騎士 ミハエル・フォン・ヴァレンロード (五)
「わしがプロンゾ族、族長グナクト・プロンゾだ。まあ、ちこうよれ」
緊張と恐怖のあまり、ごくり、とノルベルトはつばを飲み込む。
静かに声を発するグナクト。確かに静かな発声だが、その内に蓄えたエネルギーの量は計り知れない。猛獣がいままさに飛び掛らんとして身をかがめているかのような、そんな静けさだ。
両側に控えるプロンゾ一族の間をしずしずと進み出るミハエルたち。
北方だけではない本来の十字軍にも参戦し幾多の亜人と戦い、数々のプロンゾ戦士とも刃を交えた。場数でいうのなら並みの戦士以上の経験はある。それでも、この男と戦場で相対して生きて帰れる自身はノルベルトにはなかった。それほどのつわものだ。
覚悟はしていた。相応のものなのだろう。腹はくくったつもりだった。
しかし、相手が悪すぎる。最悪だった。
ノルベルトは頭がしびれる思いだった。ここまでこつこつと築き上げて、これか、と。ぐっと歯をかみ締め、静かに瞑目した。
でも、それでも、ここまで来た以上引き換えせぬ。もはや成り行きに任せるほかはない。
そして、族長グナクトの特徴はまだある。
右腕がないのだ。
戦場で失ったのだろう。二の腕が中間でばっさりと断ち切られていた。それで戦場を退いて予備役に回ったのだろう。そのおかげでこの男がでてこなかったのだ。ノルベルトも右腕の握力をなくした身なので同情をする気はあったが、とはいえ自分が完全な状態でも、このグナクトなら左手一本でも勝てない自信ならノルベルトにはある。ミハエルも人間離れした膂力の持ち主だが、族長グナクトはもはや人ではない。別の存在だ。
鬼族、と称されるオーガですら、この男の前ではひざまずくだろう。
確証などなにもないが、確信ならノルベルトにはあった。
「紹介しよう。こちらにおわすがプロンゾの守り神、巫女様ディレル・ピロンゾである」
その、オーガをかすませるほどの鬼が、恭しく背後を振り返る。グナクトの背後の玉座とおぼしき位置の高い座にちょこんと鎮座する女性がいた。グナクトが横にずれて振り返ることで初めてミハエルらの視野に入った。
グナクトの一礼にあわせて、全プロンゾ人がその女性にお辞儀をする。
確かに、老婆なのだろう。身長はたいして大きくはない。しかし、しわはなく、肌の色艶はまるで赤子のようにつやつやとしていた。老婆のような、少女のような、不思議な存在だった。
プロンゾ族らしく毛皮をまとってはいるが他のプロンゾにはない特徴があった。王侯貴族にも匹敵するような大きな冠を被っているのだ。しかし、貴金属製ではない。琥珀だ。巨大な琥珀の塊を冠として作り出したものだろう。もしこれが世に出れば貴族や金持ちたちがこぞって欲しがるだろう。価値は計り知れない。しかも様々な色合いの琥珀を重ねてある。不思議な色模様をなしていて人物の神秘性とあいまって神々しい雰囲気だった。
あの鬼ですら恭しくふるまう、プロンゾにとってそれ以上の大切な存在なのだ。
「歓迎するよ。神に愛されし子よ」
にんまりと微笑んでミハエルを見つめる。ミハエルがミミクルと同じく神の恩寵を受けしものだと知っているのだ。
ここに鎮座してすべてを見ているのか、とノルベルトは内心うなった。もしかすると、この二年のミハエルの動向もすべて見ていたのではないか。そう思えた。
「………我が妻イーナム・ディーム」
ミハエルに対して友好的な巫女ディレルの笑顔に苦々しい表情をしつつ、グナクトは続けた。
静かに頭を下げる美しく優麗な女性。年は30を少し回ったあたりだろう。それでも瑞々しい若さを維持していた。リリクルやミミクルの母にして、グナクトの三番目の妻だ。他に妻はいない。すでに先妻らは他界していた。イーナムはかつてプロンゾ族領の南東に勢力を誇っているディーム族との戦争でグナクトが獲得した戦利品だった。若くして強奪され、若くしてリリクルを産んでいる。リリクルたちは間違いなくこの母親の血を引いている。それだけは間違いなかった。ちなみに、プロンゾ人は個人を尊重する人種であるため夫婦同姓という概念はない。また、すべてではないが新たに家族をおこす場合、族長が新たな苗字を授ける習慣がある。
「そして我が子にして次代の族長ディディクト。その妻シシスナ・プリムゾ」
グナクトの横に座っていた息子、ディディクトが頭を下げる。グナクトにはまったく似ず人として戦士らしい精悍な顔つきをした美青年だった。彼は二番目の妻の子だった。体格などはミハエルに近い。すっとした陰のない晴れやかな顔つきなどは、きっと話せばわかる、と思わせる。ミハエルなどは一目で気に入った。次代のプロンゾの未来は明るい、そう確信せしめる堂々たる後継者だ。
ディディクトの妻シシスナは女戦士だ。一礼をする挙動に戦士としての風格があり洗練されていた。しかし女性としての美しさも兼ね備えた花も実もある女性だ。次代の族長を支えるにこれほどの逸材はいないであろうと思われた。
「そして次代の巫女ミミクルだ」
ぺこっ、と頭を下げるミミクルがおり、母イーナムの横に座っていた。ミミクルの膝にはケット・シーのニーモもいる。いまのニーモは姿を小型化して本来の猫の姿に近い状態だった。
襲撃犯はこいつか、とミハエルもノルベルトもまじまじと見つめた。確かに、母親似のものすごい可愛らしい美少女だった。とうていすごい魔法の使い手には見えないが、現巫女とて恐るべき使い手には見えないのだから、血は争えない、ということなのだろうか。ミハエルらの視線に恥ずかしげにうつむく仕草には、戦うものの雰囲気など微塵もないのだが。
そしてミミクルの膝でくつろぐ猫の妖精に目を見張る。
翼をもった猫。しかも、猫らしからぬ人のようなくつろぎ方だ。
しかも、プロンゾたちとは違う、別の北方の異国の服を着ていた。西方の文化ではない雰囲気の衣服、東方の民族衣装なのだが、当然ミハエルらは見たことはない。
猫の目の瞳がきらきらと輝き、なんともいえない摩訶不思議な魅力があった。
「左右に控えるのが愛する戦士たちだ。これが我が一族である。ビーククトから話は聞いた。リリクル、よく戻った。そのものがアルクスネ管区長だな」
「は、はい。ディルツ騎士のミハエルです」
グナクトの目がぎらりと剣呑に光ってミハエルを射抜く。
リリクルがグナクトの視線にたじろぎながらもミハエルを紹介する。相当なご機嫌ななめなのはもはや明白だからだ。
「お初にお目にかかります。族長やプロンゾの皆様にはご機嫌麗しく。アルクスネ管区長ミハエル・フォン・ヴァレンロードと申します。こちらは副官のノルベルト・グリモワール。こたびの突然の会談の申し出に快く応じていただき、感謝の言葉もございません」
「ふん。………プロンゾに貢物があるそうだな。これへ」
グナクトがあごでしゃくる。
まるで関心がない、という態度を、言外にありありと示す。
いろいろ思うところはあるが要求される以上は出さないわけにはいかない。ノルベルトはバッグを開けてザーモスを取り出す。すでに血抜きはおえ、内蔵は抜かれている。元漁師ヨハン・ウランゲルのもつ特殊な技術によって活け締めされた魚は数日間その鮮度を失わない。いまでも十二分に刺身で食べられる。
「アルクスネに住まうザーモスを生で食べられる方法を確立しお持ちしました。献上いたします」
ノルベルトから渡されたザーモスをミハエルがささげもつ。
「ふん」
ミハエルから渡されたザーモスをプロンゾ人が皿に乗せてグナクトに示される。一メートルを超えるザーモスだ。普通なら数人かかっても食べきれる量ではないはずだが、グナクトなら四、五匹をぺろりと平らげるだろう。冬篭りの準備をするヒグマより食べそうだった。プロンゾ族の苦しい食料事情は実はこの男のせいではないのか? とノルベルトは疑問にかられた。
居並ぶプロンゾ人たちは生で食ったら腹をこわすだろう、などとささやきあっている。衛生観念がさほど発達していない人々は、食材とは火を通すものだ、という考えしかない。木の実ならともかく。人類がここまで文化を発展させてきた理由は数あれど、まずもって重要なのが、火を使う、という要素だ。火を通すことで何でもかんでも食べてきた。飢えて死なないということは生存競争の最重要課題だ。細菌、病原菌というものは知らなくとも、火を通せば食べられる、逆に言えば、火を通さない食べ物など危なくて食べられない、それがこの時代の食べ物に関する考え方だ。
「わたしもすでにいただきました。いつも食べている固い身と同じものとは思えない、口のなかでとろけるような脂が楽しめます。その味わいは、あまりの驚きで口から魂が飛び出てしまうのではないかと慌てて口をおさえるほどです。もちろん、生で食べても体調に変化はありません」
リリクルが太鼓判を押す。
「生簀、と呼ばれる管理方法によって稚魚の段階から自然のものではないえさを与えれば、魚の腹に寄生虫はわきにくいのです。乾燥させたり燻して食べるより、はるかに魚本来の持つ脂を楽しむことができます。また、バルバル海の魚介類もお持ちしました。さすがに海産物は生で運ぶことはできませんが。こたびの良き出会いの彩りに添えていただけますれば光栄でございます」
ほほ~、と感嘆の声があがる。聞きなれぬ言葉にプロンゾ人も興味を覚えたのだ。
「………お前たちがプロンゾのために骨をおっておること、感謝しておる。今宵は客人としてゆるりとくつろがれよ。しかし、この神聖なる『アトゥーレトゥーロ』にまで来訪を許可したるはその労に報いよ、との巫女様のお達しあったればこそ。そうでなかったら誰が小汚いディルツの猿をいれたりしようか。………朝には出立せよ。我らは戦士、戦士にふさわしい場は酒の席ではあるまい。………次に会うたなら先祖に恥じぬ戦をしようぞ」
恭しくお辞儀をしたミハエルに、冷徹な視線を投げかけたグナクトはいう。
はっきりとした交戦継続の意志だった。
「ま、待ってください! 少なくとも、ミハエルにもはや戦闘の意思はない、ディルツとプロンゾの融和を願っているのだ!」
リリクルが弁明する。
寸鉄をすら帯びずにいまだ交戦中の本拠地にやってくるなど、本来なら正気の沙汰ではない。
それほどまでの決意を、覚悟を、ミハエルらは示したのだ。
一方がそこまで腹をさらした以上、それに対して相応の礼をもって返すのが、一応の礼儀といえる。
しかし。
「だまれッ!!!」
――――!!
グナクトの一喝。
驚天動地。
直近で大喝を浴びたすべての者が凍りつく。
空気が、死んだ。
たったいま、空気が死んだ。
空気が張り詰める、場が凍てつく、などというレベルではない。そんな次元ではない。
仮初めにも、曲がりなりにも、客と、客を迎える主人という場が、そこにはあった。あったはずだった。
それが、たったいま死んだ。
融和も、友好も、ミハエルらの二年も、すべてが死んでしまったのだ。
族長のなりを見たときからわかっていた、わかっていたとはいえ、こんなあっけなく潰え去るものなのか。
「………ッ!」
ノルベルトはあまりの理不尽に打ちのめされた。
「戦士に、馴れ合うなどという言葉はない。降伏か、死か、それだけだ。………ミハエルといったな。そなたは降伏するのか」
「………いえ、それは………」
「ふん。我らも同様。ならばとるべき道はひとつしかあるまい。我らは戦士。ならば剣で語ればよい。口で語るものにあらず」
「しかし………それは………」
ミハエルに言葉はでなかった。
「グナクト族長の意志はわかりました。しかし、ご理解いただきたい」
見かねてノルベルトが発する。
終わったとしても、だからといって簡単に引き下がるわけにはいかない。
可能性が少しでもあるのなら、そこに賭けねばならないのだ。
「このまま遅々として友好がならねば、ディルツ騎士団本国は新たに兵を発するでありましょう。そうなれば、そこな巫女様が最後の牙を向くことになると伺いました。そうなれば双方が、多大な犠牲をのみ払うことになります。それが族長のお望みか?」
「………クッ、恫喝とは片腹痛い」
鼻で笑ったグナクトがにらむ。左手はもはや壁の蛮刀にのびつつある。
「そうとられるのも無理はない、しかし、こちらに伺って改めてこの大森林に住まう人々の、大樹とともにある生活。『アトゥーレトゥーロ』と呼ぶこの王宮の偉大さに心打たれました。このような素晴らしき文明を、消し去ってよいはずがない。ディルツの蛮行を、許して良いはずがないのです。それにいち早く気づき、ミハエルはディルツの蛮行の一切を捨てたのです。我らが身をもって過ちを認め、無血の融和という成功例をつくるからこそ、ディルツ本国にも変革をうながすことができる。ディルツからそういう血生臭い蛮行を消す端緒を切り開こうとしている。そして、それは徐々に形をなそうとしている。それがここであっさりと潰え、ディルツが巫女様の攻撃をうけて侵攻を諦めるでしょうか、いや、ディルツが諦めたとて、侵略国家など後からわいてくる。もはや母なる大樹を失ったプロンゾにどれほどの抵抗の手段が残されるでありましょうや。時ここに至らば、我らは手に手をとって共に歩いてゆくのが、一番の解決策なのだと信じるのです。………どうか、不幸の歴史ではなく、幸福なる歴史をつむいでいただきたい。グナクト族長には、賢明なる判断を期待する」
深々とお辞儀をするノルベルト。
普段の飄々とした彼からは想像もできないほどの熱誠だった。
普段はミハエルの時代にそぐわぬ博愛主義を馬鹿にした言動も多い男だが、内心ではミハエルを認めているのだ。
そして、長と接してきたプロンゾの人々の安寧秩序を心から願っているのだ。
血で血を洗う恨みの応酬に、何の価値もない。不幸な過去に見切りをつけ、よりよい未来を勝ち取っていかねばならないのだ。
本当に、賢明なるものならば、その言葉に耳を傾けたことだろう。
しかし。
「先に戦端を開いたのは、母なる木々を焼き払ったものは、どっちだ………」
押し殺したようなグナクトの声。
がし、と蛮刀をつかんだ。
「30年間、お前らとの戦いに身を投じ、どれほどの仲間を、家族を、母なる地を失ったと思っておる。………過ちを認めた? ………無血だ? ………どの口がそれをいうか。………融和だ? 認めてやろうではないか。………おまえらのそっ首、すべてを先祖に供えたうえでな!!!」
蛮刀をふるう。
その勢いは、ミハエルとて防げるものではない。
すべてが灰燼に帰した。決定打だ。
ディルツ騎士団本国が本来想定していた、アルクスネ管区を撃破して気炎をはくプロンゾ、という光景がいままさに現実のものになったのだ。その先にあるのは、ディルツの壊滅的打撃と、プロンゾの破滅。
ミハエルもノルベルトも、もはや無抵抗だった。
もはや、無に帰したのだ。何を思うことがあろうか。
静かに瞑目するミハエルに蛮刀が狙いをつける、その時。
「待たんか!!」
新たなる大喝。
それは、巫女、ディレルの発したものだった。
いままさにミハエルに向けて振り下ろされんとした蛮刀が止まる。
「………巫女様、………お叱りはこやつらを血祭りにあげてからにしていただきたい」
頂点に達したのか、怒りで息を荒げながらグナクトが振り返る。
「………この場に至っても、まだ己を変えられぬか………」
はぁー、と長嘆息をつくディレル。
「すでに、大勢は決した。流れはすでに変わっておったのだ。それは、未来を願うものたちがつくった流れ。それに気づくことを期待しておったが、………やはり、お主には無理であったか………。………巫女、ディレルの名において宣告する。………族長グナクトをここにその地位を奪い、子、ディディクトに引き渡す」
「ディレル様ッ!! おふざけも笑えませぬぞ!!!」
烈火のごとくたけり狂ったグナクトが振り返る。
「ほう。婆とやりあう気か?」
すっと、目を細める、ディレルの声。
本当の地獄の鬼、悪鬼羅刹と化したグナクトの一喝にもまったく動じていなかった。
単純な戦闘能力だけでもこの族長以上だというのか! 生きる可能性すらたったいま失っていたノルベルトは、思考能力の大半を失って、それでもなおさらなる驚愕に揺さぶられた。
「戦士だというのなら、グナクト、そなたはいままでディルツ騎士団の誰一人とて殺めておらんと申すか」
「………それは」
「ならば、それはどちらも同じよ。恨み事を言い出せば際限などあろうか。大事なのは戦を始めることではない。戦など、いつも些細な理由で始まるものよ。どこで、妥結し刃を納めるか、それこそが大事な事だというに。………族長として、戦士として、長々と一族を率いて、そんなことすらわからんのか。愚鈍が!」
進退窮まったグナクトに、ディレルは手で払う仕草をする。
「控えよ」
「………クッ!!」
全身を震わせながらも、グナクトは平伏した。
巫女、ディレルの存在は、それほどまでに強烈なのだ。
族長といえど、いっさいの手向かいを許されぬ、そんな存在なのだ。
「………自身を変革できんものに、他者に変革を求めることはできん。………自分で自分を救いたいと心から願うからこそ、他者の忠告が聞けるのだ。他者の言葉がありがたい救いとして、耳に入ってくるのだ。自分を救えん愚か者に、他者を率いる資格などない。………二年待った。族長として、変革すべき時は常にあった。本日も、まさにそうだった。婆はお主の変革に期待した。………だが、それでも無理か。それでも、………己を救うことはできんか。このような、干天の慈雨、心に染み入る慈悲の甘露に接しても、………それでも何も感じはしないか」
心の底から失望した、あきれ果ててもはや愛想がつきた、とディレルはあからさまな侮蔑の表情を隠さなかった。
ディレルの視線が、ミハエルに注がれる。
「天は、偉大なる神々は、この地上、人の世に、本当の『ヴォールホン』我らがご先祖様が住まう楽天をこの地上に降ろそうとしておられるのやもしれぬ。それは、ここにいるミミがいることからも察せられよう。確実に世は変革のときを迎えておる。その時にあって怨恨に泥んでいられようか。一族を取りまとめる長として、世の変わり目を巧みに導いてゆかねばならぬものを、私情を、私憤を優先させおって。そのなくした右腕とともに、分別までなくしたか。お主は族長の器にあらず。自室での蟄居を命ず。お主の沙汰は後で考える。去れ。ディディクト、取り仕切れ」
「………はい」
ディディクトが応じる。
まるで、すべてを知っていたかのような、驚きもあせりもないディディクトの様子だった。
すごすごと去るグナクト。
ひぐまは退治された。
悪意の塊が去り、ノルベルトは当然、ミハエルも、ここにいるすべての人々が安堵のため息をついた。
「我が身内が大変見苦しい姿をお見せし、恐懼に耐えません。では、ディレル婆、わたしが族長としてすべてを決定してよろしいですか?」
「無論」
「………はい。それでは、突然の事の成り行きに、はなはだ恐縮であり、ディルツ騎士のお二方には面目しだいもございませんが、我がプロンゾ一族の命運を、この場で決定したいと思います。我がプロンゾはディルツの融和の提案を喜んで受け入れ、これからは手に手を取り合って、ともに発展の道を探りたいと存じます」
「………では!」
ミハエルが驚きの声をあげる。
「ただし」
ディディクトがあいもかわらず冷静な表情で告げる。
「変革を喜ぶ者がいる一方、しかし、変革を喜べない、怨恨にこそ、己が魂を打ち込めるものがいる、という事実を受け入れていただきたい。………何が言いたいかと申しますと、ディルツ騎士団憎しのプロンゾをわたしが取りまとめますので、一戦、受けていただきたいのでございます。とはいえ、ご安心いただきたい。勝ったからどうこうしろ、ということではありませぬゆえ。ただ、一戦つかまつりたいのみにて」
「………ま、待ってくれ、ディディ兄! たったいま、族長として一族をよりよい未来に導く責任を担ったばかりじゃないか! なんで!」
事態の急転についていけないリリクルが、混乱の最中にあって叫ぶ。
「そう。誰かが率いねばならない。それは、恨みとて同様。プロンゾをよりよい道へと導くためにも、もはや体に染み付いて、取り除くことができないほどに恨み骨髄に達した者たちを、誰かが雪がねばならないことも、率いねばならないことも、また事実なのです。その恨みの消滅をもって、プロンゾは過去を捨て去りよりよき未来に向かって進むことができるでしょう」
「………なら、なら、それはディディ兄ッ、族長でなくともよいはずだ! なんならわたしでもいい! プロンゾにとって一番必要なものが残らないでどうする!」
もはやリリクルは半べそ状態だった。
「………そうか。プロンゾを想うからこそ、想えばこそ、しこりは取り除かねばならん。病に冒された葉は、むしりとらねば全体に蔓延する、ということか」
ディレルがつぶやくように言う。
「私憤にかられ、大局を見る能力も失いどこまでも暴走せし阿呆とは違って、公憤、義憤にかられての行動と、いうことだな」
「………はい」
「ま、待ってくれ、婆様! さっきの親父の復讐はだめで、どうして族長の復讐は認められるんだ!?」
「よいか、リリ。族長は、プロンゾの恨みを、怒りを、悲しみを、嘆きをすべて一身に背負う覚悟なのだ。お前とて、ディルツの戦士すべてを許し、認めたわけでもあるまい。それは、いまいるプロンゾの子らとて同様、どうしても受け入れられぬ、どうしてもディルツの戦士を八つ裂きにしてやらねば収まらぬ子がでるのは、これは婆とてもどうしようもないことなのだ。それら、これからの友好をはかってゆくことをよしとしない子らと、死地を共に歩いてやろう、という慈悲なのだ。同胞の窮状を想うからこそ、見捨ててはおけぬ、真心の救いなのだ。………そして、それをなしうる慈悲深き優しい子は、ディディクトを置いてはほかにはいないのだよ。これは、誰にでもできることではないのだ。それはもちろん、リリにだって任せられぬ」
噛んで砕くように説明する。
それほど誤解のないように意を伝えねばならないことなのだ。
「納得できん………ッ! これからを歩むべきものが、どうして死んで良いものかッ!」
「………納得せねば、ならぬのだよ。お前も、未来を選択したのだろう。なら………受け入れるしかあるまい」
ちらり、とディレルはミハエルをみる。
「面食いのお前だからこそ、いままでの恩讐を超えて、これからの未来を選択したのではないか?」
「――――ッ!」
リリクルもミハエルを見る。
そうだ。自分も、グナクトと同様、恨みに凝り固まったディルツ憎しの人間だった。
それを、決定的に変えたのが、凝結した恨みや怒りを、解きほぐしたのが、ミハエルの存在だったのだ。
自身の内に育った感情を簡単に捨てられぬからこそ、過去を捨て、未来を選んだのではなかったのか―――。
ミハエルがいたからこそ、自分はグナクトと同じ復讐の虜とならず、可能性を模索する道を選んだのだ。そして、それはディディクトとて同様なのだ。復讐で、恨みや怒りでその先を黒く塗りつぶしてしまう愚を捨て、あくまでも、その先を、未来を選ぶ選択をしていたのだ。
グナクトと同じく、怨恨にしか生きられぬ、哀れむべき、融和という次の時代に取り残されるしかないプロンゾたちを、プロンゾたちの魂をも救済し、死地を導く決意をしていたのだ。
それは確かに、ミハエルと共にありたいと強く願うリリクルには、到底できない長としての役目だった。リリクルはしばしミハエルを瞠目したまま動けなかった。
そして。
「………はい………ッ!」
涙ながらに、ディレルの決定を受け入れる。しかし、感情が高まった理由はそれだけでなく、リリクルの秘めた感情をこうもあっさりとディレルには見抜かれていたとは、と、赤面ものだったのだ。
ディレルからするなら、リリクルなどおしめが取れたばかりのがきんちょにも等しい。口の端に笑みを浮かべるディレル。子供たちの成長を喜ぶのも、老いたものの特権、というものだ。
「………うむ。………シシは、受け入れておるのか?」
「………はい。わたくしは、ディディ様、族長の思し召しのままに」
若くして苦渋の選択を迫られる、ディディクトの妻シシスナはすべてを受け入れた表情だった。ディディクト同様、晴れ晴れとした、まことに戦士として天晴れな覚悟だった。
それに引き換えると、リリクルは戦士として未熟、となるであろうか。
しかし、人としてその未熟もまたよし、だった。
「そうか、婆も、すべてを知っておったというわけでもなかったか。………すまぬな、ミハエル殿、プロンゾの、最後のわがままを、受け入れてはくれぬか」
「………しかし、他に方法を模索すべきでは………」
事態に狼狽するばかりのミハエル。
そこまで世故長けていないのがミハエルだ。
「我らは誇り高き戦士。戦士だからこそ、剣に命をぶつけるからこそ、晴れるものもあるというものでございます。ミハエル殿には、損な役割を押し付けて大変申し訳ないのですが、これも融和のための一歩、と受け入れていただきたい」
丁寧にお辞儀をするディディクト。
そこに、恨みだのなんだの、という感情の揺らぎはいっさいない。まるで、はるかな悟りに至った聖人のような風格だった。
剣以外に道はあるだろう、と、回らなくなった頭で、それでも考えるミハエルの肩を、ノルベルトがつかむ。
「………いつもの、捕縛でいいじゃねぇか。何も、殺さなきゃいけねぇわけでもあるまい」
ささやく。
「そ、そうですね。………わ、わかりました。お受けいたします」
ノルベルトとて、ディディクトらの決死の覚悟がわからないわけではない。きっと、死闘が待っているだろう。そして、その先も………。しかし、最悪の結末は逃れたいま、どんな提案であろうと呑むしかないということもまた、わかっていた。
「………感謝いたします。では、一戦の地はヴィルグリカス平原で。双方、存分に力をふるえるよう一週間後を期して再会いたしましょう。良き強敵であらんことを。………では、族長としての、最後の命令です」
静かに、ディディクトはリリクルに、居住まいを正して向き直る。
「新しい族長はリリ、あなたです。これからのプロンゾを率いて、頑張ってください」
にっこりと微笑むディディクト。
「――――ッ!! わ、わたしに族長としての器などない、ディディ兄が一番ふさわしいというのに――――!」
「ふふ、わたしも、族長の器ではないのですよ。好き勝手なことをしてすいません。でも、好きな道を選択できてわたしは幸せです」
ふんわりと笑うディディクト。
決死の覚悟をなしたものとは到底思えない、晴れやかな笑みだった。
いや、決死の覚悟をすでになし終えたからこそ、ここまで晴れやかなのだろう。
「ミミ、おいで」
泣きじゃくっていたミミクルをディディクトが呼ぶ。
いままで、立場をわきまえて控えていたミミクルが、だっと駆けてディディクトに元にゆく。ミミクルは、優しい異母兄が大好きなのだった。
「………ディディ兄様、いかないでください………ッ!」
むせび泣く。
「ごめんね。………でも、誰かがしなければいけないことだから。………わたしだからこそ、できることなのです。わたしだからこそ、しなければいけないことなのです。リリを、族長を支えて、これからのプロンゾをお願いいたします。そしてディルツ騎士団とともに長の繁栄を、プロンゾにもたらしてください」
「でも、でも………ッ!」
「大丈夫。婆様もいますし、族長も、ニーモ様もいらっしゃる。それに――――」
ディディクトがミハエルを見る。
「ミハエル殿ならば、プロンゾに無体を強いることなくより良き道を指し示してくださるであろう。本当に、ミハエル殿が折衝を担ってくれたのはプロンゾにとっても望外の奇跡でありました。ミミも、これからは伸び伸びとしていられるでしょう」
「………」
ディルツ騎士団との戦争が終わり、プロンゾの帰化がなれば巫女とても隠れ続けるいわれはない。
「そうだの。母なる大樹のそばでしか生きられぬ、巫女という立場ももはや時代にそぐわぬのやも知れぬな。いい機会じゃミミよ、そなたはリリと共に新しき世を見届けよ」
「………え?」
ミミクルが驚きで大きな目をさらに大きく見開く。
巫女とは、森とともにあり、森とともに死ぬ定めであった。それ以外にはないはずだった。
「婆がすぐにでも死ぬと思うか?」
「………それはッ」
「であろう。あと100年でも200年でも生きてみせるぞ。はっはっは! ここまでこざっぱりとなった森なら、婆で十二分。そなたは見聞を広め、新たなプロンゾを導く魁となるのだ。それに、ミハエル殿と初対面でもあるまい」
「――――知っておられたのですか!?」
「この婆に、隠し事ができると思うてか」
にんまりと微笑むディレル。
「いや、怒っておるのではないぞ。引っ込み思案がすぎるところがあったそなたに、そこまでの激情があったとはな。驚いたぞ。嬉しい驚きよ。リリを思うての行動、それはまことに重要よ。これからも、姉妹力を尽くすのだ。二人がおれば、プロンゾは安泰。ディディを、見送ってやろうではないか」
「ですが………」
「戦士の誉れは、家族の晴れやかな見送りよ。戦士の門出を、涙で汚すなかれ」
「………はい。ディディ兄様に、我らがご先祖様のご加護がありますように」
厳しくプロンゾとしての心構えをもって諭され、観念するミミクル。涙ながらに深々とお辞儀をしてディディクトの戦勝を祈る。
「すいません、婆様。………これで、心残りはありません。では、我々は一戦に向けて出立いたします。リリ、ミミ、達者で暮らすのですよ」
すっと立ち上がり、賛同するプロンゾたちを率いて出立するディディクト。
ミハエルの前に立つ。
「あなたとは、出会い方が違えばきっと親友になれたでしょうね。しかし、不幸にして敵と味方という立場に分かれてしまった。我々は、それぞれに与えられた役割を担うだけ。ならば、それと諦めてお互いの全力を尽くしましょう」
「ディディクトさん………」
泣き出しそうな顔をしてディディクトを見つめるミハエル。
「ふふっ! 安心しました。さっきあったばかりのわたしにここまで情けをかけてくれるあなただ、もはや、何も思い残すことはない。あなたなら、すべてを託すことができる。リリを、ミミを、プロンゾをお願いいたします」
深々とお辞儀をして、ミハエルに心の底からの謝意を表すディディクト。
「すいません、わたしたちはちょっとずるをしますが、驚かないでくださいね」
ミハエルにかろうじて聞こえる程度の小声で告げて、後は振り返らずに去るディディクト。
「良き強敵であれ」
相対する戦士に対し最大限の敬意を払い、去るのであった。
一難去ってまた一難。
しかし、ディディクトのいうように、自身が背負う役割を果たさねばならない。
ミハエルは、うつむいて、強く手を握り締めたのであった。