鉄拳修道女 カトリーナ・フォン・ブラウツヴァイク (十四)
5/17 誤字やら色々訂正。
「なッ………!!」
神聖なる存在の降臨にカトリーナ・フォン・ブラウツヴァイクは絶句した。
まるで空を引き裂いたかのように突如としてその大いなる御姿を表し、世界を清浄の空間へとたちまちのうちに転じさせた尊き存在。
まず目に飛び込んでくるのは背に羽を生やした神聖なる生物、天馬。
その二頭の天馬を御す戦闘用馬車。
どっと駆け優美に弧を描いて宙を飛翔し、やがてミミクル・フォン・プロンゾの前へと降り立つ。
全長七メートルほどのありえないほどの巨大な天馬。大きさもあいまって戦闘用馬車の長さは十メートルもある。人の目には余りにも神々しすぎて相貌が伺えない天使。身長だけでみると六メートルほどであろうか。古代の甲冑をまとって、輝く二対四枚の羽を羽ばたかせ、六本の腕をもち、一対の腕で天馬を御し、一対に腕で弓を、もう一対の腕には槍を構えていた。
座天使の降臨である。
それは、天使の位階でいうと第三位の高位の天使。
カトリーナの召喚する守護天使、権天使が七位であるのでいかに高位の天使であるか知れよう。
「す、ス、座天使………なのか………? 初めてみたぞ」
あのコボルド・ロード相手ですら大した動揺もなかったカトリーナが開いた口がふさがらない、といった風である。
無理もない。
座天使は大司教クラスの最高位の神官でもないと召喚の魔法は授けられない。秘中の秘と言ってよいほどの高位の天使召喚魔法である。普通、人の目に触れるようなものではない。それどころか、歴史書に残るほどの事件といってもよい。
さらにカトリーナが驚愕した理由、
それは、ミミクルの唱えた召喚魔法が、実に初歩的な、九位階の天使を呼ぶだけの魔法だったのだ。本来ならばそれで三位階の座天使が呼び出されるはずはない。にもかかわらず、現実に現れた。降臨した。その魔法を知るだけに、余計にカトリーナは愕然となったのだ。
「うん、召喚魔法を授けてくださった司祭様も腰を抜かしてた………」
あ、あはは、と苦笑いのミミクル。
ミミクルとしても、ただ天使を召喚しただけなのに、こんな高位の天使がやってくるとは予想も出来ず、驚くほかない。何の知識もないから天使とはこういうものなのかと思ったが、司祭が腰を抜かすほど驚いているのを見て初めて、ああ違うのかと気づいたのだ。
ただカトリーナにみせるためだけの高位の天使が降臨させられたにも関わらず、かすかにうかがえる雰囲気からは不機嫌な様子はみえない。それどころか笑みを浮かべているようにすら見えるのである。
「さ、さすがは恩寵というところか………! 感動で身が震えたのはいつ以来であろうか!」
「まあ、わたしほどの神格のものもついてるくらいだし。高位の天使がすすんでやってきても不思議ではないよね」
さすがミミクル、と鳥肌をさすって感動するカトリーナに、そもそも、神格位に到ったケット・シーがすでに守護についているのだ。ならば、ただ天使を召喚して座天使が現れるのも天の恩寵を受けたミミクルなら当然、と、まるで我が事のようにふんぞり返るニーモである。
「すごいですよね」
「ミハエルも同じ恩寵を受けているのだろう? 天使は来ないのか?」
「来たら、嬉しいような畏れ多いような………」
素直な疑問を浮かべるリリクルに、複雑な表情を浮かべるミハエルである。
「名を、伺ってもよろしいか?」
座天使に向かい合うカトリーナ。
「ちょっと待ってね………えっとね、バグティマヌエルさん、だって」
魂と魂で会話をするミミクル。
「ほう。力強い名だ。よろしく頼む」
座天使と握手を交わすカトリーナ。巨大な天使が膝を折って人と握手をするシーンはなかなか見ものだった。
「あ、ありがとうございます」
ぺこ、と頭を下げて降臨にお礼を述べるミミクル。
うなずき、巨大な天馬にムチをいれ、たちまちのうちに天を駆ける座天使。来たときと同じく、天を割る勢いでその姿がこの世界から消え去る。
「まさか座天使が来るとは。多少は高位の天使が来てくれるかも、とは思ったが予想を大きくはずされたぞ」
ありえたとしても、第六位階の能天使くらいであろうとは予想はしていたが、それらをすっとばしてとんでもない高位の天使を呼び出してしまったことにカトリーナですらいまだに驚きがおさまらない。
しかし、ここではっと気がつく。
「と、いうか、あんな高位の天使を呼び出して、教皇庁は何も問題とはしないのか………?」
「………」
沈黙する面々。
そうなのだ。
改宗し、入信し、ただクルダス教徒となって、天使召喚魔法を授かった。
そして、天使を召喚した。それだけのはずだった。それだけのはずだったのに、なんと第三位階の天使が来てしまった。呼んでしまった。降臨してしまったのである。
召喚魔法を授けた司祭も、事の重大さに気づき顔を青ざめてしまった。
これまではミハエルやミミクルという、天の恩寵を得た、という事実も、そう大事にはしていなかったのだ。ディルツ騎士団総長レオポルト・フォン・シュターディオンも事を荒立てるつもりもなかったし、これでいらぬ波風が立つのを恐れたのだ。ディルツ騎士団内部でもこの一件はあまり広められていないし、広めるつもりもなかったので、レオポルトもそれとなく口止めしていたほどだ。
所詮、何ができるわけでも、何をするわけでもない。何も起こらないのなら黙っていればよい、くらいのつもりだったのが、起こってしまった。大きなことが起こってしまったのである。
第三位階の天使ともなれば、単純な戦闘能力は一国を相手に出来るほど強大である。あの巨大な戦闘用馬車の突撃ともなればどれほど堅固な城砦であろうと一瞬にして打ち砕き、万の軍勢であろうとさして時間もかからず蹴散らしてしまう。それどころか、魔力消費を無視すれば、まさしく天罰の顕現といえるようなとてつもない神聖魔法で攻撃できる。どこにいようと、どこであろうと、立ちふさがるものは、すべてなぎ払われ駆逐されてしまう。
もちろん、天使は人間相手にその力を振るうことなどない。コボルドなどの亜人やモンスターなどに、その超常の力は行使されるであろう。
しかし、そうなった場合、それをみた周囲の人々はどう思うであろうか。
超常の力でもってなぎ払われる亜人やモンスター。そして、それを行使する天の恩寵を受けたもの。
まさしく、救世主の登場、と思うのではないか。
無視できないほどの影響を、人々にもたらしかねない。ミミクルを担ぎ上げての宗教改革や宗教戦争が、本当に勃発しかねない事態なのである。
それは、世界の秩序の維持者、天の意思を遂行する者と自負してやまない教皇庁にとってどれほどの影響となるか。自分たちの地位や立場に不遜にも挑戦する存在。そうなりかねない。
司祭は、そう思い至って青ざめたのである。
召喚魔法を使わなければよい、そう単純に考えもしたが、しかし、それだけでことがすむとは思えない。
今後、コボルドとの戦闘が苛烈さをますだろうと予想される以上、すでに使えるとわかった召喚魔法を、今後ずっと使わないでいられる、などということがあろうか。楽観的に予想するより、悲観的に予想した方がよい。
もし、黙っていた挙句に教皇庁にこのことが知られれば、最悪、教皇庁との間に重大な軋轢を生じかねない。そうでなくともディルツ騎士団は神聖ガロマン帝国皇帝の右腕として活躍するレオポルトがおり、教皇グレゴッグスの反感を買いかねない立場だ。宗教騎士団はそもそも教皇によって承認された組織のはずなのに、である。今は教皇グレゴッグスとの間に太いパイプがあるとはいえ、教皇グレゴッグスから不興を買えば、今後どうなるかはわからない。そうなる前に、教皇の庇護下に入ることで軋轢を回避する。司祭は、そうアドバイスしたのである。
司祭は、本来ならこの件について教皇に報告する義務があるのだが、あまりにもことが大きいし、ディルツ騎士団とも懇意でもあり、せっかく受爵にガラタリアまで出向くのだからじかに見えた方がよい、と紹介状を書いてくれた、というわけである。
そして、このことを実はレオポルトにもまだ打ち明けていなかった。受爵の前も後も、レオポルトは忙しくしており時間をあまり割いていられなかったので、相談があるくらいにしか打ち明けていない。なので、今日も先に甲冑製作に時間をとったのだ。
「でも、カトリーナさんが来て下さって助かったかもしれません」
「そ、そうですね。カトリーナと一緒なら、教皇様も穏便に話を聞いてくれそう」
カトリーナはディルツにいるはずで、何もあてにはできないはずだった。それが、ガラタリアにおり、しかも教皇の近衛隊長ジョヴィルリッヒの愛娘である。そのカトリーナのとりなしもあれば、少なくとも重大な敵対化は避けられるはずである。
「ふむ、そうだな………」
ミハエルやミミクルという、天の恩寵を受けたもの、という存在がどれほど危ういものであるか、カトリーナとて分からないわけではない。しかも、予期せぬこととはいえ、決して無視できないほどの強大な戦力まで手に入れてしまったのだ。
いくら教皇が教権の最高位にあり、天の意思の代弁者である、とはいってもつまりは生身の人間。世俗的な地盤や権力構造がある。簡単に言ってしまえば、飯のタネというわけだ。その飯のタネに手を伸ばす輩がいれば、警戒をするのは当然。とられまいと肉をくわえてうなる犬と一緒だ。
プロンゾという北方の、人間生活圏の限界ぎりぎりで細々と生き、コボルド相手に宗教騎士団の本義にのっとって奮闘しているのならクルダス教としても大いなる正義、のはずである。ならば、いくら教皇といえど邪険には扱うまい。カトリーナもそう考えた。
「ふ、あいわかった。わらわのアルクスネ行きとの交換条件だ。教皇と渡りをつけよう」
「やった! カトリーナ、ありがとう!」
「なに。ミミクルの安寧を願うのは、ニーモ様だけにはあらず、だ」
ふん、と鼻を鳴らし、飛び上がるミミクルと微笑を交わすカトリーナであった。
※ ※ ※ ※ ※
夕刻。
日がだいぶ傾き、パラレマ王宮に戻るミハエルたち。
「本当に、ここではレプティリアンが平和に暮らしているんだな………」
ため息ともつかない吐息を漏らすリリクル。
一仕事を終え、帰途につくレプティリアンがぞろぞろと歩いているのだ。
ここ、チチリカは神聖ガロマン帝国皇帝フリーデルンの意向もあり、レプティリアンの建築技術や植栽技術、美術や医術などを取り入れるためにレプティリアンの職人や技術者を招き、人類とレプティリアンとの融和がなされている。
そもそもこのチチリカ島は古くはレプティリアンに統治されており、レプティリアンから支配権を奪ったという経緯がある。では、チチリカ島からすべてのレプティリアンを追い出したのかというとそうではなく、ガラタリア人特有の、商売のためなら宗教的な争いなど二の次とばかりに、外交や交易のために数多のレプティリアンが行き来し、滞在したりもしているのだ。
皇族しか入れないという私的なパラダンナ礼拝堂にはこのクルダス教とレプティリアンの宗教であるラビラム教を融合させた豪華絢爛な壁画などが描かれているという。また避暑に利用される外離宮などはレプティリアンの高度な技術でもって庭園を水が縦横に流れ、瑞々しい果実が数多生い茂っているともいう。
こういった風土の元に子供の頃から生まれ育ったフリーデルンであったために、宗教的対立である十字軍に熱心に参加しようとは思わなかった。十字軍を率いて出立することがガロマン皇帝即位を教皇から承認される約束であったために参加したにすぎないのである。
一昔前の聖地奪回の熱狂があった時ならともかく、現在、宗教的対立を盛んに煽り、クルダスの教義を声高に叫んでいるのは教皇グレゴッグスやリリーアンブルグ大司教など一部のものだけなのである。
南方では、こうしてすべてではないとはいえ、亜人と人類が仲良く暮らしているのに、北方ではどちらかがどちらかを駆逐するまで戦っている。
この温度差に、リリクルも複雑な感情を抑え切れなかったのだ。
「一口に、亜人と言ってもその中を見れば知性にも大きな差はあるし、他者を受け入れるかどうかにも大きな差がある、ということだな」
「それは、なにも亜人に限ったことでもないけどね」
カトリーナの言葉を、補足するようなニーモの言葉。
「そうですね………」
宗教の名の下に、大いなる殺戮を正義とする一方、慈悲をもって他者をいつくしむ、のも宗教である。
余談だが、少し前の第六次十字軍遠征をフリーデルンに強行させたグレゴッグス教皇だが、あまりに出立をぐずぐずと長引かせた故をもってその怠慢を責め破門にしている。
そればかりか教皇はなんと、民衆に対して、フリーデルンは破門になっている以上税金を払う必要も遠征軍として参加する必要も義務もない、と宣言したのである。さらに、現地で活動するフリーデルンに対し、パラレマ王国領土を侵すべく召集した十字軍を派遣するなどもしている。
これは恐るべき矛盾である。
一方で十字軍遠征を催促し、いざ出立となった段階で破門にしたからと、妨害を始めたのである。
教皇からすれば、破門された者は、何をさておいても教皇領に駆けつけ、ボロ布をまとい、裸足になって門前で悔悟の涙にぬれながら恩情を求めなければならない、というプライドがあったのである。
つまり、神聖ガロマン帝国皇帝の即位を承認するのは教皇なのであるから、教皇こそは太陽であり、皇帝は月、という認識があるためだ。
なので教皇のえげつない嫌がらせともなったのだが、にもかかわらず、フリーデルンは破門された状態で、軍勢をまとめ上げたのである。民衆たちも、このグレゴッグスの宣言には戸惑いながらも、だからといってフリーデルンに協力を拒否することなどできなかったのである。
極端な行動にでるのも、また宗教なのである。十字軍の熱狂が薄れていった背景には、こういった事情もあったのである。もちろん、これがすべてではないが。
その時、
「お恵みを………」
小さな声に気づき、足を止めるミハエル。
路傍に座り込むのは、貧民の少女だった。やせ細り、粗末な衣服をまとっている。
「ああ、何か食べ物をもっていればよかったんだけど、これでいいかい?」
しゃがみ、銀貨を差し出すミハエル。
この時代、貧民はある意味、求められる存在だった。
何故なら、貴族など裕福なものは哀れな貧民に施しを与えることこそ、功徳になり大いなる祝福がある、と信じられていたからである。よって規模の大きな街なら、貴族の施しの為に、代々食べ物を恵んでもらう貧民という身分の人々が一定量いたのである。
「ありがとうございます………」
銀貨を受け取り、拝むように頭を下げる少女。
「頑張って生きるんだよ」
微笑むミハエル。
それを、ミミクルの頭の上にあってじーっとみていたニーモ。
よからぬ気配を感じていた。
人ではない、何かの気配の残滓、残り香を、少女から感じたのだ。
「ミハエル――――」
とっとと離れた方がいい、そう言おうとミハエルに声をかけた瞬間だった。
ニーモの声に気をとられ、ミハエルが背後を振り向こうとした瞬間、
少女の手が、ミハエルの腰に伸びたのだ。
「――――!」「えっ」「なに」
気づき、慌てて飛び退るミハエル、口々に驚きを発するリリクルたち、しかし、腰に差していたはずのミスリル・ソードはそこにはなかった。
視線を落とし、すぐさま少女に視線を投ずるミハエル。
その少女は、ありえないほどの速度で、路地裏をかけている最中だった。しっかと抱えられているミスリル・ソードが見える。
「何と、早業だな」
感心するカトリーナ。少女どころか、とうてい、人ではありえない動きなのがわかった。カトリーナも、剣を腰から抜き取った時に掴まえようと手を伸ばしたのだが、するりと逃げられてしまった。
「この先は、貧民街? やっかいなことになった、ミハエル、すぐに取り戻した方がいい」
「はい!」
すでに角を曲がり、姿を消した少女。ミハエルはただちに追走に移った。
「今の、あの子の仕業?」
「いや、何か嫌な気配を感じた。あの子は操られている可能性が高い。だから、やっかいなんだ」
ミミクルの呆然としたつぶやきに答えるニーモ。
「空から探すか」
権天使、ラフェキエルを召喚し、空を飛翔するカトリーナ。
「わたしたちも行こう。気をつけて。こういった場所は良くないものが住み着いていることもある」
少女が逃げた先は、貧民街とおぼしき区画だ。世を嘆く貧民たちの群れ集まるところ。
そういった場所は良くない世界とつながりやすい。
「どこだ?」
表通りから裏路地に入り、いくつかの角を曲がると明らかに様子が変わりだした。
路地裏を走り、どうにか視界のはしに少女を捕らえる。少しでも速度を緩めればあっという間に引き離されてしまうだろう。ミハエルとて駿足なら人後に落ちない。そのはずだが、慣れない路地裏を走るとあってまったく追いつけなかった。
足元には、先ほどの少女と同じく、路傍にうずくまる貧民がそこかしこにいるからだ。つまずかないように蹴飛ばさないように、少女を追いながらも足元に気をつけるミハエル。
貧民街ともあってか、じめじめとし異臭が漂い始めていた。衛生環境も、精神衛生上も、よろしくない。
人の世の裏の世界がそこにはある。
うずくまる貧民の他に、明らかに目つきのおかしいもの、酒におぼれ目つきの濁ったもの、何らかの病害に犯されていそうなものなどを見ることがあった。
確かに、ニーモの言うとおり、ここはいつまでもいるべき場所ではない。いくら裕福な貴族や教会が貧民たちに施しを与えようと、根本的な解決が図られるわけではない。虐げられ、不遇に嘆く貧民の負のオーラは、こうした地区にべっとりとこびりついているのだ。生まれてから死ぬまで、変わらぬ身分のままで過ごすものの心がどうなっているかは、そのものにしか分かりえない。
少女の目的は分からないが、とりあえず剣を返してもらってすぐに引き返そう。視界に少女を捕らえ、そう思った。
そして、やがて開けた空間に躍り出た。少女は広場の奥にある大きな古ぼけた屋敷に逃げ込もうと開いたままの扉に飛び込もうとした、が。
「おっと、おいたはそこまでだ」
空から、すたっと少女の行く手を阻むカトリーナ。
進路を阻まれ、少女はただちに横に身をひるがえしたのだが。
「待て、逃がさんぞ」
わしっ、と少女の服をつかむカトリーナ。
すると、
じたばたと暴れていた少女からすべての力が抜けたのであった。するり、と手からミスリル・ソードが零れ落ちる。
「な、なんですか?」
「知らん。――――いや待て、誘い込まれたぞ!」
追いついてきて、意外な展開に唖然となるミハエルに、完全に脱力した少女から手を離し、周囲を見渡して警戒するカトリーナ。
広場のように開けているだけあってそこには何十人かの貧民がたむろしていた。その、貧民たちのミハエルをみる目つきが尋常ではなかったのである。
ゆらりと立ち上がり、頭を異様に斜めにしたり、不自然なほど空を仰いだ姿勢をしたり、おかしな体勢で立つ貧民。それらは一様にミハエルに明白な殺気を放っていた。
次の瞬間、その貧民が襲い掛かって来る!
「わたしたちは敵意などありませんよ!」
慌てて倒れ伏した少女から落ちた剣をとりつつも、襲い掛かって来た貧民をかわすミハエル。先ほどの少女と同様、人ならざる速度であった。無用に人を傷つけるつもりはないが、向こうは見逃すつもりはなさそうだった。
「無駄だ! こやつらも操られているのであろう! 術者を倒すか、こやつらを倒すほかはあるまい!」
「何のためにこんなことを!」
「知るか!」
二人がかりで襲ってきた貧民に、壁を蹴って三角飛びの要領で回避するミハエルに、別の角度から襲い来る貧民に問答無用でレバーブローを叩き込むカトリーナ。
「ぐぅおおっ!」
「なに!」
手加減しているとはいえ、何の戦闘経験も能力もないはずの貧民に、完璧にレバーブローがきまった。普通なら悶絶ものの苦痛のはずである。しかし、その貧民は苦痛を感じた様子もなく襲い掛かってきたのである。
「こやつら、痛覚も操られておるのか!?」
後ろに飛びのくカトリーナ。そこに、
「があああっ!」
がしっ、と背後からつかまれる。
「なにッ!?」
扉の奥から人が出てきたのだ。後ろを振り返ると、二メートルの巨躯の男が渾身の力を込めて締め上げだした。
「くっ!」
「カトリーナさん!」「カトリーナ!」
こうなっては仕方ない、と襲い掛かってくる貧民にミスリル・ソードで切り込むミハエル。太ももを強打し、ばぎ、という異音と共に足をへし折って行動を阻害する。最悪、死なない限りは回復させられる。今は手加減をしている場合ではない。そこにミミクルたちが到着する。
「この程度!」
コボルド・ロード、ヴォルゴノーゴと比べたらこの程度はなんてことはない。強力な力で締め上げられるが、その締め上げる力をさらに凌駕して腕を大きく広げるカトリーナ。
「瘴気だ! ここに漂う瘴気が人を強化しているんだ!」
「浄化か!」
ニーモが黒い気配に気づく。かつて、リリクルの兄、ガガナトが現れた時に噴出す地獄の気配だと分かったのだ。あの時、瘴気を身に浴びてガガナトは超常の力を発揮した。その瘴気を、貧民も身に浴びているのだろう。本来、瘴気を浴びて力を増すなど、地獄の存在に限られるはずだが、どうしてこの貧民たちは瘴気で強化されているのか。しかし、のんきに考えている場合ではない。
大きく前に足をあげて、反動をつけ背後の大男の股ぐらめがけ叩きつけるカトリーナ。
「ぐがぁ!」
権天使、ラフェキエルで増した力、すべてを叩きつけたのだ。ぐしゃっ、という不快な感触があった。もしかすると骨盤ごと破砕したかも知れない。
「ミミ、浄化魔法は使えるか!?」
拘束から脱し、飛び回し蹴りで二メートルの大男を倒し、ミミクルにまで飛ぶ。
すでに、周囲には数十人もの貧民が、老若男女問わず集まりつつあった。すべて、殺意にたぎった目つきである。広場とはいえ、何十人も群れ集まれば逃げ道となる通路すらふさがれる。
ミハエルは襲い来る貧民の足を砕き、リリクルも見事な体さばきで投げ飛ばしていた。ニーモも、ミミクルに襲い掛かる貧民を強風で吹き飛ばす。
「だ、ダメ、まだ教わってない!」
「そうか。ならば、わらわがラフェキエルを外に出して一気に浄化をかける! わらわを守ってくれ」
「わ、わかった!」
カトリーナの内部に召喚した権天使、ラフェキエルを、呪文を唱えることで元来の召喚方法で呼び出す。そうしたことで無防備なカトリーナ。
その瞬間を待っていた、といわんばかりに貧民が襲い掛かるがミミクルとニーモの烈風によって弾き飛ばされる。いくら人並みはずれた力をもったとしても、戦闘訓練も受けていない貧民だ。そこまで脅威ではない。
権天使、ラフェキエルが神聖な光をあふれ出させた。世界を浄化する。
貧民街にいつとはなしに漂っていた瘴気が一気に払われ、貧民たちは力を失う。神聖の光によってあぶられ、貧民の体から悪しき魂の残滓が払われる。体の中に、意識を奪い瘴気にまみれて力を増すようなものが潜んでいたのだ。
「夢幻に来たれ。幻想に遊べ。かりそめの桃源郷に沈め。――――曇天」
カトリーナによって浄化され、力を失ったところに、ミミクルの睡眠の魔法があたりを覆う。
ばたばた、と倒れ伏す貧民たち。
「と、とりあえず一段落つきましたかね」
剣を下ろすミハエル。
そこに。
「あ~あ。こんなんじゃだめかぁ」
ある意味、無邪気な声が響いた。
少女が倒れていた地からの声だった。慌てて、ミハエルらはそこに視線をやる。しかし、少女は倒れたままで立ち上がってはいなかった。別のもの。少女の形をした何か。
全身が漆黒に染め上がった少女の形をした禍々しい、この世ならざるものが、そこにはいた。唯一、白目の部分だけが闇に浮かび上がるように目立つ。全身が漆黒である分、その白目が異様に目立っていた。だから、その中に闇に輝く、狂気を帯びまくった瞳をより一層際立たせていた。
背中が粟立つミハエルたち。
「まあ、こんなんで何とかなるとは思ってなかったけどねぇ。知らないお姉さんがいるから簡単に瘴気が消されちゃったしね」
「な、なんだ。お前は!」
カトリーナも、切羽詰った声をあげる。
そこにいるのが危険なものだと、わかったのだ。
それは、地獄のもの。冥府魔界に生息するもの。決して、この地上に現れてよい存在ではないもの。
全身から、嫌な汗が噴出すのがわかる。一瞬でも目を離せば何が起こるかわからない。カトリーナは、極度に神経を集中させて眼前の闇の異物に目を凝らした。
「ん~? あはは! ちょっと、おいたに出てきただけだよ。こんな、ね?」
刹那、だった。
「ッ!!」
視線はそらしてはいない。
極度に神経を集中させて、目の前の闇の異物を見ていたはずだった。しかし。
一瞬にして、闇の異物はカトリーナの鼻先に、いた。
全身に怖気が走る。権天使、ラフェキエルは解除した直後だった。憑依させてはいない。まずい逃げなければと、戦うよりも回避を脳裏に選択する、次の瞬間、少女のなりをした、闇の手がカトリーナの頬をしたたかに殴っていた。
「ッ!!!」
声にならない悲鳴をあげ、大きく吹き飛び家の壁に衝突して崩れ落ちるカトリーナ。
「カ、カトリーナッ!」
ミミクルの悲鳴が響く。
「下がって!」
ニーモの、尋常ではない緊張した声。憑依召喚状態ではなかったとはいえ、カトリーナとて猛者のはずだった。そのカトリーナが手もなくひねられた。カトリーナですら赤子のように扱うこんな化け物では、ニーモでもこの闇の異物には勝てないかもしれない、唯一、勝てるとすればミミクルの天使、座天使だろう。だが、果たしてそんな悠長な時間を与えてくれるものか。
まさか、こんな化け物が潜んでいたとは。ニーモは運命を呪いたい思いだった。
「あはは! そんな怖がらなくてもおいたに出てきただけだよ。神の息吹を受けし者たちに、挨拶にきただけ」
「な、何を企んでいる?」
リリクルが問う。
「ん~、秘密! でも、これだけは教えてもいいかな? 人間世界に、未曾有の災害が起こるよ。これは、決定事項………」
凄絶な笑みを、この世に生息する生物では絶対に真似できない、狂気の沙汰の三日月型の笑みをこぼす、闇の異物。
「み、未曾有の災害………?」
油断なくミスリル・ソードを構えるミハエル。
「んふふ! でも、今すぐではないから、これだけは安心していいかな? これは、神の息吹を受けた者が防がないといけない………。頑張って防いでね! じゃあ、さ~らば~!」
ある意味、愛嬌のある声で手を振ると、急激に液状化し、広場の石畳の隙間に吸い込まれるように消え去る闇の異物。
闇の異物が消え去って、ようやく、生者の世界に戻ってこられたような錯覚を覚えたミハエルたちである。
「未曾有の、災害………」
「カトリーナッ!!」
ミミクルが走る。カトリーナはいまだ気絶したままだった。
リリクルなどは恐怖のあまり、その場にへたり込んでいた。あの闇の存在が本気だったら、全員、殺されていた。確信があった。
「恩寵を受けたものには、相応の試練が襲い掛かる………こんな、ことが………」
ニーモの、絶望の声が、力なく辺りに漂うのであった。
未曾有。
とあるお人のおかげで、みぞゆう。って読みたくなる今日この頃。
ふと気になって人様のブログをみると、こういった趣旨のお話がありました。
未曾有、有、とは、ゆう、とも、う、とも読める。有無、うむ、保有、ほゆう、そもそも、読み方を統一せず、漢音だの呉音だのを並存させる日本語にこそ問題の根幹はありはせんか。
というもの。
なるほど。一理はありますね。
そうなると、一段落、は、いちだんらく、でも、ひとだんらく、でも意味は間違ってないんだからどっちでもええんじゃまいか? ということになりますよね。
もっと言いますと、わたしのこの名の亨、も他人事なんだから、とおる、だろうが、あきら、こう、きょう、ほう、も有りうるし、にる、なんて読み方もあるそうでどうでもええじゃまいか、となる。余談ですが、享、って漢字で書いて有ることも結構あるし、烹、とか淳、とかあったかな。
わたしの子供の頃の近所のお寺に『若王寺』ってのがありまして、読み方は、にゃくおうじ。分かりづらい。地元民しか読めんでしょう。
つまりは何が言いたいかといいますと、こういうのは敬意の問題じゃないかと思うんですよね。
自分にとってどうでもええことだとしても、人様には大問題になる。
そのことに対して、どれほど敬意を払えるか、礼儀を尽くせるか。
人様の名や、ややこしい地名を読み間違えるのは誰しもあるでしょうが、それをどれほど正せるか。間違いだと気づいたのならそれをきちんと正せるか。
古来より連綿と続く伝統に、敬意を払えるか、否か。
自分は間違ってはいないか、自分は正しくしているか。常に自分を疑い、自分を導く。
君子三省す。
こういう姿勢を常に自分に課しているか、自分を律しているか、という問題に帰結するかと思います。
今の世の中がそうなっているからといって、自分もそれに応じてお座なりにしてよいのでしょうか。こんな時代だからこそ、否、時代など関係なく自分を敬い、他者を敬うという姿勢が問われているのではないかと思います。
と、あとがきでもぐだぐだいうおっさんなのでした~。
したらばな~。




