鉄拳修道女 カトリーナ・フォン・ブラウツヴァイク (三十三)~帰還の宴~
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自室を前にしてたたずむグナクト・フォン・プロンゾ。
飽きるほど見慣れたはずの自室の扉も、南方の、砂と岩以外には何もない不毛な大地や立ち眩みがするほどの凶悪な陽光、海と空の境目が分からなくなってしまいそうな大海原の下に駆けずり回るほどの経験の後こうして眺めると、いささか新鮮に感じるのであった。あの、広大無辺な世界の、ぞっとするほどの茫漠さに比べると、偉大に感じた『アトゥーレトゥーロ』の、何と小さなものであろうか。
こんな小さな世界でひっそりと世をはかなんで終わろうとしていたのか、と思うとグナクトの胸中も、さすがに複雑な感情がよぎるのであった。
何も知らず、何も見ず、何も感じることなく。ただただ己の不運と不徳を恨んで怒って、腐って腐り果てて死ぬのを待つのみだった己が、こうして帰ってきた。
運命の不思議さに、ただ唖然たらざるを得ない。
「……帰った」
無骨な扉を開ける。
「えっ、お前様、お戻りですか!?」
鏡台の前で座っていたイーナム・ディームが、驚いて立ち上がる。
銀髪のごとき色素の薄いシルバーブロンドの長髪を、ただ後ろでひとまとめにしただけの簡素なヘアースタイルに、化粧っけのない相貌。だが、ミミクルが成長すればこのようになるのであろうと想像させるに足る美貌を備えていた。
リリクルと比べると活発さという点では劣るが、母親ならではの、柔弱の中に秘められた隠然たる生気を感じさせた。例えるのなら、どれほど強く引き絞っても決して折れない、プロンゾの長弓のような、しなやかさの中にある強靭な芯の強さ。
いわゆる、柔弱は剛強に勝つ、である。
久しぶりに目に入る妻の美貌に、グナクトも目を細める。
「うむ、南方で用済みになったのとコボルドに備えてな」
「まあ……、それは、無事のご帰還、大変喜ばしゅう存じます」
戦士を出迎える妻として、グナクトの妻として、恐々として深々と頭を下げるイーナム。
だが。
その瞬間、グナクトの変化に気がつくのであった。
「おっ、お前様、その腕は!?」
グナクトの無くしたはずの右腕が存在していることに気がついたのだ。また、グナクトの変化に気がついたのは腕だけではない、全体的にまとう雰囲気、腕をなくし荒れていた以前ならば絶対に感じられなかったほどの充実し、完熟したかのような雰囲気、族長を廃された時のような世をはかなみ恨んで死に体となっていた時とは別人のような雰囲気を、誰よりも敏感に察したのである。
何より、真っ先に腕に気がついた、というよりも、グナクトの身にまとう雰囲気の激変ぶりに、同時発生的に腕の変化にも気が付かされた、と言うべきであろう。以前ならば、用済みになった、などと口に出そうものならすでに怒気をはらんでいたはずだからだ。
そういう変化に気が付かないようでは、グナクトの妻など務まらない。いや、さすがに妻ならずとも、ひと目で分かるほどの変化だったのだが、恐々とした心がそれをさせなかっただけだ。
「うむ……。ミミに治してもらったのだ」
「ミミが……っ! もしや、天使の御業ですか!?」
「聡いな。そうだ。ミミを加護する天使には、なくした腕であろうと治してしまう業があるのだ」
「まあ……! 天上の神々は、なんと素敵な御使いを授けてくれたのでしょう!」
「うむ」
改めて、かつて自分で自切した右腕をさする。
「……人生で、これほど感謝した瞬間は、ついぞなかった」
丸太のようなごつい右腕をさすり、グナクトはふっと笑みをこぼす。
刹那、
衝撃を受けて固まってしまうイーナム。
グナクトを、目をまるまると開けて見入ってしまうのであった。
「……なんだ」
バツが悪そうにするグナクトに、イーナムは様々な感情が一挙に胸中に溢れ、苦しくなって窮してしまうのであった。
そして、まるで津波のように色んな思いや感情や思考の波にもまれた結果、そこに残った言葉があった。
ただ、
救われたのだ、と。
「……どうやら、様々な経験をなさったようですね」
「……泣くほどのことか。……まぁな」
微笑むイーナムの、なんとも慈愛に満ちた目からほろほろと涙がこぼれ落ち、ますますバツが悪い顔をするグナクトであった。いたたまれず、がしがしと頭をかく。
「まあ、確かに色んな目にあった」
「……はい」
「十字軍とやらに駆り出されたはいいが、何も手柄もあげられず、何の戦も起こらず、何よりあの砂漠とやらの凶悪な暑さには閉口させられた」
「まあ」
「信じられるか? 砂と岩石しかない世界だぞ。一切の植物の生えぬ、不毛の地。そんなところに人が住んでおるだけでも驚きだがそんな不毛の地を巡って、亜人どもと血みどろの戦をしておるのだ。正気の沙汰ではないわ」
「では、ディレル様がたくさん必要ですね」
「う、うむ、他にだ、南方の海も見てきたのだ。焼けるような強烈な日差しに、冗談ではなく干からびそうになって、そこから飛び込んだ海の爽快さは一生忘れられんな。どこまでも底が見渡せて、北の海では想像もできんような色鮮やかな生物が群れておるのだ、さすがのワシも息を呑んだぞ」
「見てみたいです」
多くのプロンゾ人がいまだ目にしたこともない、南方の景色の数々、グナクトはまるで童心に帰ったかのようにその景色や体験の数々を語るのであった。それというのも、こうして思い出話、土産話を話せるような存在は、グナクトにとってはイーナムしかいなかったから。
そんなグナクトを、まるで母親のようにひとつひとつに答えるイーナム。
ディーム族から戦利品としてさらわれて長い年月が経ったが、いままでの人生では想像すらできなかった、夢見ることすら許されなかった日々がいま終わりを告げ、穏やかな、暖かな、夫婦としての時間がそこにはあったのだ。長旅でもさして疲労を感じさせないグナクトを小さなイーナムがまるで包みこむようにいざなって、敷物に座り果実酒を木のコップに注いで一息つかせ、そしてとっくりと土産話に耳を傾ける。
ふと、果実酒を口に含み一息ついたグナクトの目が、先程イーナムが座っていた鏡台に注がれる。
「しかし、何だこの見慣れぬものは」
組み立て式の鏡台がでんと据え付けられていたのだ。当然、化粧をするという習いのないプロンゾ人に馴染みのあるものではない。ましてや、材木に腐食や劣化を防止するための塗装を施すなどということもしない。家具程度ならばいつでも換えがきくからで、高級家具などというものはプロンゾにはなかったのだ。ガラタリアの、神聖ガロマン皇帝フリーデルン二世の王宮でもなければ目にすることもなかったようなものがそこにあるわけで、朴訥、というかいささか粗野なここアトゥーレトゥーロには場違いな感じがしないでもない。
ちらっと、プロンゾにさらわれてきた当初の震えるイーナムの姿がグナクトの脳裏に浮かんだが、考えを払う。
「はい、あの、客人が是非にと。貴族たるもの、化粧も衣服のごとく身にまとうものだと。そう言われましても持て余しておりまして」
「ジャンか。まあ、邪魔にならぬならよかろう。まあ、それはいい。そうだ、無為に時間をつぶしておった時に、リリクルたちがやってきたのだ」
「今回の旅の目的ですね」
「うむ。そこで、カトリーナが、ああ、カトリーナというのがミミの親友でな、来ておるから後で会うとよい。そのカトリーナが天使には奇跡の業があると指南してくれたのだ」
「まあっ」
ミミクルが熱心に語るカトリーナ・フォン・ブラウツヴァイクがついにやってきたのか、とイーナムは笑みをこぼす。
「……巨大な、まことに巨大な天使を召喚し、ワシの腕を瞬時に、まるで初めから失ってなどいなかったかのように治してくれたのだ……」
「……すごいですね」
「腕を取り戻したのも衝撃的だったが、あの天使の、端倪すべからざる強大さは、生き物としての限界を教えられた心地であった。まさしく、天使は超常の存在であった」
「誰よりもお強い、お前様よりも、ですか……」
「比ぶべくもない。人としての枠に閉じ込められておるワシらなんぞ虫けらも同然よ」
「まぁ……」
「思い知らされた。巫女様のような埒外もあるが、天使の強大さはその比ではない。そして、そんな強大な存在が、ミミを、守護しにやってきたというのだ。今までの考え、常識を、足元から粉砕された心地であった」
「……」
そう、語るグナクトの目には、深遠な彩りがあった。
怒気をはらみ、常に何かに当たり散らしていた時とは、別次元の目の色合い。
グナクトが語るように、今回の旅でグナクトが得たものは想像以上、人生を根幹から作り変えてしまうほどの出来事の連続であったのだ。これまでの、目前の、目の当たりにしたものしか感受できない生活ではない、本当の、世界の広さ、世界の奥深さをその身で体験してきたのだ。思い知らされてきたのだ。
表層だけでしか知覚していなかった人生ではない、もっとずっと、重層、深層の世界を覗いてきた。その目の彩りが、そう、物語っているのであった。
イーナムは、そのグナクトの目の輝きに見入ってしまっていた。
「それから、厄介なことが起こったと、ミハエルの手駒どもが騒ぐからレオポルトと共に駆けつけてな、行けば亜人どもが船団を率いて港を襲っておる最中よ」
「それは、まぁ」
「だが数だけは揃えたが、所詮は烏合の衆、見上げるほどでかいトカゲの化け物を一刀両断にしてやり、スキュラも焼き尽くしてやった。……それにな」
「それに?」
「船を引きずり込まんほどの大蛸も現れおった。だが、大蛸は、木偶にされておって、まともに戦うこともできん、哀れなナリよ」
「戦えない……」
「下衆な魔道具で木偶にされておったのだ。見るに忍びんから介錯してやったが、もし、まともに意識があれば、ワシとて無事ではすまんかったろう。もったいないことよ」
「もったいない……」
イーナムの脳裏に、溢れんばかりの力をその身に宿しながら、ここアトゥーレトゥーロで腐り果てていたグナクトの姿が浮ぶ。その、自身の経験、心が腐り果ててしまうほどの体験があったからこそ、他の生き物に憐憫の情を覚える、心に沁みるほどの精神に至れたのだ。
だから、大蛸に「介錯」をしてやろうという気になったのであろう。
人は、苦労を知るからこそ成長をすると言うが、まさしくグナクトはいままでの人生でも計り知れないほどの成長を成し遂げていたのだ。いままでのグナクトを知るものの一人として、驚愕するほどの衝撃であった。だが、心地よい衝撃でもあった。
「大蛸は木偶と成り果て、果てて大海に没したが、ワシはこうして腕を取り戻し亜人海賊どもを蹴散らしてやった。久しぶりに全力を出し尽くし、陶然たる心地の中、まばゆいばかりの海の輝きの中で、ワシは心底安堵した」
「安堵、ですか?」
「ワシは、ここで腐っておっても、腐り果てて魂まで腐らせることなく、己を見失うことなく、己を捨て去ることなく、己を、なくしてしまうことなく、力を取り戻すことができた」
「……お前様」
「それは、どうしてかを、ようやく悟ったのだ。それはここ、アトゥーレトゥーロで、どうしようもなく心を荒ませ、誰彼構わず当たり散らしていたにも関わらず、ワシを見捨てなかったものがいたからだ。……だから、ワシは大蛸のようにはならんかった」
グナクトの目が、まっすぐにイーナムを見つめる。
「……お前、様」
「思い知らされた。ワシは、何と懐の深い、慈悲深い、妻がおったのだろうか、と。最後の最後で、ワシを引き止めていてくれる存在がおらなかったら、とっくに首を掻っ切って果てておったろう。……ワシは、お前のおかげでこうして今がある」
「……」
「……ワシを見捨てず、文句一つ言わず面倒を見てくれたからこそ、今のワシがある。心の底から、感謝する。ワシを、救ってくれて、ありがとう。……腕なんぞより、よっぽどなくしてはいかんものを、ワシは失わなんで心の底から安堵したのだ。本当に、ありがとうな」
巨躯を折りたたんで、頭を下げるグナクト。
彼が、この一連の旅路の中で得た最大のもの。
常に自分に寄り添い、自分を見捨てず、逃げ出さず、何があっても慈しんでいてくれた存在の、ありがたさ。その、唯一のありがたさを、素直に感謝するという心根を、グナクトは得ることができたのであった。
それは、戦士として、力を取り戻したから。
それは、無くしたものを再び取り戻したから。
いや。
それ以前に、自暴自棄になって、自分ですら自分を捨ててしまいたくなるような時でも、自分を捨てないでいてくれた、かけがえのない存在があったからこそ、その事態がありえたのだ。
本当に、大事なもの、大切なものは何なのか、腕を取り戻した以上に、なくしてはいけないものはなんだったのか、を素直に、真摯に、受け止めることにできる心を養うことのできた旅であった、とグナクトはそう思うのであった。
そして。
目に、たくさんの涙を浮かべたイーナムは、満面の笑みを浮かべながら、ぽつりとこぼした。
「……当然の、ことですから」
と。
※ ※ ※ ※ ※
「よし、皆、そろったな。では、まずは皆の無事の帰還、そして、プロンゾが晴れて貴族となれたことを祝おうではないか。リリクル、一言申せ」
「はい」
アトゥーレトゥーロの広間。
なみなみと注がれたはちみつ酒を手に立ち上がるリリクル。
すでに広間にはミハエルらも着座していた。他にも、近場の集落の長が集まっていた。その中には、ミハエルが初めてグナクトに会談を挑む時に顔を合わせた長もいる。復興事業が共同で行われつつも、なんだかんだで久しぶりの対面に、ミハエルらはねんごろに挨拶を交わしたのであった。
巫女であるディレル・ピロンゾは玉座というべき席があり、机に料理が盛られているが、それ以外の皆はすべて敷物を敷いて座っている。さらに、ヨハンが選り分けてきたザーモスの切り身が、ディレルの皿には多目に盛ってある。
単純に、ディレルのはわがままである。
「ザーモスいっぱいくれんかったら末代まで呪う。この場合、お前が末代だけどな!」
と言われて断れる者はいない。
ちなみに、グナクトの皿には皆と同じ分量のザーモスが盛られている。人八倍食べるからといって特別に盛れるほどザーモスはいないからで、その代わりと言っては何だが、普通の人間だったら見ているだけで胸が焼けそうなほど鹿肉が焼いて盛ってある。旅路でも、食事が始まる前にふらりと森に入って驚くべき嗅覚で鹿なら一頭、うさぎや猪ならば抱えるほど狩ってくるのである。いま皿に盛ってある鹿肉も帰途の途中で狩ってきたものだ。
しかし、熊を狩って背負ってきた時には皆が皆、開いた口が塞がらず、出さなかったがとある一言が出そうになった。
共ぐ、
これ以上は控えよう。
「こうして皆に集まってもらって祝ってもらえること。感謝の至りだ。我らがプロンゾも、晴れて貴族の仲間入りと相成り、押しも押されもされない立場になれたことに、ひとまず安堵している。このことに関して、ミハエルを抜きに語ることなどできない。まずは、ミハエルに感謝の言葉を述べたいと思う。多年の尽力に、プロンゾを代表して感謝する。ありがとう。そして、これからもプロンゾをよろしく頼む」
「はい」
プロンゾの人々が、ミハエルに向かって思い思いに頭を下げる。それを、ミハエルは面映い心地で受けた。ちなみに、そして、の続きの言葉を、これからも馬車馬のように働け、と口にしたくてしょうがないリリクルだったが場をわきまえたということである。少しばかり大人になったな、と内心満足するリリクルである。
「しかし、当初は乗り気ではなかったガラタリアまでの長期の旅路であったが、得るものは多かった。珍しい文物に、何より蠱惑的な陽光に陽気な人々の気質。住む土地が違えばここまで変わるものかと、圧巻の一言だった。そう考えると、我らプロンゾもこれからますますより良く変われるであろうと確信を得ることができた。このような北の最果てのような地だが、小さく縮こまっている状況ではない、門戸を開き、もっとたくさんの知識や技術を導入し、よりプロンゾの躍進を果たさねばならないのである。とはいえまずは、皆も長旅の疲れを癒やすべくプロンゾの料理を心ゆくまで堪能してくれ。乾杯だ」
リリクルの音頭に、皆が盃を傾ける。
飲み干すまで、途中でやめようなどというものはミミクルとイーナム以外には誰もいない。
「さて。このまま食事を続けてもらって構わないが、今後の懸念を考えたいと思う。まず何より、このアトゥーレトゥーロだ」
「屋敷がこんな近くに来て助かったであろう」
ザーモスを頬張りながらディレルが言う。
「町の衆に迷惑かけているでしょうが。ずっとここに、というわけにもいきますまい」
「しょうがないの。なら、この湖のど真ん中においてやるか。そうすればザーモス取り放題だろうしな」
「ほほう。真冬に氷の張った湖に佇むアトゥーレトゥーロは、さぞかし底冷えするでしょうな。却下」
「立ってるのが邪魔、ってんなら横倒しにしてみちゃどうだい?」
ノルベルト・グリモワール。すごいアイデアを閃いたぜ、という顔つきだ。
「倒木と一緒にするな! 却下だ、ばかもん!」
「ちい。ほれ、ミハエルもなんか考えてみろ」
「そうですね、では、穴を200メートルほど掘り抜いて……」
「御神木を何と心得る! 真面目に考えろ! ばかもん!」
「ならば、対岸でよかろう」
不毛な応酬にうんざりした顔でグナクトが発言する。その横には甲斐甲斐しく世話を焼くイーナムがいた。まるで新婚のような親密ぶりである。
「対岸の森か。まあ、妥当なところか。仕方あるまい、最適の立地と思うたが明日から場を整えるか」
「やれやれ。初めからそこにしておけばよかったものを」
「町に近いほうが便利と思うたのよ」
「アトゥーレトゥーロは御神木にして、いわば居城、城に便利さを求めないでいただきたい」
王侯貴族というものは普段の執務などは町に居館を構えて取り仕切るが、防戦ともなると山などにそびえる城に籠もるものだ。当然、城というものは攻めにくさを想定するものであり移動するだけでも一苦労な構造になっている。大都市ならともかく、平時と戦時の建物は別物なのである。
「分かった分かった。まったく、親の心子知らずとはこのことよ。いや、孫知らずか。それはともかくミハエル殿、今後のディルツ騎士団の動きはどういう予定かの?」
「はい、詳しくはノルベルトお願いします」
「おう。レオポルト総長とも話し合いましたが、コボルドの動き方次第では今後、ディルツ騎士団としても兵一万の増強を見込んでおり、そのための砦の増改築を想定しております。また、それと関連してイーナム様の故地、ディーム族との融和、連携も視野に入れつつ内政強化、が目下の方針であります。そこで、プロンゾの皆様には一万の増派に備えた食糧生産や物資の増産も担っていただきたいと考えております」
ミハエルに促されたノルベルト・グリモワールが発言する。
「ほう、随分と割くではないか」
「あまり大きな声では言えませんが、南方で手すきになった人員の口減らし、という理由が大きいですね」
「なるほどな」
前回の十字軍遠征によって、レプティリアンと長期に渡って和睦が締結、聖地を守る十字軍騎士、兵士も戦場がなくなって働き場を求めているという事情もあると言うわけだ。
北方十字軍ならこうして平時ならライ麦を育てることもできるが、不毛な南方では満足に耕作することすらできない。そんな場所にただただ兵士を配置すれば、食料の輸送だけでもバカにならないのである。
レプティリアンたちは、自身の背後に肥沃な大地を掩有し、食料、兵士、物資、そのほとんどを潤沢に有しているのだ。そんな強大な勢力に対して、不毛な砂漠地帯に戦力を維持する十字軍勢力は常に不利な状態なのである。
「とはいえ、ようやく復興の緒に就いたばかりのアルクスネに、いきなり一万の増派は食糧事情的にも都合が悪いので、コボルドの動きに合わせて、良く言えば高度に柔軟性を維持しつつの展開、悪く言えばその場しのぎでやってゆく他ないといったところです」
「ふむ、まあ、歴史を見返しても、完全な想定下での推移などありえぬだろうしな。コボルドがこの冬でどれほどの動きを見せるかで何とか対応せねばならんということか」
「ディレル様、食料増産に関して意見具申がありますが、よろしいでしょうか」
「ほう、ジャン殿か、いかがした」
ジャン・ウブリアムが緊張の面持ちで挙手する。
「は、ありがとうございます。わたくしどもがこれまでここ、アトゥーレトゥーロで滞在し伺ったところ、何でも巫女ディレル様はこのプロンゾの大森林の成長を促進させておられるとか」
「まあな」
それがどうした、といった顔つきの面々。
「木々の成長にまで影響を及ぼせるほどの魔力。それをガラス生産に使われているとのことですが、材木という利用から言いますと、近年とみに巨大化が進んでいる船舶の利用も考えられます。ですが、現在世界でもっとも進んだ主要生産地はヴェッティネアであり、木材を運搬する費用を考えますと現実的ではない。しかし、木材ではなく、草、草花、つまり、ライ麦の成長ならば? と思った次第であります」
「なんと」
いままで誰も想像もしてこなかった創案に、一同が感心する。そんな周囲を見て得意げなジャン。
「一万ものディルツ騎士団の増派に備えて、巫女様のお力をライ麦に注げば、案外、はやく食料備蓄はなるかもしれません」
「……ふむ、なるほどな。プロンゾはこれまで狩猟採集にのみ明け暮れておったが、これからは農業に手を広げねばならん。その魔力の一端をライ麦に注ぐこともできねばならんということか」
「はい。他にも、我々が草花を利用しているものは数多くあります。この蜂蜜酒もそうでしょうが、例えば、木綿。とはいえ、木綿は霜が降りる地には不適当ではありますが、しかし、麻や、亜麻があります。麻や亜麻は寒冷地でも育ちますし、しかも麻は非常に生育が早く、日常着こなせる衣服として毛織物以上にプロンゾにとって親和性が高いと言えるでしょう」
「何と、そうか……」
この時代、繊維はまだまだ希少であり、衣服は非常に高価な代物だ。庶民が簡単に買えたり買い替えたりできるようなものではない。通常、庶民なら二着の衣服を着回して生活する。何着も衣服があるのは裕福な証だ。
毛皮で衣服を作っていたプロンゾからすれば、毛織物だって珍しいが麻、亜麻の衣服だって貴重なものとなる。しかも、それが巨木ではなく、草、一年草で育つとなればその有用性は計り知れない。
「もし、麻や亜麻で織物が作れ、さらに巫女様の魔力によって大量生産が可能となれば……」
「ほう」
キラリと、いや、ギラリと。リリクルの目が輝く。
「つまり、金が儲かるということか」
直截にすぎる発言である。
「単刀直入に申し上げますと、ずばりそうです。さらにまだあります」
「まだあるのか」
「果実酒にも使われるこの、クワの木からも貴重な生産が見込めます」
「果実以外にも利用法があると?」
「はい。それは、絹です。絹はカイコという虫が出すものですが、絹は非常に美しく、王侯貴族が喉から手が出るほど欲すもの。しかも、その主要生産地はガラタリア。クワの木から生産することを考えれば、プロンゾとも非常に親和性の高い産業として育つことが見込めるでしょう」
「ほほう。世界とは、こうも木々を利用しておるものだな」
逆に言えば、どうしてここまで巨木に親しんでおりながら、内に閉じこもって何も知らなかったのかと、これまでのプロンゾのありように疑問を呈せざるを得ないリリクルである。
「はい。また、昨今のユーロペタにおいて増産が望まれるものがあります」
「何だそれは」
「プロンゾでも、学校を設立しようという動きもあるようで、それがなくてはならぬもの」
「ええい、もったいぶらずにとっとと言わんか」
「紙です」
「紙?」
「はい。紙です。ガラタリアでも近年増産の計画が進んでおりますが、紙の増産は学校の普及なども併せて、知識を広げる、共有するという上で欠くべからざるものでございます」
「なるほどな。羊皮紙などと比べても、確かに、原料を考えればプロンゾこそが増産が見込めるか」
ふうむ、と考え込むノルベルト。
「はい。紙の原料は藁とか、先程申し上げた、麻や亜麻、他にもさまざまな草や樹皮が繊維として利用可能であり、これもプロンゾとして親和性の高い産業として育つ可能性があるでしょう。紙の増産は、ユーロペタ全域で使われ消費される、希求されるもの。もしこれらが生産されるとなった時には……」
「ふふふ。うなるほどの金がやってくるではないか!」
何やら怪しげなオーラを発し始めるリリクル。他のプロンゾの人々も窮状を打破できると知って浮足立つ。
「とはいえ、そんなに急務にしないほうが良いぞ」
興奮し始めたリリクルに対して、冷ややかな雰囲気のノルベルト。
「どうしてだ? 金儲けができる可能性があって、その可能性を止める必要性がどこにある」
「まさしく、その金儲け、の部分だ。食糧生産は歓迎すべきだが、これで様々な産業が一気に花開いてプロンゾが金のなる木だと分かった瞬間、周辺が黙ってないぞ」
「む……」
苦虫を噛んだような表情になるリリクルとジャン。
「今までは、巨木しかない僻地の戦闘民族、ということで周辺国も本腰を入れて手出ししなかったかも知れんが、今後、稼ぎ方次第では何をしでかすやも知れんし、金のあるところに人はタカるもんだ。宗教だってそうだ。それに、本国のディルツ騎士団の無用の口出しを避けるためにも、下手に手を出すと火傷するぜ、ってことを知らしめておかんといかん」
「下手に手を出して来たお前らがいうと、説得力があるな」
じと目でノルベルトをにらみ据えるリリクル。
「あんなもんじゃすまないぜ、という関係者なりの助言さ。どうして、今のいままでプロンゾが巫女という存在を秘匿していたのか、これで分かった気がするぜ?」
にこやかな表情でウインクするノルベルト。
「うぐ……」
「確かに、力を持てば人はそれを使いたくなるしその力がさらなる混迷を生む。人の世とはまさしくそれの繰り返しだからな。とはいえ、プロンゾはすでに秘したる力を揮うことを抑えることをやめた。となると、手を出すと火傷する、ということを周辺に知らしめるのが、一番単純ではあるか」
ノルベルトの指摘に言葉に窮するリリクルに、ディレルがつぶやくように言う。
どうしていままでプロンゾ人が巫女という超常の力を利用しなかったか。それは、利用しようなどと考えそれを当たり前のものしてしまい、力の存在が周辺に知れれば、それを利用しようとするものが近づいて来かねないからだ。
だから、プロンゾ人は自明のこととして巫女を秘匿するのが当然だった。逆に言えば部外者だからこそ卑俗的な巫女の利用を考えられるのである。そのことに気づいて、ジャンは自分の浅慮を恥じる。
だが、ディレルは内に閉じこもるのではなく、外に出ることを望んだ。巫女の、活用を望んだ。
それは、必然として巫女自身が戦場の矢面に立つことになる。だがそれもまた、巫女の望むこと。
「アホの集まり、ディルツ騎士団を繰り返すようでなんですが、とはいえ、人の世はその単純なことでしか成り立っていないのも事実。プロンゾ人が周辺から恐れられるほどの実力を有するのが一番でしょう」
力で屈しないためには力を有す。
殴られたから殴り返す、くらいにオツムの悪い論理だが、人の世というのはその程度で成り立っているのを歴史が何より証明している。人という生き物が未来永劫進化できないことを如実に示す事実である。
そして、自らの力を隠匿することをやめ、世に打って出ることを決めたプロンゾも今後この、力こそパワー、という非常にオツムの悪く、しかしこれ以上分かりやすい言葉はない世界に生きてゆくことが運命づけられる。もっとも、力を隠し、他者に一方的に蹂躙されるという事態が避けられることは確かだ。
どちらが良かったか、は後世、生き残ったものが判断するだろう。死んだものは草下に黙して語らない。
「ふむ、そこでわらわの出番か」
いままで静かに成り行きを眺めていたカトリーナが声を発する。
「わらわのお母様が発案せし身体強化の魔法があれば、さすがに周辺に覇を唱えずとも、無粋な色目を使われることもなくなるであろう、まあ、すべてはプロンゾ人にいかほど魔力適正があるか、にはなろうが」
肝腎の戦士たちがどうなのかはこれからになるが、ピウサ修道院での、激戦を生き残ったのだ。わずかとは言え共に寝泊まりして、魔力の素養があること、そこまで可能性がないわけではないことをカトリーナは感じ取っていた。
カトリーナが凄腕の召喚術師であり、武闘家であることは、すでにプロンゾでは有名になっている。そのカトリーナの指南があると知れれば、戦士としてこれほど頼もしいことはないだろう。カトリーナとシシスナ・プリムゾが視線を交わして今後が楽しみだと微笑んだ。
「んむ。急進ではなく、漸進に、か。よし、ジャンよ、その麻や亜麻、カイコとやらはどこにある?」
「はい、ガラタリアには取引はあるかと」
とはいえ、養蚕の技術はそうそう簡単には売ってはくれないだろうが、ヴィッテンブルン大公の名があれば不可能ではない。
金のなる技術や種子を、そうほいほいと売り渡すものがそうそういるはずがないので、貴族の威光を傘に着て、というと何だが、交渉材料にするわけである。もちろん、商売であるから双方利になるよう、交易品で払うわけだが、それにしたって安い買い物ではない。
「よし、持ってまいれ!」
「はい、え、は、……え?」
リリクルの、今すぐ行って来い、とか、捧げて当然、といった雰囲気に周章狼狽するジャン。もちろん、ある程度の裁量は任されているとはいえ、召使いに過ぎないジャンにそこまで特権はないわけだ。
「え? じゃないぞ、善は急げだ。今すぐ取りに行ってまいれ!」
「やめんか。欲に目の色が変わっておるぞ、ばかもの。いったい何であがなうつもりだ。プロンゾに対価があると思うてか」
「は、いえ、今後、プロンゾの産物を商う上での便宜を図っていただけましたら後払いでも可能ではございますが……」
ジャンが上げた生産物が、今後、プロンゾ産として各地に輸出するとなるなれば、その売却費は大きなものとなるだろう。マタライ・フォン・ヴィルダッシュにかわって数々の交渉を取りまとめてきたジャンなら、自身の裁量で契約も行える。もっとも、プロンゾにはない種子がうまく芽吹くか、根付くかすら何も試していないのだ。現段階では完全に捕らぬ狸の皮算用である。
また、紙の製造技術とて様々な器具や技術が必要で、いますぐとって来れるものでもない。プロンゾに生えている植物をひとつひとつ調べるか、原料を栽培し、そこから紙にするための製法を学んでゆくのだ。ガラタリアにいる職人に教えを請うたり、輸送を考えれば下手すれば年単位で時間がかかる。興奮して勢いで行うものではない。
漸進に、と言っている本人が一番急進的だったというわけだ。
「リリクル嬢がいつか、金貨の風呂に入っている姿が今から目に浮かぶぜ。まあ、銅臭くさくならないところが唯一の救いか?」
ニヤリと笑うノルベルト。
「う、うるさいばか!」
「やれやれ、素朴なプロンゾからどうしてこうも強欲が生まれたのか、育て方を違えたかのぅ」
やれやれ、と頭を振るディレル。
「とはいえ、目下のところ、ただちに実行可能と言えば、ライ麦増産か。ミミの巫女修行にもちょうどよかろう、ミミや、さっそく明日からライ麦を回ってみるか?」
「はい! 皆様のお役に立てるならば」
元気に返事をするミミクル。
どこぞの強欲娘に比べると、無邪気な様子に目を細めざるを得ないディレルである。
「ジャン殿、貴重な献策痛み入る。今後とも良き支援を頼むぞ」
「もったいなきお言葉、わたくしごときの愚策でよければいつでもお使いください」
「……をい、ミハエルも何か案を出せ」
「えっ、いえ、あるのならすでに出してます」
気の利くジャンのありように、何か釈然としないリリクルがミハエルにふるが、当然、幼い頃から修道騎士になるべく実家から放り出されたミハエルに、商売に関する妙案などぽんぽんと出てくるはずもない。
「そうだ、案で思い出したわい、リリよ。今年の『黄泉帰り』の祭りはアルクスネの民も参加する大々的なものにしようと思うがどうか」
リリクルの案、という言葉にディレルが思い出して言う。
「……そうですね、アトゥーレトゥーロもアルクスネ近くに来たことですし、それも良いでしょう」
「何ですか、その黄泉帰りとは」
「死者を祭るプロンゾの催しだ。ほら、アトゥーレトゥーロの天辺には盛大にかがり火をたいて、『ヴォールホン』我らが父祖のおわす楽天より年に一度だけ、我が家に帰られる死者を祭ると言っていただろう。いつもは晩夏にプロンゾ人だけで行うものだったのだが、もっと大々的にやってもいいんじゃないか、という案がでていたんだ」
「なるほど」
一年に一度、死者が帰ってきて家族と過ごす、という習慣は世界中どこにでもあるし、クルダス教にもある。閉鎖的に終止していたプロンゾが、大々的に門戸を開くべき、という考えを皆で共有するというのも悪い話ではない。
「それと、例のあれもやるぞ」
「えっ、本気ですか!?」
「今のプロンゾにできることと言えばあれくらいしかあるまい。ミミも、練習を頑張るんだよ」
「はい、かしこまりました」
「……」
ディレルの否やを言わせぬ雰囲気に、がっくりと項垂れるリリクルに、わずかに頬を染めるミミクルである。
「何をするのですか?」
「そ、その時まで内緒だ」
「まあ、何をするのかはさておき、別に取って食おうってわけでもあるまい、楽しみにして待とうぜ。それより、アルクスネの全住民とプロンゾ全住民を巻き込んだ祭りともなれば、それこそ今から準備しないと間に合わないんじゃないか?」
ミハエルが尋ねるが、リリクルは恥ずかしげにするだけだった。そんなリリクルたちの様子を楽しげに眺めるノルベルトである。
「そうだな。ジャン殿よ、以前に話しておった通りだ。手伝いを頼むぞ」
「はい」
「なにはともあれだ、プロンゾの明るい未来に、もう一度乾杯といくか」
ディレルの音頭に、皆が再度盃を干すのであった。
神に祈りを! Y 神に感謝を! orz
さて。恒例の、正しく日本語を遣いたいのお時間です。どうも、日本語を正しく遣おう実行委員の豊臣亨です。
比ぶべくもない
これは最近知ったのですが、わたしは以前から「比べるべくもない」だと思っておりましたが、正しくは「比ぶべくもない」のだそうです。グルグル日本語翻訳には出ませんけどね! これはとあるアニメの違法サイトで知ったのであります。こういう違法サイトって、色んなコメントがあるから、結構勉強になるんですよね。これも、論語にいう時習になるんでしょうけど、違法サイトで習ってんじゃねぇよ、とかいう意見も微レ存(これはグルグルに出でてくる…)。
また、これも林先生のことば検定で知ったのですが、昨今のアニメをみておりますと、
「あなたは夢の中でわたしにどんなことしてニヤけてるのかしら~ ああぁ~」
という歌を聞いたことのある諸兄も多い(?)かと存じますが、このニヤける、意味はご存知でしょうか。
ニヨニヨする?
違うそうで、
正しくは、ナヨナヨする、だそう。
漢字で書くと「若気る」若者がふにゃふにゃしているのを言っている、とかもしくは男娼が媚を売っていることを言ったんだとか。
知らない日本語だらけです。
また、今回、亜麻を調べておると人様のブログでこういうトリビアの泉が。
亜麻のことを英語で、リネンとか、リンネルといいますが、フランス語ではラン、ドイツ語ではライネンというとか。リネン室といえば、昔はシーツだの何だのはすべてリネンで統一していたからそういう名になったとか。また、ランジェリーという言葉もフランス語のラン、の部屋着の総称のことだそうな。へ~、ですね。
また、草下に黙す。
ネットで調べましたが、こんな言葉はないみたい?? くさか、としか出ませんでした。または、草下隠、と書いてくさしたがくる。ってありましたが何か雰囲気でねぇw わたしはそうか、で読んでおりまして、土中のことを草下、と読んでも良さげですが、本当に日本語としてないのかしらん?
あと、銅臭。
銅臭紛々といい、元ネタは「その銅臭を厭うのみ」といいまして、金に薄汚い金持ちを揶揄した言葉です。金貨の風呂だったら銅の匂いはつかないよな、という意味も絡めて皮肉ったわけですね。リリクルさんには一応通じておりますw ちなみに、当時はまだ金貨は一般には流通していなかったとか。
また、ちょいと旧聞に属するネタではありますが、ネットで記事を読んでおりますと、こういう言葉が。
「38歳で夭逝したカラヴァッジョ」
これを見てぶふぉ、と吹き出さないお人は、日本語の習熟度がまだまだかもです。いや、読めねぇ、とか言ってたら駄目w この記事自体はネットでまだ残っているようですが(去年のネタでしたw)、意味は、ネットですぐに出るからこれは自力で調べた方が身につくかもです。弱冠、と同じく間違えが多い言葉ですね。
と言ったところで、今回はこんなところで。したらばなぁ~。




