鉄拳修道女 カトリーナ・フォン・ブラウツヴァイク (三)
厳冬。
ザリッ ザリッ ザリッ
室内に剣山の音が小さく響く。
その剣山は入れ墨用のものだ。
修道服を着た女性が、研究書をテーブルに置きそれを参照しながら入れ墨用の剣山を操っていた。
うら若い女性がベッドにうつぶせにねかされ、真っ白で美しいはずであろう背中に、剣山で傷をつけられていた。すでにその背中には三分の一ほど、入れ墨によって文様が描かれている。
針が入って血が流れるのを布でぬぐって、女性はさらに剣山を寝かせた女性の柔肌に食い込ませてゆく。
その文様とは魔法の術式であった。
ザリッ ザリッ
ふと、手を休めて、自身で完成させた研究書の文字をなぞる。
「まだか」
ベッドにうつぶせになっていた若い女性が言う。痛みはない。痛覚を麻痺させる魔法を使っているからだ。だが、それでも体全体がしびれたように熱く、疲労感にさいなまれていた。背中の皮膚を傷つけているのだから、体が受けているダメージは相当なものだ。
ここはピウサ女子修道院。
アルクスネ管区から直線で北方100キロほど。タイルドゥ司教領の東はずれにある絶壁の最上部にある天然空洞に設けられた修道院である。
外では、敵軍勢が修道院を取り囲んでいた。
その敵軍勢とはコボルド。狼と人間を融合させたかのような亜人種である。
全身を狼のごとき剛毛に覆われ、極北の厳寒に苦もなく対応できる。というより、厳寒でこそもっとも活動が活発化する。
高度ではないが古代の人類に似た階級制度を持ち、コボルドキング、王を頂点とする支配階層、コボルドウォーリアなどの戦闘階層、一般的なコボルドという労働階層に分かれている。
コボルドは鉱山労働者としても知られ、極北大陸に広大に広がる鉱山をほぼ独占している。
そこの金属が人間界にも広く流通しているほか、特に貴重なのがミスリル銀である。このミスリル銀はいまのところコボルドが支配する極北大陸でしか発見されていない。
コボルドはそこまで極端に人類を憎み徹底的に敵対する種族でもないが、人間と同じく権力欲や支配欲も強く、また繁殖力も旺盛であり、コボルド勢力をさらに拡大させんと欲する意識も人類同様旺盛であった。自身の鉱山より採掘、精製される鉄器や鋼をもって重度に武装している。労働階層のコボルドなら人間より小型が多いが、戦闘階層のコボルドウォーリアともなれば身長二メートル程度が普通となるなど、身体的に人類を上回る。極寒でこそ活発になる性質、さらに狼のごとき統率力でもって優れたリーダーに率いられた忠誠心の高いコボルド軍が一度進撃を始めたら誰にも止められないという恐ろしい種族である。
しかし、その誇らしげな剛毛があだとなり、暑さには弱い、という特徴もある。ゆえに、彼らが所有する鉱山においてもっとも苦手とするのが精製工程だ。なので溶鉱炉の作業にはとらえてきた人間やドワーフなどを従事させることが多い。数百度、数千度、という高熱を必要とする精製工程は、寒さにはめっぽう強いが熱さにはめっぽう弱い彼らがもっともやりたくない作業だったのだ。彼らは汗腺をもたない。汗をかくことができない彼らに長時間の高熱作業はできないのである。
鉱山から生み出される金属やミスリル銀をコボルド商人が商いをすることで豊富な富をもっており、奴隷を買い付けたり、村々や大きくは国家に襲い掛かり人をさらうなどして鉱山を運営している。その支配領域とあいまって極北に暮らす人類にとって圧倒的な脅威となっている。
また、かつて数百年ほど前、北方の人類を駆逐し、ユーロペタ大陸にまで拡大するかにみえたコボルドは、何故か絶滅したかと思われたほどその勢力を縮小させたことがある。その理由、状況などは一切不明だが、もしかすると数千万はあったであろうコボルド種があっという間に消え去ったのは歴史上の不可解であるが、古代人類にとっては神の奇跡と謳われるほどの幸運であった。もし、あのままコボルドが拡大を続けておれば古代ユーロペタの人類に抗うすべはなかったであろうからだ。
しかし、ここ数百年でコボルドはその勢力を挽回してきており、眼に見えて領域を拡大してきていた。さらにここ最近のコボルドの勢いはすさまじいものがあった。
コボルド勢力が扶植する極北。数多の亜人がひしめく、地中海をはさんだ人類未踏の南方大陸のアブロガン。大陸中央の砂漠地帯を制圧するレプティリアン。
これらが三大暗黒大陸と呼ばれ、ユーロペタに住む人類にとっての脅威である。
そして、そのコボルドが厳冬を迎えて、ついに堰を切って押し寄せて来たのである。
「慎重にも慎重を期さないといけないのはわかるでしょ。あと少し、あと少しで完成だから、あなたも頑張りなさい」
研究書の文字と、背中に盛り込まれた文様を何度も何度も確認しつつ、女性は言う。
十数年もの研究を経てついに完成した魔法陣。それが自身で作成した研究書に微細に書き込まれてある。それを若い女性の背中に書き写す作業を行っていたのだ。刺青という手段で。
女性はこの若い女性の母親であった。
いまは修道女として暮らしてはいるが本来は魔法を研究する学者であった。知的で、自身の研究にすべてを注ぎ込んできた誇り高い学者肌がよくわかる相貌ではあるが、自分の子供への慈愛の眼、気遣う心根はまごうことなき母親のものだった。
「外ではもう戦いが始まっておるのだぞ………」
外の喧騒に、あせりの色を隠せない若い女性。いかにも学者肌の母親とは正反対の、活発な雰囲気がよく現れた面持ちだった。二十歳にもならないしなやかな背中ではあるが、エネルギーにあふれ女性にしては立派な筋肉に包まれていた。
窓外で修道院を取り囲み、門を攻撃するコボルドの軍勢は約一万。
絶壁に縫い付けるかのように作られた修道院であり、入り口たる門以外に侵入するルートはない。故に、数の利をいかして攻め寄せることはできない。門さえ死守できればいいのだ。しかし、辺境の修道院に暮らす女性修道士は100名ほど。
外敵に備えて召喚魔法が使える司祭が三名いるが、コボルドの放つ弓や投石器の石から結界を張って門を防衛することでほとんど全力だった。攻撃に回る余裕などない。
このピウサ修道院は昔の砦をそのまま流用した修道院である。厳しい立地だからこそ、クルダスの教えを厳格に己に課す修道士として最適である、という考えからこの地に修道院が作られた。遠方を監視し防衛に適した立地であるが、清貧と禁欲を旨とする修道院であり食料の備蓄は何とか冬を越せるほど。三名の司祭では撃退できるほどの余裕もなく、このままでは門が突破される恐れが大きい。コボルド襲撃を知って救援を求める使者を出したが、雪に阻まれどこまで迅速に使者がタイルドゥ司教区にたどりつけるか。
時間の余裕はあまりないが、さりとて救援が速やかにくるとも思えない。
ザリッ ザリッ ザリッ
窓外の喧騒にあって、掘り込みは続く。
※
「ガラス?」
アルクスネ。
鉛色の空が全天を覆ってはいるが、降雪のない日なか。すでに外は相当に寒く、暖炉なしではいられない。
リリクル・プロンゾが行政担当の修道士に説明を受けていた。
「ガラスとは陶器のようなものです。陶器は主に土から作られますが、ガラスは………」
「木材や海草などの灰の成分から作られるんだ。土の成分によってはガラスもできるけどな」
修道士とノルベルト・グリモワールがガラスの説明をする。
「ほー。灰から陶器ができるとは、初耳だな」
灰から洗剤が作られることはリリクルとて知っているし交易品として輸出もされているが、ガラスの存在までは知らなかった。プロンゾにも陶器はあるし、保存用のツボなどもある。それでも食器は木製だ。
「あまり大きな声ではいえませんが、ディルツ騎士団がプロンゾ大森林に目をつけたのも………」
「む」
「………はい、ガラス製造のための材料確保、もあったのです」
修道士が言葉に窮し、ミハエルが補足する。
森林を焼いて畑を作る。獲得した畑にディルツ人を入植させ領土拡大、食料増産、人口増加など、長年にわたるディルツ騎士団の北方十字軍には様々な目的があるが、その中のひとつに、ガラス材料の確保、もあった。
神聖ガロマン帝国と友好関係にあるヴェッティネア共和国、そのヴェッティネア共和国に存在するのが世界でも最高級品として名高いヴェッティネアーノ・ガラスである。しかし、ヴェッティネア共和国はガラス製造に必要な材料である木材などの灰や燃料、その他の材料を自前で調達できるような土地ではないため、どこからか調達する必要がある。
そして、ガロマン帝国は十字軍遠征のため海を渡る船舶を大量に必要としたが、ヴェッティネアは軍事的にも商業的にも優れた帆船やガレー船を多く保有する強大な海洋国家であり、幾度にもわたる十字軍遠征に対する船舶を借りており、資金支払いのひとつとして、ガロマン帝国が交易していたのが、プロンゾの森林や灰、ということである。
両者はプロンゾの木材によって少なくない利益を得ていたのである。
また、ガロマン帝国も独自でガラス製造を行っており、プロンゾ大森林に工房を開いてガラスを製造していた。ガラスはその製造上大量の木材を消費するため、木を伐採し尽くせば新たな森林を求めて工房そのものを移動させるという特徴があり、プロンゾ大森林は格好の材料供給地となったというわけである。
「しかし、もはや戦争は終結しましたし、ディルツのガラス職人も新たな森林を求めているとの話も最近きこえてきました。灰と木材を輸出する、という交易もさることながら自前で産業を興すことをかんがみ、ガラスを独自に製造し、やがては他国に輸出するほどの生産を行えるようになることがプロンゾ復興にとっても重要であると愚考いたしました」
「なるほどな………。確かにプロンゾは巫女の力もあって森林の成長速度は他よりはやい。大量に木材を必要とするのなら適している、とはいえるだろうがそもそもガラス、ってのはそんなに重要なのか?」
「まあ、ガラスの存在すらみたことないリリクル嬢からすればわからんだろうが、もっともガラスがすげぇ、と思えるのが窓ガラスだろうな」
プロンゾの住宅も、アルクスネの町の住宅も、すべて木の窓であり、ガラスが使われている家など教会にも存在しない。ステンドグラスなど高度な教会装飾品をもつのは大聖堂くらいの重要な教会であり、辺境の教会に配られる余裕はなかった。ガラスが使用できるのは限られた王族や富裕な貴族、商人だけであり、リリクルが出向いたリリーアンブルグ城であっても高価なガラスは使用されていなかった。
ガラスは千度以上の高温を必要とする。高温だけなら高度な魔法を駆使する魔法使いがいれば実現可能であり、製法上の問題は解決可能ではあるが、問題は材料の確保だ。灰から少ししかとれないという難問から現在も大きく普及するにはいたっていない。
「窓ガラス………?」
聞きなれない単語に、ミミクルが小首をかしげる。
「いまはどこでも窓といえば木だ。木はよろい戸でもあるが、採光するためには大きく開ける必要がある。陶器は透明性がないが、ガラスは驚くほどの透明性がある。窓ガラス、ってのはその窓を開ける必要もなく採光ができるんだよ。」
「ほ、ほお」
ノルベルトが説明するが、見たこともないものではさすがに実感はわかない。
「わかりやすくいうとだ、窓を開けて熱を逃がすこともなく外がみられる、としたらどう思う? ここアルクスネの執務室から、窓を開けることなく外の様子が見えるとしたら?」
「ほお、何となくわかってきたぞ。確かに、寒冷地に生きる我々こそ、その窓ガラスとやらの恩恵を受けられるということか」
「そういうことだな」
「それが実現すれば助かりますね!」
冬になれば当然気温が下がるが、かといって窓を閉め切って暖炉の明かりだけを頼りに冬篭りしているわけにもいかない。窓を開けることなく室温を逃がさず日の光を取り入れることができれば確かによいことである。
「では、職人招致も含めて、前向きに話を進めてまいります。次に提案いたしますのが、プロンゾにおける識字率の向上を目指す学校の創設であります」
「ほう、学校の創設か」
「はい。プロンゾ人は実にまじめで、勤勉、老若男女の区別なくよく働きます。そして、食の不安も解消されつつあるいまだからこそ――――」
「読み書きを覚えたほうが今後のためにもなる、と」
ミハエルがうなずく。
この時代、貴族や商人、クルダス信徒でもないかぎり読み書きなど勉強を教わることはあまりない。ユーロペタの九割を占める農民たちはほとんど文字も読めない。だから、自身の名前ですら書けるものなどほぼいない。当然、狩猟民として生活をしているプロンゾ人は族長筋でもなければ読み書きの勉強などすることはなかった。
プロンゾ復興から一年と半年をすぎ、食料に対する危難は去りつつある。そして、復興の現場にあってプロンゾ人の人柄に触れた修道士たちが考え出したのが、プロンゾ人への教育、だった。
ディルツ人の水準と比較しても、プロンゾ人はまじめで優秀、実に勤勉でよく働く。それをただ農業や林業労働者として一生を遅らせるのはあまりに忍びない。ディルツ騎士団員として修道士になるにしても、さらに今後、プロンゾ人が神聖ガロマン帝国の一員として参画し、王族や貴族、クルダス教会の下で働くこともあるかもしれない。そういった対外的進出を活発化させようと考えるならば、子弟に対する一定以上の学問の向上はあってしかるべきだろう、と判断されたのであった。
「うん、いい! 実にいいな! プロンゾの子供たちが知識階級に食い込めば、長い目でみたときの恩恵は計り知れないな!」
「ですね! もしかすると、プロンゾ人がユーロペタ中央で活躍するときもあるかもしれませんね!」
ミミクルもにっこりと笑っていう。
「そうなると、プロンゾも大きく、さらに変革することになるだろうけど、これも時代の流れかな」
数百年の時の流れをみてきたケット・シーのニーモ。物事というものは、良くなることもあれば、悪くなることもある。その余弊の害もわかっていた。しかも、樹上生活、というのも本来の人間のありようからすれば極めて少数の生活様式であり、それが徐々に漸減するのも仕方のないことなのかもしれない、と思えた。
何がよく、何が悪いか。
それを受け止め、どう受け入れるか、は人の決めることだ。
気まぐれで居ついている妖精が口を出すことではないのだろう、と思うニーモである。
「最悪、プロンゾ人が、樹上生活なんざくだらねぇ、と言い出すこともありうるんだろうな」
ノルベルトが口の端をゆがめて言う。ニーモほどではないが、人の世は少しはみてきたつもりだ。だからニーモの言わんとしていることも良くわかった。
樹上生活の最大の利点は、辺境に暮らすことによって多発するモンスターなどの襲来から少なくとも地上では安全に暮らせることにある。
しかし、その分のデメリットも決して少ないわけではない。地上から自分の家に帰るだけでも一苦労だし、何より誤って足を踏み外したことを考えるとそのデメリットは軽くはない。そして、人類は集団で生活し、町や都市を作って防衛することで外敵からの攻撃に対抗してきた。今後現れるかもしれない、ユーロペタ中央で都会生活の恩恵をたらふく受けまくったプロンゾのエリートが、樹上生活をどう思うのだろうか、それは今後のプロンゾ人しだいだが。
「プ、プロンゾ人は樹上生活に誇りをもっている。それを簡単に捨て去ることなどありえないぞ!」
我が民族はそこまで軽薄な民族ではないぞ、とリリクルがいきどおる。もちろん、本気ではないが。
「それを決めるのはプロンゾ人だからな。好きにすればいいさ」
「ぐ………。と、とにかく、学校創設の件、ありがたい提案だ。前向きに検討に入ろう。春の実現に向けて煮詰めていきたいな」
「確かに、プロンゾ人が人に使われるだけで終わるのはもったいないですしね。人を使いこなす逸材の登場も期待すべきでしょう」
前向きに考えるミハエル。
族長という、限られた血筋による世襲体制はいい意味においても悪い意味においてもいろいろある。民族がまだ発展途上にあるのなら優れた指導者による統制も必要だが、民族がどんどん進化すればすべての人に選択肢があるという民主体制のほうに希望を見出すのは当然のことといえる。
「その通りだ。そうなると、我々族長をしのぐ逸材も現れることだろうな。しかし、それも歓迎すべきことだろう」
プロンゾ全体の発展を本当に望むのならば、族長による専制、独裁はつつしむべきだ。リリクルとしては、族長などという身分が不要になるくらいにプロンゾ民族が進化してくれることが真に望むことなのだろう、と理解している。
「まあ、世の中全体がそこまで平穏無事であれば、ミミクル嬢ちゃんたち、族長の血筋も不要になるんだろうがねぇ」
またもや口の端をゆがめて笑うノルベルト。
プロンゾ人でも、魔法が使える血筋は族長筋に限られている。楽観的希望を見出すのは結構だが、世の中、そこまで平和じゃないぞ、とわらうノルベルトだ。
巫女による魔法、という貴重な戦力が族長だけにある以上、どれほどのインテリやエリートが現れてもユーロペタ全土を覆う戦乱といってもよい今の世の中でプロンゾを率いていけるのは族長筋しかいないのだ。
「その世を作るためのお前たちだろーが!」
「へいへい………」
コンコンコン
再三のノルベルトのつっこみに若干キレぎみのリリクルに、苦笑の空気が流れたタイミングでのノックだった。
「どうぞ」
「失礼します!」
フランコ・ビニデンが慌てて入場する。
「タイルドゥから救援要請の使者が参られました!」
※
「どれほど持ちこたえられそうですか?」
ミハエルがタイルドゥ司教から発せられた救援要請の使者に問う。
コボルド来襲はピウサ修道院のみではなかった。
タイルドゥ司教区に襲来したコボルドは推定八万。
辺境に司教座をおくだけあってタイルドゥ司教区は蛮族や亜人襲来に備えて強力な兵員や召喚術を駆使する司祭が数多常駐しており、単純な戦闘能力だけならアルクスネ管区の数倍から十数倍以上はある。
しかし、今回は襲来したコボルドが八万と数が多く、タイルドゥ司教は防戦だけで手一杯であり、とてもピウサ修道院に援軍を差し向ける余裕などなかったのだ。よって、近隣のアルクスネに援軍要請が向けられたというわけである。
「は、多く見積もって三週間足らず、少なく見積もると一週間、というところと聞き及んでおります。すでにピウサから伝令がでた日数を考慮しますと………」
修道士というよりは、無骨な戦士といった風貌の修道士が言う。身長は二メートルを優に超え、体躯も頑強そのもの。一毛も存在しない頭部はまるで武闘僧のようだ。ふわりとした修道服の上からでも隆起する筋肉の様子がわかる。戦闘術も相当の自信があるのか、タイルドゥ司教区から馬を乗り継いできたのであろうに、疲労の色はほとんどでておらず鉄のような表情を崩さない。
「本当にぎりぎりですね。かしこまりました。援軍の要請をお受けいたします」
「は。感謝いたします。では、現地までの道案内はわたしが務めます。準備にはどれほどかかりますか」
「もはや戦時は解除、各地に兵員が散っておりますので半日は要するかと」
現在、アルクスネに残っている兵員は警備のみ。ほとんどが労働にでている。プロンゾ復興のために働いている政務に長けた修道士は戦闘があまり得意ではない。
「そうですか………」
直線距離だけで100キロ。道のりを考えるとそれ以上の行軍、さらにその後の戦闘を考慮にいれるのなら一週間、長期戦を考慮すると二週間分の食料は必要になるだろう。コボルドがおとなしく撃退されるだけですむのならともかく。
各農地に散らばった兵士やプロンゾ戦士を招集するだけでもけっこうな時間がかかるが、それだけの距離を走破する食料を準備するだけでも一苦労だ。出征で行軍するならともかく、救援に応じて火急にはせ参じるのであれば自分の分の食料をもっていかなければいけない。輜重隊は深々と積もる雪に阻まれ、行軍に相当の苦労をようするであろうからだ。この時代に整地された道などというものは町を一歩でも出ればまったくない。
「馬を乗り継いでのご使者、お疲れでしょう。どうぞ。食堂に食事のご用意をさせております。フランコ案内してさしあげて」
「わかりました」
「は。感謝いたします」
伝令の使者がフランコの案内に連れられ退室する。
「どうしてコボルド軍は女子修道会なんて襲ったんですかね。何もないはずですが」
ガンタニ・ティーリウムが言う。地方も地方の僻地にある修道院に、金品もなければ食料だってそんなに備蓄などない。何とか生活できる程度の生産しかしていないからだ。タイルドゥ司教区は街として整備されているからそちらを襲うのならともかく。
「女はいるさ」
ノルベルトが言う。
「そういうことですか………」
納得、といった風のガンタニ。女性を確保しておけば奴隷として労働させられるし、次の奴隷を増やすことだってできる、ということだろう。
コボルドはこうして各地を襲撃し、人間などを捕らえて過酷な鉱山作業に従事させているのだ。
「とはいえ、骨と皮ばっかりの修道女なんか食っちまってもおもしろくねぇだろうがなぁ」
「不謹慎ですよ、ノルベルト。では、召集の令を」
「はっ」
火急の救援要請に集まった百人隊長クラスのバルマン・タイドゥア、ガンタニ、ヨハン・ウランゲル、ビーククト・ブロンゾが右腕を胸の前で掲げる敬礼をし、伝令の兵士を派遣する。
ノルベルトの修道女に対する感情はそれだけではない。
清貧と過酷な窮乏生活、勤労奉仕に従事する修道女は、確かに町の娼婦と比べても女性としてのふくよかさ、といったものは持ち合わせてはいなかった。
清貧と禁欲、聞こえはいいが、それは本当に人間という生物が目指すべき生き方なのか? という根幹的な部分で懐疑的であった。
食欲、睡眠欲、性欲。欲、というくくりになっているが、これらは生物を生物たらしめる、生きてゆくうえでどれが欠けてもいけない最重要生命活動だ。
自分も騎士修道会に属する修道士という立場ではあるが、ノルベルトはそういった過度な戒律に疑問をもっている。
飯をくらい、寝て、日々を生きて、子をなし、次代に命をつなぐ。
そういう風に生物をつくったのも、創造神ではないのか。
特に、修道会では性欲を忌避する。
性交という行為に、背徳やら嫌悪やらの感情を抱くのは勝手だが、そもそも、宗主たるクルダス自身が、いつ、妻帯を禁止したというのか。
汝、姦淫することなかれ、とはいった。だが、妻帯することなかれ、など一言もいっていない。いまいるアルクスネ修道院にも妻帯した後に修道士に入ったものもおり、妻子は別の場所で暮らしている。修道士になってしまえば一切の異性を遠ざけねばならないが、それでは永遠に修道会はどこからの入会なくしては人材の確保ができないという問題を抱える。
いい若いもんが、己を殺し、己を捻じ曲げ、性欲すら捻じ曲げてしまうことが、本当に生物として正しい生き方なのか。
修道騎士の若い連中は、締めるところは締めて、ゆるめるところはゆるめるように指導している。ミハエルの眼を盗んで。
だが、女子修道会は違う。それこそ骨の髄にまで染み込むくらいの徹底的に管理された禁欲だ。
ミハエルの義姉、エリジュビアも過酷な労働と徹底した窮乏生活にやつれていた。当人がそれを感じさせないほどの明るさでもってふるまって周囲に気遣いさせなかったが、しかし、普通に暮らす貴族と比べると違いは明らかだ。
禁欲は短命だ。と、長く修道士をみてきて、思う。
そこに、やはりいきすぎた抑圧が関わっているのではないのか? 生物として、神から付与されたものを、忌避し嫌悪して、強引に抑圧し、廃絶する。
自分の一生を、抑圧と過酷な勤労、清貧においやる。そこに、どんな意義、意味、神からの恩寵があるというのか。神が、いつ、そんな生活を命じたというのか。いつ、そんな生活を喜んだというのか。
そんなことをしているから、もともと備わった生命を損なうのではないのか?
実証はない。ただの実感だ。
ただ、恐ろしく厳しい修道院生活を生きる者と、家族をもって日々を充実して生きる者とでは、やはり人間としての生命の張りというか生きがいに、大きな差異をそこにみる気がするのだ。
とはいえ。一生を、過酷な清貧と禁欲と、労働奉仕に捧げる。その先に何があるのか。まあそれは、それをなした者の目にしか見えない次元の彼方にあるのだろう。
好きにすればいい。
その点、ミハエルは違う。
性欲を捻じ曲げる、以前に、性欲というものがないらしい。
女の裸をみたら普通なら興奮したり顔が赤くなったりと、それなりの男としての反応があるが、ミハエルにそういった反応は絶無、皆無だ。まったくおしめもとれていない赤子と大差が無い。
リリクルに入れ知恵してからはけっこうエグい挑発というか悩殺をするようになったらしいが、暖簾に腕押し、とはこういうことだろう。慌てて逃げる、以外の反応もなく、みてしまってごめんなさい、と土下座で本気で謝るミハエルに呆然となるリリクル、という話を後で聞いて実に同情を禁じえなかった。
自分に女としての魅力がないからだろうか、と本気で落ち込むリリクルをなだめるのに苦労したものだ。
ミハエルが相手ではリリクルも大変だろう。
同情はするが、しかし、はたでみていてこれほど愉快なこともないのも事実だが。
「しかし、興味深いな」
ノルベルトがあごひげをじょりじょりさせながら言う。気まずそうなミハエルと、女としての自信を打ち砕かれ悄然と落ち込むリリクルの姿を思い出してにやにやしてしまったが、思考を切り替える。
「何がですか?」
ノルベルトの回想など知るよしもないミハエルが大真面目に問う。
「タイルドゥ司教は聴いた話、プライドの高い男らしくてな。俺たちディルツ騎士団に援軍を頼むような男とは思えねぇ。けっこうな軍を抱えているし、たかが辺境の修道院ごときが落ちたとて気にするほどでもねぇしな。俺たちに援軍を要請するほど切羽詰ってるのか、って思ってな」
この時代、小さな村やちょっとした町を敵の侵攻から見捨てることなど日常茶飯事だ。大きな都市が丸々見捨てられることも珍しい事態ではない。
「ピウサへの援軍を優先しなければいけない何か、誰か? がいるってことですか」
「そうみるのが素直、ってやつだろうな」
「ピウサ修道院、って有力なんですか?」
王族や貴族の子弟が送り込まれるほどの規模の大きい修道院なのか、とミハエルが疑問に思う。
ミハエルのような貴族出身の修道士も最近は増えているが、修道士は本来は一般人が多い。没落し、家を飛び出したバルマンなど故郷を何らかの理由で離れたものや、ガンタニやフランコのように増えすぎた家族の口減らしに出されるもの、農民や町民では一生手にできない立身出世を目論むものなど、修道士になるものには様々な経緯で至るものが多い。
そのなかで貴族出身の信徒や修道士は多くの場合、本来の修道生活ではなく立身出世しか目的がないものが多く、そういったものは当然のように本国やその周辺にしかいかない。有力な一族や親族の影響を十全に受けられる地にとどまるものだ。
相当な信仰心をもつもの、というか物好きでもない限り、そんな辺鄙なところにはいかない、とは思う。
「何でも大昔の砦をちょちょいと修繕した程度の修道院のはずだ。そんな辺鄙な地に誰がいるか、までは知らなねぇな」
「少なくとも、自力で解決できないタイルドゥ司教が救援要請を出すくらいには重要な何か、誰か、がいるってことですね」
「だな。いけばわかる」
卓上に広げられた北方ユーロペタ地図を見やりながら言う。




