低いすべり台とブランコがあるだけ
愛海の場合、夢から覚めるきっかけは、大まかに分けて三つある。
ひとつは目覚ましの音。この場合は心地良さは無いが、すんなりと起きる事が出来る。ひとつは部屋の外の音。多少の騒音は心地いいがあんまりにうるさいと起きるのが億劫になってしまう。
そして、両親の怒声。短気な母の金切り声か、ヒステリックな父の罵声のどちらかだ。良くもまあ朝から醜態を晒せるものだと感心する。
小さいうちは萎縮していたが、こうも毎日聞いているとすっかり慣れてしまった。今では野良犬の喧嘩のようだ。当人達は大真面目だろうが、傍から見ればくすりと笑ってしまうようなつまらない喧嘩。
一昨日はなんだっけ? パンにはマーガリンじゃなくバターにしろと父が言っていた。確か昨日は洗濯物を丸めるなと母が言っていた。
それじゃ今日はなんだろう。どうせくだらない事だ。両親は愛海の事など気にせず醜く喚き散らす。
普通の親なら子どもが寝ている早朝に喚き出したりしないだろう。愛海の両親は普通では無かった。
愛海は枕に頭を埋めて布団を深く被る。二度寝なんて出来るはずもなくソーシャルゲームにログインした。
ゲームをプレイしているとあっという間に時間が過ぎる。どんなに長時間プレイしていても体感的には五分に満たない。
両親は出勤したようで、部屋の外は随分静かになっている。愛海は重い体を起こし、部屋を出た。
自分の家なのに、疎外感に襲われる。家が、お前など不必要だと言っているようだ。
いや、違う。そう言っているのは家ではなく、実の両親だ。もっとも、彼らと真に血縁関係があるとは限らない。
リビングの机に嫌味なほどの達筆で〈今日の夕飯はこれで済ませるように〉と書かれた付箋と紙幣が置かれていた。
「昨日もそうだったよ」
愛海は自傷的に鼻を鳴らし、洗面鏡に向かい合う。
血縁関係が本当にあるのなら、こんな仕打ちはあんまりだ。どうして、自分はこんな風に生まれてしまったのだろう。
幾度となく思考を凝らして見ても答えなどあるわけもない。それでも繰り返してしまう。そうせずには居られない。
「……消えたい」
そんな切なる願いは叶うはずもなく、愛海はただ、鏡の瞳を撫でた。冷たい感触が指に伝わる。
触れた瞳から雫が漏れ、わずかな光ともに落ちていく。光の無いその瞳は灰色に輝いた。
家を出ると心地よい静寂の中を歩く。学校まで徒歩圏内の場所にわざわざ家を建てたらしい。
息が白く染まり、路脇に汚れてしまった雪が残っていた。
この通学路も、あと半時間ほど経てば、同じ制服を来た学生達で騒がしくなる。それが嫌で、愛海は少し早めに家を出るのだが、もうひとつ理由がある。
通学路に佇む小さな寂れた公園。低いすべり台とブランコがあるだけの場所だ。幼い子どもを連れた女性が何人かいるのを帰宅中によく見る。
その公園の、背の低いブランコに女性が座っている。公園に子どもは居ない。
女性はただ、いつも青い缶コーヒーを飲みながら空を見上げている。初めて見た時は、不審者かと思い随分と用心した。しかし、どの学生もあの女性を見たことがないらしく、特に話題に上がることも無かった。
静かな空気の中、たったひとりで佇む彼女は、背中の髪を無造作にまとめており、重い前髪から覗く瞳は、鏡に映る愛海の瞳によく似ていた。