洗濯を始めると、夜間に洗濯物を干すことになり生渇きになってしまうのだ。その点を考慮して、週末に一週間分の洗濯物をまとめて手洗いすることになるのだが、手洗い洗濯は時間がかかるのである。また手洗いの洗濯をすると、手や腕、腰などに負担がかかり筋肉痛になる。洗濯機というのは実に便利で洗濯物を放り込めば、洗濯から水切りまで自動でやってくれる。しかも、最近の洗濯機は省エネとくるから脱帽である。フィリピン人がなけなしの金をはたいて、洗濯機を購入しようとする気持ちがよく分かる。
晴れた休日の半日(午前中)を費やして、大量の洗濯物を手洗いしていると、日本人が当たり前のように所有しているモノの価値を再認識せざるを得ない。洗濯機はやはり便利で、ありがたい存在である。私たちは、洗濯機で時間を買っているのだ。
こういう途上国での原始的体験、ある種の不便益の世界に一度どっぷりと浸かってしまうと、モノに対する感謝の念が起こり、モノに対する感度も高まって、とにかくモノを大切にしようという気持ちが前面に出てくる。
私は靴を履きつぶすタイプの人間だが、靴の底や側面に穴が開いても「まだ履ける、まだ歩ける、まだイケてる!」のもったいない精神でひたすらボロボロの靴を履き続けた結果、ボロボロの靴がいつの間にか、草履のように変形ないし劣化してしまうのだが、その時になってやっと「そろそろ靴を履き替えるかな」という、もはや仏の悟りにも似た物欲の無さでもって靴屋に行くのである。




