何も分からない
黄昏時を過ぎた公園に人影はなく、自動販売機でホットカフェオレを買いブランコに──いや、ベンチに腰をかけた。
暖かく甘いカフェオレを飲む。冷えた体を温め、心を落ち着かせていった。
徐々に日が落ちていき、街灯がぼぅっとつき始めた。空き缶を自動販売機の側にあるゴミ箱に捨てる。
すっかり暗くなってしまった公園に別れを告げると、帰路につく。
「嘘でしょ」
しかし玄関を前にした時、財布がない事に気がつく。鍵は財布の中に閉まってある。家は暗く、無人だと察した。スマートフォンで時刻を確認すると、門限は過ぎている。
二時間前に受信された両親からのメールを開き、胸を撫で下ろす。どうやら、今日はふたりとも帰ってこないそう。
明かりのない家を見れば、無駄に焦る必要もなかった。スマートフォンをカバンに仕舞い、鼻を鳴らす。
──阿呆らしい。
会社に泊まる、なんてきっと嘘だ。ふたりとも他に帰る場所があるのだ。
前に小遣いを頂戴した時、母の財布にはホテルのレシートがあった。酔って帰宅した父のスーツからは可憐なハンカチが落ちてきた。
仕事帰りの両親は、たまに、違う香りがする。
無性に腹が立つ。いっそ離婚をすればいい。板挟みになる子どもの苦しさを、なぜ想像出来ないのだろう?
「まぁ、もうどうでもいいや」
わざとらしくため息をつく。足音を鳴らしながら、公園へ向かった。
しかし花壇がうっすら見えた辺りで、歩みを止める。
声が聞こえたからだ。
目を凝らせば、確かに人影を確認出来た。公園の奥で話している。どうやらふたりの、女性のようだ。
内容までは聞こえないが、和やかな雰囲気ではない。刺々しい声が、お互いを傷付けている。
両親の夫婦喧嘩にそっくりだった。
心臓が震えるような感覚を覚える。足元から虚しさが込み上げるような不快感。
それらは、吐き気と変わり愛海を苦しめる。が、財布を諦めるわけにも行かない。今度からキーケースを持ち歩くことを決意しつつ、女性達に気づかれないよう公園に入った。
財布があるベンチはすぐ入口のすぐそばだ。奥で話している女性達には気づかれないだろう。
ベンチに視線を移し財布の位置を確認した後、女性達に視線を戻す。
足音を立てないようにゆっくり近づく。一歩一歩、確かに足を運ぶ。
そして、あと一歩で財布に手が届く──届いた!
中を確かめるとろくに見えないが、鍵の感触が指に伝わった。カフェオレを飲んだ時と同じ息が漏れる。
財布をカバンに仕舞うと、もう一度女性達を見た。
「──!」
愛海は息を呑む。嫌な汗が全身から吹き出した。
ひとりはかおるだった。明確に顔が見えた訳では無い。それでも分かってしまう。今朝と同じ服装だった。
しかし、もうひとりの女性は今朝ホームで見た人とは違った。身長はかおるよりも少し高く、ゆるく巻かれた長髪だ。細身という訳では無いが、肉が余っているようには見えない。
「言いたいことがあるならハッキリ言いなさいよ」
長髪の女性が低い声で言った。
かおるはおでこに手を当て、心底どうでもいいように「だから言ってるでしょうよ」と言い放つ。
「どこがハッキリしてるのよ」
「だから、少し距離を置こうって言ってるじゃん」
「どうして? 少しってどのくらいなの?」
「こうやって喧嘩をしなくなるまでだよ」
「したくてしてる訳じゃないでしょ」
「喧嘩したくないのに、話すだけで喧嘩になるんだから、距離を置いた方がお互いの為だよ」
「……もういいわ。話にならない!」
長髪の女性は苛立たしげに、頭を掻き立ち去る。
愛海には何も分からない。大人の会話だと悟った。女性に気づかれないよう、ベンチの影に隠れる。
残されたかおるは、おもむろに自動販売機で缶コーヒーを買うと、一気に流し込んだ。
自動販売機に照らされる缶コーヒーは、いつものでは無かった。
愛海は何故かとても悲しくなった。
かおるが痴話喧嘩していたのも、いつもとは違う缶コーヒーを飲んだことも、飲み終わったあと自動販売機のそばのゴミ箱を蹴ったことも、見たくなかった。
かおるが立ち去り、愛海も公園を去った。
自宅に帰ったあとも思考を停止し、淡々と日課をこなす。
公園に向かう時、愛海は何かを期待した。何を期待したのだろう。愛海にさえ分からない。しかし、それは愛海が期待したものでは無いことだけは確かだ。
夜中ベッドに潜った時、愛海は静かに泣いた。
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