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天と地と人  作者: 豊臣 亨
二章  鉄拳修道女 カトリーナ・フォン・ブラウツヴァイク
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鉄拳修道女 カトリーナ・フォン・ブラウツヴァイク (二十五)

5/17 誤字やら色々訂正。




ドガアァァッッ



 亜人海賊船団の本船、親玉のいる大型ガレーに飛び移ったグナクト・フォン・プロンゾ。


 船体中央部に降り立ちすばやく船内に目を配った。周囲にいるのはリザードマンやマーマン。だが、先程までのと比べると、さらに訓練が行き届き戦意も士気も高い様子だった。それら亜人たちはグナクトに対して弓を構えるでも剣を構えるでもなく、ただ、船の側舷をぐるりと取り囲むように整列している。異常なまでの静寂だった。


 そんな異様なまでに完璧に統率された亜人を統御しているのは、海賊共の親玉。グナクトは周囲がまったく動く気配がないことを見て取ると、前方に目を移した。眼前にいるのは、


 上半身は絶世の美女にして、下半身は魚。


 普通目には人魚、マーメイドと思ってしまうが、そうではないものがあった。


 背後から七本もの触手が伸び、その先端部が上半身だけの犬となっておりそれが空中を漂っているのだ。


 スキュラだった。さすがにグナクトも人魚は知ってはいても背中から犬を生やした存在、スキュラまでは知らない。


「………船長は魔物か」


 そう呟いた。


 どこぞの王侯貴族を倒して奪ったのだろう、黄金の甲冑に身を包み、甲冑の上に極上の絹で出来た透き通るほどに薄いローブをまとい、頭には同様の美麗なティアラを載せ艶然と微笑む美女。手にはこれまた金銀で飾り立てた扇をもっている。

 

 紫がかった銀色の髪は長く、さらさらと流れている。目は大きくそして切れ長で美しい。真っ赤な口紅で彩り、甲冑に身を包まれていても肉感的な身体が推し量れた。雰囲気もその姿も、甲冑と等しく王侯貴族のもつ存在感であった。


 そんな悠然たる美女とは対照的に、触手の先端が変化した上半身だけの犬は凶悪な顔でそろってグナクトをにらみうなり声を上げていた。見た目もそうだが、美女の背後から伸びているにも関わらず先端にいたって巨大になっており、顔の大きさだけで一メートル近く。犬の上半身全体で三メートル。絶世の美女とは隔絶して対照的な存在感だった。七本あるこれら触手の猛犬ひとつだけでもグナクトと同等の大きさをもつ。地獄の番犬ケルベロスにだって負けていない大きさだった。


 一目見ただけで強者であることを誰もが納得せざるを得ない、とびきりの化け物であった。


 そして、そのスキュラの周囲には竪琴をもった人魚がいた。こちらもマーメイドではなく、セイレーン。スキュラを頭として戴き、亜人同様にかしずき静寂そのものだった。そのさらに後ろには、ノルベルト・グリモワールにこっぴどくのされた人間の船長がいるのだが、グナクトの目は一瞥で雑魚と識別された。


 周囲は炎上し、たちまち沈没、海中に逃げた亜人でひどい有様だが、この船内だけは別世界のような落ち着きであり、逆に乗り込んだグナクトこそが野蛮な闖入者なのではないかと錯覚する。


 撃退行動も何もない静かな船内に、グナクトはさすがに一方的な蹂躙を逡巡した。そんなグナクトをみて、さらに艶然とスキュラが笑う。


「………せっかく集めた手ごまをこうもやすやすと打ち砕くとは、人間にしてはなかなかの手練れ。しかし、なかなかの活躍もここまでじゃ」


 しなを作って微笑む。


「妾には勝てんぞ。せっかくの活躍じゃ、今回だけは見逃してやろう。大人しくここから泳いで帰らば、命はとらぬ」


 炎熱剣を握ったグナクトを眼前にしても、圧倒的強者、という姿勢にはいっさいの動揺もない。


 艶かしくしなを作って微笑んだまま、最大限の譲歩を提供したのであった。


 一方的に攻め込んで来ておきながら手痛い反撃を食らって大船団を壊滅されそして、それを行ったものを見逃す、といっているのだ。無茶苦茶なようだが、亜人海賊の船長であるスキュラも普通だったら自分たちが被害だけこうむって手打ちにする提案などするはずもなかったのだ。そう、普通だったのなら。


 単騎で乗り込んできて海賊船団を壊滅に追い込み、もはや本船にも乗り移ってきたのは超常の戦士である。


 このまま激突となれば、グナクトを撃退できるであろう、だが、そのために自分たちもどれほどの被害を出すか分からないのであった。本船以外のガレーは全滅、亜人海賊の被害も甚大だ。これを再建するなど、長年海賊を率いてきたスキュラにも想像もつかない規模で崩壊してしまったのだ。


 話では生意気な人間がいるだけ、の話だった。その程度の人間など町ごと潰して思い知らせる、それだけのつもりで侵攻を開始したのにこんな超常の戦士が出てくるなど、聞いていない、と金切り声を上げたい気分だった。


 出来るなら、面子だけは保ってここは手打ちにしたい。そう、考えていたのだ。


 だが、交渉する相手は、グナクト。


 全力を出していても、それでも物足りないとまで思っていたのだ。ここで、はいそうですか、と大人しく引き下がるわけがなかった。


「………フン。涙が出るほどありがたい提案だが、手ごわき獲物を目の前にして逃げ去れとは無体な言いようだな」


「ほほ。主の命を刈り取るなど、造作もなきこと。………多少、出来たところで、妾は多少ごときでは太刀打ちできぬぞ。それとも、体験でしか物事を理解できぬ阿呆かの?」


 扇で口元を隠しつつ、グナクトを嗤う。隠したのは口元だけではない。冷や汗も同様に隠していた。


 だが。


 グナクトも嗤った。


「せっかくの手ごまとやらを火達磨にされた奴が吐く言葉が、それか?」


 ぎりっ、とスキュラから歯軋りが響く。


 ここまで配下の前で面子を潰されてはもはや収まりはつかない。


 スキュラは一瞬瞑目し、腹をくくった。


「………ほほ。そこまで言うのなら、客人を手ぶらで帰すのも無作法。体験させてやろうぞ。………死を楽しむとよいわッ! 唄えよ、娘たち!」


 扇をグナクトに突き出す。


 同時に、セイレーンが竪琴を奏で始めた。


 そして、歌唱。


 セイレーンの歌声には強力な催眠効果がある。


 並みのものならすぐに眠ってしまうだろう。だが。


「………小ざかしい」


 わずかな眠気を感じたところで、グナクトは龍革甲冑の隙間の己の皮膚を炎熱剣であぶっていた。


 今や、数千度にも達した炎熱剣に皮膚を焼かれるとすぐに炭化する。激しい痛みにさいなまれ、眠気などどこかへ吹っ飛んだ。それに、そもそもプロンゾ人はかつては強力な魔法をこなした民族であり、いまや魔法を扱えるものは小数になってしまったとはいえ魔法に対する耐性はいまもって強い。


 歌唱を媒体とした心理に作用する変則的な催眠魔法といえど、防げないことはないのだ。


 ちなみに、数千度にも達する炎熱剣の握り部分、柄は龍革甲冑と同じ素材であるドラゴンの鱗でできている。鱗を積層構造で加工し柄の形にしているのだ。そうすることで数千度の炎にも耐えられるし、激しい衝撃にも耐えられる。また、そういう構造なので握りの部分も相当な太さがある。身長三メートルのグナクトだからこそ握れるという大きな剣なわけである。


 ここが最後の戦い。


 グナクトは大きく息を吸って天を仰いだ。


「………手ごわき怨敵あれかし! 父祖の神々よ、我が戦いをご照覧あれッッ!!」


 プロンゾ戦士の雄たけびをあげグナクトは勇躍して踊りかかった。


 セイレーンなどもはや気にする必要はない。目指すは親玉のみ。


「痴れ者がッ!!」


 狙いは自分。理解したスキュラが激昂する。


 触手の犬が吠え、グナクトに飛び掛る。


 ひとつだけでも犬は三メートル。咬まれればただではすまないだろう。しかも、速い。でかい図体をまるで感じさせずクロスボウから放たれた矢のようにすさまじい速度でグナクトに迫る。しかも、触手の長さには際限はないらしい。大きな弧の軌道を描いたり様々な動きを見せる。スキュラ本体から自在に伸び縮みしているのか長さの限界は計り知れない。巨大さと速度もあいまって普通のものだったら悲鳴をあげそうになるほどの恐怖。


「ちい!」


 ひとつだけでもグナクトと同じ大きさがあるにも関わらず、そのすべてが迫ってくるのだ。大きく口を開け迫ってくる一本をなぎ払うのだが、横から、上から、背後から、触手はグナクトを噛み砕かんと迫った。


 食われる。そう判断し、噛み付かんと迫る犬の鼻面を踏み、跳躍して逃れる。


 この戦場で初めて死を意識し、グナクトは戦慄を覚える。


 だが、同時に得がたき強敵にめぐり合えたことに歓喜も覚えるのであった。


 確かに、自信たっぷりに見逃してやる、というだけのことはある。


 グナクトといえどすぐには倒せない。


 しかし、炎熱剣の斬撃を浴びた一本の犬は膨大な熱量にあぶられて炎上している。熱量に耐えたりできるわけではないのだ。


 つまり、この攻撃をあと六回叩き込めばそれで事足りる。


 グナクトはそう見込んだ。


 だが。


「………ほほほ」


 スキュラが扇で顔を隠して笑う。


「ひとつひとつ焼き払えばいい。いま、そう思ったであろう?」


 燃え盛る触手が根元であるスキュラの方へ縮んでゆく。


 グナクトの目には縮んでゆく触手が、かすれてぼけてゆくように見えた。


 かすれ、ぼやけた触手がスキュラの背後に完全に隠れた直後。完全に元通りになった触手が、現れたのであった。


「このわんこは、妾の霊物質。妾ある限り生み出せる。いくらでも斬って捨ててもよいのじゃぞ?」


 優艶な微笑み。


 絶対的な自信の根源。


「………フンッ」


 無限のように生み出せるのだろうが、それでもグナクトの炎熱剣のように結構なエネルギーを消費しているはずだ。


 とはいえ、それを易々と生み出し続けられると宣言するいうことは、莫大な生命力を保持しているという裏打ちであろう。グナクトと同様の化け物、ということだ。


「客人をもてなすのは長のつとめ。今度は………こちらからいくのじゃ!」


 蘇ったばかりの触手が伸び、マストに咬み突くとスキュラ自身が跳躍してグナクトに接近する。そして、全触手がグナクトに襲い掛かる。


「………フンッ!」


 迫る触手を斬って、跳躍し、さらに別の触手を斬る。


 だが、様々な角度から襲い掛かる触手を斬りつつ、逃げるのは至難だった。


 亜人海賊を統御する大きな軍用ガレーの本船、といえど迫ってくるスキュラの触手は一本だけで三メートルほどの大きさがありそれが七本ある。横に並べれば21メートル。横でなら船から出てしまうほどの大きさだ。


 ましてやグナクトも巨漢。俊敏さに絶対の自信があるグナクトもこのような敵に囲まれた狭い場所では本来の力を発揮しにくい。


 ぎりぎりのところで何とか触手をかわし、斬って、突き刺して、なぎ払う。


 しかし、スキュラ自身が近くに迫っているのだ。斬られた触手をただちに再生する。さらに、スキュラは触手の一本を片手ずつ手に宿してグナクトに殴りかかってきた。三メートルの犬を拳にして殴りかかってくるのである。すさまじい勢いであった。


「ほほほッ! 妾のおもてなしはどうじゃ!?」


 しかし、下半身の魚体は機動性に欠ける。それに対する方法は単純明快だった。


 何とスキュラは二本の触手を脚代わりにして軽快に立ち回り、二本の拳で殴りかかって、残り三本で変則的な攻撃を仕掛けて来るのだ。


 見た目に反して、恐ろしいまでのパワーファイターである。


 軽快にステップを踏んでのボディブロー。


 踏み込んでのアッパー。


 跳躍してのブーメランフック。


 それらの一連の攻撃とは別に、遊撃ともいうべき変則的に触手が別方向から襲い掛かるのだ。反撃はおろか、避けるのに懸命にならざるをえなかった。


 超戦士たるグナクトだからこそ、その攻撃をよけ、回避し防ぐことができた。グナクト以外の人間にこの攻撃をかわせるものがいるとは思えない。逆に言えば、このような奇抜な行動を恐ろしいレベルで習熟しているスキュラも、確かに見事だった。


「………無茶しやがる」


 グナクトは必死によけ、剣でさばき、逃げ場所を探す。


 狭い船内でここまで縦横に暴れられるのは、グナクトとて分が悪い。亜人の船員は、グナクトが近づくと武器を構えてその背後を脅かしてくるのだ。今や船内はグナクトを取り囲む死の囲いとなっていた。


 逃げようにも、残りすべての船を沈めているから逃げようはない。海中に逃げた瞬間、炎熱剣の優位性を失ったグナクト目がけて今も海中にいる亜人たちが殺到してくるだろう。


 グナクトが生き残るには、このパワーファイターたるスキュラを倒す以外に道はない。


 そう思ったグナクトは、だが、笑みを浮かべた。


「ほほっ、恐怖でおかしくなったか!?」


 グナクトの笑みを目ざとく見つけたスキュラが、勘違いして嗤う。


 そして飛び回し蹴り。


 ただの回し蹴りではない。犬が咆哮し霊物質であろうか、よだれを垂れ流しながら、隙あらば咬み付かんとしているのだ。恐るべき攻撃だ。だが。


「フンッ!」


 瞬時に踏み込んだグナクトが触手を中間で斬り飛ばす。


「くっ」


 斬り飛ばされた犬の上半身が自身の遠心力に従って飛び、囲いとなっている亜人にぶち当たって海中に没する。ぶち当たった亜人も巻き込まれて三人ほど落ちた。


 スキュラはすぐに残りの触手を脚代わりにして軽快にステップを踏んで体勢を立て直した。


「なかなか気の利いたもてなしだ。それでこそ、手ごわき怨敵。………これは返礼よ」


 踏み込む。


 巨漢をまったく感じさせない駿足。瞬く間に距離を詰め、スキュラに斬りかかった。


「うぐっ!」


 撃退する余裕などない。


 触手を宿した両手で防ぐ。



ザバッッ!



 その両手の触手はあっけなく斬られ、しかも、その炎は手にもうつる。


「ぐくっ!」

 

 慌てて別の触手を宿し、火を消すスキュラ。グナクトの追撃に気づいて大きく跳躍し逃げる。


 渾身の斬撃を逃げられ、グナクトは体勢を立て直す。


 剣を突きつけ、スキュラを嗤った。


「………お前の失策よ。いくら触手を再生できようとも、わしの剣を防げん以上接近戦に持ち込むべきではなかったのだ」


「し、痴れ者め………」


 グナクトの言い分が正しいと理解したスキュラが歯軋りして悔しがる。


 認めたくはないが、確かに炎熱剣の威力は脅威。迂闊に懐に飛び込むのは自殺行為だ。スキュラは大人しく遠距離攻撃に移った。


 確かに、己が身を炎熱剣の前にさらすのは危険が大きすぎる。だが、触手の攻撃ならいまだ優位性は失ってはいない。


「………忠言、遠慮なく入れようぞ。むしろ、妾の油断をつかなかったことを、後悔させてやろうぞ」


 慢心を戒め、触手を仕掛ける。


 グナクトは自信の亜人海賊を壊滅に追い込むほどの手練れなのだ。でも、もはや油断はない。


 これまで以上の警戒と、これまで以上の戦いで屠る。


 スキュラの頬に笑みが浮かぶ。


「主様よ。その見事な戦いに恥じぬ、妾の全力を見せようぞ!」


 ただの人間ではない。対等な存在として戦う。


 スキュラはグナクトの認識をさらにひきあげ尊敬の念をすら抱いた。


 間断なく触手をけし掛け、治し、グナクトに瞬時も攻撃に転じさせる隙を与えず、スキュラは魔法を唱える。


 七本の触手がグナクトを翻弄し、離れた瞬間、触手を自切し、切り捨てるスキュラ。


 切られた触手の犬は、まずグナクトの足元に張り付いた。そしてそれを見て、他の触手の犬も明確な意図をもってそれぞれ甲板に張り付く。だが、その行動の意味が分からずグナクトは周囲を見回す。そして、意図に気づき、離脱を図ったがすでに遅かった。


「海龍神リヴァイアサン。古の契約、古の誓い、古の親愛によって今こそ我が願い、聞き届けたまえ! 手遅れじゃ! ――――阥叱冰洨!」


 それは触手を使った魔法。


 自切し置かれた触手たる犬が媒体となって六芒星を描き、そして中央に置かれた犬がさらに威力を高める七星陣という魔方陣。


 魔方陣の内部の空気が一瞬にして凍る。そしてその凍った空気は無数の氷の刃を作り出して、グナクト目がけて、正確には足元に転がる自切された犬が氷の刃を招くことで降り注ぐ。


「ぐおお!」


 炎熱剣で防ぐ。


 炎熱剣が無数の氷の刃を受けその強力な熱量を失ってゆき、魔方陣の中に水蒸気を発生させる。そして、それだけでなく、グナクト自身にも氷の刃が牙を向く。


 龍革甲冑が恐ろしい速度と威力で襲い掛かる氷の刃を防ぐが、龍革甲冑に覆われていない右腕がひどい裂傷を負い、さらに凍傷を受ける。


「ぐぬッ!」


 せっかく取り戻した右腕。また失いたくない。龍革甲冑がある左腕でグナクトは必死に右腕を守った。


 身動きも出来ず、ただただ攻撃がやむのを耐えるしかない。


 今までの人生でも味わったことのない絶望的なまでに長い時間がグナクトをさいなむ。


 やがて、魔方陣の起点となった触手の犬が、かすれぼけて消えゆく。


 魔方陣の効果もそこまでだった。起点を失って魔法の統制が散逸する。辺りに、炎熱剣によって発生した水蒸気があふれた。


「………やったじゃろ」


 膨大な魔力を使い、肩を上下させ息をするスキュラ。


 油断なく、触手を再生させる。


 触手を用いた体術だけでも本来十分で、この攻撃を耐え抜いたものがいただけでも驚愕ものなのだが、スキュラがもつ最大最強の魔方陣を使ったのも相当久しぶりだ。


 この魔法を食らって生きたものなど、いたことはないし、いるはずもない。


 さすがにスキュラにも勝ちの自信は揺るがない。


 油断はしていないが、これでもし、倒せていないとするなら………。


 徐々に薄れゆく水蒸気に、目をこらすスキュラ。


 その視界に、赤い光が飛来するのは刹那のことだった。


「なッ!?」


 あれはあの者の魔法剣!


 水蒸気のベールを突き破り、雷のごとく跳躍してくるのは炎熱剣を水平に構えるグナクト。


 理解するより先に、意識は防衛に向けられた。スキュラを守るべく触手が前面に展開される、しかし、一瞬遅かった。


 雷光の如く跳躍し迫るグナクト。


 氷によって覆われた龍革甲冑、右腕は氷の刃を受けボロボロだった。ところどころ骨が見えるほどの重度の裂傷に重度の凍傷。滴る血も凍りついているのではと思われた。


 炎熱剣を左手に持ち替え、スキュラ目がけて跳ぶ必死の形相はまさしく悪鬼そのものだった。しかも、熱を失ったはずの炎熱剣が、真紅を超え白く発光していた。グナクトの燃え上がる生命を得て、瞬時に息を吹き返したのだ。


「ひッ!」


 悪鬼の形相と化したグナクトににらみ据えられ、心胆を冷やしたスキュラが小さく悲鳴をあげる。そして、触手による全力の防御。グナクトは触手の犬に、左足を、わき腹を咬まれ、遅れじと次々に触手が殺到する。


 それでも、わずかにグナクトの方が先んじていた。


「ぎぃあああぁぁぁッッ!!」


 炎熱剣が、スキュラの胸を貫く。スキュラも黄金の甲冑をまとってはいたが、多分に装飾の意味合いが強いものらしく何の抵抗もなく剣に易々と貫かれた。


 凶悪な熱量に体を焼かれて苦しげにばたばたと暴れながら、グナクトの左腕に触手を噛み付かせて剣を抜こうと、恐らく無意識にであろう、右手で剣を握って抜こうとするが、燃えて落ちた。それでも触手が最後の抵抗を示す。


 しかし。


「………燃えろ」


 目からも火を噴きそうなグナクトの眼光。


 吐く息は白い。


 全身はいまだ、氷の刃によって凍えている。だが、そんなことは何の瑕疵(かし)にもならないと、グナクトの生命は激しく燃え上がっていた。己のもつ命、すべてを叩きつけるかのように剣を握り締める。


「ぎぃ、ぎゃがああああああああぁぁぁッッ!!」


 剣に体の内部からあぶられ、やがて爆発的に燃え上がるスキュラ。


 地獄のような猛火に全身を焼かれ、それでも救いを求めてもがき、グナクトに燃える左腕を伸ばし、龍革の兜をひっかく。だが、やがて力尽きた。


 燃え、崩れるスキュラに、触手も消える。グナクトは、開放され甲板に降り立った。


「………いかん。半殺しどころか消し炭にしてしまった」


 ボスを捕らえて今回の事件の落とし前をつける。のはずだったが勢いあまって殺してしまった。


 なら、代わりになる者はいないか周囲を見渡すが、親玉たるスキュラを殺された亜人たちに、もはや戦意はなかった。グナクトを恐れ慄くのみ。


「………おい」


 一歩踏み出し、ひれ伏す亜人たちを呼ぶ。だが、グナクトに畏怖した亜人たちは悲鳴をあげて逃げ惑った。


「ここで皆殺しにされたいか、それとも手打ちとするか、選べ」


 グナクトとしても町に戻らねばならない。グナクトも相当の傷を負いもはや皆殺しを実行できる余裕はなかった。何とか根性でスキュラを倒したものの、強大な魔力に体は蝕まれ負ったダメージも軽くはない。意識が遠のきかける。敵がまごつくのならもはや選択肢は皆殺ししかないのだが。


 さて、どうしたものか、と思案にくれていると、場にそぐわない音が周囲に響いた。



ドコドコドコ



 太鼓の音色。


 グナクトが視線をそちらにやる。船内に乗り込んだ時に即座に雑魚とみなした人間が鳴らしていた。必死の形相で一心不乱に太鼓を素手で打ち鳴らしている。こんな状況で、とち狂って太鼓を鳴らすには、鳴らすだけの理由があるはず。


 その理由とはなんだ、と考えていると、海の状況がさらに悪化していることに気付くグナクト。


 太鼓が鳴り始めてさらに豪雨がひどくなり今や嵐と化している。風も強く吹き、大型ガレーといえど大きく揺れていた。


――――何か呼んでいるのか?


 直感的にそう感じたグナクト。警戒して周囲を見回した。


 得体の知れない何かが、海中から浮上してくる気配を感じた。


 来る。


 身構えた。


 しかし、いくら待っても海中から姿を現す様子はない。


 何だ?


 体を沈め、いつでも炎熱剣で切り伏せられる体勢をとる。


 その刹那だった。


 脚をすくわれ、一気にひかれ甲板に倒れ伏す。


「なにッ!?」


 気配は感じなかったはずだ。それが、どうして奇襲を受けたのか。今も己の脚を引っ張る存在に目を向ける。


 巨大な触手。

 

 だが、スキュラのものではない。


 もっと別のもの。


「何だ!?」


 強力な吸盤でグナクトの脚に絡みつくと、恐ろしいまでの力で引きずり回す。


 そして、海中からそれは姿を現した。


 森深く生きてきたグナクトは見たことはない。それは巨大な蛸の脚だった。

 

「がーはっはっは!! こんなこともあろうかと連れて来ておいて正解だったぜ! わしのペットに食われてしまえやッ!」


 人間の船長が太鼓を叩くのをやめ、グナクトを指差して吠えた。


 それをじろりとにらみ、どうやらあの太鼓で化け物を操っており、そしてあれが交渉の糸口か、と認識する。半殺し決定。だが今は触手に目をやる。今はこの化け物の相手が先決。


 力も壮絶に強いが、速さもあった。あっという間に持ち上げられ空中高く持ち上げられる。


「グッ」


 海中から姿を現した大蛸の姿は異様な巨大さだった。優に十メートル以上いや、二十メートルはあるか。とんでもない化け物だった。嵐となり昼間のはずが薄暗い世界となった海上に姿を現した大蛸は、まさしく伝説級のモンスターだった。


 海中からグナクトを吊り上げる触手以外にも七本の触手が伸びているのが視界に入った。


 もし、脚だけではなく四肢すべてに触手で絡まれ自由を奪れれば一巻の終わりだ。どこにあるか分からぬ口で食われるのをただ待つほかはない。


「まずはその邪魔な剣を封じてしまえ!」

 

 人間の船長が吠える。


 その声に従って触手が炎熱剣を握る左腕目がけて進み寄ってくる。


 剣を持つ左腕の自由を失うとつむ。


 必死になって剣を振り回すグナクト。まさかこんな隠し玉があったとは。


「くそがっ!」

 

 剣を握る腕目がけて触手が襲い掛かる。だが、ほんのわずかでも剣が触れると、触手はその強烈な熱量にあぶられて引っ込めた。ぬらぬらと得体の知れない粘膜に覆われた触手は普通に切っただけではほとんど効果がなさそうだが、強大な熱には弱いのだ。


「よし!」


 スキュラと同じく、熱に強いわけではない。


 ならばどうとにでもなる。


「ええいッ! 腕が駄目なら両足を引きちぎれ!」


 地団太を踏んで人間の船長が怒鳴る。


「させるか!」


 引き上げられ、逆さまに向いたグナクトが上半身を起こした。そして、自身の脚に絡み付いて万力のように締め上げていた触手に剣を突き刺した。龍革甲冑の強固な装甲が悲鳴をあげていたが、ようやく開放された。


 だが、開放されてももはやそこは大型ガレーのあった場所ではない。眼下は海。


 グナクトは投げ出された。もし、このまま海中に落ちてしまえば強烈な炎熱剣といえど圧倒的な海水に熱を奪われてしまう。そして今度は亜人どころか、目の前の大蛸に食われてしまう。


 何かないか。


 それでも諦めないグナクト、視野に入るものがあった。


 大蛸の触手が、グナクトを逃がすまいと触手を伸ばしてきたのだ。


 船長の命令が利いていた結果だ。


 もっと思考のできる生物なら、このまま海中に没した方がいいと考えたであろう、だが、相手は命令に従うだけの木偶。規格外の化け物といえど思考能力がなければ価値はない。そこに明暗あったのだ。


「阿呆め!」


 にやり、と笑うグナクト。


 落下するグナクトを掴まえんとする触手に、自ら右手を伸ばす。


 そして、反射的に絡んできた触手を握り、渾身の力を込めてグナクトは右手を引いた。


「うぐっ!」


 激烈な痛みにグナクトも声をあげる。


 骨が露出するほど深手を負った右腕で無理をしすぎたのだ。だが、いま無理をせねば二度はない。


 超常の力で右手を引き、剣で触手を焼ききる。そして、暴れる巨大な触手を蹴って跳躍する。


 目指すは大蛸の頭。


 グナクトより大きそうな目がこちらを見ているのが分かった。しかし、これほど巨大な生物であるにも関わらずさしたる意思を感じさせない。操り人形と化し、己の意思を失っているのだろうか。


「………哀れな化け物よ。いま開放してやろう」


 図体ばかりでかく、生きる意味を、生きる意思を失うのがどれほど悲惨か。


 それを少しは知るグナクトだからこそ、巨大蛸に憐憫の情を覚えた。


 他に開放する手段など知らない。出来ることは、その生という呪縛を解き放つのみ。


 炎熱剣を突き立てる。



ドドドドドドドォォォッッ!!



 巨大蛸が震えた。まさしく、地響きと称したくなるほどの鳴動。だが、グナクトは逃げもせず剣を突き立て続けた。


 つきたてた剣から炎が吹き上がる。燃えた組織が炭化し、その熱は巨大な蛸に移っていった。


「ぎゃああああーーッッ!」


 人間の船長の悲鳴も聞こえた。


 そして、すべての力をなくして海に浮かび上がる巨大蛸。


 あまりの巨大さゆえ、死んだのかどうかまでは分からない。それでも、他者に思考を支配されるという呪縛からは解放されるだろう、グナクトはそう思った。少なくとも、あの太鼓だけは燃やす。そう心に決めて、浮かび上がった巨大蛸の触手を歩いて大型ガレーに再び跳躍した。


 巨大蛸が倒れたことにより、嵐はただちにおさまってゆく。


 雨風はやみ、黒々とした暗雲も少しずつ消えてなくなってゆくのであった。


「うあ! うあうあうわッ!」


 最大の切り札を倒され、人間の船長が顔面蒼白となって後ずさった。


 そして、甲板に降り立つグナクト。


 瞬時に距離をつめ、まずは一発ぶん殴る。


「ぶげぇッ!」


 無様に甲板を転がり苦鳴をあげる船長。軽く殴っただけのはずだったが、すでに半死半生であった。


 炎熱剣を向ける。


「………で、小便ちびりながら命乞いする準備は出来たか?」


 巨大蛸を傀儡(くぐつ)に仕立て上げ、誇りも尊厳も奪っていたのだ。


 自身の人生もからんで、グナクトはここに来て一番頭にきていた。オーガですら裸足で逃げ出しそうな凶悪な顔でにらみつけた。半殺しのつもりだったが、それで済ますかどうか。自分を自制できるかどうか、グナクトにも分からなかった。


「ぐ、ぐげッ!」


 顔の下半分をぐしゃぐしゃにしながら、船長が後ずさった。アゴはすでに粉砕されていた。一生、食うに困ることだろう。


 ノルベルトも十二分につわものだったが、グナクトは次元が違う。満身創痍でありながらそれでもなお、燃え盛るように生命がオーラのように体中から立ち上っているのが、本当に見えるのだ。眼光も、あふれてしまいそうな生命で燃えるように爛々と輝いている。そんなものに真正面からにらみつけられたら並みの者ではそれだけで生きた心地はしない。

 

 生暖かいものが船長の股間を濡らした。


「………雑魚が」


 吐き捨てるグナクト。


 さすがに見る気も失せるほどの存在に、怒りも失せたのであった。


「………とまれ(ともあれ)、お前が首魁だな? 二度とこんなふざけた気を起こさぬよう、因果を含めてやるぞ………?」


 剣を背中に納め、船長の胸倉をつかんで持ち上げる。


 そして、咬みつけるほどの距離で地獄の亡者ですら真似できないような酷薄な笑顔を作り出す。


「ひぃひぎぃッ!」


「くくッ、死ぬより悲惨な目にあわせてやるからなッ!」


「ひぃぃぎゅあああああぁぁーーーッッ!!」


 晴れ間が差し込み始めた大型ガレーに、魂消る悲鳴がこだましたのであった。






 少年十字軍で何か話を作るか、とも思いましたが、ただの海賊騒ぎで終わったのでした。


 これぞ老荘思想家のおっさんくおりちー。

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