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いやに艶やかに聞こえた


***


 翌朝のいつもの時間、今日は静かだったと胸を撫で下ろし、通学路を闊歩する。

 愛海の長髪に風が当たり、ふんわりとなびく。昨日の汚れた雪は見当たらなかった。

 もうすぐ、あの公園だ。住宅地にポツンとある、名前のない公園。彼女は、今日も、低いブランコに腰掛けていた。

 何と声をかけようかうろうろしていると、彼女が気づいてくれたようで、微笑んでくれた。

 目が合うと、心臓を掴まれたみたいで苦しい。逃げ出してしまいたいのに、体は彼女へと吸い寄せられる。


「昨日の大胆さはどこに行ったんだい?」

 

 彼女はイタズラっ子の笑みを浮かべる。昨夜の怪訝な表情からは想像もつかないほどだ。

 対して愛海は昨夜と同じように狼狽している。人見知りをするほど他人に興味が無かった愛海にとって、初めての人見知りだった。


「よ、夜だったし、急だったので……。すみません」


「謝ることじゃないよ。とりあえず座れば?」


 彼女に言われるまま、隣のブランコに腰を下ろし、両手の指をモジモジと動かす。

 ふと、彼女の長い指に目が行く。手にはいつもの青い缶コーヒーがあった。遠目からでは良く見えなかったが、真っ青の花のようなイラストで、後味スッキリと小さく書いてある。

 

「……いつも、それ飲んでますよね」


「まぁね、売れ残りだよ」


「お好きなんですか?」


「パッケージは好きだけど、中身なんてどれも同じだよ」


「そうなんですか?」


「飲んでみる?」


 そう言いながら、缶コーヒーを差し出した。亜美はコーヒーなんて飲んだことがない。両親は紅茶派なのだ。

 しかし、差し出されたものはなんとなく受け取ってしまうものの、両手のひらで転がした。手に余るとはこの事だろう。身を持って知った。


「どうしたの? コーヒー苦手?」


 見かけた彼女は、半ば申し訳なさそうに言う。


「いえ! 大丈夫です!」


 反射的に答えてしまった愛海は、勢いに任せてぐびぐびと生ぬるく苦いコーヒーを飲む。しかし、あまりの苦さにむせてしまった。

 これでは失礼だと思い、微妙な笑みを用意すると苦しまぎれに「お、おいしいです」と言った。


 下手くそな愛想笑いに眉毛は困ったような八の字になっている。

 その、表情を見た彼女は、「ぷっ」と吹き出すように笑った。声は次第に大きくなり、腹を抱えて笑い始める。

 どう反応するのが正解なのか分からず、彼女の笑いが治まるのを待った。

 しばらく笑った彼女は、ヒィヒィと喉がつったように笑いながら、呼吸を整えた。


「そんなに笑わなくたっていいじゃないですか」


「ごめんごめん。でも無理しなくていいのに」


「無理なんてしてません」


「むせてたじゃん」


「あれは、器官に入っちゃっただけです」


「それをむせるって言うんだって」


「……意地が悪いですよ」


「君が頑固なんですよ」


 彼女がそう言うと、ふたりはクスクスと笑い合う。

 心地よかった。昨夜知り合ったばかりだというのに、まるで姉妹のような自然体で居られる。愛海にとって、そんな関係は初めてだった。

 しかし、徐々に通学路が賑やかしくなっていく。朝の生徒の笑い声は、授業前のチャイムより不快にさせた。

 何故なら、それが密会のお開きだと、直感的に分かってしまったからだ。


「そろそろ行かないと遅れるんじゃない?」


「……そうですね」


「行っておいで」


「明日も来ますか?」


「どうかな。晴れたら来るかも」


「あの、最後に名前だけ教えてください」


「昨日のレシートに書いてあるよ。ほら、それ捨てるから」


 気だるそうに立ち上がり、愛海を見下ろしながら左手を差し出す。

 缶コーヒーを渡すように言っているのだろう。しかし、中身はまだ残っている。躊躇しながらも、愛海は彼女へ缶コーヒーを返した。

 受け取った彼女は、缶コーヒーを慣れた仕草で僅かに横に振ると、ちゃぷんと鳴った。


「なんだ、まだ残ってるじゃん」


 呟いたのと同時に、缶コーヒーは彼女の口に付けられる。

 それは、つい先程まで愛海の口に付けられたものだ。乾燥し、皮がめくれてしまっている哀れな唇が、冷たい缶に吸い付く。


──ドクン。


 心臓が強く、脈を打った。心臓が脈を打ったのだと思う。その音は鼓膜の奥から聞こえた。

 瞬間、汗が吹き出す。体が熱い。……いや、顔が熱いのだ。訳も分からず、彼女から目線を外した。

 ちゃぷん、こくん。

 聞こえるはずがない、彼女がコーヒーを飲み干す音まで聞こえた気がする。

 酷く困惑する。これは、愛海が今まで生きてきて感じたことのない感覚。


「ふぃー、美味しかった。あれ?」


 缶コーヒーを飲み干すと、愛海の異変に気がついたのだろう。すっかり俯き、耳を赤くしている。

 心配した彼女がしゃがみ、愛海の顔を覗き込む。

 視界の隅に彼女がいる。しかし、何故だか目を合わせられない。つい先程まで普通に会話をしていたというのに……。


「ちょっと、あんたどうしたの? 風邪?」


 彼女の冷えきった手が、愛海の額に付けられる。


「ち、違うと思います。ど、どうしてか分からないんですけど、なんか、恥ずかしくて……」


 そうだ、愛海は恥ずかしいのだ。火が出そうなほど、恥ずかしい。

 実際出たのは汗だったが。


「あぁ、これ? そういや昔あったなー、間接キスだっけ」


 いやに艶やかに聞こえた。愛海の鼓動が一段と強く脈打つ。心臓が跳ねたようにも思え、締め付けられたようにも思える。

 居ても立ってもいられなくなり、すっと立ち上がるとお辞儀をする。


「ああの! 失礼します!」


 そして立ち去った。

 愛海の背後で、彼女は目を丸くすると、またもやぷっと吹き出す。笑い声は再び公園へ訪れたが、愛海には聞こえなかった。

 愛海はただ羞恥に悶えていた。昨夜の出来事といい、先程の事いい、彼女と居ると冷静で居られなくなる。

 自分が話す言葉さえ分からなくなってしまう。

 経験した事のない、高揚感と羞恥心が交互に押し寄せた。

 受験を控えている学生には致命的な出会いなのは、間違いない。

 せめて、この出会いが受験後だったなら──そんな妄想をしてしまうほど、頭中の大半だった受験が、隅へと追いやられていた。

 授業中はおろか、日課である夕食後の勉強でさえ、手が付けられない。正確に言えば、問題は解ける。だが、どうしても彼女の顔がチラつく。もっと会って話をしたい、どこかへ出掛けたい。もっと彼女を知りたい。


──知りたい?


 ハッとする。愛海はまだ、彼女の名前すら知らない。

 そういえば、名前を聞いた時、彼女はなんと言った?


『あの、最後に名前だけ教えてください』


『昨日のレシートに書いてあるよ。ほら、それ捨てるから』


──レシート!


 レシートは財布に入れたはずだ。昨日のコートのポケットをまさぐる。

 あった。小銭とくしゃくしゃのレシートを広げ、名前を探した。

 担当者、茂野かおる。


「シゲノ、かおるさん」


 やっとの思いで知った彼女の名前。これで彼女──かおるについて知っている事がひとつ増えた。しかし、愛海が知っているのは、缶コーヒーのパッケージが好きな事と名前しかない。

 これでは、かおるを知っているとは言えない。ただの顔見知りだ。

 明日もかおるは来るだろうか。

 勉強は諦め、心を踊らせながら床についた。

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