騎士 ミハエル・フォン・ヴァレンロード (九)
5/13 もろもろ訂正やら変更やら。
「そ、そうか!! あれはガガナト!! ガガナトの魂をディディクトは取り込んでいたのか!!」
普段驚きを発しないケット・シーのニーモが驚愕の声をあげた。
ディディクトの人格になり代わって現れたものの正体に気がついたのだった。
突如として出現したガガナトはディディクトから奪った肉体への命令がうまくいかないのか、手を開いたり閉じたりして感触を確かめている。
さっき感じた懐かしいと思った気配は、グナクト・プロンゾの長男ガガナトのものだったのだ。どうりでかすかに記憶している程度だったわけだ。
ガガナトと次男ネネムタがディルツ騎士団によって拷問の末ひどい残虐な方法で処刑されたのはもう15年も前のことだ。
その時ニーモはまだ幼いミミクルを守ってほとんどを妖精界に潜んでいた。そのことを巫女ディレル・ピロンゾは知っていたが、逆にディレル以外にはまったく知られていなかった。ミミクルの家族であるガガナトのことは知ってはいたがまったく接触もなかったからそこまでたいした印象にも残っていなかったのだ。
たいした印象ではなかったとはいえ、それでも立派な戦士として血の通った人間だった。
それが、あの禍々しさはどうだ。
生きていた頃からいかにもグナクトの長男という風で下品で粗野な人間だったが、別物という表現ではすまされないほどの変質ぶりだ。殺された恨みからだろう完全に怨霊に成り果てている。いや、怨霊というレベルですらない。いうなれば、地獄のどん底に堕ちて穢れに染まりに染まって、そこから恨みのエネルギーでこの世に遡上してきたかのような、まさしく魔界の亡者というほかはない有様だった。魔界の穢れに心をただれさせ、恨みと憎しみを蔓延させるだけのものになってしまっていた。
ただ、そこに存在しているだけで世界を汚染する汚らわしいものに成り果ててしまっていたのだ。
「くッ、退避!」
もはや騎乗していた馬は狂乱状態にあって落ち着いて制御している場合ではなかった。あわてて馬から下り吹き付けるあの世の瘴気から盾で身を守りつつ退く。プロンゾバーサーカーの強襲にも落ち着いていた馬たちだったが、さすがにこの異常事態に興奮して逃げ出す。
ディルツ騎士団もなすすべがなく包囲を解く。
突如として現れた地獄の具現者に、ミハエルやノルベルト・グリモワール、ディルツ騎士団全員が気おされ対応に窮した。魔を払うのは魔法使い、神聖魔法を駆使するものか、もしくは天使などを召喚できる神職の出番だ。そうでなければ打つ手はない。
そして、もちろん、アルクスネ駐屯部隊に、魔法使いなど一人とていない。
誰もが盾で不浄の空気を防ぐので精一杯で、比較的遠巻きにしていた騎兵はおびえ興奮する馬をなんとか制御している様子だった。
「ガガナト!? あ、あれがガガ兄だというのかッ、ニーモ様!?」
おぞましさで顔を引きつらせつつ驚きでリリクルが叫ぶ。
ガガナトがまだ生きていた頃、リリクルはその時まだまだ幼い子供だった。よくはわからないが戦士として強く、頼もしい存在だった、と記憶している。ガガナト、ネネムタの死の報がもたらされたとき、一族の沈うつな様子はさすがに覚えている。自分の記憶には確かに粗野だったが、ぬくもりある肉親という思い出しかない。
あんな世を呪い、人を汚染させるものとは似ても似つかない。
「………しかし、間違いない。どれほど魂が穢れに堕ちても、そのものの特徴は残っている。あれは、………ガガナトだ」
「な、なんということだ………」
「こ、怖い、リリ姉………」
初めてみる魔界の亡者に、ミミクルがおびえる。
「誇りあるプロンゾ族長一族から、よもやあのような穢れた不浄魂を出してしまうとは………」
無念の思いで体が震える。
神々と日々ともにあるプロンゾはたとえどんな境遇にあろうと、たとえどんな人生を送ろうと死を迎えたからにはすべてを諦め、受け入れて神の下に召される、自分も神となって子孫を守る、という信仰がある。
偉大なる絶対神という信仰、死んで神の下に引きずり出されて審判を受ける、という信仰ではなく、死ねば自分も死んだ肉親やご先祖様のところにゆき、そして自分も神となる、すべての命はやがて神になる、という信仰をもつ。祖父から父へ、父から子へと命はつながれ、生きていることと神と、生命と神とは実はつながっているのであり、そこになんらの断絶も断裂もない、自分も神へと続くのだ、生と死は目には見えぬが連続のうちにあるのだ、という信仰を、プロンゾ人は子供のうちから自然と、なんとはなしに身につけてゆく。
楽天『ヴォールホン』に戦士は召されても、その気になったらいつでもこっちに帰ってくることができる、と信じている。この世とあの世は隔絶された別世界なのではなく、同時につながった連続の世界であり、こちらから見えなくとも、あちらからは見える、と信じている。
神々となられたご先祖様が常にそばにおわす、ご先祖様が常に自分たちを見ている、自分もやがてそのご先祖様の下へ参る、その考えが根底にあるから、プロンゾ人は明るく、正しく、素直であることをもっとも美しいとする精神性がある。間違った生き方をしてはいけない、胸を張って生きる人生でなければいけない、という強い自覚ある道徳観をもっている。親に迷惑をかけてはいけない、子に恥ずかしい思いをさせられない、ご先祖様に顔向けができぬ、子孫に胸を張れぬ、という他の民族にはそうそうみられない気高い尊厳ある道徳観を形作っている。そうであるからこそ一族同胞、仲良く心和やかに日々を生きている。強い精神的紐帯を生んでいる。
そして、子供の頃から生と死の連続のなかに生きることによって、死を受け入れやすい環境ができる。
死とは恐ろしいものでもなく、受け入れがたいものでもなく、自分もやがてそうなるもの、そこに至るもの、という認識がある。死んだらすべてがそれでおしまい、すべてが無に帰すのだ、という虚無感でも唯物論でもなく、自分はご先祖様につながり子孫にもつながるのだという命の、魂の連続をただただ無邪気に信じている。
だから、どんな悲惨な人生であっても、どんな凄惨な境遇にあってもプロンゾは死んだらそれまで、と受け入れる。生前に強烈な恨みを抱いても、強固な憎しみにとらわれても、生きている限りは精一杯あがいて、死んだらそれまで、すべてを水に流して受け入れようとする。
よってプロンゾ人は死んで恨みを残したり、怒りにとらわれたりはしない。魂まで肉体に、生に、泥んだりはしない。
ただただ、受け入れて神々の下へ、ご先祖様のところへ、往こうとする。
そのはずなのだ。
そのはずだったのに。
それが、あの様はなんだ。
死んで時間も過ぎたというのに、どうしてプロンゾの古えの神々の下に召されることもなく、楽天『ヴォールホン』に往くでもなく、縛られ続けているのだ。己が魂まで泥んでいるのだ。
汚らわしい。
あのような穢れた存在をひどく憎むし、ひどく侮蔑する。
しかし。
あのような深い憎しみに魂を縛られることになった、その原因もディルツにあるのだろうか、と思うといたたまれない。
だからこそディディクトは、このような憎しみの連鎖を、無理やりにでも、強引にでも断ち切ろうとしたのだろう。ジシンの呪粉という禁忌を用いようとも、恨みを抱く戦士たちに奮戦による死という受け入れやすい下地を作ることによって精神を、魂を開放せしめんとしたのだろう。理性をなくした戦士に、恨みも怒りもありはすまい。ただただ、純粋に、死を迎えようとしたのだ。
自身を犠牲にしてでも。
そう思うと、悲しみと、怒りと、様々な感情によってさいなまれ、リリクルは涙が止まらなくなった。
「ニーモ様ッ! あの肉体に、ディディ兄は、ディディ兄の魂はまだ残っているのか!?」
「ディディ兄様が、まだ………!?」
「………わからない、さすがに人の子の魂にまでわたしも知悉しているわけではないからね………」
「救ってくれ!! 穢れからディディ兄を、清らかな魂を救ってくれ!!」
「ニ、ニーモ!」
もし、あの肉体にディディクトとガガナトという二つの魂が同居しているのだとしたら、きっとディディクトの魂は恐るべき汚穢に毒されていることだろう。
それを一刻もはやく救わねばならない、プロンゾの神々の下に召されなければならない。
リリクルとミミクルは心の底からニーモにすがった。だが。
「すまない………。わたしにあそこまでの魔を払う神聖は持ち合わせていない………。神格を得たとはいえ、元が妖精だからね………」
「くそおおおおおッ!!」
ニーモができないばかりでなく、何もできない自身にも憤りでやり場のない怒りに震える。
「ど、どうすればいいの………!?」
ミミクルもディディクトの思い出が溶けてゆくような錯覚を覚えた。
森付近でリリクルやミミクル、ニーモやディルツ騎士団の奮戦を見ていたビーククト・ブロンゾも異変にリリクルのもとに駆ける。
そして、上空で叫ぶリリクルに、ガガナトが気づく。
顔かたちはディディクトのまま、まったく別の表情でねめつける。
「おう、オメェ、リリクルじゃねぇかッ! ようやくこうして出てきてやったぜ!?」
「ガ、………ガガ兄ぃ」
「おうよ! いい女になったなァ! ディディクトの裏っかわから見てたぜ」
にやり、と頬を吊り上げるガガナト。
「………けどよォ、こっちはこんなザマになっちまった、ってんのに、………生き生きとして、恨めしいなァ、オメ………ェ?」
その、頬を吊り上げた表情のまま、不自然に顔を斜めにして殺意に濁った視線を投げかける。その濁りきった瞳には、明らかにこちら側の、生者の存在では決してありえない穢れた炎を宿していた。
「魂喰ってやっからおりてこいよ! リリクルゥッ!!」
もはや、肉親の情も何もない。
ただ、生あるものを憎み、命あるものに死をもたらすだけの存在。
それがいまのガガナトだった。
「ガ、ガガ兄! ディディ兄は、ど、………どうしたんだ!?」
地獄の亡者の殺意を向けられ、全身の毛が逆立ちこらえきれないほどの吐き気に襲われながら、それでも必死に呼びかける。
穢れをもらうのは自分で十分、と後ろで震えながらしがみつくミミクルを隠して。
このような狂気を、ミミクルが耐えられるはずがない。
とはいえ、いますぐどこかに避難しろ、ともいえる状況でもなかった。
「ああァん!? ひャッは! まだ喰ってねェよ!? 強引に俺様がでてきてやったから気絶でもしてンじゃあねェか。ああ、ちなみに、………だ」
「リ、リリクルだな、ボ、僕もいるから、ネ」
ガガナトが沈黙してすぐ。別人格とおぼしき、独特のつっかえたようなしゃべり方。
「ネネ兄なのか!」
もはや驚くことがなくなったリリクルが、さらなる驚きに包まれる。次男ネネムタもディディクトの肉体に宿っていたのだ。
次男ネネムタは戦士に似つかわしくない脂肪が多めの肥満体質な人間だったが、それゆえなのか、グナクトに次ぐ巨漢と怪力の持ち主だった。どちらかといえば心根の優しい、生き物と戯れることを好むような人間だった。
少しまったりとしすぎていて、だからガガナトに追い立てられるように戦場に出る姿を子供ながらにリリクルは楽しげにみていた。
ガガナトが追い込みネネムタが強烈な一撃を打ち込む、という兄弟の戦い方は息の合った実に見事なものだった、と聞いていた。
「久し、うり、ぶり、だネ、また会えてうえ、うれ、嬉しいナ………。僕は、こんなすか、姿になっち、ちゃたけど」
様々な感情が一度に押し寄せ、なんと言ってよいのかわからないリリクルに言葉はない。ただただ、涙があふれてあふれて止まらなかった。
「ああァ! 俺様が喰ってやった!! もはやこいつは俺様の一部よ!」
ガガナトがにたり、と笑う。
ネネムタが声を発していたときには、そこに肉親の情を感じた。ネネムタの残された人格は、まだガガナトのように穢れたものに成り果ててはいなかったのだ。
それがなおさら、リリクルにはつらかった。
「ネネ兄の魂まで汚して、いったい、何がしたいっていうんだ!!」
激昂し叫ぶ。自分の家族を、誇りあるプロンゾの魂を穢した不浄なるものに対する怒り、憤りで心がどうにかなってしまいそうだった。
投げかけられた言葉に、ガガナトはぴたりと止まる。
「そりゃ、………復讐だろ?」
当然、とばかりに言う。
「怨霊のすることに他になんかあるってのかよォッ!! 復讐だ! 復讐だよ!! クソ憎たらしい、クソ忌々しいディルツのクソ共に、同じ目にあわせてやらねェで、こんな姿になった甲斐があるってのかよォッ!!!」
リリクル以上に激昂を爆発させるガガナト。
「オメェ、まぶた削がれて目が干からび死んでゆく絶望がどんなもんか知ってんのか!? 寸刻みで手足を炭化される痛みがどんなもんか知ってんのかァッ!? 生きながらに耳から溶けた水銀流し込まれたことが、あるっていうのかよォッッ!!」
「ぐ………」
拷問をうけて処刑された、とは聞いていたが、よもはそこまで凄惨な目にあっていたとは。ガガナトの遺骸は、決してリリクルたちに見せられなかったのは、そういうことだったのだ。
後ろにいるミミクルは耳を塞いで、現実を受け入れることができずに頭を振っていた。
「そんな目にあわせてくれた奴らに仕返しできるんなら、復讐できるんならァ、同じ目にあわせてやれるってんのならァッ! 俺様は喜んでこんな姿にもなってやンよォッ!! むしろありがてぇよ!? この姿なら、それもできるってもんじゃねぇか!!」
「………ッ」
「だから、ディディクトには感謝してんぜ。俺様は俺様の遺骸に縛られて、恨みに縛されて身動きとれなかったのを拾い上げてくれたんだからなァ」
「ディディ兄が………」
「そうか、ディディクトはガガナトの亡骸を弔っていたのか………」
情け深いディディクトらしい行動をとっていたのだ。それが、よもやこのような災難を招くとは。血族だから、魂も近縁であり、乗っ取りやすい故でもあったのだろう。
ということは、ガガナトは相当前からディディクトの中に潜んでいたことになる。
それが、ニーモはもちろん、ディレルにすら気取られることなく今日まで潜んでいたのだ。恨みをはらす、復讐を成し遂げる、その一念でやってきたということなのか。
「俺様はディディクトの魂の裏っかわに住み着いて、徐々に魂を同化しながらディレル婆の目の届かない森の外で亡霊どもを喰い散らかしていたのよ。力を蓄えて、ディディクトを完全に吸収して、堂々と出られるまでな………」
ガガナトの視線が、ミハエルに向く。
「それが、ディディクトみたいな魂の色の奴がディルツに現れてチャンス到来っと出てきたってわけだ」
蛮刀を振り上げ、まっすぐにミハエルをさし示す。
「ど、どういうことです………?」
ミハエルが気おされながら問う。
「お前の魂の裏っかわに潜んで、ディルツ本国まで運ばせりゃ俺様の恨みの矛先もきっといる………、俺様の復讐がやすやすとかなうってもんだろォッ!? ええ、どうだいい考えだろッ!?」
「ま、まさか、………その復讐のために、ディ、ディディ兄に今回の決戦をそそのかしたっていうのか………?」
「いンや、この戦い自体は奴の考えだ。しかし、ジシンの呪粉を全部飲もうとするから止めてやったんだぜ? 乗っ取るはずの体がばらんばらんにされちまったら意味がねぇしな。ま、ディディクトがこいつに噛み付きでもすりゃあ、簡単に魂の裏っかわに喰らいつけたんだがな。………でも、いまからでも遅くはねェよ? いまからテメェののど笛喰らいついてェ、俺様の住処にしてやンよ!!」
ただれた魂の化身が動く。地獄の瘴気を撒き散らしてミハエルに迫る。
ディディクトから奪った肉体への順応をすでに終えたのか、しかもその動きはプロンゾバーサーカー以上の高速だった。
一瞬にして間を詰め、蛮刀を袈裟斬りに振るう。瘴気から身を守るだけで精一杯のミハエルに急速な攻撃は対応しきれない。かろうじて盾で防ぐことしかできなかった。
ドガッ!
「――――ぐはッ!」
強力な一撃にミハエルが吹っ飛んだ。
ディディクトとの戦いでも見事なまでの応戦をみせていたミハエルが吹き飛ばされる。もっていたミスリル剣までも遠くに飛ばされた。怨霊と化して生み出す瘴気の渦はジシンの呪粉よりはるかに強力な力をもたらすのだ。
「いかん!」
聖騎士甲冑のおかげでさほどのダメージもないミハエルが体を起こそうとするが、そこにガガナトが迫る。このままではのし掛かられて噛みつかれかねないと判断したノルベルトはとっさに横なぎでガガナトにバスタード・ソードをたたきつけた。
「ああ、よく来てくれたァ」
ミハエルに襲い掛かるため回りは見えていないかに見えたガガナト、だが実はノルベルトの攻撃を理解していた。バスタード・ソードの強力な一撃をなんと、左手一本でわしっと受け止め小ばかにしたような顔を向ける。
「――――ばかなッ!」
自慢の剣撃をあっさりと制され、ノルベルトも驚愕の声を発する。幾人ものプロンゾバーサーカーを屠ってきたかつての勢いを取り返した剣技だ。たとえ殺すとまではいかないまでも、何らかの阻害にはなると思っていた、それがここまで軽々と、赤子の手をひねるかのように制されて信じられない気になるのも無理はなかった。
つかまれたバスタード・ソードはもはやびくともしない。ありえないほどの怪力で止められていた。
「いまこの場で一番目ざわりはオメェだったンだよ。強者は最初に屠っとかねェとな?」
ノルベルトの剣を制したまま、目で追うこともかなわぬ速度で蛮刀を突き刺す。プロンゾバーサーカーの動きにはなれてきたはずのノルベルトにも対応しきれない猛烈な速さだった。
――――グガシュッ!
「ぐはァッ!」
愛剣を手放し、とっさに後ろに跳び退るも間に合わない。
鎧をやすやすと貫通し胸をえぐられ、地に倒れ伏す。
「ノルベルトッ!」
ミハエルが悲鳴に似た声を発する。
愛剣を手放すことを逡巡したことから退避が遅れたのだ。飛び退ったものの、金属鎧がまるで紙のごとくに貫通されかなり深く蛮刀に胸を突き刺されていた。信じられない思いで自身の傷を見る。肺を損傷していた。荒い呼吸をするが、泡まじりの血を口から吹きこぼしている。心臓は外れたようだが、経験上、この損傷は致命傷だった。
突如迎えた自分の死と、ミハエルの危機という最悪の状況にノルベルトの頭は真っ白になった。
べっとりと自身の血で汚れた革手袋を見つめたまま次の思考も行動もなにも起こらない。
「一発でやりそこなったか。まあ、その傷なら二度とたてねェだろ。………ヒェヘヘッ! オメェは俺の住処だ。最後にゆっくり喰らってやっから、………おとなしくそこで待ってろや」
信じがたいノルベルトの負傷に顔面を蒼白にさせているミハエルをあざ笑って見下し、もはや勝利を確信したガガナトはゆっくりと後ろを振り返る。
「………まずは食事といこうじゃねェか。ディルツのクソどもを全部喰って力をつけねーとな」
100名のプロンゾバーサーカーを撃退したディルツ騎士団といえど、いまのガガナトの目にはただの獲物にしか見えなかった。
汚穢の瘴気を巻き散らしつつガガナトが、呆然としてほとんど棒立ち状態の騎士、兵士を一瞥する。
ミハエルがあっさりと吹き飛ばされ、ノルベルトが瀕死の重傷を負うほどの化け物が振り返っても、ディルツ騎士たちには何の手立てもなかった。この場において最高の剣技をもつものがこうもあっさりと敗北するような相手にどうすればいいのかなど何もわからない。ましてや相手の正体は怨霊。魔法使いや神職の出番であり騎士たちに効果的な反撃はできない。もはや恐慌状態だ。
蛇ににらまれた蛙と化したディルツ騎士たちに薄ら笑いを浮かべたまま、恐るべき速度でガガナトが目に付いた兵士に迫る。
「クッ、クソォッ!」
それでも渾身の力でもって槍を振る兵士、だが、そんな兵士の槍をまるでハエでも追い払うかのようにガガナトは蛮刀で払い、左手で兵士の肩をつかみ、そして――――。
「ぎゃあああああああァァァッッ!!」
首元に噛み付いたのであった。
あふれ出す血液を、ごくごくと嚥下するガガナト。
「ああァ! んめェェッッ!! ………人の生き血をすするのも久しぶりだァッ!!」
「こ、こいつをしとめろッ!」
動きが止まったことを幸いに、騎士が兵士に命令を下す。
その命令にはじかれたように、数人の騎士や兵士が槍やハルバードを繰り出す。
だが。
「遅えェッ!!」
兵士を投げ飛ばし、襲い来る槍を防ぎつつ、他の槍を身を回転させて蛮刀でなぎ払う。そしてハルバードをがしっと掴むとそれを軽々と引く。
「うぐッ!」
対処のしようもない怪力に屈強な騎士がガガナトにつかまる。
そして――――。
惨劇。
戦場はいまや、ガガナトの独擅場になっていた。
「ノ、ノルベルトォッ!」
顔色をなくしたミハエルが、もはや目前で始まった惨劇のことも何も考えられずにノルベルトの元へ駆け出す。
「ニーモ、急いで回復しないと死んでしまう!」
「………分かった」
ノルベルトの重傷をみたミミクルが恐怖を乗り越えニーモに駆けつけさせる。ニーモとしては一番大切なのはミミクルだ。そのミミクルを安全な場所に退避させることを優先させたかったが、しかしミミクルは聞きはしないだろう。おとなしくミミクルに従う。
「………し、しくじった、ゴホッグハッ………!」
「しゃ、しゃべらないで!」
「ミハエルさん、回復魔法をかけます!」
「ず、ずまねぇ、ミミちゃん、猫神様よ………」
即座に到着したミミクルとニーモが同時に回復魔法の態勢に入る。
「な、治るんですかッ!?」
身も世もなくしたミハエルが動揺の声のまま問う。そこに平生落ち着いたミハエルの姿はなかった。
ミハエルにとってノルベルトは管区長就任以来の付き合いで、その年数はわずかに二年ほどだ。だが、その間にかけがえのないものをたくさんもらった。今日までミハエルがアルクスネでやってこられたのもノルベルトがいたからこそだ。ほとんど世間を知らない、極端な言い方をすれば剣を振り回すしか能がないミハエルが、まがりなりにも指揮官としてやってこられたのもノルベルトあってのものだ。
ノルベルトなしには一日とてやってゆけないというのがミハエルの正直な気持ちだ。
そのノルベルトをここで失うのは、もはやミハエルにとって自分の死より受け入れがたいものがあったのだ。ミハエルがみせる動揺はいままでの人生でも初めてのものだった。
「治ります、いえ、治してみせます!!」
これまで見せたこともないほどの必死な表情をみせ自身の内から魔力を注ぎ込み始めるミミクル。
「よ、よかった………」
まるで、おびえた子供のような目をするミハエルをみて、リリクルが動く。
――――パンッ
乾いた音が響く。
「しっかりしろ! しっかりと前をみろ! あんなに善戦した騎士たちがなすすべもなくやられているんだぞ! お前が指揮をとらないで誰が騎士たちを守るんだッ!!」
呆然とした表情をリリクルに注いだ後、ミハエルは視線を戦場に投じる。
血の惨劇はいまも続いている。騎士や兵士たちは指揮官不在のまま、ほとんど一方的に蹂躙されていた。
ニーモに膝を治してもらった、身長二メートル半を超す屈強な騎士がタワー・シールドのような盾でガガナトの攻撃を防いでいた。しかし、その善戦もむなしいものだった。
すでに数多のプロンゾバーサーカーの超絶な攻撃を防いでいた盾も限界だったのだ。
ガガナトの蛮刀もすでにその怪力に耐え切れず折れていたが、倒れた騎士から奪ったロング・ソードをたたきつけられ盾が真ん中から割られた。衝撃で倒れ伏す騎士に覆いかぶさり、ガガナトが噛み付く。
「化け物めッ!!」
覆いかぶさったと同時にヨハンたち弓隊がガガナトめがけて必殺の矢を放つ。
味方の死をも反撃の契機となす、ディルツ騎士たちの必死の行動だった。20ほどの矢が狙いを外さずにガガナトに飛ぶ。しかし、ガガナトは無造作に割れた盾を拾い上げそれらをこともなげに防ぐ。
怨霊ならでは、というべきだろうか。ガガナトは視線をどこに向けていても、自分を狙う殺気をいっさい見逃さない。
顔面を血まみれにさせたまま、ガガナトはにい、と笑う。
「リリクル様ご無事ですかッ!」
ビーククトが着く。リリクルの前につき、その身を瘴気からかばう。
「わたしはなんともない………。しかし………」
悲しげにミハエルを見つめるリリクル。
「………あ、あんな恐るべき怨霊を退治する方法はッ………」
呆然としたままミハエルが言葉を搾り出す。
「だ、大丈夫だ………、ミハエル、お前ならできる………」
青ざめた表情のままノルベルトがようよう話す。
「ノルベルト! 治ったんですか!?」
「なんとかな………、血は止まったようだ………」
ミミクルとニーモの全力の回復により、傷口はふさがりつつあった。驚くほどの治癒魔法だった。
「って、ああンッッ!? こっちが空腹を満たしてる間になにやってんだ、テメェらァッ!!」
ガガナトがミミクルたちに気づく。
とはいえ、勝ちにおごったガガナトは余裕の表情だ。
「し、しかし、対処法が………」
背後の騎士たちを完全に無視し、ミハエルらに向き直ってゆっくりと歩をすすめるガガナトを前に、有効な反撃方法など浮かばない。自分の後頭部を狙って放たれた矢を、頭を横に傾けるだけで避けたガガナト、哀れな獲物を追い詰める加虐の喜びに酔いしれているのか下卑た笑みを絶やさない。
「ミミには一歩も近づけさせない!!」
治癒魔法をミミクルに任せ、ニーモは仁王立ちとなって両手を前に突き出し、風の結界を展開する。
「ああッ!? 小癪なことしてんじゃねぇぞォッ! 妖精風情が!!」
一瞬にして周囲に分厚い風の塊が出現し、行動を阻害され騒ぐガガナト。しかし、大声で騒ぐが、その声は外には漏れない。
この場で唯一魔界の亡者であるガガナトを、格で上回っているのがニーモだ。たとえ消滅させるほどの神聖魔力はなくとも、動きを制するだけの魔力はあった。
「どうやら、ガガナトはディディクトに憑依して遊離はできないようだ。恨みが強すぎて、自縄自縛状態なんだろう。………ディディクトの肉体を討ち滅ぼすことができれば、完全にガガナトを滅ぼすことはできなくとも、とりあえず奴を地に封ずることはできる」
ニーモがガガナトを分析する。
亡霊、怨霊ならば、物理的制約を受けずに行動できるはずだ、それが、ガガナトはミハエルに噛み付いて乗っ取る、といった。相手に接触することでしか憑依できないのだ。
ガガナトはディディクトに憑り付いて以降、ずっとディディクトの魂の裏側に潜んでいたようだ。人の魂の裏側に潜むしか身を隠せないのだろう。そして、相手の魂を喰って、ようやく自由に行動できるようになるのだ。それに先ほど、強引に出てきた、といった。ディディクトの魂は完全には食べられていない。まだ、本来の肉体のどこかに、ディディクトの魂はあるのだ。
ガガナトを滅ぼすことができれば、ディディクトは救えるのではないか、この期にあってミハエルはそう考えた。
「し、しかし、それではディディクトさんが………」
「忘れたのかい、ディディクトはもともとジシンの呪粉ですでに身はぼろぼろだ。どの道、助からない」
「………ッ!」
「いま、この場でガガナトを滅ぼす方策はない以上、ディディクトの魂を救う方法とて、存在しない。あれほど穢されて、魂が清浄を保っていられるとは到底、思えない。諦めるんだ」
「ディディ兄様………」
ノルベルトの治癒を続けながら、ミミクルが涙を流す。
「………ディディ兄を、あのような不浄から、救ってやってくれ。いまはただ、安らかな死をもってこれ以上の残虐を止めることが、ディディ兄に安心をもたらすと同時に、………それが、指揮官たるミハエルの役割だ」
静かに、リリクルが諭す。そして、ミハエルが落としていたミスリル銀剣を拾い上げ、渡す。
「………そうだ。ああ、ありがとうなミミちゃん、どうやら、助かったようだ………。ミハエル、特捕戦闘だ」
「とく、………はい!」
回復したノルベルトがミミクルに礼を言う。
ノルベルトの言葉に、瞳に生気を取り戻したミハエル。
「騎兵隊! 特捕戦闘用意! 生き残った者たちも補助に付け!」
ミハエルの命令が響く。
ガガナト覚醒から初めて前向きなミハエルの命令が響き、騎士たちも惨劇の衝撃から立ち直る。切り替えのはやさは、さすが軍人だった。ようやくおびえや興奮から立ち直った、馬を御することができた騎兵たちがミハエルの号令一下、ただちに規律だった行動をとる。
馬の鞍に常に携帯している縄を取り上げ、騎兵たちがガガナトの周囲に展開する。
「ミハエル様、準備が整いました!」
バルマンが状況を確認して準備完了を告げる。
「よし、ニーモ様、結界を解いてもらえますか」
「………頑張って」
ミハエルの合図でニーモが結界を解く。
「くっそがあァッッ!! ふざけてんじゃねェぞ!」
当然のごとく怒りを爆発させるガガナト。
しかし。
「特捕戦闘開始!」
ミハエルの命令一下、ディルツ騎士団が動く。騎兵たちがかぎ爪のついた縄をガガナトに投げる。八方から縄を引っ掛けられるガガナト、しかし激昂したまま止まらない。
「小ざかしいマネしてんじゃねェぞ!! この程度で俺様が止められると思ったか!!」
縄を体中にかけられたまま振りほどこうとする。
「うわっ!」
騎乗した騎兵たちが衝撃でばらばらと落馬する。しかし、次から次へと他の騎兵たちが縄をガガナトにかけ、その縄を歩兵たちも引く。勝ちにおごって見くびったガガナト、たかが縄と本気で対処しなかった。
特捕戦闘。特大モンスターやサイクロップスなどの足に縄をかけ、動きを止め捕縛する戦闘のことだ。体長五メートルを超えることも少なくない大型モンスターとの戦闘では、いかに足を止めるかが大きな鍵となる。そのための捕縛術だ。強力な特大モンスターの行動にも耐えられるだけの強化魔法をかけた魔法糸を織り込んだ縄である。いくら強烈な怪力を誇る地獄の亡者と成り果てたガガナトでも簡単には引きちぎれない。次々と縄をかけられ、参加できる全兵士で引っ張られ、徐々に動きを制限されてゆく。
プロンゾバーサーカーとの戦闘で死傷し、部隊を離れた兵士や惨劇に殺された兵士を除くと、生き残ったアルクスネ部隊の騎士や兵士の数は850。すべての兵士が縄を引いたわけではないが、あるものは縄を引く兵士を引き、騎兵を引いた。落馬した騎兵もただちに起き上がって縄を引く。すべての兵士が、生き残るためにもてる力のすべてを振り絞る。そして、すべてをミハエルに託した。
数百もの兵士によって捕縛されたガガナトは、さすがに身動きの取れない有様と成り果てた。
「クッ! クッソがァッッ!! こんなマネしくさって、どうなるかオメェらわかってんだろうなァッ!!」
顔の周りを縄だらけにしながらも、それでもガガナトが騒ぐ。
「………わかっています。貴方を、この地に封じないといけない、ということを」
ミハエルが、ゆっくりとした足取りでガガナトに歩み寄る。そして、ミスリル剣を振り上げる。
「やッ! やめろォッ! 俺様はまだやるべきことがあるんだッ!」
ガガナトが哀願の声を初めて発する。
そんなガガナトの表情のディディクトを見ていられず、思わずミハエルは目を閉じ剣を握る手に渾身の力を込める。
「………くッ、すいません、ディディクトさん!」
「やめろオオオオォォォォォッッッ!!!」
ミハエルの悲しみの剣がディディクトの頭部を叩き潰す、その、刹那。
――――世界が発光した。
そして。
―――嘆きの剣を納めなさい、我らの子よ。
天上から清浄なる声がミハエルの耳朶を打つ。
ハッ、とミハエルが頭上を振り仰ぐ。
そこにいたのは、まごうことなき。
神の、姿であった――――。