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天と地と人  作者: 豊臣 亨
二章  鉄拳修道女 カトリーナ・フォン・ブラウツヴァイク
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鉄拳修道女 カトリーナ・フォン・ブラウツヴァイク (十二)



 初夏。


 ガラタリア。


 ガラタリア半島の南に位置する、チチリカ王国、チチリカ島。


 チチリカ島の北側に位置する天然の良港、パラレマ。


「神聖ガロマン帝国皇帝フリーデルン二世の名において、汝、リリクル・プロンゾをプロンゾ方伯に任じる」


 王宮、パラレマに、フリーデルンの声が響く。


「慎んで、拝命いたします」


 朱色の、美麗なドレスに身を包んだリリクルが恭しく頭を垂れる。





 式典が始まる前のこと。


 均整の取れた抜群のプロポーションをもち、それでいて視線を導かずにはおかない豊満な胸と、北方地方特有の透き通るような真っ白な素肌を豪奢な朱のドレスに包み込む完璧な肢体。


 プラチナブロンドの長い髪の毛をアップに鮮やかに編みこみ、普段は隠されたうなじが女性らしい魅力を否応なしに引き立てる。


 さらに、普段はまったく化粧っ気のない彼女が、ぷっくりとした唇に輝くような真紅の口紅で飾り、頬紅や印象的なアイブロウ、瞳の色は深い青に、うっとりとするような長いまつげ。これでもかと彼女の美しさを最高潮にまで磨きをかける。


 王侯貴族の令嬢とて嫉妬せずにはいられないリリクルの登場に、式典会場の誰もが驚きの声をあげた。


 神聖ガロマン帝国チチリカ王宮の貴族や宮中伯、文官からすれば、プロンゾという聞いたこともないようなどえらい田舎のおのぼりさんが、何をしでかしたか爵位をもらえることになったのだとは聞かされてはいた。そんな、極北の亜人と国境を接するような辺境も辺境のど僻地から、どんな山ザルが現れるのかと冷めた雰囲気だったのだが、プロンゾ一族の登場に、会場は騒然となった。


 どんな貴族令嬢にも劣らぬ、いや読書や刺繍、詩文を作る程度の、怠惰な日々を送る並みの貴族には絶対に真似のできないスタイルと美貌、そして自然と視線を集める豊満な肢体の絶世の美女を筆頭に、プロンゾ一族が式典会場に姿を現したのだ。


 山ザルどころか神々の降臨かと、場の空気はがらりと変わった。


 手にした扇をぽとりと落とした婦人がいたり、あまりに見とれて新妻を怒らせた若い貴族もでるほどに。


 ミミクルとは負けてなどいない。


 リリクルが切れ長な凛々しい目元であるのと比べると、逆にとろんとしたたれ気味な目元とぱっちりとした黄緑色の大きな瞳が愛くるしさを際立たせる。


 薄い金髪と赤毛の混じったストロベリーブロンドを、前髪から三つ編みをラインにして後ろに流しすべての髪をゆるめの三つ編みでまとめて彼女のふんわり感をこれでもかと誇示している。


 また、さして化粧っ気を強調しないところがこれまた彼女の生来の美しさこそが最高の美であると主張していた。


 さらに、彼女の、ほわっとした雰囲気から、身にまとうべきドレスの色調はこれしかありえないと、柔らかい色合いのピンクのドレスに身を包み、ウエストに巻きつけた濃い紫の大きなリボンが単調にさせずきゅっと引き締めている。完璧な美少女の出来栄えに、見立てたもののセンスに脱帽するしかない。


 そして、その少女の横に、まるでナイトであるといわんばかりにぴったりと寄り添う空中を浮遊する守護妖精、ケット・シー。その猫サイズ。召喚魔法を知るものなら、妖精を護衛にするという非常識に度肝を抜かれたはずだ。異国の服が妖精の摩訶不思議さを引き立てる。


 さらに。


 身長三メートル、南方のアブロガンに生息するオーガすら迫力にびびりそうな、筋骨隆々、鬼のような男がのそりと現れたのだ。もっとも、グナクトは十字軍遠征でその姿を見たものは多いが、貴族令嬢たちはもちろん、初見だ。グナクトが視線をさまよわせなかったからいいものの、目があった令嬢がいたら間違いなく失神しただろう。


 最後尾に、重厚な戦士といった風貌のビーククト・ブロンゾ。ヒゲを蓄え、見た目は民族服、灰色のチョハに似たロングコートに細身のロングブーツで装っている。ちなみに、グナクトも同様の衣装だ。下手な貴族よりはるかに威厳に満ちたナイスミドルがそこにはいた。


 誰一人とっても、並、平凡とは無縁の一級、一流のものが颯爽と現れたのだ。


 王宮にいた誰もが、己と比較せざるをえなかった。


 そして、その後に続くミハエルやディルツ騎士。


 ミハエルも美形と名声とではまったく劣ってなどいない。


 ディルツ騎士団でも影響力の強い、ジューリッケン方伯の出身であり、プロンゾとの30年来の戦争をたった2年のアルクスネ着任で終結させた若き英雄。そんじょそこらの貴族では足元にも及ばない整った容姿。名声も実力もそして容姿ですら卓越した立派な騎士なのだ。


 ミハエルに続く騎士たちも、迫力といった点では他者を圧倒していた。


 皇帝フリーデルンの一声によって集まったこれら貴族たちも、どうやって彼らとコネクションをつくるか。必死になって己の手札となる有利な条件の確認をし始めたのは、当然と言えるだろう。





「これからはガロマン帝国の一員であり、我が信頼する友である。リリクル・フォン・プロンゾ。プロンゾ卿。共に繁栄の道を歩んでゆこうではないか」


 にっこりと微笑むフリーデルン。


 神聖ガロマン皇帝フリーデルン二世。


 広大な版図を有するガロマン帝国の皇帝。ディルツや、ガラタリアとこのチチリカ王国を領有する。


 赤髪で赤ヒゲが目に付く、温厚な性格がにじみ出た、ぱっと見は平凡な印象を受ける中年男性だ。しかし、剣術、馬術、弓術に優れた才能を有し、幼少より多言語を話し、また、亜人レプティリアンの言語であるレプラビア語にも精通しており、先の第六回十字軍遠征においては書簡のやりとりにてレプティリアンの王ともよしみを通じ、平和的方法で聖地奪回をなしとげた。また、文化芸術、科学に並々ならぬ関心をよせ、彼の治世には科学的根拠に基づかない妄信的宗教裁判などは行われなかった。優れた皇帝なのである。

 

 ディルツ騎士団総長レオポルト・フォン・シュターディオンのとりなしもあってガロマン教皇グレゴッグス九世からの破門は解かれたものの、グレゴッグスとの関係は冷え切っており、グレゴッグスにそそのかされ、皇帝に反旗をひるがえしたガロタニア北部の都市同盟と戦争状態にある。


 その合間を縫っての、今回の爵位叙任なのであった。


 そして、ひざまずくリリクルに、大きなカラットのダイヤをあしらったティアラを乗せた。さらに、プロンゾ方伯を証明するフリーデルンのサインの入った領国における、軍事、警察、裁判、行政など様々な特権を許す証文と、そして、


「この日のために特別に作らせた紋章だ。受け取ってくれるかな?」


 フリーデルンが文官が捧げ持つ台から、細かな刺繍の入ったフェルト生地で出来た旗を持ち上げる。


 そのフェルト生地には二頭のヒグマが両側から盾を持ち、盾には大樹が意匠化されていた。そして、盾やヒグマの回りには色とりどりのデザインがあしらわれ飾られている。下部には、言葉が刺繍してあった。


『融和・温故・自立』


「はっ。謹んで、頂戴いたします」


 捧げ持つようにいただくリリクル。


 プロンゾには紋章をもつという文化はなかった。フリーデルンによって紋章を許され、これによってプロンゾはれっきとした貴族であり、神聖ガロマン帝国の一員であることを証とするのだ。戦争などでもプロンゾの戦士たちはこの紋章を盾やマントに縫いこみ、軍旗として掲げることで身分を証明することになる。


『融和・温故・自立』


 融和はもちろん、ディルツ騎士団との融和を表し、温故は古きを尋ね、古を忘れぬ、今にあってもいつまでも伝統を失わぬことを、自立は誇りをもって埋没せず己を貫く、という意味だ。大樹『アトゥーレトゥーロ』を象徴とすることで、プロンゾを表したのである。


 一歩間違えれば、ディルツ騎士団の中に未来永劫埋没するかもしれなかった一部族が、一国家として産声をあげた瞬間なのである。


「うん。タルトーム防衛における援軍の話も聞いている。遠方にあり色々と大変であろうことは察するに余りあるが、ディルツ騎士団と共に手を取り合って、困難な道のりであろうが頑張ってほしい」


「は。ご配慮、感謝いたします」


「しかし、プロンゾの領主がこんなにも若く、美しい女性だとは。プロンゾの明るい未来に、わくわくしてしまうね」


 微笑むフリーデルン。


「お褒めに預かり、光栄にございます。陛下のご期待に添えるよう、尽力いたします」


「うん。期待しているよ。次に、ミハエル・フォン・ヴァレンロード」


「はっ」


 リリクルの隣に、ミハエルがひざまずく。


「プロンゾとの30年にわたる不幸な争いに終止符を打ち、ここにこうしてガロマン帝国の一翼を担う友にまで押し上げてくれた。ヴァレンロード卿の功績は並び立つものがないほどだ」


「恐縮であります」


「うん。融和と親愛、宗主クルダスの精神をみるようではないか。ヴァレンロード卿の精神は我々も見習わねばならん。また先の戦闘において、死力を尽くしてタルトームに押し迫ったコボルドを撃退したとのこと。タイルドゥ司教からも、また、リヴァリア征剣騎士団からも賞賛の声があがっている。その輝かしい功績に報いねばならん。よって、ここにヴァレンロード卿に大十字聖天勲章を授ける」


 文官の捧げ持つ台から貴金属を惜しみなく使った、十字に天使の羽を意匠された勲章をミハエルの胸に飾る。


 ちなみに、勲章の歴史は騎士団から始まる。


 貴族や騎士なら、領地や報奨金などでその勲功に報いるべきだが、地位も身分もさらには私有財産すらもたない、という騎士団員にはそれらは無用となる。とはいえ、何も報いないというわけにもいかず、考案されたのがこの勲章である。


 何よりも名誉を重んじる騎士団にとって、その功績をたたえた勲章を胸に飾ることはかけがえのない栄誉といえた。


 さらにちなみに、この時代の騎士と、騎士団はまったくの別物である。


 騎士とは、貴族として爵位や封土をいただくほどの地位や業績、家柄がなく、基本的に世襲が認められない一代限りの身分なのが騎士である。とはいえ、さしたる領地もないとはいえ屋敷や家族を構え、王命によって有事とあらば駆けつけ従軍する。


 働き次第では貴族として取り立てられるか、結婚などで迎え入れられることもある。宮廷で働き場を得れば、宮中伯という文官的貴族になることも不可能ではない。現状では一代限りの身分だが、その人物の手腕によって未来を勝ち取ることのできるもの、それが騎士だ。


 それに対して騎士団とは、あくまで修道士、クルダス教に仕える僧侶が異教徒から人々を守り、戦うことを主眼として結成された武装組織のことである。


 初期には聖地巡礼を手助けする宿や、治療院、護衛などがその始まりであったが、特にディルツ騎士団は相当に世俗化し国家経営に乗り出している状態である。


 修道騎士は基本的には地位や身分、私有財産すら保有せず、また妻帯もしない。ただひたすらクルダスの教えに従って異教徒と戦うのがその目的となっている。ゆえに、どれほど功績をあげようとも、どれほど版図を拡大しようとも、その命が尽きれば個人としてはおしまいとなる。ただ、歴史に名を記すだけの存在、それが騎士団である。


 だからこそ、修道騎士には、こうして勲章をもってその労に報いることで騎士団の輝かしい歴史の一ページとするのである。


「身に余る栄誉でございます」


 深々と頭を垂れるミハエル。


 居並ぶ両名を満足げに見て、フリーデルン二世は微笑む。


「せっかく、プロンゾ方伯がこうしてあでやかに装われて、ヴァレンロード卿ともお似合いと見受けられるが、卿が修道士であるのが悔やまれるな」


 朱のドレスを鮮やかに着こなし、一見すれば花嫁にも見えるリリクルと、青の生地に白十字のナイトケープとマント、サテンの黒いズボンできりっとした身なりである十字軍騎士のミハエルの二人が並んでひざまずく姿は、まさしく今が結婚式であるかのようであった。


「は、ははっ」


「還俗してもいいんだぞ。ミハエル」


 レオポルト。フリーデルンのかけがえのない右腕として、宮中においても絶大なる信頼を受けている。このような場で横から口出ししてもとがめるものは誰もいない。


「ほう。ならば、このまま婚礼式典としゃれ込むか」


 にや、と笑うフリーデルン。


「それは妙案!」


 とんでもないことを言い出すレオポルトに、悪乗りのフリーデルン。リリクルも我が意得たり、と満面の笑みだ。


「わ、わが身と心は、クルダスに捧げておりますれば」


 あくまでこのまま流そうとするミハエルである。


 つまらん奴、とリリクルがミハエルのわき腹に肘鉄を食らわしても、何事もないかのようだ。


 それらをみてフリーデルンは大笑いだった。


「はっはっは。このような若者が帝国を支えてくれる。我がガロマンの未来は明るいではないか。なぁ、レオポルト」


「まったくです」


 首肯するレオポルト。


「若く、美しい新たな貴族と、壮麗な騎士をもてなすため、盛大な宴の席を用意させてある。今宵は存分に楽しんでくれ」


 こうして、皇帝主催の祝宴は始まった。


 様々な地位の貴族や文官、皇帝派の司教や司祭、ミハエルやリリクルの家族、配下の部下を交えた晩餐会である。


 レオポルトが、プロンゾの貴族化とディルツ騎士団の基盤をさらに固めるためにと手腕を発揮した結実とも言えた。


 早速、噂の貴公子、ミハエルを見んがために多くのうら若い貴族の令嬢や婦人が集まり、また、絶世の美女であるリリクルを目当てに若い貴族たちが集まる。ミミクルにも、ニーモにも、グナクトにもビーククトにも、様々な人が集まった。


 ノルベルト・グリモワールや、ディルツ騎士団の面々も同様だ。


 すべての修道騎士は妻帯しないとはいえ、それでも魅力あふれる若い騎士に、若い令嬢は集まった。普段、こんな大きな式典に出てちやほやされることもない彼らは、目を白黒させながら応対することとなった。


 


「親父」


 がつがつと料理を貪るグナクトに、リリクルが声をかける。


 様々な人に取り囲まれ、食事どころではなかった。婚姻を前提にしてと話しかけてくる貴族をさばくのに苦労したのだ。誰もが家柄だの財力だの功績だので格を見せつけようと必死だったが、リリクルは彼らの本心がわかっていた。誰もが、容姿をみているだけで内面なんてまったくみていない。


 そりゃ、名前すら知らないような相手の内面を一瞬で知れ、なんて無理な話だとは思うが、それでも鼻息だけ荒くてこちらの意見を伺いもしないで一方的に利だけを語る若い貴族や自分の嫁にという中年貴族たちに十重二十重と取り囲まれ、これはなんていう拷問なのかと思ったほどだ。


 式典前にレオポルトは、こんな美人が貴族になったらそれこそ雨後のたけのこの如く貴族連中が求婚に押し寄せてくるだろう、もし戦争になったらこういった友好関係がいずれ効いてくるのだ、と忠告をしていたので邪険にはしなかったが、中には、露骨に胸だけを見て話しかけるくるものもいた。いや、結構いた。顔と胸を交互に見てくるものは、まだ、ましなのか? と悩む。


 ディルツ騎士団でも視線は感じるがここまであからさまな奴が多いのには閉口させられた。わたしにはミハエルがいるので、といえば、出家した修道士はおかわいそうですなぁ、とミハエルを邪険に扱う貴族がいた時には、正直どれほどぶん殴ってやろうかと思ったものだった。しかしこれだけはいえるのだが、ミハエルのような美形は誰もいなかった。


 今は領内の安定こそが急務であるから勘弁してくれと頼んでようやく開放された。これで食事にありつけるというものだ。グナクトのようにがっつきたくなる気持ちはわからないではない。


 すぐの返答は期待はしません、わたしの誠意をお見せします、などと言っている貴族も多かった。これからきっとプレゼント攻勢が始まるとレオポルトが言っていた。続々と届く、名前すら覚えていないどこぞの貴族の大量の贈り物や正気を疑わざるを得ないポエムや人を物としか思わぬ美辞麗句を並べ立てたラブレターに返信することを想像すると、今から気が滅入る。


 コボルド相手に死闘を演じていた方がよっぽど楽な戦いだったと、今なら言える気がするリリクルである。もりもりと食べるグナクトの姿を見て、少しは気がまぎれた。というか、いつから、グナクトはがっついていたんだろう、とは思うが。


「………なんだ」


「なんだはないだろう。なんだは。………貴族になった気分はどうだ?」


 じろり、とリリクルを見て。


「ふん。いまだ信じられんな。風前の灯となっておったわしらが、あれよあれよと貴族とはな」


 脂にまみれた手をなめながら。


 マナー、作法とうるさく言われるような時代ではない。


「うん………。そうだな。確かに、ここからプロンゾなんて、ど辺境もいいとこだな。世界のすみっこで、腹をすかせて震えていた我らが、今やガロマンの、貴族だ。………ディディ兄にも見せてやりたかったな」


 豪勢に盛られた料理の品々に目を落として。


 大森林では、絶対に見ることも触ることも出来ない品々ばかりだ。


 ここにやってくるまでの道のりでみたガラタリアの、恐ろしいまでに発展した都市国家やその文化や人の多さ。プロンゾ人の誰だってこんな驚嘆するものは見たことも聞いたこともない。


「………死ぬことが、何もすべて悪いことではあるまい」


「え?」


「ディディクトは死んだ。だが、それによってこれから味わうかも知れぬ痛苦から、少なくとも逃れることができた。生きるということは、いい目もあるが悪い目もある。それから、離れることは、何もすべて悪いことではあるまい」


「………」


 リリクルは、大きく目を見開いてグナクトを見上げた。


 以前は、こんなことを言う人間ではなかったはずだ。


 リリクルが知っているグナクトは、もっと短気で、いやヒステリックといってよいほどだった。常にぴりぴりして怒鳴り散らし、すぐ手をあげた。族長解任劇から、だいぶおとなしくなったことは知っていたが、こんなことを言う人間だったっけ、と憮然(呆然の意)となった。


「………なんだ、その目は」


「あ、いや」


「わしとて、物思いにふける時間などいくらでもあったわ。プロンゾの行く末、死んだ者たち、己の身の振り方もな」


「………」


「確かに、死んでしまえばこんな豪勢なメシも食えん。だが、生きてゆくものは、すべてが戦いよ。生存を、領土を、民を、誇りを、尊厳を、何でもかんでも戦って勝ち取らねばならん。いつか死ぬ、その日までな。それがどれほどの栄光と、苦痛と絶望を伴っておるかそれは生きたものにしかわからん。生きたからこそ味わうもの、死んだからこそ味わわなくてすむもの、何がよくて何が悪いかなど、一概には言えまい」


 穏やかな瞳で言うグナクト。


「………そう、だな。なら親父は、生きていて良かったと思うか?」


 神樹、『アトゥーレトゥーロ』で死んだ瞳となっていたグナクトを思い出す。


「ふん! こんないいもんが食えるのなら、まだ死ぬには惜しいわ」


 豚の丸焼きのおなかの部分を豪快にほおばりながら。


「ふふっ。そうだな。なら、わたしももう少し生きねばな。後々の子らに、胸を張って、頑張って生きたんだ、って言えないとな………。ディディ兄には、それから自慢話をしても、遅くはないな」


「族長から晴れて貴族様になったお前には、これからもっと責務がのしかかってくるぞ。今のうちに腹を満たしておけ」


「ああ。そうする」


 ゆったりとした笑みをこぼし、なるべく化粧が落ちない料理を選ぶリリクル。


 プロンゾ前族長と現プロンゾ方伯。立場が逆転し、グナクトがどれほど恨みの視線を送ってくるかと身構えたものだが、そんな心配は杞憂だった。


 グナクトとて族長としてプロンゾを率いた身、その重責を知らないわけがない。


 それを、自分の娘が背負って立つのだ。


 誇り高いプロンゾ人として、家族を思い、健やかに家族とすごす。生きている限り精一杯生きて、後事を子孫に託す。グナクトは精一杯生き、それをリリクルに託したのだ。内幕はどうであれ。


 なら、それを見守り後押しをするのが、プロンゾの矜持なのである。


 今この時ほど、族長として貴族として、次代を受け継ぐ者として自覚しないわけにはいかないリリクルであった。胸の内に、暖かいものを抱えながら。


「リリ姉様、もう大丈夫ですか?」


 そこに、ひょっこりと現れるミミクル。


「あー、どこにいってたんだ。………いまのところ大丈夫だぞ」


 大勢の貴族に取り囲まれ、その緊張に耐え切れずミミクルはニーモの背にまたがり逃げ出したのだ。どうやら喧騒もどうやら波が引いたとみて戻ってきたようだ。


「え、えへへ。すごい人で、びっくりしちゃいました」


 プロンゾ族の中ですらあんな大勢に取り囲まれたことのないミミクルである。それが、目の色を変えて鼻息が荒く、よだれまで垂れ流さんばかりの貴族と言う名の猛獣の群れが押し寄せたら、逃げ出すのも無理はない。


 ニーモが取り分けた料理皿をもって、舌鼓を打つミミクル。


「んむ。そうだな。もうプロンゾが懐かしくなったんじゃないか?」


 雪解けを待って、プロンゾを出立して観光がてらとはいえ一月半もかかっての到着である。見るもの聞くものすべてが珍しく、大騒ぎしながらの長旅だった。


 途中、山賊や盗賊が現れニーモに吹き飛ばされ、飛竜の登場にミミクルの催眠の魔法でしとめ、立ち往生した商隊をミハエルらが泥だらけになって助けたりと、想像以上にいろいろな出来事に見舞われたが。


「はい。ここも素敵ですが、大森林の朝もやが懐かしいです」


 ユーロペタ南方にはプロンゾ大森林ほどの巨木はない。プロンゾの大森林から発する朝もやは、深呼吸すると気分が落ち着く。心から安心できるのだ。


「わたしはここが気に入ったぞ。こんな明るいとは思いもしなかった」


「ですね。空も、土地も、人も、みんな生き生きとしてました」


 船に乗って、ここチチリカ島にやってきた。このチチリカで暮らす人もそうだが、ガラタリアの人々の気質それ自体が、プロンゾとは全然違う。まったく別種の国家、民族なのだから当然なのだが、それだけではない。ここの土地そのものが、とても明るく気持ちいいのだ。


 そもそも日差しの強さが桁違いだ。


 まだ初夏で本当の暑さはこれからだそうだが、それでもプロンゾとその周辺しか知らないリリクルには、この地中海の日差しには驚かされた。同じユーロペタでも、ここまで土地によって違いがでてくるのだ、と。


「………ふう」


 そこに、もみくちゃにされたミハエルがやってくる。


「だ、大丈夫ですかミハエルさん」

 

 令嬢や婦人に取り囲まれ、プロンゾ融和の話をしてくれだの、コボルドとの戦いを聞かせてくれだのの他に、城を寄付したいとか土地を寄付したいとか、一族にミハエルのような未婚のものはいないかとか、ほとんど尋問に近い扱いを受けていたのだ。コボルド・ロードとの戦いを語るとき、いちいち悲鳴やら絶叫やらが起こるのでどれほど精神を削られたか知れない。


 あちこち引っ張られ引きずり回され、衣装はぐちゃぐちゃである。


 どんな戦場でも音をあげぬミハエルが、さすがに憔悴しきった顔をしていた。


 そこに。


「よっ。ヴァレンロード卿」


 リリクルが手をあげる。


「………どうも、ご機嫌麗しゅう、プロンゾ方伯様」


「んふふ~」


 満面の笑みだ。


 疲れた顔のミハエルの首に腕を回し、どうだ、とばかりに豪快に笑うリリクル。


「これで肩を並べたぞ」


 文字通りだ。


 いままではある意味、被征服部族、保護部族、という立ち位置だったが、これからはプロンゾも立派な貴族。ミハエルの出身である方伯とも同じ爵位をもつ。もっとも、修道士であるミハエルは出家したようなものだが、今をときめくディルツ騎士団管区長なので、その名声は貴族と同等かそれ以上である。それは、ガロマン皇帝自ら勲章を授けたことからも証明されている。


「もう満足しただろ。還俗して婿に入れ。悪いようにはせんぞ?」


「………そういう訳にはいきませんよ」


 さすがにもう勘弁してくれ、という表情のミハエルである。


「諦めの悪い奴だな」


「なんだ、リリクル嬢、貴族になったとたんミハエルを手篭めにしちまおうってか」


 ノルベルト。


 実は、ミハエルをほったらかしにして仲良くなった貴族の未亡人をともなって抜け出したことは秘密だ。


「………そうか。肩も並んだことだし、四の五の言われることもないか。ミミ、睡眠魔法をかけよ。強力なやつだ」


 それは気づかなかったな、と悪人顔で笑うミハエル。


「えっ」


「勘弁してください………」


「はっはっは! なんだ、もう尻に敷かれておるのか」


 レオポルト。もはや決定事項の様相を呈してきていた。


「総長まで………」


 こめかみに手をやって苦悩の表情をにじませるミハエル。


「つ~か、何が不満なんだ。こんな美人、逃がしたら二度とチャンスはないぞ。おまけにこの男好きする体つき。よそからやってきた男にかっさらわれて後から後悔しても遅いぞ」


「そうだそうだ。何が不満なんだ、お前は」


 両手を腰に当てて、おおいばりのリリクル。言い寄ってくる男なら不自由はしないと、先ほど証明したばかりだ。


「わたしの信仰は、ゆるぎはしませんので。それに、アルクスネ管区長としての責務もございます」


「ああ、なら解任だ」


「えっ」


 まるでパンでも買ってくるかのような気軽さに、さすがにミハエルも絶句する。


「お前一人いなくなったって、誰も困りはしねぇよ。うぬぼれんな。どうせ修道士なんて妻帯した奴でもなれんだ。それからでも遅くはあるまい」


 ほくそ笑むレオポルト。

 

「ほ~ほ~。なるほど、そういう抜け道もあるんですね」


 これはいいことを聞いた、と関心しきりなリリクルである。


 がっくりと肩を落とすミハエルのことを案ずるものは、ここではミミクルくらいであろう。ミミクルが料理を取り分けたお皿をミハエルに渡していた。さりげなくニーモがミハエルのお皿に料理を盛っていた。


「冗談だ。それどころか、プロンゾ復興と、昨今のコボルドの活動が顕著になっている今、増員すべしって話ならある」


「確かに」


 数万規模での出兵を容易になしとげるコボルドが活発化している以上、2000程度の駐留規模のアルクスネでは荷が勝ちすぎている。今後、さらにコボルドが出現するのなら増員が当然となるだろう。


「フリーデルン陛下も心配されていたが、コボルド南下は人間世界の脅威だ。この地中海を中心とする南方なら、こっちだって強国がひしめいているから撃退は可能だが、北方にそこまで強国はいない。おまけに数だけじゃなく、身長三メートルの化け物まで出たって話じゃねぇか。それを、ブラウツヴァイク家の令嬢のおかげで何とかなったって話だし、令嬢がいなくなったいま、グナクト殿に警戒を願うか、という話にもなりつつある」


「なるほど………」


 カトリーナ・フォン・ブラウツヴァイクは母セシリーニと共にディルツ本国に帰還している。


 あのコボルド・ロードの相手は、並みの人間になしうることではない。まともに相手できるのは、現状グナクトしか考えられない。とはいえ、コボルド・ロードとグナクトの一騎打ちは、モンスター大決戦の様相を呈するだろう。


「できそうですか。グナクト殿」


「ふん。体がなまって困っておったところよ」


 第六次十字軍遠征もほとんど軍事衝突のない遠征だったのだ。


 グナクトはレオポルトと共に帰国、政治手腕に長けたレオポルトはガラタリアと居城を往復し教皇と皇帝の調停などで活躍しており、ディルツ騎士団内でグナクトの手綱を締められるほどの人間がおらずほとんどほったらかしだったのだ。


 同等の力量をもつものの登場となれば、グナクトも望むところだ。


「それはありがたい。プロンゾにはさらなる出兵を願うことにはなるだろうが、現状、復興は進んでいるのか?」


「順調、ではありますが」


 すでにプロンゾでは各村落にまで食料供給が行き届き、アルクスネを中心に平野にライ麦畑が広がり食糧生産も整いつつある。今は健やかなる成長を見守っている段階だ。それ以外でもすでに職業ごと、現場ごとの責任者、監督者がおり、リリクルが何でもかんでも指導せねばならないという段階は過ぎ去った。


 この春から学校、というほど立派なものでもないが小規模な教育所も作られ、ディルツ騎士団から読み書きのできる修道士が派遣され、プロンゾの文字やディルツの文字や言葉、また計算や簡単な日用的な理科も教えられ始めている。さらなる復興が進めばもっと規模の大きい本来の学校が建設される日も遠い話ではないだろう。


 ガラスに関しては、職人誘致もなされ、すでに試作品となる窓ガラスが『アトゥーレトゥーロ』に使用されている。しかし、綺麗な水平を作ること気泡を発生させないことなど、問題点は多い。これから順次生産改良され、交易品レベルにまで引き上げられると期待されている。全長200メートルにも及ぶ大巨木に、窓ガラスがはめ込まれた光景はなかなかに壮観である。


 またプロンゾ特製蜂蜜やプロンゾメープルシロップの増産も、着々と進行中である。家畜も増えつつあり、羊毛も収穫が増えてゆくだろう。毛皮を着込んで寒さをしのいでいたプロンゾ人が羊毛の服を着ている光景も珍しいものではなくなった。これらの生産品、交易品はディルツ騎士団を通じて少しずつユーロペタに販売されている。


 今は全プロンゾ人が一丸となって復興に尽力しており、最小限の警備しか備えていないが、有事ともなればプロンゾの成人男子10000人はすぐに動ける。プロンゾ人は男女とも兵士として戦えるから、武器を手に出来るもの、となれば20000は動員可能となる。とはいえ、それは本当の緊急動員であり現在のプロンゾに20000の兵を派兵し、維持し続ける経済力などない。


「順調ならば結構だな。今後は、コボルドという人類の脅威との戦いとなるだろうな。もちろん、ガロマン帝国からも支援金はでるだろう。またそこで、検討して欲しいことがある」


「何でしょう?」


「ディーム族との融和だ」


「む………」


 ディーム族。


 リリクルやミミクルの母イーナム・ディームの生まれた一族である。


 かつて、ディルツ騎士団との戦争で疲弊したプロンゾの後背をついたが、グナクトの猛反撃にあって降伏、イーナムを差し出すことで停戦合意にこぎつけた、という経緯がある。それ以降も、ほとんど接触はなかったとはいえ、まったくないわけではない。


「プロンゾと因縁浅からずと伺っている。そのディーム族を融和させ、ディルツ騎士団、プロンゾ、ディームでの共闘を実現しコボルドとの共同戦線を確立する。これが目下現実的な目論見だ」


「ふん。あんな弱兵どもをいくらかき集めたとて大した働きにもなるまい」


 プロンゾとの紛争時、グナクト一人で5000以上もの死傷者をだしたディーム族である。グナクトは鼻で笑う。しかし、かつてグナクトと相対したディルツ騎士団の損害は合計するともっと悲惨な数だ。


「しかし、親父にぼこぼこにされたとはいえ、それはもう昔のこと。痛手も癒えただろうし、数万規模での出兵も可能であろう。コボルド相手ならば兵数こそが重要だろう」


「そうですね。もし、今後もコボルドの出兵が起こりうるのなら、早めに手を打った方がいいでしょうね」


「否定意見がないようで安心した。まあ、復興事業を続けながらなのでどうなるかは今後次第だが、その腹積もりでいてくれ」


 リリクル、ミハエルとも、このディーム族融和に前向きであることに、レオポルトも満足そうにうなずく。


 そこにオーケストラが荘厳なメロディを奏で始める。ダンスの時間だ。


 オーケストラの音色にあわせてダンス会場に進み出る貴族たち。


「おっと。ミハエル、ここでリリクル嬢をエスコートせんでどうするんだ。行って来い!」


 どんっ、とミハエルとリリクルをダンス会場に押し出すレオポルト。


「は、はい」


「わわっ! わたしはダンスなんて踊れないぞ!」


 慌てふためくリリクルに、慌てて二人のお皿を受け取るミミクル。


「んなもん、適当に体ゆすってりゃいいんだよ。行って見せ付けて来い」


 この晩餐会の主役は彼らなのだ。

 

 とはいうもののチークタイムでもあるまいし、おとなしく踊っていればすむ話ではない。すでに先行した貴族たちは巧みなダンスを披露している。


 まだ何かいいたげなリリクルだったが、ミハエルが先に歩くので渋々といった顔で後に続く。


「ど、どうすればいいんだっ、そもそも、お前は踊れるのか!?」


「貴族のたしなみですから」


「ぐっ」


 さも、当然、といった顔のミハエルに、どうせ貴族になったばかりでダンスも作法も知らんと、不満げなリリクル。先ほどさんざんからかったから意趣返しだな、と頬を膨らませた。


 ダンスホールに入り、向かい合う。

 

 死刑を宣告されたってこんな顔はしないだろうと思われるほど、おたおたとした表情だった。そのリリクルがミハエルを見上げる。その瞬間、


 深い瞳に呑まれた。


「大丈夫」


 にっこりと微笑みかけられ、引いていた血の気が巡り始める。


「右手はわたしの手をとって。左手は上からからませるように。しっかり握ってください。背筋をぴんと伸ばして」


「こ、こうか」


 えも言われぬ落ち着いた声色に、ただ素直に従うリリクル。


「足取りは、わたしの足に合わせるように運んでください。わたしが右足を出せば、リリクルさんは左足を下げる。反対も同様に。最初はゆっくりと」


 ミハエルの足の動きに、おっかなびっくりのリリクル。


「………あまり、足先ばかり見てうつむいていないで」


「しょっ、しょうがないだろ。あ、ごめん」


 頬を赤く染めて、ミハエルに苦情を言ったとたん、思い切り踏んづける。


「大丈夫です。剣技と同じです。要は、リズムを掴まえればいいんです」


「か、簡単に言うけどな」


「落ち着いて。もっと体を密着させた方がいいんです」


「………ぅわ!」


 リリクルの背に回した手でぎゅっと抱き寄せる。


 突然、鼻息が掛かりそうなほどの距離で密着したリリクルは、緊張やら恥ずかしさやらで心臓が早鐘を打つ。自分の動揺の鼓動を気取られたら、とさらに赤面する。


 様々な誘惑をやり過ごしてきたミハエルだ。いまさら強く密着しても何ともない風だが、リリクルの方は攻勢をかける側で守勢に回ったことがないからこんな場面では耐性がない。


「一、二、三、四、一、二、三、四………」


 緩やかなステップ。


 リリクルがリズムを理解するまで。


 そもそも、そこまで規則だった音楽がないプロンゾに、いきなり四拍子を把握しろという方が無理難題なのだが、ミハエルはそこまで不安視はしていない。


「では、そろそろ動きますよ」


「わ、わわっ」


 急な動きに慌ててミハエルにしがみつく。普段のリリクルではそうそう見られない顔に、ミハエルもふわりと微笑んだ。


 体をぴったりと密着させてのミハエルの優しいリードでも、リリクルはついてゆくのに一生懸命だ。だが、何度も足を踏みバランスを崩しながらも、ミハエルの完璧な支えに助けられる。まるで巨木に寄り添って、守られているかのような安定感を感じた。


 一瞬、木漏れ日の中、プロンゾの大樹に柔らかな日差しを受けてくつろいでいるような錯覚に、リリクルは襲われる。


「そう。いい感じです」


 無駄な力みや緊張が解きほぐれるのを感じて。


 ミハエルの卓越したリードに、戦士として優れた体幹をもつリリクルもやがて足のもって行く先を理解し始める。


 何より、ミハエルは自分が大きく動くことでリリクルに最小限の負担ですませつつ最大限に観客を魅せる、という方法を知っていた。


 ミハエルによって巧みにリードされながらも、まるで自分自身が華麗なダンスを踊っているかのような不思議な感覚。


 華麗なターン、優美な連続スピン、体を大きく使ったオーバースェー。


 いつしか、リリクルは酔いしれていた。


 天井にかかるシャンデリアから無数のロウソクがおぼろに辺りを照らし出し、ぐるぐるとめまぐるしく移り変わる光景に、心揺さぶるメロディライン、そして、吐息のかかる距離で自分を見つめて優しく微笑むミハエル。


 初めてづくしのこの長い旅行のクライマックスに、極め付きのこのダンスホールの幻想的な世界。


 まるで夢の中を漂っているかのような心地だった。


 ミハエルと何度か面識を重ねて、ディルツ憎しの憎悪の感情が徐々に薄れ、己の中の恋心を自覚したあの時。


 確かに、最初は容姿から入ったかも知れない。


 己を納得させるための管区長だからとかいう、利害打算もあったかも知れない。


 でも、直接触れ合って分かる、暖かな人間性。


 大樹にも負けない安心感や心地よさ。


 ミハエルに甘えて、すがって、困らせて。


 でも絶対、怒ったり、叱ったり、小言をいったりしない。


 困った顔をして、戸惑っても、それでもいつも寄り添ってくれた。


 そのミハエルとこうしてぴったりと抱き合っている。


 ぬくもりを、柔らかさを、力強さを、息遣いを、肌に感じて。


 今、この時が永遠に続けばいいのにな。


 リリクルは、ささやかな幸せに、身をゆだねるのであった。

 13世紀のヨーロッパに、どれほどの管弦楽器があって、どれほど王侯貴族がダンスしていたか、までは分かりませんが、細かい歴史的事実は無視でお願いします。あと、あんな豪勢な勲章とかもないでしょうけどね。




 ちなみに、方伯とは、基本的には神聖ローマ帝国限定の爵位だそうな。伯爵と同程度の扱いで、辺境伯と大体同じものだそうです。でも時には公爵と同等の影響力を発揮したのだとか。また、辺境伯もその後実力を蓄え、大公や王国に成長することもあったのだとか。敵国と領土を接し常に戦力を蓄えているので、中央の本国が衰退しても一人覇を唱えるだけの実力があったということなのでしょうね。



 さらに。


 このローマ皇帝フリードリッヒは大変興味深い実験を行ったことでも有名であります。


 彼は幼い頃から多言語に精通したからか、人の言語、母国語はどういう由来で習得するのかと疑問に思いました。なので、まったく出身地がばらばらな戦災孤児などの赤子を一箇所に集め、その子らを世話する係りにはこう厳命しました。


 一言も話しかけるな。微笑みかけるな。と。


 そうして育てられた子供は、何故かさして成長することなくみな、亡くなったのだそう。


 興味深いお話です。


 きっと人間は、人から微笑んでもらって、初めて生きることを許してもらえるのでしょうね。

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