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天と地と人  作者: 豊臣 亨
二章  鉄拳修道女 カトリーナ・フォン・ブラウツヴァイク
27/49

鉄拳修道女 カトリーナ・フォン・ブラウツヴァイク (十六)

5/17 誤字やら色々訂正。



 チチリカ島。 


 港町ルルサマへと至る小道を、ゆったりと騎乗で進むノルベルト・グリモワールたち。


「やっぱり南方はいいねぇ。このからっとした空気がたまらん」


「そうですね。わたしも、まさか里帰りが出来るとは思いませんでした」


 湿度の低い故郷の空気を胸いっぱいに吸い込むヨハン・ウランゲル。ルルサマで古くから漁師をしていた家系の出で、第五次十字軍で一山当てようと遠征に参加して現地でディルツ騎士団員と意気投合、行動を共にしているうちに第五次十字軍終了となってそのままずるずるとディルツ騎士団に属し北方に配置となったのだ。十字軍とは、そういう異教徒から財宝だの土地だのを奪って一山当ててやろう、という人間が少なからずいた。宗教的熱狂とはまったく無関係に。大義名分の影で乱暴狼藉やりたい放題も多かったのだ。


 一ヶ月ものんびりできると聞いて思う存分羽を伸ばすべく、ヨハンの生家に押しかけることになった。とはいえ、そこまで裕福な家でもないウランゲル家に大の男を四人も泊める余剰スペースは無いため宿屋を探すことにはなるが。押しかけるのはあくまで言い訳で、ハメを外すためミハエルから逃げ出しただけである。


 パラレマ宮殿を出発して二日が経過していた。午後には見えてくるはずであった。


「ルルサマも海産物が美味しいんですかね?」


 フランコ・ビニデン。彼一人徒歩だが、持ち前の体力で騎乗した四人と並んで歩いている。


「もちろん。とれたての魚介類が食べられますよ。しかも、ルルサマをただの漁港とあなどるなかれ。この畑でもわかるように豊富なブドウによって上質なワインが作られる名産地でもあります」


「ほほう、そりゃ、ますますよさげだねぇ」


 ガンタニ・ティーリウム。愛用の槍を振り回しつつ。


 彼らの行く道の両脇にはワイン用のブドウが栽培されている。


 ルルサマ産のブドウは地中海特有の強い日差しを浴び、ミネラル豊富で糖度が高い。さらにワインをオークという名の木の樽で熟成させるため木の香りがかぐわしく味わい深い。


 ちなみに、ワイン用ブドウの木の育成は古代よりここ地中海が中心で北限はスフランザまで。それ以上は寒すぎて木が育たない。なのでアルクスネでも作られているお酒は大麦を使ったビールだ。人類の発展と共にあったとされるほど歴史の古いお酒で、パンなどにしにくい大麦をビールにすることで栄養を摂取するという意味もある。また、水は貯蔵すると腐ってしまうがビールは香草を加えることと、アルコールで腐りにくいが最近はホップという植物を加えることでさらに保存性を高めるようになっている。とはいえまだまだ香草を加えたビールがほとんどで、ホップの独特の香りを嗜好する向きは小勢だ。さらに、常温で発酵させる醸造方法と冬季に低温発酵させる醸造方法があり、常温で作るビールをエールと呼び、低温で作るのをラガーと呼ぶ。ラガーはまだまだ醸造方法がきちんと確立されていないためディルツのみで作られ、貴族や富裕商人が独占している。ノルベルトと言えどいまだ口にしたことがない。


 それに対してワインは主、クルダスの血を現し、パンは肉体を現すようにクルダス教徒には欠かせないが、ビールに比べると生産地が南方に限られ気軽にがぶがぶと飲めるような代物ではない。しかし、ここ最近は世界的な温暖化の影響もありディルツでも栽培が試みられている。もしかするとディルツ産ワインが飲める日も近いかも知れない。


 ちなみに、ビールは各家庭でも作られ、香草を使って美味しい自家製ビールを造る女性がもてる要素でもあった。


「でも、暗黒大陸にも近い港ですよね。危険はないですか?」


 バルマン・タイドゥア。


 直線距離150キロほど航海すれば亜人渦巻く暗黒大陸にたどり着く。


 人間以上の体格、体力、身体機能を有し、残忍さ、凶暴さでもはるかに人類をしのぐ亜人の支配領域。人類が容易には近づけない恐怖の世界だ。


「その心配は無きにしも非ずですが、港は半要塞化されているので、多少の襲撃には耐えられます。パラレマ王国軍も昔から駐屯していますしね。それに、最近は大規模な上陸も少ないみたいですね」


「それならいいんですけどね」


 この時代ユーロペタ大陸の南西、チチリカ島から西に1000キロ以上離れたルベリコ半島には、暗黒大陸から渡って人類の国土を支配する亜人王国があった。身長三、四メートルはある鬼族オーガが王侯貴族であり、ホブゴブリンやトロールなど強靭な力をもつ亜人を尖兵とし、さらには武装をほどこした身長五~六メートルにも及ぶサイクロップスという大型亜人を率いる強大な亜人王国である。しかし、人類国土回復運動、キシュタルコンによって人類は猛烈な勢いで亜人たちに戦争を仕掛け、失地を大いに回復している真っ最中である。


 亜人たちはこのルベリコ半島に援軍を送るのに手一杯で、他に紛争を抱える余裕が無かったのである。


「それにしても、だ。ひと月もただぐーたらすんのも悪くはねぇが、何か遊ぶ所はねぇのか?」


 ノルベルト。


「観光地じゃないんですから……。大したものはありはしませんよ」


「ちぃ。じゃあ、女は?」


「ご希望に添えますかどうか……」


 遊ぶ、といえばこれ以外にはそうそうありはしない。王侯貴族なら鹿狩りとか、田舎に出向いて人狩りとかが大掛かりな娯楽とされる。騎士なら模擬戦や、騎馬同士が槍を構えて一対一で突撃し相手を倒す競技などがあるが、命がけである。これらは娯楽というよりは力を誇示して仕えたい主人にアピールしたり結婚相手を見つけたりするのを目的とする者も多い。


 街の女性たちを脳裏に思い出しつつ、ノルベルトの嗜好にそうか思案に暮れるヨハンである。


 美味しい魚介パスタを出してくれるお店なら心当たりは何軒かあるが、色気に目覚める前に十字軍に出向いたからそっち系に造詣は深くはなかった。

 

 ちなみに、このメンバーで修道士は女犯禁制です。などと言い出すものはいない。


「別嬪がいるんならいいんだけどな。やっぱ、女はケツのエロさだよな。きゅっと切れ上がった尻がたまらねぇ」


「ノルベルトさん、わかってないですね。女性の魅力はなんといっても、胸です」


 最もという表現はミハエルに譲るもののそれでも十二分に美男子なバルマンが陶然たる様子で言う。


「リリクルさんのように、豊満でエロスと母性を内包する胸こそ至宝」


「俺は大きさはほどほどで、形が綺麗なのがいいな」


 槍を抱えつつ、もみしだくジェスチャーをするガンタニ。


「わたしはその、ミミクルさんのような小さい胸も、十分にありだと思います」


 照れつついうフランコ。


「ロリコンは黙ってろ!」


「うぐっ」


「しっかしお前らわかってねぇよ。おっぱいを否定する気はねぇが、要は途中経過だろうが。重要なのは別にあんだろ。ぜってぇ触る時間でいうならおっぱいよりケツだろ」


「いえいえ、その途中経過でどれほど愛情を尽くせるか、こそが重要ですよ。愛のない営みに意味はありません」


 議論は尽きない。


 あーでもないこーでもない、と有意義でかつ無意味なことを言い合う男五人。


 と、前方から少年たちが歩いて近づいてくるのが見えた。


 男の子三人に対して、女の子が二人。


 近くの子供たちが遊びにでているのだろう、とノルベルトたちは考えた。


 さすがに下卑た会話をおさめると、逆に少年たちの会話が耳に入った。


「ほんとに、大丈夫かな?」


「大丈夫だって。フリーデルン皇帝陛下は十字軍遠征から戻られたばかり。きっと僕たちの聖地巡礼を支援してくださるはずさ」


 少年たちを牽引する利発そうな子が一人、先頭に立って他の子らを励ましていた。


「神は、本当の信仰をもったものの到来を待たれているはずなんだ。一刻も速く、聖地へ行かないと」


「せ、聖地ではご飯はおなか一杯食べられるかな?」


「当然。聖地には各国の手厚い支援が行き届き潤沢な物資であふれかえっているって噂だ。ここにいるよりはるかにおなか一杯になるよ」


「そ、そっかぁ。魚介以外で食べられるんなら何でもいいけど」


「聖地には巡礼者がたくさん来て、巡礼者を助ける宿泊所や医療所が全然足りていないらしい。女の子の働く場所だってたっくさんあるはずだよ」


「こんな魚臭い田舎から離れられるのなら何でもするわ!」


「大酒のみのお父さんから逃げられるのなら、頑張る」


 いまだ見ぬ聖地に思いをはせ、子供たちが明るく歩いてゆく。


 そして、そのままノルベルトたちとすれ違い、子供たちはノルベルトの来た方向へと歩いていった。


「今のは………」


 バルマンが子供たちの去ったあとを振り返って。


「ああ、間違いねぇな」


 ノルベルト。


「まだ、熱狂が冷めないガキもいたんだな」


「熱狂?」


 フランコ。


「何だ、そんなことも知らんのか。このど阿呆が」


「ぐ………。な、何なんですか? あれは」


「あれはだな――――」


 少年十字軍。


 今から30年程前のこと。


 聖地奪回どころか、東ガロマン帝国転覆というとんでもない結末を向かえた第四次十字軍の失態を挽回すべく、時のガロマン教皇は各地に檄文を発し、かつ、修道士などを派遣して扇動させ熱狂を盛り上げた。


 そんな中にあって、突如、スフランザにて宗主クルダスの手紙をもっている、と言い出した子が現れた。数多の子供たちを率いてスフランザ王に謁見を望むも、時の王はクルダスの手紙とやらを読むこともなく子供たちを追い返す。


 しかし、まったく諦めることを知らない子供たちは最終的に数万とも言われるほどに集まるが、さしたる援助も、万全な資金もないままに聖地に向けて出発。


 海岸にまではいたったものの、渡海の方法もなく途方にくれる子供たちに、船の準備をしてあげよう、というものが現れた。


 喜び勇んだ子供たちは船に乗り――――


「多くはそのまま奴隷として売られた、って話だ」


「ひどいですね………」


「またディルツでも群れをなした子供たちが熱狂のままに時の教皇に謁見をして、しかし追い返され、援助も資金もなく多くは盗賊やモンスターに殺され、飢え、病に倒れほとんどが無事には帰れなかったらしい」


 ガンタニが補足する。ノルベルトはともかく、他の四人はまだ生まれていない時の話だ。とはいえ、ディルツでの話である。実際に民衆十字軍のひとつとして遠征に出向いた人々の話は有名だった。むしろ、知らない方が珍しいくらいだ。


「え、じゃあ、今の子供たちも同じ運命に遭うかも知れないってことですか!?」


「五人ぽっちじゃ、フリーデルン陛下が会われるとは思えねぇし、どうせ追い返されてすごすご引き返すさ。ほっとけ」


「それにしたって、何の旅装もないじゃないですか。きっとおなかをすかせていますよ!」


 見た感じ、着の身着のままといった感じでまともなバッグもないような有様だった。ノルベルトたちは十分な装備でも二日の行程でここまで来たのだ。十分なお金も野宿するような装備もない彼らは、道々きっとおなかをすかせることだろう。


「いまどき、どこもかしこもガキは飢えてらぁ。ああやって世間を知ってゆくんだ。ガキに必要な経験だよ」


「そ、そうかも知れないですけど………」


 たいして気にも留めない様子のノルベルトに、フランコは去った子供たちを気遣ってちらちらと背後を振り返った。


「俺も経験があるが、子供ってのはああいう無謀を経験していっぱしの大人になってゆくんだ。その途中でくたばるようならそれまで、ってことだな。もっとも、島内なら盗賊も出没しないし安全だ」


 冷静にノルベルトを支持するガンタニ。


「フランコだって、子供の頃の知り合いがすべて大人になったわけでもないでしょう?」


 ヨハン。


「そうですね………」


 病弱なもの、不幸、事故などで命を落とすもの、戦火に命を散らすもの、数え上げればきりが無い。


 そうやって、弱々しい生命が淘汰され強靭な生命が子をなし、次代につないでゆくのだろう。


 そういう風に冷徹に、いや大局的、マクロ視点で考えるのなら、生命の進化の日常と言えなくもないが、そう簡単には割り切れないフランコであった。自分の子供の頃を思い出し、彼らが空腹に倒れていないといいけど、と後ろ髪を引かれる思いでノルベルトを追いかけるのであった。





   ※     ※     ※     ※     ※





 港町ルルサマ。


 外洋に張り出した、砦としての機能も併せ持たれた大きな防波堤が両端から港を取り囲むように設置されている。要所には見張り台もあって王国兵が配置され外洋ににらみを利かせている。外敵の侵入を考慮してあるのか、港口部はあまり大きくなく、漁や交易のために出入りする船は難儀をするだろうが、防衛を考えるとそれも仕方のないことなのだろう。


 南端は小規模な軍港となっておりガレーや大型矢を発射できるバリスタが側舷に備え付けられた戦闘用帆船が停泊している。王国兵が手漕ぎボートであるカッターを漕いでいる姿も見られる。訓練だろう。それ以外はほとんどが漁船で、交易船はそんなに多くはない。ワインの出荷をする時期でもないからだろうか。


 遠くには塩田もあり、宿屋や酒場のほか様々な商店が軒を連ねる豊かな、外洋の海からの反射の光が映える美しい港町である。


 いきなりヨハンの家に出向かず、ヨハンオススメの料理屋で魚介パスタを堪能し酒盛りも済ませたのが夕刻。店を出る頃には夕映えの港町も闇が迫っていた。


「き、緊張するなぁ」


 ひと月も休みになったのなら、と帰って来たものの、いざ我が家が目前となると急に不安にさいなまれるヨハンである。酔いもさめかねない。ほとんど家出状態で飛び出したのだ。その後も、ろくに手紙も出していない。ディルツ騎士団に入ったとか、アルクスネにいった、とその程度だ。いきなり帰っても追い返されるかも、とヨハンは不安が尽きなかった。


 というのも、父親は漁師特有というか、すこぶる厳格で、しかも口下手で何も言わずにぶん殴るような人物であった。子供のヨハンはそんな父のありように理不尽を感じ若さゆえのかんしゃくを爆発させて逃げるように飛び出した。そんな理由もあって帰りました、とはいけないのであった。


 漁師というのは、一歩でも間違うと即座に死につながる、ふざけてはいられない職業であり、子供の頃のヨハンも、父親の仕事を手伝ってはよくぶん殴られたものだった。口下手で、何も説明もしないでぶん殴られる理不尽に反感しかなかったが、こうして死に直面する騎士団という職業について初めて、未熟な自分を教えるために殴られたのだと意味を悟ったものだ。


 しかし、殴られた意味をいまさら悟っても、向こうがよくわかったねと受け入れてくれるかどうか。逡巡はつきない。


 ヨハンの家は漁師町のうちの一軒で、ありふれたこれといった特徴も無い普通の家だ。酒場や宿屋以外はほとんど人通りは無い。辺りに明かりはなく、薄暗い。


「両親だけなのか?」


 ガンタニ。


「と、妹がいたんですけど、もうどこかに嫁いでしまいましたかね」


「まあ、放蕩息子に愛想つかして婿取りをした可能性も」


 バルマン。


「あ、ありうる………」

 

 義弟になる人物から突然の帰還に邪険に扱われたらどうしよう、と口の端をひきつらせる。


「ここまで来たんだ、腹くくっちまえよ」


 にやにやと笑うノルベルト。ほどよく酔いもまわって容赦ない。


「や、ちょっと待ってください、一旦、深呼吸を」


「辛気臭せぇ野郎だな。俺が呼んでやるよ。誰かいるか!」


 気後れし、一歩を踏み出せないヨハンに、ノルベルトは呆れて、ガンガンと扉を叩いた。


「あーっ! 何てことを!」


「うるせぇ! うだうだしてんじゃねぇよ」


 人の家の前で騒ぐ一向。蛮勇のディルツ騎士団の面目躍如、と言えるだろうか。


「誰だい?」


 と、家の中から中年女性の声。


「ほら、おっかさんだろ、返事してやれよ」


 ばん、と背中を容赦なく叩くノルベルト。


 もはやこうなっては逃げ場は無い。ヨハンもやぶれかぶれになった。


「お、俺だ、ヨハンだ」


「………え、ヨハ、っまさか!」


 ガタガタ、とつっかえ棒をはずす音がすると、がらっと音を立てて引き戸が開く。


「ほ、ほんとにヨハンなのかい!?」


 現れたのは、恰幅のよい、人懐っこそうな中年女性だった。


「ああ、間違いないよ。急に、帰って、………ごめん」


「ごめん、って何言ってんのさ! 自分の家に帰ってきて! ああ、ほんとに、まさか生きて帰ってくるなんて………」


 家の前でさんざん逡巡した懸念など何であったのか、わしっ、とヨハンに抱きつき、その顔を丹念になでる女性。その目には、うっすらと光るものがあった。


 ヨハンの鼻腔を、懐かしい香りがよぎる。


「あっと、こ、こちらの方々は?」


「ああ、この人たちはディルツ騎士団の仲間だ。手紙で、やっかいになってるって話たろ? この人がノルベルト、でこっちの美男子がバルマン、槍もちの偉丈夫がガンタニ、若いのがフランコ」


「こんばんは」「始めまして」「よろしく頼む」「夜分遅くに突然すいません」


 いつになく物腰の柔らかくなった面々が、思い思いに挨拶をする。


 彼等には、もはやまっとうな家族など望めないものも多い。そんな中、仲むつまじい親子の姿を見せられ、えも言われぬ心地にさえなっているのであった。


「ああ、そうだったね。うちの馬鹿息子がお世話になっているそうで、面倒みていただいてありがとうございます。母の、コリンと申します」


 ヨハンの頭を押さえ、母子ともども深々とお辞儀をする。


「いえ、こちらこそ、ヨハンにはお世話になっておりますよ。特に、漁師の経験とか」


 にこり、と微笑むノルベルト。


「それをここで話さないでください!」


「漁師の、経験?」


「それはおいおい話すよ!」


「そ、そうかい? とにかくみなさんも、入ってください、父ちゃんもきっと喜ぶから」


「お、親父、怒ってないかい?」


「………すぐにわかるよ」


 寂しげに笑うコリン。


「………」


 そんな母の姿に、二の句が告げなくなったヨハン、そこに。


「おい、コリン誰が来たんだ?」


 こつ、こつ、と足音とは別の、木を床についたような音を交えて、中年男性が現れたのであった。


「お前、まさか、ヨハン、か?」


「お、おやじ………」


 その姿に絶句するヨハン。


 戸口に立ったヨハンの父親、その右側の片足は、木の義足に成り代わっていたのであった。


「その、足は………」


「………海の、化け物にね」


 小さく、言葉を搾り出すコリン。


 海で漁をするということは、常に危険がつきまとう。遠洋に出るだけが危険とは限らない。近海にだって危険は常にある。


 海難事故、難破や、海賊だってでるが、それだけには止まらない。海中に潜む亜人だっているし、巨大な海獣だって存在していた。海竜に丸呑みされることだって皆無ではない。


 漁師は、そんな危険な海で生きてゆく職業であり、その分、金銭的な収入は大きいが運が悪ければこうした事態にも直面する。いや、まだ、命が助かっただけでもまだ運が良かったのかも知れなかった。


「とにかく、こんな場所じゃなんだし、入って」


「ああ、みんな、入ってく?」


「あ、いや、すぐに俺たちは宿を探すから、おかまいなく。せっかくの家族水入らずだ。積もるもんだってあるだろ。それじゃ、夜分にお騒がせしました」


「い、いえ、何のおもてなしもできずに」


「ヨハンの家族との対面に付き添うことができただけでも十分ですよ。それでは」


 バルマンの優雅な一礼をもってくるりと向きをかえるノルベルトたち。


「じゃあ、入りなよ」


「あ、ああ………」


 コリンがうながす。


 扉をくぐって、一歩中に入るとかつて、捨て去ったはずの香りが胸中一杯に満たされ、ヨハンはわけも分からず涙があふれそうになったのであった。


 家を出る時の決心としては、思い出も何もかもかなぐり捨てて、自身の未来を選択したはずだった、しかし、人である以上そんなことできるはずがない。家の中に満ちる、懐かしい香りに幼い記憶が呼び起こされ帰ってきたこと、我が家に、生還を果たしたという感慨に、郷愁の念が否応なしに湧き上がる。そして、不自由に先頭を歩く父、ナックスの、自信に満ち誇らしげだった足取りは見る影もない姿に、心がかきむしられるような、何ともいえない感情がヨハンを襲う。


 何も言えず、食卓に行く。


 自分が座っていた椅子も、こんなに小さかったのか、とヨハンは手をやって思いにふけった。

 

「遠慮しないで、座りなさいな。あ、ご飯、作ろうか?」


「ああ、いや、もうすませたから」


「そうかい………」


 静かに、懐かしい椅子に座って、物言わず座り、不自由な足を投げ出すナックスを見る。


「漁も、できないんだろ? どうやって生計を立てているんだ? そういえば、ヨニがいないな」


 妹の名がヨニだ。


「もうとっくに嫁いじまったよ。知ってるだろ、タバサさんとこのブレチェロ。あの子にね」


「………ああ、そうか」


「今は、よしみで二人で水揚げの仕事を手伝ってんのさ。それで生活は出来てるよ。ブレチェロも、助けてくれてるしね」


「………そうか」


 とはいえ、自分で漁に出ていた頃を考えると、収入は減っているはずだ。


 そう思って周囲を見ると、確かに物はないがそこまで貧乏しているという風ではない。だが、元気に働いて、十分以上の収入があって好きなものを食べていた頃のナックスしか知らないのだが今の父は贔屓目に見てもやせていた。元気に漁ができなくなったのだから、当然の結果なのかも知れないが。


 もともと口数の少ない父親だったがそれでも、変わり果てた姿に、ヨハンは締め付けられるような苦しみを心に味わう。


「こっちは何とかやってるよ、それより、ヨハンは元気そうでよかったよ」


「………ああ、まあ、仲間とそれなりにやってる」


 ちょいちょい死にそうな目にはあうけど、などという言葉は、さすがに飲み込む。


「そ、そういえば、さっき漁師の経験がどうのって言ってたじゃないか、あれは?」


 そんなコリンの言葉に、まったく色を失っていたナックスですら視線を動かす。


「ああ、今いる、ディルツ騎士団アルクスネ管区では湖を使ってザーモスの養殖をしているんだ。養殖の知識も何もかも、ここにいた時の経験が活きてる。なんだかんだ言っても、ここで生きた時間が、俺のアイデンティティになっているんだ」


「………そうかい」


 コリンが小さく微笑む。


 かえるの子はかえる、は適切な言葉ではないだろうが、そんな見知らぬ土地にいても、漁師としての知識や経験が活かされている。自身の生まれや育ちが、少しでも役に立っているのだ。そして、そこに自分の存在意義を見出すヨハンに、コリンは安堵を覚えたのであった。


「なら、そんなところで仕事してたんなら、どうして帰ってこられたんだい?」


「ああ、ディルツ騎士団が帰化させるはずだったプロンゾ民族が、結局独立、この間フリーデルン陛下から爵位をたまわってね。その受爵のためにパラレマ王宮まで来ることになったんだ。で、いろいろあって滞在期間が延びたから、それならって帰って、って話になって」


「そうなのかい。あたしら、庶民には縁遠い話だけど、あんたも、頑張ってるんだね」


「ああ。………俺は運がいいよ。アルクスネは程よく戦力が整ってるから、程よく活躍できる。いまディルツ騎士団は勢いがあって寄付金も多く集まっていて今のところ、順調だね」


 普通に考えるなら、たとえ十字軍とはいえ庶民が騎士になることだってたやすくはない。ヨハンが死ぬこともなく騎士団で活躍しているのは幸運といえた。優秀な戦士は、運すら味方につけないと生き残れないのだ。


「………そうかい。そりゃあ、なによりだね」


 それから、ぼつぼつと親類や友人などの近況を話し合う。


 そして、お互いの情報を出しつくすと、沈黙が多くなった。


 騎士をやめて、漁師になる。


 そんな可能性を考えていたのだ。


 厳格で暴力的な父から逃げ出したが、その父は見る影もなく意気消沈していた。それはつまり、逃げ出した理由がなくなった、ということでもある。なら、と考えていたのである。


 とはいえ、すでに騎士として華々しく活躍しかけがえのない地位も築いている。いまさら漁師になるよりも恐らくもっと大変なことを成し遂げているのだ。軽々しく騎士を辞める、とも、辞めて、ともいえるわけがないのだったのだ。


「しばらく、いるのか?」


 そんな中、沈黙を破るように、ぽつりと問うナックス。


「あ、ああ、ひと月近く、休みになった」


「………そうか。わしらは朝が早い。お前はゆっくりしてゆくといい」


「ああ、うん、わかった」


「そうだね、待ってな、シーツを出すから」


「ああ、ありがとう」


「何を。ここは、お前の家じゃないか」


「………うん」


 それぞれに動き出す二人。


 ヨハンは、思わず家の天井を見上げるのであった。






 やっとかめ~(名古屋弁)


 珍しくミハエル以外のお話。


 どうにもメインの人以外で話を転がせない人間なので、なら、メインをこちらにしてみようじゃまいか。ということで。


 wikiをみますと第五次十字軍は1228年 - 1229年とがっつり書いてますけど、第六次と間違えていますね。


 正確には1218 - 1221年のはずです。『十字軍物語3』 塩野七生氏著 新潮社発刊 に書いてあるので間違いはないはず。wikiを編集とか恐ろしいことは、小心者のおっさんには出来かねます(笑)


 ちなみに、チュートン騎士団、つまり、ドイツ騎士団が教皇によって正式に認められたのは1199年のことだとか。ということは、第六次十字軍が終了した時点で創設30周年ということで、けっこう若い組織であることがわかりますね。

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