無関心を装う、優しさがあった
今朝はいつもより少し早めに家を出た。
玄関を閉めると、内側から母親のいきり立つ声が聞こえてくる。外まで筒抜けだ。
みっともない声に背を向け、駆け足で公園へ向かった。
走るのは苦手だ。のんびり歩いていたい。しかし、それよりもかおるに会いたい気持ちが駆けていく。
寒さに当てられた耳や鼻が痛い。大した距離でもないのに喉がカラカラになった。
花壇の花が愛海の風で揺れる。公園にはやはり、かおるがいた。
激しい呼吸を整え、生唾を飲み込む。そして、自然にかおるへ近付いた。
ひとまず、かおるに昨日の無礼を謝るつもりだ。逃げるように去ってしまった。いい気分ではないだろう。
かおるの吐く息が白いことを認識するまえに、かおると視線が絡み合った。
「やあ、おはよう」
「おはようございます」
「昨日は悪かったね。変なことを言ってしまって」
かおるは指先で頬を掻きながら申し訳なさそうな声を出した。
しまった、と眉を下げる。先を越された。
「いえ、こちらそこごめんなさい」
「いいんだよ、今日は早いね」
「謝りたくて早く来ちゃいました」
「え? それは申し訳ないことをしたね。本当に気にしないで」
口では申し訳ないと言っているが、本当にそう思っているわけでは無さそうだ。だが、嫌味などは感じない。あっさりと、気にしないでと言えるほど余裕があるように感じた。
一呼吸置いたかおるは「そういや君の名前聞いてなかったね」と切り出す。
「あっ、まだ言ってませんでしたっけ」
「えー? どうだろ。聞いたかな?」
「分かんないですね……」
「嫌ならいいんだけど、呼び名があったほうが話しやすいじゃん?」
「それなら私のことは愛海って呼んでください」
「愛海ちゃんね」
「呼び捨てがいいな」
「愛海?」
「なんですか、かおるさん」
「呼び捨てがいいんだけど?」
「かおるさんは年上ですから」
「傷つくなぁ」
かおるはおどけながら、クスリと笑む。愛海もつられて笑った。
寒さを除けば朗らかな会話だ。
昨日のようにコーヒーを進めることは無かったが、かおるの片手にはやはり缶コーヒーが握られていた。
見ようによってはコーヒーではなく、アルコールにも見える。それがとても可笑しかった。
次の日も、その次の日も、二人の関係は続いた。毎日会うことは無かった。かおるが休みの日は公園に来ず、愛海も理解した。代わりに、愛海の学校が休みの土曜日と日曜日は公園には行かず勉強に専念する。
朝の少しの時間、公園で談笑する関係は、程よい距離感が心地よく、住宅街の安寧に感謝をした。
次は何を話そうと考える時間が楽しい。かおるとの距離も近付いた気がする。
かおるは以外にも、甘いものが好きらしい。コーヒーを飲むイメージが強く、甘いもののイメージは無かったから、とても驚いた。
それから、恋人は居るが一人暮らしらしい。同棲や結婚も考えていないという。
あとは、母親と縁を切ったらしい。かおるは時折、反応が遅くなる。それは、愛海にとって何気なく尋ねたものでも、かおるにとっては触れられたくないことなのだろう。
もちろん愛海にもそういうことはある。お互いが察し、掘り下げるような野暮はしない。
お互いに無関心を装う、優しさがあった。
三度目の金曜日。距離感を保つために、受験のために、明日からまた会えなくなる。
陰鬱を隠さず、公園を覗くとかおるは居ない。
──今日は休みか。金曜日なのに珍しい。
誰もいない公園のブランコに腰を掛けた。低すぎて漕ぐことは出来ないが、足を使いユラユラと揺さぶる。
そこは、いつも座るブランコの横にある。つまり、普段はかおるがいるブランコだ。
鎖は冷たく、板は少し湿っている。このひと月、とても楽しかった。あっという間だった。別れる時に、明日のことは聞かなくなった。なんとなく、答えるのをかおるが面倒くさがっているような気がしたからだ。
決して擦り寄ってこない、高貴な猫のような性格だと思った。
空にはねっとりとした薄黒い雲がかかっている。雪でも振りそうだ。
鼻から息を抜くと、立ち上がる。生徒の声はおろか、鳥の声さえ聞こえない。愛海は通学路に戻り、公園を後にした。
教室はたったひとつの話題で持ち切りだった。学年末テストだ。愛海の学校では私立学校の受験の直前に学年末テストが設けられている。
最後のテストなのだが、学生達の緊張感はそれほどでも無かった。
控える受験に向けて日々机に向かう学生達には、学年末テストなど岩を這う虫のように、指先でぷつりと潰してしまえる難易度だった。
それだけであれば、話題に持ち上がることはないのかもしれない。しかし、志望校にはすでに学生の情報が与えられおり、それが更新されることは無い。という噂が学生達を虜にしていたのだ。
愛海はただ、本を開きながら否応なしに耳をつんざく噂話を聞かされる。
頭中に浮かぶ文字から派生した情景が、くだらない噂話に塗り潰される。息が詰まるほど、嫌悪感を覚える空気が教室を、校舎を支配していた。
自宅も学校も、檻に思える。常に窮屈で、居場所がない。
どこに行っても疎外感を覚えてしまう。
そんな愛海が、一対一で話せるかおるに依存していくのは必然だった。




