鉄拳修道女 カトリーナ・フォン・ブラウツヴァイク (六)
5/15 誤字やら訂正。
翌朝。
「ん………」
「目が覚めたかい」
ピウサ修道院。
疲労の限界に達し、そうそうに寝入っていたミミクル・プロンゾが目を覚ます。
それを見つめるケット・シーのニーモ。
普段は元気に振舞う彼女だが、生まれてからずっと大森林からほとんど外出も許されずにおりここしばらくの雪中行軍に疲労の限界だったのだ。彼女はプロンゾ人として当たり前の鍛錬などもいっさい許されず、少し病弱なくらいである。ここしばらくはリリクルを手伝ってのアルクスネとプロンゾの往復生活だったとはいえ、それでも体を酷使するようなこととは無縁だった。
行軍のほとんどをニーモの背にあって空中を飛んでおり、騎馬にまたがるよりはるかに楽で安全な移動だったとはいえ、営舎のテント暮らしになれたわけでもない。五日間の旅程にさすがに非力な彼女にはこたえた。次代を担う巫女として見聞を広めるためと、プロンゾの復興を担う族長一族として、おして援軍に参加したものの、こんな規模の強行軍もこれまでにない経験だったのだ。何とかぐっすり眠って眠気はとれたものの、全身を覆う疲労感はまだ多少はくすぶっていた。
ため息をひとつつき、まだ薄暗い大広間の長いすから身を起こす。
室内には戦死したコボルドを焼いた異臭がいまだ漂っている。疲労の限界のあまり寝入ったミミクルにはそこまで気にする余裕はなかったが、しかし、目覚めた今は、確かに胸が悪くなるような臭いだった。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
そこに入ってきた修道院の院長ダレマナ・ピラトスがミミクルに笑いかける。
まだ夜明け前であるにも関わらずの起床である。修道女の朝は早い。
「あ………、はい、おはようございます。ありがとうございます。おかげさまで元気が出てきました」
「すいませんね。椅子で寝ていただいて」
「いえ、お構いなく。外で、テントで眠っている方々に比べれば、はるかに快適でした」
狭小な修道院といえど、来客用の部屋がないわけではない。しかし、ニーモは寝入ってしまったミミクルを移動させなかった。
ミハエルやリリクル、アルクスネ部隊2500人は営舎で寒さをしのいでいるのだ。
「そういっていただけますと助かります」
他の修道女たちも時をおかずに室内に入ってきた。
ケット・シーを従える魔法使いであるミミクルのことは修道女たちも理解していた。
カトリーナをかついで猫の妖精が入ってきた時にはそれは驚かされたが、いまは守護神のように信頼していた。ミミクルのもつ、天の恩寵の気配を、ダレマナも感じ取っていたからだ。
信仰の対象になってもおかしくないほどの存在が、こうして軍と行動を共にしており、しかもその軍を率いる部隊長であるミハエルまでそうなのだから、相当珍しい事態に修道女たちも天の意思をそこに感じざるを得なかった。
「待ってて」
ニーモが夜明け前の窓を開け、風をおこして臭気を外に出す。
厳しい冷気が中に入ってくるが、それでも鼻をつく臭気にさいなまれ続けるよりは、まだ我慢できた。
しかも、ニーモは臭気を追い出すと空気を振動させ室内を暖め始めた。とたん、身を切るような冷たさが和らいでゆく。
「便利なものだな」
ふん、と鼻息をつくカトリーナ・フォン・ブラウツヴァイク。朝の鍛錬を終え、入ってきたのだった。武闘家でもあるカトリーナの朝も早い。
相当激しい鍛錬を行ったのか、体から湯気が立ち上っていた。
「貴方も、元気になられましたか?」
ダレマナがカトリーナを気遣う。
他の修道女たちが暖炉に薪をくべ、火をつけた。
「ああ、もう大丈夫だ。心配をかけてしまってすまないな院長」
体の調子をみるカトリーナ。
憑依召喚魔法の後の体だ。
通常では絶対に出やしない力を発揮したのだ。いまでも己の体ではないかのような違和感があった。しかも、天使の力を純粋なエネルギーに変換し、身体組織の強化にまで及んでいる。普通なら、限界を突破した力を振るったら骨も筋繊維も悲鳴をあげるが、全然何ともなかった。
ただ、慣れない行いをしたため、感覚がおかしくなっているのだ。まるで酔っているかのような酩酊感がいまもあった。さらに感じるのが相当過酷な鍛錬を行った後のような疲労感だ。しかし、それも武道に生きるものとしては当たり前の疲労感であり、むしろ心地よいくらいではあった。
この術もそれほど時をおかず順応できるであろう。
優秀な召喚術師であり、並々ならぬ武道家であるカトリーナはそう実感していた。
こぶしを握り締め、ふっ、と自信の笑みをもらす。
そして、室内を歩き、呆然と見上げるミミクルに視線を投ず。
「………そういえば、そなたもアルクスネ部隊の者だったな」
昨夜はほとんど気にもせず自室に引き上げたのだ。ミミクルとニーモの存在は目に入らなかった。
「は、はい! カトリーナ、さん、でしたっけ、その、すごいですね、天使を召喚して、戦うだなんて」
カトリーナを陶然と見上げるミミクル。
素人目にもはっきりとわかる、王侯貴族然とした浮世離れした美貌と、優れた戦士としての風格に酔いしれているのだ。
姉であるリリクルもれっきとした戦士であり力量も美貌も人並み以上には備わっている。しかし、眼前に、悠然とたたずむカトリーナは、世界が違うように思えたのだった。
大森林に閉ざされ、狭い世界で縮こまって生きざるを得なかったミミクルにとって、王侯貴族の姫、というだけで自分には決して手の届かない存在、住む世界が違う住人と思っていたのだ。そんな存在が黄金の髪をなびかせて眼前にたたずんでいる。ミミクルが酔いしれるには十分だった。
そんなミミクルを見下ろすカトリーナ。
ミミクルは、見た目は美少女。
一瞥しただけで戦闘能力はたいしたことのない、いわば普通の人間とわかる。
しかし、優れた召喚術師でもあるカトリーナにはミミクルのもつ豊富な魔力量がわかった。普通の人間ではそうそう保有できないほどの魔力。いや、端倪すべからざるほどの、底知れないほどの魔力を感じた。
普通、魔力というものはその人間の生命力に比例する。簡単に言えば、元気なものであればあるほど魔力も高まるのだ。つまり、成長と共に魔力は高まり、老いと共に魔力もしぼむ。しかし、ミミクルにはそういった生命力とは無関係な、底の見えない魔力を感じた。それだけでも驚きだったがそれだけに留まらない。
身を包む神気は、まさしくミハエルと同じく天の恩寵を受けた存在。
カトリーナは目を見開いた。
軍人であり、修道騎士であるミハエルが神に選ばれし存在であることも十二分に驚きだが、この少女も同様の存在であること。その風貌から、明らかに赤子のように純粋無垢な存在であることがわかる。
神の、天の恩寵を得たものが二人も、そろって同じ場にいる。
いったいこれはどういう奇跡なのか。驚いた。
しかも、この眼前の少女の、恩寵を得たが故のはかなさ、生きることの困難さに気がついたのだ。
カトリーナの、そうそう豊富でもない人生経験でも、人間が、完璧な存在ではないことがわかる。
悪をなすもの、因循姑息に日々を送るもの、ただ一時の享楽をのみ望むもの、そういったどうしようもない存在はともかくとして日々を頑張って生きるものにも、一面として悪事の芽はある。
それは、ある意味、こうして人として生きるためにはやむをえない、処世術のようなものでもあるのであろう。こうして物質に縛られ、囚われて生きるのには時として悪事に手を染めねばならぬこともあるだろうから。心を鬼にせねばならぬこともあるだろうから。綺麗事だけで、すべての人生がまかなえるわけでもないからだ。
それがどうだ。
目の前の少女は、そういった人としての一面、悪という面がすっぽり抜け落ちている。
善人。100%掛け値なしの善。人の悪意も、嘘も、冗談ですら真に受けてしまうだろう、善のかたまり。さぞや、生きづらいであろう。
ちら、ととなりで自分を見上げるケット・シーを見る。まるで、世界のすべてを熟知しているかのような瞳。
なるほど、と思った。
守護精霊というわけか、と納得した。
「いや、それもこれもお母様の研究の賜物、わらわが成し遂げた訳ではないからな………」
「それでもすごいです!」
何の裏もない、嫉妬も、ひがみもやっかみも嫌味もない、100%純粋なる賞賛。
いままでの人生でもお目にかかったことのない、警戒心がまるで必要のない少女。王侯貴族にありがちな、言葉の裏を探り、真意を読み解く必要のない言葉。
ただただ純粋に、その純粋な思いを受け取るだけでよい少女の言葉。
「ふ………」
いるんだな、こんなものも。
カトリーナは知らず、笑みがこぼれるのであった。
母セシリーニの周囲からは決して賛同を得られぬ研究のせいで本国を追いやられ、極北の僻地に暮らさざるをえなくなり、日ごろ、ここでお世話になっている修道女ですら心の警戒を緩めることのできなかったカトリーナ。眼前の少女にはそういった心の遮蔽すら必要がないとわかり、言いようのない安堵を覚えるのであった。
「ならば、そなた、………そうだ、そなたの名は?」
「あっ! ミミクル、ミミクル・プロンゾを申します。こちらはケット・シーのニーモ」
「よろしく」
「ミミクルか………」
これまた優しい音色の名だな。と小さくつぶやいて。
「………ミミクルも、お母様の施術を受けてみるか?」
「えっ!?」
意想外の申し出にびっくり仰天のミミクルに、にっ、と意地悪く笑うカトリーナ。
「ふふっ、冗談だ。そこな、ニーモ、といったか。猫神様がいるだけで十分であろうな」
「当然だね」
鷹揚にうなずくニーモ。
「憑依させられるかどうかは資質によるからな。わらわは、武闘に秀でておるから、その選択肢があったわけだ」
「とてもすごいです」
まるで、我がことのように微笑むミミクルを見ているだけで、カトリーナは誇らしい気になるのであった。
ガロマン帝国魔導学院から、未熟な術を研究し無用に多数の死者を出したかどで追放の憂き目にあい、ブラウツヴァイク家からも冷たい目で見られ極北に追いやられ細々と研究を続けて来た母セシリーニにここまで付き添ってきたが、これまでの苦労が報われた心地だった。
「我々は朝の礼拝に向かいます。礼拝がすんでから朝食となりますので、あなた方はまだゆっくりとされるのがよいでしょう。」
「あ、はい。ありがとうございます」
ダレマナが他の修道女を引き連れ、礼拝堂に向かう。広間には、二人と一柱が残された。
「しかし、珍しい術を用いるようだけど、普通に天使を召喚した方がいいんじゃない?」
ニーモが問う。
「ふむ、そういう疑問はもっともだな。しかし、こういう問題も昔からあるではないか。召喚魔法は、召喚術師から、先に倒せ、とな」
にっ、と笑うカトリーナ。
「そうか。術者そのものを強化してしまえ、ということか」
「そうだ」
この質問はすでに何度も経験しているのだ。
クルダス教信徒による天使召喚や、また地水火風の四大精霊を使役する精霊召喚や、悪魔、悪霊を召喚する暗黒魔法。
様々な魔法や召喚術が存在するこの世界において、呼び出し使役する天使や精霊、悪魔などは、超常の力や業、魔法を駆使し戦いを有利に展開する。召喚術師が一人いるだけで戦局がごろっとひっくり返ることも珍しいことではない。
召喚術師は通常、呼び出した天使や精霊を完璧に制御下におくために膨大な魔力や精神力を要求される。それが、高位の天使や精霊になればなるほど、また呼び出した精霊の数が多ければ多いほど、当然、要求量は跳ね上がる。その制御には全神経をそそぎ、他に何の余裕もない。
そして、戦闘ともなれば、その間、術師は戦場を見渡せる場所にいなければならない。術師が見えないところには戦闘指示を出せないからだ。もっとも、すべてを焼き払うような強力にして強大な無差別魔法を使うのならば多少見えなくとも関係はないが、ニーモのように好き好んで護ってくれるような状態でもないかぎり、天使や精霊が使用する魔法は基本的に術師の魔力に依存する。呼び出してさらに、攻撃に使う魔力も術師もち、というわけだ。天使や精霊は、よほどのことでもない限り、自分の魔力を使ったりはしない。彼らにとって、魔力とは自分たちの生命線であり活動に必要だからだ。よって、すべてを焼き払うような大規模魔法を、召喚した天使や精霊に使用させられるような超越的な魔力をもつ召喚術師などほとんど存在しない。もしいれば、国家間紛争において常勝無敗、誰の抵抗も意に介さない無敵の戦力となるであろう。
それはともかく、戦争など、状況が様々に錯綜する中で、術師はこういった状況下に身をおくことになる。
最低限、膨大な魔力と精神力を要求され、戦場を見渡せる場所にいなければ、どれほど強力な召喚魔法といえど本来の能力を発揮することはできないのだ。さらにいうと魔力を常に供給せねばならないのであまり術師と召喚した対象の距離が離れることはできない。
つまり、戦場を見渡せるような場所に術師が身を置くということは、それはすなわち、敵対する側にも術師の姿が見える可能性がある、ということになる。
そこを攻撃されれば、天使や精霊の制御に全神経を注いでいる術師には防ぎようがない。術師自体には何ら防衛手段がない、ということである。
術師自体が、驚異的な防御能力や、周囲の護衛に守られているのならばともかく、基本的には無防備なのである。
矢や、狙撃魔法、暗殺手段など、術師単体をピンポイントに狙った攻撃にさらされれば、術師があっけなく殺されてしまうことも、決して珍しいことではない。敵対する側からすれば、召喚された天使や精霊の対処に苦慮するより、術師単体を狙ったほうがまだ易しい、ということになるのだ。
それに対する解答のひとつとして、セシリーニが考えたのがこの術式なのである。
召喚術師に、天使を憑依させ、天使を純粋なエネルギーに変換し術師の肉体強化にしてしまう。そして、術師は己の肉体を武器とし、戦う。術師を守る方法として、これほどはない、というわけだ。さらに、召喚した状態を維持するのは入れ墨の術式によって行われる。術師は、比較的少ない魔力消費ですみ、召喚を維持し続ける精神力を要求されないのである。
「それもすごい発想だけど、それを成し遂げるのも、またすごいね」
呆れとも賞賛ともつかないニーモのため息である。
例えるのなら、ニーモが純粋なエネルギーとなってミミクルを強化してしまえば、ミミクルを護衛する、という目的は果たせることにもなろう。しかし、その場合敵の矢面に立って、敵を撲殺することになるのはミミクル自身だ。
すごい発想であり、それを完成させた熱意、は確かに賞賛に値するが、決して真似しようなどとは毛ほども思えない。ミミクルが敵の返り血で染まり、凄絶に戦う姿など、想像もしたくないニーモである。
「まあ、そうだな。わらわが、優れた召喚術師であり、ずば抜けた武闘の達人であったからこそ、なしうる方法であろうな」
「わたしには真似したくともできません。すごいです!」
ミミクルは大絶賛だ。
誇らしげに胸を張るカトリーナを、ミミクルは憧れのまなざしで見上げていた。
「ミミクルは並々ならぬ魔力があるようだが、天使召喚の術は使えるのか?」
「え、いえ、わたしが使えるのはニーモとディレル婆様から学んだ術だけです」
「そうか。………そういえば、プロンゾ族は古神道だと聞く。まだクルダス教には改宗しておらんか」
「はい」
天使召喚の術は、クルダス教の秘匿技術でもある。誰でも好き勝手に天使を呼び出せる魔法が流布しているわけではない。クルダス教に入信、改宗することによって、初めて人は天使を召喚する魔法を伝授される。
もっとも、天使を呼び出すには、大きく二つの素質が必要となる。
一に、一定以上の魔力。
二に、高潔な人格。
勘違いしてはいけないが、天使は、人間より格上の存在である。
天使は、人間の下僕でもなければ、召使でもない。ましてや、奴隷になど絶対にならないのである。
それどころか、人間が目指すべき、追うべき方向性のひとつなのだ。
魂における、先輩なのである。
その天使を呼び出す、にはそれ相応の人徳が、当然のことながら要求される。
薄汚い精神の人間が天使を呼び出したところで、それに応じるかどうかは天使の問題である。現在の人間の魔法に、天使を強制的に召喚、命令で束縛させる技術などない。いや、もしそんなものがあった場合、どれほど恐ろしい神罰が下るか、想像するに恐ろしいことが起きるだろう。それは明確に天に反逆する行為だからだ。
よって、天使は、万已むを得ない求め、つまり、生命に関わるような危機的状況下でもない限りはそうやすやすと召喚に応じるわけでもない。亜人などの、人類に明らかに敵対し人類を駆逐せんとする勢力に対してならば、愛しい人間を守るために天使もその姿を現すが、人間同士の利権やエゴの争いには、基本、一切関わらない。
ガロマン教皇のいる首都バティキュノ。そこはまさしくクルダス教の総本山であり、天使召喚魔法を駆使する術師の総本山でもある。全ユーロペタに根を張り、素朴な市民生活から王侯貴族までを取り込む教権と、強大な天使召喚魔法を備えた強力無比なクルダス教の本拠地が、それでも全世界を支配していないのはそういう理由である。
日々を正しく生きる人間としての規範、率先垂範、目標としてのクルダス教、ならば天も祝福されるが、実質的な統治者、支配者になる、など大それた野心に天が同意するわけはないからである。
もっとも、クルダス教がすべてにおいて正しく、清廉潔白かは、歴史をみれば明らかではあるが、天も、現実世界のことは人間で解決すべきで、そこまで介入する要を認め得ないのであろう。
「ならば、天使を召喚できる術は、覚えておいて損はないな。ミミクルほどの素質であれば、もしや無償で天使が手助けしてくれるだろうしな」
「え………」
ちらり、とニーモをみるミミクル。
「………そうだね。今後もアルクスネ部隊と行動を共にすることを考えると、その選択肢もあってしかるべきなのかもしれない。いや、リリクルが改宗したんだし、その考えは当然もつべきだったね」
「そ、そうなの?」
「ガガナトの件もある」
「あ………」
神格をもつケット・シーのニーモ、また、豊富な魔力をもつミミクル。
この一人と一柱だけで、魔法戦力としてはずば抜けている。しかし、ガガナトという冥府魔道に落ちた存在に対してはまったくの無力だったのだ。
暗黒魔法や、地獄の手先に対して、有効的な攻撃能力を発揮できるのは、神聖魔法か、天使による攻撃しかありえないからだ。
ニーモという、この上ない守護精霊を得て、これ以上何を望むことがあろう、と思っていたミミクルであり、それ以上を望むことは、『永久の親愛』を誓ったニーモに対する裏切りにもなるのではないか、とも思ってはいたからだ。
「わたしに遠慮する必要はない。その能力があって、その素質を天から授けられている以上、それを有効に活かすのも、人の使命だからね」
そのニーモからの力強い後押し。
きらりと輝くニーモの瞳は、ミミクルの成長をのみ、望んでいた。
「う、うん! カトリーナさん、わたしも、天使さんが召喚したいです!」
「うむ。とはいえ、わらわも召喚魔法を伝授できる資格はない。それを成しうる、アルクスネにいる司祭などから改宗を経て、伝授を求めるべきだろう。とはいえだ」
「………?」
「天使を、見たくはないか?」
「見られるんですか!?」
に。とカトリーナは笑う。
「ここはせまい。外に行こう」
「は、はい!」
ミミクルの手をとって歩き出すカトリーナ。
もし、この場に、母セシリーニや院長ダレマナがいれば驚きを隠さなかっただろう。カトリーナははっきり言って社交的な人間ではない。気に食わない人間がいれば、殴って排除しかねないほどに。
ここ、ピウサ修道院にも、100人から修道女が暮らしているが、カトリーナから手を差し出したことなど、ただの一度もなかったのである。
気に食わない人間には、とことん壁をつくるのがカトリーナだ。それが、あって間もないミミクルには何の気兼ねもなく手を差し出した。驚くべき、また、歓迎すべき変化だった。
通路を歩き、上を目指す。
ピウサ修道院は、かつての役割上、建物のさらに上、崖の上に見張り台が設けてある。
いまは無用の存在であり、ほとんど修繕されることもなく放置されたままだが、自由な時間を過ごす修道女たちが息抜きにここに立ち寄る場所だ。いまは礼拝の時間であり、もちろん誰もいない。
崖の上からははるかかなたを展望できた。視線を投ずれば、炊煙を上げるミハエルたちの営舎が見える。人々が朝ごはんの支度をしているのだ。
「すごい景色!」
少し強めの風にあおられ身は冷たいが、それでも心地よい気分だった。
遠くの山々や、雪をかぶる木々、遠方にまで広がる雪原。日の光の具合から、日の出が目前であることがわかる。これからまた新しく始まる一日が、眼下に広がっていた。
大きく息を吸い込んで、深呼吸をするミミクル。全身を覆っていた疲労も、少しは消えるというものだった。
「先ほどまでここで鍛錬をしていたのだ」
「そうなんですね」
見張り台の一角に、大雑把に布を幾重にも巻いた丸太が突き立てられていた。これを殴ったり蹴ったりしていたのだろう。布は擦り切れぼろぼろで、どれほど激しい打突を行っていたかが伺われる。
「待っていてくれ」
ふっと、精神統一を始めるカトリーナ。すると、神秘的な光がカトリーナを包みこむ。
召喚魔法を入れ墨という形で掘り込んであるため、詠唱の類は必要としなかった。ただ、これまで培ってきた召喚魔法の流れを、脳内の意識下でたどるだけでよい。
親愛なる、敬愛なる上位の存在にして、頼りになる相棒に、登場を願う。
カトリーナのお願い。
次の瞬間、何もなかった空間に神秘の存在が現れたのであった。
神聖なる乙女。
かつて、ヴィルグリカス平原で神を見上げた経験からするとそこまで光そのもの、という印象はなく、どちらかといえば人に近しい姿であった。とはいえ、全身から沸き起こる敬虔の情に、嘘はない。しかも、あの時は上空に光そのものが現れ、人の及んではいけない絶対の神聖をもたらしたため、ただただ恐れおののくばかりであったが、ここまで近くで天使の姿に接しても、慈愛に満ちた、暖かい雰囲気に包まれるばかりであった。
神々しい輝きに全身を包まれた、古代民族のゆったりとした貫頭衣に身を包み、発光し透き通る羽をもつ、天使。身長はやや大きめの二メートルとちょっと。栗色の、輝く髪をふわりとなびかせ、穏やかな視線をカトリーナに、そしてミミクルに、ニーモに注ぐのであった。
「わらわの相棒、守護天使で権天使、ラフェキエル。わらわの生まれた時から天に遣わされ、わらわだけを護ってくれているのだ」
すっ、と天使の手をとるカトリーナが、お辞儀をする。
そのお辞儀を受けて、天使もたおやかに微笑んだ。
「こ、この人が、天使、さん………」
生まれて初めて接する天使の姿に、ミミクルは感動で言葉がない。
そんなミミクルに、ラフェキエルは手を差し出す。
「えっ………」
「挨拶がしたいそうだ」
「あっ! は、はい!」
慌てて手をとるミミクル。ニーモに触れた感触よりは幾分かおぼろげな、はかなげな手の感触。常に実体化しているニーモより、召喚された天使はそこまで物質化にこだわっていないのであろう。
ただ、その手に触れただけで、ずっと憧れていた、心から尊敬しそうなりたいと思っていた人物と対面をはたしたかのような感動がミミクルを突き抜けたのであった。
天使は、この世界に生を得た、すべての生命がやがてそこに到るもの、目指すもののひとつの到達点だ。
ゴールのひとつとも、言ってよい。
そんな存在と手と手を交わした。
それだけで得も言われぬ感動が身を包むのだ。
道標を知った、先駆、先覚を知った、自分の目指すべき方向性、ありよう、その実例をはっきりと示されたのだ。感動を覚えないわけにはいかなかった。
――貴方のことは、天の父から伺っております。
「えっ、あ、はい!」
びっくりして返答する。どうやら、この声は自分にだけ聞こえているらしい。耳から聞こえた声ではなかった。
まるで、春の雪解けのような暖かさ。幼い頃、母イーナムの腕の中でまどろんでいたかのような暖かさを感じる声だった。
知らず、瞳から涙がこぼれた。
「天使は、直接相手の心に問いかけることができるのだ。一方的な通告は受けるものの負担となるためあまりしないが、こうして手に触れ、相手の心に触れれば負担なく会話が出来る。ミミクルの心はもうラフェキエルとつながった。これでいつでも声が聞こえるはずだ」
「………そ、そうなんですね」
カトリーナの説明に、陶然と、天使ラフェキエルを見上げるミミクル。
――天の父に愛されること、それはいままでも、そしてこれからも幾多の苦難を伴うでしょう。ですが、我々はいつでも、貴方の味方ですから負けないで、頑張ってくださいね。
「は、………はい」
――もっとも、そこにおわすケット・シー様が何より、誰よりお守りくださるでしょうけど。
――当然だね。
「うわ! びっくりした!」
天使ラフェキエルとの会話のはずが、急にニーモの声が届いて驚くミミクルである。
「ふふふ。わたしとて、神格を得たる妖精だよ。これくらいはできて当然」
えっへん。といまは小さな体で胸を張るニーモ。
天使ラフェキエルも微笑む。
――あと、カトリーナと、仲良くしてあげてください。あの子にとって、初めて心を許せる人に出会えたのですから。
「………はい」
――お二人は、生まれも育ちも違う分、だからこそかえってお互いの違いを理解し合えると思います。お二人で協力し合って、これからの困難を乗り切ってくださいね。
「はい」
――大切なことは、喜神を含むこと。精神に、心に、いつも喜びを。いつも笑顔で、素直にいること。もっとも、これは言うまでもないことでしょうけどね。貴方の頭上には、いつも父の祝福があります。大丈夫。元気でいてください。
「はいっ」
――とても、素敵な時間でした。名残惜しいですが、これまでといたしましょう。これからは、いつでも会えることですし。
「はい………」
すっと、ミミクルから離れる天使ラフェキエル。
慈愛のまなざしを、ミミクルに注ぎニーモに注ぎ、カトリーナと手と手をとり、そして、消え去ったのであった。
「あー」
名残惜しい気持ちでいっぱいのミミクル、酔ったような心地で、いまは何もない空間を見上げる。
「………これが天使だ。はやく召喚したくなったであろう?」
「そうですね! とても、楽しみになりました」
「うむ。そのためにも、援軍の件、無事、生きて帰るぞ」
輜重隊が到着ししだい補給の後、修道院の全員はアルクスネに退避、カトリーナもミミクルも、8万のコボルドが包囲するタイルドゥ司教区へ向けて進軍を開始することになる。
たった2500のアルクスネ将兵にどこまでできるかはわからないが、困難な作戦であることは予想できた。
「はっ、はい」
「大丈夫だ。ミミクルには、指一本、触れさせぬからな」
「は、はい、ありがとうございます」
「わらわはミミクルを守る。もしもの時は、わらわのことを守ってくれ」
すっ、と手を差し出し、微笑むカトリーナ。
「はい」
その手を、ぎゅっと握るミミクル。
「約束だ」
二人は、初めて、人生で初めて、かけがえのない友達と巡り合えたのであった。
夜明けの日差しが、暖かく二人と一柱を包み込んでいった。
数字の表記を変更しました。
一人、一日、馬一頭、などはそのままにするにしましても、
八万対2500とかアラビア数字が関わってくるところはアラビア数字で8万対2500という風にします。これで少しは読みやすくなればよいのですが。
あと、章管理という存在に始めて気がつきましたので、サブタイトルがちょっとすっきり(笑)。
これからものんびりお付き合いいただければ幸いでございます。
ー人ー




