鉄拳修道女 カトリーナ・フォン・ブラウツヴァイク (十七)
5/17 誤字やら訂正。
目を覚ましたヨハン・ウランゲル。
自室のベッドから体を起こし、黙然と部屋を見渡す。
もう一度、我が家に帰って来たことを実感した。こうして戻ってみて改めて、ふたたびこの家に帰ってこられる日がこようとは思わなかったと、深い感慨にふけった。
部屋の様子は、ほとんど家出をした時のままだった。近所の友人と一緒に近海で使ったモリが錆びた状態で立てかけられているし、廃材を寄せ集めて作った、木組みの船もそのまま。今見れば、あまりにもお粗末でどうしてこんなものではしゃいで喜んでいたのかと、苦笑する。こうしてみるとほとんど何もない。いや、自室があるだけでもましな方だ。貧乏な家なら、家の中に食卓と簡易なキッチンがあるだけで自室などというものはない。家族がまとまって寝るだけだ。服だって数着ももてるのは裕福な方で、大概は一着二着洗って着まわす。
服を収納するクローゼットなんて、ディルツ騎士団に入るまで見たこともなかった。今では読み書きも出来るようになったが、庶民の子には勉強なんて受けるものなどいない。きっと、ヨハンが出した手紙だって、近くの神父に読んでもらったはずだ。字が読めないものは多くは神父などに読んでもらうのが当たり前だから。
部屋を出て、家を見渡す。
両親はもう港にいっているのだろう。漁師の朝は早い。日の出前に起きて出港、魚や貝などをとってそれを水揚げ、さばいて交易用に燻製にしたり干したりする。海洋は人間ですら食うような獰猛な生物が出没するが、それでも海産物は豊富でちょっと船で沖にでて網を投げれば満足できる程度は獲れる。食糧難が当たり前の世界で、港町なら食うには困らないし、安全にことが進むなら近海でも漁は成立するし買い手に困らないいい仕事だ。何かあればすぐに命に関わるような仕事なのだが、港町に生まれたものはそれ以外に生業を知らないし、どうせこの時代どこにいたって危険が隣り合わせなのはかわらない。むしろ、チチリカ島はいまのところ戦争とは無縁で幸せなくらいだ。
修道騎士たるヨハンも普通なら夜明け前に起きて礼拝をするのだが、酔いがあってつい寝すぎてしまった。
食卓には、乾いたパンがかごに入って上に布が置かれていた。木皿に注がれたスープにはおなべ用のフタがかぶせられていた。
ディルツ騎士団なら規模が大きい分誰かが食事をとったりしており、常に暖かい料理が期待できるが、庶民なら燃料の薪の消費にだって気を配らねばならない。暖かい食事を望むのは贅沢だ。
固いパンをかじり、魚介のスープを飲む。あまりにも固くなりすぎたパンはスープでふやかす。
ああ、こんな味だったなぁ、と、一人ヨハンは小さく笑う。
こんな貧相な料理でも、食事が出来るだけでもありがたい。そういえば、あの五人の子供たちはどうしただろうか、と感慨にふけっていると、
「ヨハン兄! いるッ?」
がらっと戸を開ける音。懐かしい声だった。
「ああ、いるぞ。久しぶりだな、ヨニ、とブレチェロ」
妹のヨニと、そのだんなのブレチェロが二人してやってきたのだ。
「もう! 出たときも突然なら帰って来るのも突然なんだから」
思わず、といった風でヨハンに抱きつくヨニ。
入れ替わるようにブレチェロとがっちりと抱き合う。
「本当に、久しぶりだな。まさか、ヨハンが生きて戻ってくるとは思わなかったよ」
「正直、僕もだ」
幼馴染の友人がやってきて、ヨハンも気兼ねなく本音が言えた。
昔に戻って、悪がきだった頃のように笑う。
ブレチェロは近所の友達の兄貴分のような存在だった。よく悪さもしたし、一緒に海に潜って魚や貝をとって食べたものだ。ヨハンが家出したのがもう十年も前のこと。同じ悪がきだったはずのブレチェロも随分と立派な、たくましい男の顔となっていた。
ヨニは子供の頃からしっかりとした子ではあったが、活発というよりは内気な子で家の中にいるのが好きだった。それで、小さい頃からブレチェロの母のタバサの営業する仕立て屋の仕事を手伝っていた。ヨハンが家出するまでは二人の仲がどうであったかはつまびらかではなかったが、夫婦となったのも自然の成り行きというものだろう。
「騎士団に入って、北方十字軍をやってるんだって?」
「うん。そこで、弓隊を率いさせてもらってるよ」
「すごいな。ヨハンは、子供の頃からの夢を、かなえたんだな」
騎士になって活躍する。
子供なら、誰でも憧れる夢だ。
「たまたま運が良かったんだ。十字軍が叫ばれ、騎士団が次々と結成されて、庶民でも騎士になれる時代だったからさ」
貴族でなければ騎士にはなれない。
そんなことが決められる時代ではない。
聖地では、亜人と戦う勇敢さと力をもつ者が求められた。そんな勝れたものなら庶民といえど騎士に取り立てて活躍させなければ、ありとあらゆる面で劣っている人類が亜人と伍して戦える状況ではなかったのだ。亜人の勢力は、自分たちの領域で、潤沢な物資と輸送、増援があり、しかも膂力、体力、どれをとっても並みの人間を上回っていたのである。
王侯貴族が率いるのならともかく、聖地で結成された騎士団には当初は総長だって貴族ではないものだっていたのだ。戦意高揚や部隊を率いさせる必要から、取り立てられるものなら何でも騎士に取り立てていたのである。
「いやいや、それでもさ。騎士になったからって誰でも活躍できるわけじゃない。そこで、一部隊でも率いて戦うなんて並みの人間では出来ないよ」
素直に賛意を表すブレチェロ。
ああ、子供の頃の自分と時間と思い出を共有した人たちがいる。そんなことで、ヨハンは胸が一杯になるのであった。
「で、ヨハン兄、ひと月近くいるんだって?」
港に出た両親がヨハンが帰って来た、と言っているのだろう。こういった話はあっという間に町を駆け巡る。
「うん、のんびりさせてもらうよ。ああ、そうだ、遅くなった。結婚、おめでとう」
「ん? ああ、そうか、ありがとう」
ブレチェロとヨニ、顔を見合わせ苦笑いのような笑みをこぼす。
新婚ならともかく、結婚してもうだいぶたつ。今更祝われると照れくさかった。
「家業をついだんだね」
「ああ、俺は、言ったとおりにはならなかったな。………お袋に、泣きつかれてね。仕方なしに始めたけど、やってみると案外おもしろくて。いかに生地を無駄にしないカットができるか、日常に耐えうる裁縫の方法とはとか、仕立ても奥が深いよ」
ブレチェロは、ヨハンが知る限りでは漁師になる、と豪語していた。
「ブレチェロは責任感が強かったから。そうなるのも当然だろうね」
兄貴分だったブレチェロ。責任感が強く、皆の面倒を良くみて途中で投げ出して諦めるような真似はしなかった。
「始めた頃はヨニにどれほど邪険に扱われたか」
「ちょっと、それは言わない約束でしょ!?」
「ははっ。二人にも会えたし、他の連中もどうなってるか。会いたいな」
「うん、まあ、他もぼちぼちってとこかな。ずっとのんびりできるんなら、そのうち顔を合わすさ」
「だね。………まあ、親父には驚いたけど」
「………あれは、いやな事件だった。とはいえ、漁師なら、誰もが覚悟してることさ。むしろ足ですんだと思うべきだろう。漁を終えて帰ってくる途中で、魚が満載だったからそっちが目当てだったらしく、ナックスさんは抵抗して足をやられたって。………命があれば何とかなる。こうして、ヨハンとも会えたし」
「………うん。………生活は、できてる?」
「ぼちぼち、ってとこね。二人して水揚げや加工とか手伝って、それなりの収入にはなるし。だから、ヨハン兄、気にしないでね。ヨハン兄がいなくても、いままでも何とかやってたし、これからもなんとかなるって」
「逃げ出した俺に、口出しはできないよ」
「そういう意味じゃないよ! ヨハン兄だって、ちゃんとやることやってるんだし、迷惑かけられない、って言ってるの」
「そうだよ。騎士を立派に務めることのほうが、よっぽど大変じゃないか。お金のことは何とかなるし、こっちだって援助はできる。ヨハンはヨハンにできることをするべきだし、考えるべきだ。気に病むことはないよ」
「………そう、かな」
「そうだよ」
「………うん、ありがとう。あんな悄然とした親父の姿なんて、想像もつかなかったから、ショックだったから、さ」
「そりゃ、生きがい奪われちゃ、しょうがないけど………。まあ、雷親父に逃げ出したヨハン兄としては、逃げ出した元凶があんなになっちゃって、ショックうけるのは分かるけどね。でも、それだからって、ヨハン兄が責任感じることじゃない。そもそも、お父さんも年だし、十年も経てばそりゃ少しは衰えるって」
「………はは、本人のいないとこで、とんでもないこと言ってるな」
「! お父さんに告げ口したら駄目なんだからね!」
「ははっ」
少し、安堵するヨハン。
そこに、
「ヨーハン君ー! あーそびーましょー!」
家の外から、大声で呼ぶ声があった。野太いおっさんの声で。
あの面子で、おっさんといえる人物は一人しかありえない。
「な、何だ?」
「ノルベルトさんだ………。恥ずかしいなぁ………」
「ええっ………」
困惑顔のブレチェロとヨニ。
「同じ騎士団仲間だよ。早速どこか案内しろって催促だと思う。何だったら、中に入ってもらう?」
「ヨハンの仲間なんだから、危険はないだろうけど、何人いる? 座ってもらう椅子は足りないかも。怒ったりしないかい?」
少々慌て気味のブレチェロ。
今は戦争とは縁がないチチリカ島とはいえ、十字軍騎士団の勇猛さ、剛強さはうわさには聞いている。昔はやんちゃしたブレチェロといえど、あの亜人と互角に戦う本物の騎士と喧嘩をしようなどと、露ほども考えない。それどころか、怒らせないように気を使わねばならないほどだ。
「変なとこはあるけど………みんな、気のいい人たちばかりだから、大丈夫。じゃあ呼んでくるよ」
あの四人の騎士が中に入ったら二人はどんな反応をするだろうか、と思うとすぐ、もし、この場にまさしく貴族然とした美男子であるミハエルや、王侯貴族ですら圧倒される美女であるリリクル・フォン・プロンゾ、ミミクル、妖精の神であるケット・シーのニーモが現れたら、二人はそれこそ、どんな反応を見せるだろうか、と想像して微笑を浮かべ、もう自分は騎士団の一員なのであってこの町で生活した自分は過去のものなんだな、と再認識するヨハンであった。
※ ※ ※ ※ ※
五日後。
そこまで大きくもない町なので五日もあればルルサマの町の歓楽街や酒場もあらかた巡り、そろそろ暇をもてあまし始めた一向。ハメを外す、と決めてやってきたから普段と打って変わって自由奔放だった。
暇のあまりに暴走して何をしでかすか分からなくなりつつあったので、ヨハンは町と自身の身を守るために釣りを提案する。
釣りだぁ? んな時間だけかかってイライラしそうな事しねぇよ。とあからさまに不満顔だったノルベルト・グリモワールを強引に引っ張って港の桟橋から海を見させた。水面下は生き物が豊富で、試しとヨハンが竿を垂らすとぱくっと食いついてからとたんに顔色が変わった。
そんな彼らをヨハンの子供の頃お気に入りだった磯に案内し皆で釣りを始める。
エサをつけて竿を垂らせばさして時間も掛からず魚が食いつく。始めての本格的な釣りに夢中になった。沖の釣りに較べてそんな大物は掛からないがそれでも釣りというものを経験したことがない人間からすれば初めての入れ食い、という状態に大騒ぎだった。
こいつらこんな騒ぐ人間だったかな、といい加減うんざりして、自身の提案を呪ったヨハンである。
とはいえ、最初の大騒ぎもひとまず落ち着き、順調な釣りを楽しんでいる時。
「しかし、あの子供たちまだ帰ってこないみたいですね」
バルマン・タイドゥアが竿をたらしながら。
港町ではいなくなった子供たちの家族が、子供たちは誰かにさらわれたのではないかとか、海にさらわれたのかも、と住民や王国兵を巻き込んでひと騒ぎだった。
どうやら目撃者もなく子供たちは町を抜け出したらしい。彼らの行方を知っているのはノルベルトたちだけだった。ここでもし、ああその子らならすれ違ったぜ、パラレマ王宮に向かっているらしい。などと言おうものなら、何で止めてくれなかったんだ、などと言われかねないのでだんまりを決め込むことにしたのだ。
子供の足とはいえ、さすがにそろそろ町に往復してきても良い頃だ。とはいえ、もし、何の食事もなしに六日も経ってしまったのなら空腹で動けなくなってしまっているだろう。
さすがに、ほったらかしにしたのはまずかったかな、という悔悟の念に襲われつつあった。
「だから放っておくのはかわいそうでは、って言ったんですよ」
フランコ・ビニデンが非難の声をあげる。
「ば、馬鹿やろう。もしかするとまだ王宮でうまいメシ食わしてもらってるかもしれねぇだろ。まだ行き倒れてると決められねぇよ」
気にしてない、風をよそおうノルベルト。
「そうだな。教会に行けば保護してもらえるだろうしな」
ガンタニ・ティーリウム。
「もしかすると本当にフリーデルン陛下が船を手配する、何てことも」
フランコ。
皆がその想像をするが、
「ねぇな」「ないですね」「ありえませんね」
すぐに否定した。
子供五人を聖地に送り出したって何の価値もない。足手まといにしかならず、途中で病気かホームシックで引き返すのが目に見えている。それがわかって子供の相手を本気でするものなどいるはずもない。
せいぜい施しが望めるくらいだ。
どこぞの貧民街で炊き出しを待っている姿を想像する方がよほど現実的だった。
ここで見過ごした子供たちのことを案じていても仕方ないだろ、と町の女性についての品評を始めるノルベルト。分かりやすい話題のかえ方だった。しかし、この話題を引っ張っても仕方ないので他の面々も品評に加わる。女性の価値観なら一家言ある面々である。
そんなこんなで夕刻いっぱいまで釣りを楽しみ、網ビクがいっぱいになったのでそろそろ切り上げようとしている時だった。フランコが海岸線からあまり離れずに航行する船に視線をやった。
「あれ? あれって、この前の子供たちじゃないですか?」
「何だと?」
フランコの言葉に、沖に目をやるノルベルト。気にならないわけはなかったのでフランコの言葉にたちまち反応する。
さほど大きくもない帆船だった。ルルサマにある大きめの漁船とそんなに大差はない。その船には幾人もの乗組員と、明らかに乗組員より小さな人影があった。そこには、確かに、六日前にすれ違った子供たちの姿が見えた。
船は海岸からそれなりの距離があるが、全員視力はかなりよい。
「あれって………まさか」
パレルモ王宮に向かったはずの子供たちが、何故、船に乗っているのか。
「やべ………」
ガンタニが目に見えて焦り始める。
「ま、まあ、そういうこともあらーな。運がなかったとしてだな………」
ノルベルトも口元を引きつらせつつ、しかし、目をそらそうとする。
「助けましょう!!」
「あれは本当にまずいですよ、あの船員の面構え、絶対かたぎじゃない」
フランコはともかく、バルマンまで声を上げる。
誰がどうみても、人買いか奴隷商人などの口車に乗せられて連れ去られている状態だった。
大人だったらあんな連中の言うことなど信じはしないだろうが、子供にそんなことは分からない。恐らく、聖地に連れて行ってあげよう、などと言われて喜んで乗ったことだろう。
「くっそ! ええい、どうする、いまから船を追いかけるってのかよ!?」
「急いで戻って、馬で海沿いを走ればもしかすると何とかなります。ビクは、また今度回収にきましょう」
ヨハンが網ビクを海中に投棄する。
運が良ければ回収できるだろう。できなくともすぐに取り返せる。
「あんな小船で聖地までいけるはずがない。きっと、どこかでもっと大きい船に乗り換えるはずだ。そこをおさえれば何とかなる」
ガンタニ。
パレルモ王宮から南下したとして現在港町ルルサマを過ぎているから、どこかの南の港町かどこかに根城となる場所があるのだろう。そこで集めた人をまとめて大型帆船に乗せて出港するのが効率のいいやり方だと思えたのだ。
どこかの港の倉庫か家にいったん寄るはず。そこまで追いかければいい。そこから先は、その時考えればよい、と。
「ええい、めんどくせぇ、あのガキども。だから関わりたくなかったんだ。おら、走れおめぇら! フランコ、お前は馬がねぇんだ、先行して船を見張れ!」
口ではそういいつつも、懸命に走るノルベルトであった。
「は、はい!」
四人とは別方向、船の針路にそって海岸を走り出すフランコ。四人は大慌てでルルサマに戻り、宿の厩舎につないであった馬を出して街を出、鞭をいれて加速した。
すぐに先行するフランコに追いつき、船を見失わない速度で追跡する。
「ええい、このドン亀が。乗れ!」
「うっ、は、はい!」
ここにいたっては仕方ない。フランコも覚悟を決めてノルベルトの後ろにまたがる。
幸いにも、というべきか船は海岸沿いを航行するので見失うこともない。またそこまで高速でもないので全力で疾走させなくても追跡は可能だった。
しかし。
「このまま走り続けたら、馬がつぶれちまうぞ。ヨハン、チチリカ島をこのままずっと進めば何日くらいかかる?」
「馬を全力で飛ばしたって一週間は余裕でかかります!」
馬がもつわけがないし、いくら屈強な騎士である彼らとて体力がもつわけがない。帆を張って、風を受けて進む船なら放っておいても進んでくれるが、馬はそうはいかない。今は速度をゆるめてはいるが、飼葉も何もなしで出てきてしまったのだ。いずれは空腹で動けなくなる。
近くの町で馬の世話をしつつ、となると間違いなく見失うだろう。旅用に乗換えができる馬ならともかく、アルクスネからずっと愛馬でここまで来たのだ。こんなところで失いたくない、というのが本音だった。
「恐らくですが、あの船も一週間も航行する装備ではなかったはずです。きっと近くの港かどこかに寄港するでしょう」
「ヨハンの見立てなら信用するしかねぇが。頼むぜ、夜通し走るなんてありえんぞ。どっかに寄るなら考えられるのは?」
「宵闇にまぎれて入港する、と仮定するとあそこは飛ばすとして………、マツェーラ・デ・ルバッロが考えられます」
そもそも、こんな海岸近くを航行するのは、近くに入港する予定だから、と考えるのが自然だ。夜になれば真の暗黒がまっている。今日も雲はほとんどなく月明かりが期待できるとはいえ、海岸近くを夜に航行するなど正気の沙汰ではない。もっと遠方に行く予定ならわざわざこんな海岸近くを航行する必要性がないからだ。
それに、あくどいことをやっているという自覚があるのなら、ことの発覚を恐れて夜になってから入港するだろう。チチリカ島は海岸周囲ほとんどが平坦で崖の天然洞窟などに秘密基地を作る、とかいうことは考えにくい。
夕刻のこの時間を航行しているのだって、子供たちの生家であるルルサマの港町を何食わぬ顔をして過ぎ去るためだろう。大体、漁師は夕方には港に帰ってしまう。夕刻を過ぎた海は危険度が跳ね上がるからだ。漁師の船とすれ違う恐れはまずない。王国軍の軍船だって遠征に出るのならともかく、夕方から航行する危険は冒さない。
頼むから追跡可能なところでとまってくれ、と彼らの願いが天に通じた、わけでもないだろうが、港町ルルサマを出発してから真の暗闇が海を覆い始めた頃、ヨハンの読みどおり、マツェーラ・デ・ルバッロに船は入港したのであった。
「助かった!」
「でも門もしまっているでしょうし、どこから入りますか?」
バルマン。
どこの町も防衛や保安から夜は門を閉める。見知らぬ旅人はまず絶対入れない。
「大丈夫。こういう港町は海岸は無防備です」
ヨハン。
指摘どおりに海岸は何の外壁もなかった。近くの木々に馬の手綱をくくりつけ、走る。
マツェーラ・デ・ルバッロは港町ルルサマよりも小さな町で、だからか港を警備する衛兵の姿もなく警戒も手薄だった。そこに目をつけたのだろう。ノルベルトたちが船着場に進入をはたした時、ちょうど子供たちを船から下ろしている最中だった。
しかも子供たちを下ろしているにも関わらず、たいまつやカンテラなど一切ない。
悪事の真っ最中です、と謳っているようなものだ。
「とまれ」
ノルベルトが制止し近くの船に身を伏せ、様子をうかがう。
遠目にも子供たちは寝ぼけているのか足取りは重そうだった。満月ではないが、それでも月明かりはあって真っ暗ではない。たいまつもカンテラもない船着場を、月明かりだけを頼りに歩いているのだ。眠気もあってか子供たちはのろのろとしたものだった。
船員と、港に待機していたと思われる連中の総数はおよそ20。
当然、荒事になれた連中だろう。
フード付きのローブ姿のものや、布を顔を巻いて人相を隠し軽装だが筋肉質で体格のよいものがいる。そういった体格のよいものは腰に得物を帯びていた。いかにも荒事を生業とするという雰囲気だった。この中に無策で突っ込むのは危険だ。
しかし。
「楽勝だな」
生業どころか、荒事に特化したのがディルツ騎士団だ。伊達に死線はくぐっていない。ノルベルトは遠目からうかがっただけで人買い連中の力量を見抜いていたのである。
宿に武器はおいてありこちらはまったくの素手で向こうは武装している。それでも、ノルベルトは何の危険も感じてなどいなかった。一級の戦士相手ならともかく、たかが荒事を行う程度の連中なら無手で十分なのだ。
「一人残らずぶっつぶす。いいな、おめぇら」
これだけを聞けば、どちらが悪者かわからない。
「しかし、子供たちが人質にとられたらどうします?」
フランコ。
「奇襲をかける。んな真似させねぇよ。ヨハン、おめぇは子供らをまとめろ。………この中で同士討ちしそうな馬鹿はいねぇな?」
振り返り、仲間の顔を見る。
普通なら、同士討ちを避けるために目印となるものを身につけるところだが、彼らには月明かりで十分だった。先程から闇夜に馬を走らせていたのだから、お互いの表情まで見分けられるほどだった。
自信に満ちたうなずきを返すバルマン、ガンタニ、フランコ、ヨハン。
頼もしい仲間にノルベルトはにやり、と笑う。
まあ、場数が違うよな。満足そうにうなずくと、前方に視線をやり、機をうかがう。
ようやく子供たちとそれを取り巻く人買い連中が大きな桟橋に至った、その時。
何も言わぬままノルベルトは駆けた。疾風の速さで。
しかし、遅れたものはいなかった。
五人が、一糸乱れず桟橋を駆ける。どたどた、などと足音などしない。木でつくられた桟橋を彼らはほとんど足音もさせずに走った。
「うらァァァァッッ!!」
ノルベルトは最初に目をつけた図体のでかい男に飛び蹴りをかます。目の配り方、立ち位置から頭目と見込んだのだ。コボルドではないが指揮官を真っ先に潰すのが定石だ。
「ぐばッ!?」
わき腹をしたたかに蹴られた大男が大きく吹き飛んだ。二メートルはある大男がふき飛び数回、桟橋を跳ねる。
「なっ!?」
奇襲を受けるなど、よもや想像もしていなかった人買いたち、体重100キロはある大男が軽々とふき飛ぶという異常事態に呆然となって武器を手に反撃に転ずるという考えすらいまだ及ばない中、ノルベルトに続いてバルマン、ガンタニ、フランコが華麗なまでに子供たちを取り巻く人買いから真っ先に襲い掛かる。
吹き飛んだ大男に視線をやって混乱する人買いに向かってバルマンはハイキックをお見舞いする。強烈な蹴りにより大の男が空中で一回転して頭から桟橋に叩きつけられる。
ガンタニは近くの船から拝借した棒で殴打。十分な太さがあり遠心力を十二分に発揮した一振りでアゴを打ち抜かれた男があっけなく気絶する。
フランコは踏み込んでのかち上げ。渾身のひじ打ちだ。プロンゾ人と対等に力比べができるフランコのひじ打ちで顔面を強打された人買いは苦鳴も何も発することもできずに崩れ落ちる。
うわぁっ! きゃーッ!! と突然の出来事に悲鳴をあげる子供たちを、恐慌に陥って駆け出す前にヨハンは抱き止める。幸い、暗闇の中ということもあって、子供たちは暴れるよりしゃがみこむことしかできなかったようだ。
「我々は騎士だ! 君たちを助けに来た! 危険だから固まるんだ!」
「えぇ!?」「何だと!?」
ヨハンの声に反応したのは子供たちだけではない。人買いもその声に、ようやく反撃の意思を見せる。混乱の最中にあっても得物を手にとり、乱入者に身構えようとする。だが、
「遅ぇよ!」
ノルベルトの拳打。武器は手にしていないとはいえ、頑丈な皮手袋を装着した上での殴打。同様の戦闘能力をもつ戦士でもなければ十分すぎる凶器だ。
ノルベルトの必殺の拳を浴び、中にはアゴを砕かれるものをおり次々に倒れ付す人買い。
そこにまで至るとまもとな反撃より逃走を優先しようとするものを現れた。しかし、あっという間に半数を蹴散らしたノルベルトたちは逃走をすら許さなかった。背中を見せた男をこれ幸いと一蹴りでぶちのめしてゆく。ミハエルなら逃げる人間に無慈悲な追撃をいれることにためらいを覚えるのだろうが、ここにそんな生易しい男はいなかった。
バルマン、ガンタニ、フランコも、子供たちを取り巻いていた周辺の人買いを制圧したのち、まともな反撃を許さず残りの人買いを無力化してゆく。
終ってみれば、わずか二、三分の出来事だった。いくら荒事を生業としているような連中といえど、完全な奇襲を受けその上に段違いの技量をもつものから一方的に蹂躙されたのだ。反撃して剣を振るったものの方が少ないくらいで、ディルツ騎士からすれば、ほとんど据え物(剣術修行などで使うかかしの類)を相手にしているかのようにあっけない手ごたえだった。子供の保護が最優先であったからそれでいいのだが、物足りないとまで思うノルベルトたちだった。殺してはいないはずだが、重要な関節がありえない方向に曲がっているものもいた。しかし。気にしないことにした。
「ふん。口ほどにもない」
いっさい口をきいてもいない連中に向かって。
「大丈夫かな、君たち。怪我はないかい?」
ヨハン。子供たちの様子をうかがって。
「あ、貴方たちは、騎士、なのですか。ですが、この人たちは僕たちを聖地に連れて行ってくれるはずの人なんですが………」
利発そうな子が、事態に驚きながらも。
「そうよっ、食べ物だってくれたし、すごく親切にしてくれたの!」
子供たちからすれば、どちらも悪人ではないのだ。
「ああ。それ、嘘だ」
ノルベルト。
「えっ………」「嘘、って」
「君たちのような子供を、聖地に連れて行くと騙してどこかで奴隷として売り飛ばす、何て事がかつてあったんだ。今のように、ね」
バルマン。
「そ、んな、とても親切な人たちだったのに………」
そう言われて、倒れ付す連中を見るノルベルトたち。
どいつもこいつも人の良さげな顔には見えなかった。
むしろ、これで騙される方がどうにかしている、と言いたいが仕方あるまい。おぼれるものはワラをもつかむ、という。そのワラが、頼りにならないどころか、地獄に引きずり込む魔性のワラであっても、聖地に行けると舞い上がれば親切な人と認識するものだろう。ノルベルトたちは、子供を叱る気にはなれなかった。
「ま、大事に至らなくて何よりだ。諦めて帰んな」
「………こういっては、何ですが、騎士様と一緒に聖地に連れていってもらうことはできませんか?」
利発そうな子がそう言う。
ノルベルトたちが十字軍騎士かどうか、までは分からなくとも、騎士イコール十字軍というイメージはあった。ならば、聖地に向かうのではないか、という希望があったのだ。
「そうよ、わたしたちは、聖地でお仕事をもらうために行くんだから」
「確かに、いまも俺たちの仲間は聖地で戦っている。だが、お前たちにできることは何もねぇよ。それとも何か、屈強な亜人と互角に戦う自信でもあるのか?」
冷厳に言い放つノルベルト。
「そっ、それは………」
「ノルベルトさん、そんな言い方」
「よせ、フランコ。これがいいんだ」
不満げなフランコを、ガンタニが制する。
中途半端な優しさは、余計な希望をもたらす。それよりは、木っ端微塵に楽観的な希望を打ち砕き、現実に、日常に立ち返ることに気づかせることの方がよっぽど慈悲深いことになるのだ。
今の子供たちには、つらい現実であろうとも。
「わたしも、君たちのように聖地に憧れ、聖地で実際に戦った人間だ。だから、君たちの気持ちは良く分かる」
ヨハン。
「で、でしたら!」
「聖地では、お、おなかいっぱい食べられるって聞きました!」
「いや。むしろ、聖地は補給が滞りがちで、しかも、増援の見込みもない、過酷な戦場だった。食料の余裕もなければ、武器の補給だってない、味方は過酷な戦場で倒れ、しかもいつ援軍がやってくるのか見当もつかない、いつ敵が襲い掛かってくるかわからない、本当に大変なところだった。しかも、恐ろしいのは敵ばかりじゃない。味方であるはずの人間でさえ、時には敵対することだってある。自分の身は、自分で守らなければいけないんだ。君たちに、それができるかい?」
「あ………」
事前に聞いた、甘い情報を打ち砕かれる。
「わたしは、今もこうして騎士として戦っているが、常に死と隣りあわせだ。希望は、いつだって絶望と仲良しなんだ。確かに、漁師として生きることも死と隣り合わせだが、それでも、女の子まで死の危険にさらされることはそうそうない。君たちは、女の子まで危険な目にあわせたいのかい?」
顔を見合わせる子供たち。
小さな女の子と言えど、いや、小さな女の子だからこそ、御しやすいと毒牙にかけようとするものだっているのだ。あえてそこは言わなかったが、もっと大きくなればいやでもそういった事実を理解することだろう。
それでも、と、ワラを求める子供たちから、諦めに大勢が傾いたのがわかった。
「………僕たちが、間違っていました」
「うん。もう遅いかもしれないけど、宿を探そう。そして、明日、町に帰ろう」
夜はとっぷりと更けてしまったが、それでも、酒場兼宿屋がまだ営業している可能性はある。営業さえしていれば、空きを見つけることはたやすいだろう。
「………はい」
「よし。ヨハンはガキども連れて行け。俺たちゃ奴らのアジトを探る」
「はい」
ノルベルトたちは倒れている比較的無事な人買いを叩き起こす。アジトの場所を吐かせ、人が捕らわれているかどうか探索するのだ。
木にくくりつけてきた馬たち、世話するの朝になるな、機嫌そこねないといいけどな、と思いつつヨハンは子供たちを先導して港から宿を探して歩くのであった。
少年十字軍。
「HELLSING」でもアーカードのだんながえらいことになってました。
大半は子供たちだった、と言いますが、でも、少年ではなく民衆のことだったとも言いますね。
身分の低い人たちのことを見下してボーイ、と呼んだとか。黒人をボーイと呼んだように。ボーイだから子供となったとか。そう言われてみると、昔、ホテルで客の荷物をもつのは黒人が多かったような。ホテルのボーイはその名残なんですかね??




