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天と地と人  作者: 豊臣 亨
二章  鉄拳修道女 カトリーナ・フォン・ブラウツヴァイク
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鉄拳修道女 カトリーナ・フォン・ブラウツヴァイク (一)

文章改め。

父たちと子と精霊、を、(これも本来は聖霊でしょうけど)

父たちと母たちと子、に。

聖霊、というのも、聖母マリアを否定した後世キリスト教の定義だとか。

なのでこの世界では聖霊はなしです。



 司祭の手によって聖水を頭からかけられるリリクル・プロンゾ。その流れる水をミハエルがぬぐう。


「貴方は死にました。そしてたったいま、鮮やかに復活を遂げました。貴方はクルダスの子として今日この日、新たに生まれ変わったのです」


 ディルツ騎士団総長レオポルト・フォン・シュターディオンやディルツ騎士団首脳部、アルクスネの騎士たち、ミミクルやケット・シーのニーモ、ビーククト・ブロンゾが見守る中、リリクルはアルクスネ砦に隣接する教会にてクルダス教の洗礼を受けていた。身に包まれる衣服は純白のチュニック。これまでの罪がすべて洗い清められたことを意味する。


「敬虔なる信徒の一人となったことを証明します。父たちと母たちと子の御名において。アイメヒェン。………歓迎いたしますよ」


 にっこりと微笑む司祭。


 ミハエルに添われて立ち上がるリリクル。


「導きくださった方々をはずかしめぬ人生を、この後も送ることを誓います」


 司祭に、代父となったミハエルに、リリクルはお辞儀をする。


「はい。その想いをきっと父たちも見ておられます」


 司祭は慈愛に満ちたまなざしをリリクルに注ぐ。


「貴方がやがて、偉大なる父たちと並ぶことを、父たちは心より望んでおられるのです。………偉大なる、全知全能たる父に並ぶことが不遜だと思われますか? いいえ、そうではありません。全知全能たる父がつくりたもうた我々子が、そんな欠陥品でありましょうか。そう思うことは卑下であり、結局、偉大なる父をはずかしめる考えに他なりません。全知全能の父の作りたもうた我々も、また同じく全知全能の存在なのです。そして、そんな偉大なる父になろう、と心から願い、日々を正しく生きることこそ、父に対する何よりのご恩返しになるのです。だからこそ、父は、たった一人ではなく、父たち、なのであります。………貴方が女の身であるからとて、父になれない、などということはありませんよ。聖母ダリマと同じ聖母となられた母たちもまた、数多、おられるのです。すべては貴方しだい。貴方が自分を信じて、自分を愛して、自分で自分をよりよく導いたその先に、父たちも、母たちも、いらっしゃるのです」


「………わたしは未熟者だが、その言葉を、しっかりと胸に刻んで生きていこうと思う」


 リリクルの瞳がよりいっそうきらめいた。


 クルダス教入信の儀、洗礼が終わった瞬間だ。


 正式な講和がなった。


 その象徴としてのプロンゾ族族長リリクルの率先してのクルダス教入信である。そして、ディルツ騎士団とプロンゾ族との間で正式な条約が結ばれた。内容は、主に三つ。


 ひとつ、プロンゾから奪ったディルツ騎士団領の割譲。


 ひとつ、プロンゾの経済復興のための積極支援。


 ひとつ、外敵に対する共同戦線の確立。


 いままでのような、ディルツ騎士団領の直轄地、という征服をやめた。民族としての歴史も文化も信仰も言語も、伝統や風習ですらも跡形もなく消し去る、ディルツという鋳型に、無差別にどのような民族も投げ入れて、焼いて溶かして鋳込むようなこれまでの蛮行を大幅に改めた。


 そうではなく、一領主としての対等なる関係を築く。


 そのための奪った領土の割譲であり、惜しみない経済支援である。


 具体的には神聖ガロマン帝国の傘下に入る形をもって爵位をいただき、プロンゾを辺境の一蛮族から独立領主として神聖ガロマン帝国の一翼を担う貴族という確固たる地位を目指す。そのためにレオポルトは皇帝フリーデルン二世への交渉と後押しをする、という確約までしてある。騎士団総長の強い推薦であるのならばそう時間はかからずガロマン皇帝の勅許はえられるであろう、というのがレオポルトの見立てだ。


 よってアルクスネ管区はプロンゾ領に再編、アルクスネがプロンゾ復興の中心地にすえられた。


 また、リリクルが率先してクルダス教に入信したが、これによって全プロンゾが改宗をせねばならない、ということではなく、これまでの古神道の神々にお祈りしてもなんらとがめられるものではない。アルクスネの教会がプロンゾにおけるクルダス教を取り仕切って今後の入信や休日の礼拝、儀式を執り行うが、救済の本来の意義に立ち返ってプロンゾ人の望む方向性でもって今後の信仰を守ってよい、ということになった。


 そして、レオポルトは大まかな条約を締結すると遅れて船便に乗ってやってきた行政能力に長けた修道士を補佐におき、速やかにグナクト・プロンゾをともなって本国に帰還した。その後事をミハエルやノルベルト・グリモワール、プロンゾ族長リリクルと巫女ディレル・ピロンゾに託していた。


 プロンゾ復興がいよいよ動き始めたのである。


 これによって、プロンゾ族全体もこれまでの生活様式に大きな変化を強いられることになる。プロンゾそのものといってよい樹上生活に変化はないが、生計ともいうべき狩猟生活そのものが根本的な見直しを強いられた。何故なら、プロンゾ人をこれまで支えてきた狩猟資源そのものがもはや枯渇していたからである。


 その最大の原因が北方に蛮居(ばんきょ)するコボルドの存在である。


 コボルドは狼と人間のあいの子というべき亜人である。南方の砂漠地帯においてはゴブリンやオーク、トロールなどの亜人が数多ひしめくように勢力を競い合っているが、北方における亜人種がこのコボルドである。


 狼と人間の特性を併せ持つゆえか、極北の極寒にこそ活動する能力をもっており、人間が容易に活動できない冬季において勢力を進展する。まさしく極北の地で活動するために生まれてきたような亜人種である。反面、かえってその分厚い毛皮によって夏には活動が弱まるという特質をもつ。身体能力そのものは脅威といえるほどの存在ではないが、最大の特徴は数である。冬季には数万、十数万もの大軍を持って襲い掛かり、村落はもとより大きくは国家をも飲み込む。


 そして、古代ユーロペタにおいても人々はたびたびコボルドの脅威にさらされてきたという歴史をもつ。古代の西ガロマン帝国を実質的に滅ぼしたとされるガロマニア民族の大移動はこのコボルドの圧迫に耐えかねてのこととされる。しかし、古代ディルツ人の祖を生誕の地から追い出し、勢力をさらに拡大するかに見えたコボルドは何故か一時は絶滅したのではないかと噂されたほどに大幅に勢力を縮小するという謎の経緯をみせていた。とはいえ、ここ数百年において徐々に勢力回復の兆しをみせており、人間に対して脅威たり得なかったコボルドがここ最近勢力を膨張させていたのだ。


 狩猟領域を争うという点においてディーム族もあるが、最大の脅威がこのコボルドであった。極北、人間がやすやすと生存できない最北の地にてその勢力を扶植していたコボルドがここ最近、とみに拡大路線を示していた。


 プロンゾは、ディルツという脅威を前面に抱えながら、冬季にはコボルドという後背の脅威をも受けていたのである。狩猟領域を人間の少ない北方にこそ求めていたプロンゾ民族は、コボルドの台頭による狩猟資源の枯渇という最大の生存の危機をも抱えていたのである。コボルドは獰猛な種族で草食動物を根こそぎ狩っており、人間だったら見逃すような母と子供でも残らず駆逐してしまう。そうなってはその地で再び草食動物が増殖するのはそうとう時間を待たないといけない。ディルツ騎士団だけでも脅威なのに、食料危機を背後にうけるというまさしく泣きっ面に蜂という状態であったのだ。プロンゾにおける食料問題、というのは何もディルツ騎士団の侵攻のみが原因ではなかったのである。そして、講和がなったからこその共同戦線の確立である。ディルツ騎士団はプロンゾとの講和を成立させたことにより、いままで自分たちに直接影響しない問題だったコボルドという敵を抱えることになったのである。


 よってプロンゾ人はこれまでの採集狩猟生活から大幅な生活様式の変更を迫られていた。その変化のもっとも大きなものが農耕生活の始まりである。北方における作物はライ麦。小麦とはまた違った特徴はあるものの小麦が生育しにくい寒く栄養の乏しい厳しい環境でもすくすくと育つため北方の民族には欠かすことのできない作物である。アルクスネに入植した多くのディルツ人が携わるのがこのライ麦の生産である。


「………この穀物から、パンが作られるのか」


 ライ麦の穂に触れて、リリクルが感慨深げにいう。


 収穫を控えたライ麦があたり一面に実っていた。


 講和がなると同時にディルツ騎士団からプロンゾに食糧援助としてライ麦の粉が送られており、そこからパン製作がプロンゾに伝えられていた。リリクルもついにパンというものを食べていたのだ。


「はい。この穂を脱穀してさらに製粉してパン生地にするための製法を経て、パンになります。もっとも、そのまま穀物状で煮込んで食べるのが栄養面からいってもいいんですけど味わいの面で大きな難点があるのです。また、クルダス教徒として、どうしてもパンにせざるをえないといいますか」


「………と、いいますと?」


 ミミクルが問う。


「パンとはクルダス教の始祖、クルダスの体を現しているのです。ワインはその血、偉大なるクルダスの体と、血をいただくことはクルダス教徒にとって欠かすことのできない教えなのです」


「………聖体というやつだね」


 ニーモがつぶやく。休日に礼拝で出されるパン、聖餅のことだ。当然、リリクルは礼拝で食べている。


「はい。パンは大切な食料であると同時に、信仰を生きるものにとっても欠かすことのできない食べ物なのです」


「………なるほどな」


 秋のさわやかな風がライ麦をなでる。


 神聖ガロマン帝国ディルツ領も極度に寒い気候風土で小麦が育ちにくい国土であるため主要な作物はライ麦である。ライ麦を使用したパンは使用する酵母の影響で酸味が強いものの小麦を使用したパンに比べると日持ちがする、という特徴がある。そして小麦を使ったパンに比べるとはるかに黒いパンができる。


 そもそもアルクスネに町が作られた理由はこの農耕が目的である。プロンゾ領である森林以外にも広大な平野を持つこの地は農耕のしやすい場所であり、ディルツ騎士団が入植したのも農耕の拡大とその輸出による貿易の拡大にこそ主眼がある。


 アルクスネという修道騎士が駐屯し護衛する町を中心に、周囲の平野に農村を形成して食料生産を行っている。アルクスネに住まう住人は約2000人。宿や酒場、パン屋や肉屋、鍛冶、馬具屋に仕立て屋など、生活に欠かせない商店が軒を連ねており、そこを基点に交易を行っており、周辺に住まう農民の日々の生活もこの町があったればこそだ。


 そしてディルツ騎士団における修道騎士とはいわば屯田兵としての役割をももつ。


 この時代のユーロペタにおける人間は主に四つに大別される。


『戦う者』『祈る者』『働く者』『商う者』の四つである。


『戦う者』はいうまでもなく、騎士をはじめとする王侯貴族による特権身分のことである。高貴ある身分にこそ高貴ある責任を、との意識から戦ともなればいの一番にかけつけ戦場での活躍を自身の存在の意義とする。他の人間にはできないほどの勇気をもつゆえ、高い誇りと高い自意識をもつ。そして、他の身分より高く、様々な特権を合わせもつ、一方の支配者層である。


『祈る者』はもちろんクルダス教徒のこと。神に仕えることを主要な役目と心得る。修道士ともなれば厳しい戒律や窮乏にも耐え、そして、他者救済を喜びとする。そして教会をはじめとするクルダス教本山は王権とは違った教権という権力、経済圏や独自軍隊をもち、クルダス教の布教という名の下にユーロペタにおいてこの時代王権をもしのぐ絶大な勢力を誇っている。人々の生活や思想にまで深く根をはる、もう一方の支配者層である。


『働く者』が農夫をはじめとする労働者のことである。人口の九割を占めるのがこの農夫でありユーロペタの食料生産を一手に担っている。王侯貴族や、大きな都市、または司教区などに従属する形で保護を求めるかわりに食料や労働を提供している。亜人やモンスターの跳梁跋扈する時代において、保護をえない農村生活などありえないのだ。


そして『商う者』が商人であり、都市や町で定住し商いを営むものや、行商で渡り歩くもの、商団を組んで傭兵などを雇い自衛しながら長距離をわたって異国の文物を伝えるもの、などがある。都市や町で定住する職工人も広義では商う者に分類される。定住するものならいざしらず、長距離を移動する商人はまさしく命がけだが、一攫千金を夢見、かつそれなりの財力をもつものが行う。また、町から町へ移動するので、手紙の搬送も託されたりもする。古代から徐々に人間文化も進化をとげ、金貨や銀貨などの貨幣経済も浸透するに及んで王権や教権に対抗するように実力を扶植しているのがこの商人である。中には、王権や教権からある種独立した都市国家を形成し、貿易船団を保有し、少なくない軍事力も備えた商人も存在していた。


 修道騎士、とはこのうちの四つをあい兼ねる唯一の存在なのである。


 平時では農耕に従事し、修道院では祈りの生活をし、戦時ともなれば甲冑に身を包み、自分たちで生産したビールやワイン、穀物などを売って運営費をまかなうことも通常として行われる。


 そしてこの時代で大きく異端征伐、クルダス教の布教の名の下の大きな征服事業が拡大したのも大きな理由がある。それが鉄器の普及である。


 それまでは鉄器といえば高価で庶民がそうそう手にできる代物ではなかったが、この時代に至って鉄製の農具が大きく普及した。また牛や馬に鉄製の農具をつけることで開墾作業が大幅に手軽になった。鉄器による農作業の効率化は農耕にとって革命的な進歩をもたらしたのである。そして、鉄器の普及によりさらなる変化が起こった。それが人口の増加である。


 鉄器の普及による農耕の拡大、農耕の拡大による人口の増加、そうなると次に求めるのが土地の拡大である。


 人々は新たなる土地を求めることになり、その要求に応える形で勢力を拡大したのが北方十字軍であり、ディルツ騎士団、ということなのだ。


 ディルツ騎士団は特に、亜人の勢力の強大な南方よりも、亜人の影響の少ない北方に活路を見出し、獲得した土地において屯田兵さながらに生産を拡大し、その得た資金を神聖ガロマン帝国、ガロマン教皇に納めるということで発言力や保護を獲得しているのである。


 しかし、拡大を続けたディルツ騎士団ではあるが、ついにいよいよ北方においてもコボルドという亜人が眼前に姿を現すことになったのだが。


 そのため再編されたのがアルクスネに駐留していたディルツ騎士団兵850人である。この数は一応の戦時配備として三万のプロンゾ人に即応するためとはいえ決して少なくない規模である。これだけの兵員を常に養うだけでも大変であり、当初はそのすべてをディルツ本国からの食料輸送にたよっていたのだ。あのヴィルグリカス平原での死闘を生き残った兵員の多くは修道士の任務の四つのうちのひとつである農耕従事に回帰していたが、いざコボルドの出現ともなれば即座に集結し、プロンゾとともに撃退に動くことが決まっている。


 そして多くが農耕に回帰したアルクスネの兵士たちだが、同様にプロンゾ人たちも農耕作業に従事することとなった。


 かわらず狩猟にこそ民族の誇りがあるとするプロンゾ人もいるがすでに狩猟生活が成り立たないこともあり、変化に対応できねばならないと腹をくくった多くのプロンゾ人たちは農耕に従事するようになっていた。他にもヨハン・ウランゲル指揮の下で魚の飼育を始めるもの、木材の輸出、材木だけにとどまらず薪や炭、灰だって立派に用途はあるし、落ち葉を焼いて肥料とするなど森林資源と農耕を結びつけ有効に活用する方法も始められた。他にも、ディルツからの支援だけではプロンゾの根本的自立は成り立たないとプロンゾ資源の有効活用も模索された。


 そのひとつが。


「母様は養蜂の名人なんだぞ」


 防護ネットに包まれたイーナム・ディームがミハエルに絞りたての蜂蜜を見せていた。それをさも自分のことのように胸を張るリリクル。


 蜂蜜である。


「名人、などというものではありませんが」


 穏やかに微笑むイーナム。


 防護ネットに包まれていても、その美しさが隠されてはいなかった。しかし、リリクルのような生気にあふれた美女とは正反対の雰囲気を持つ。どことなくはかなげな、抱きしめたら折れてしまいそうなか弱い風情。しかし、そんなちょっと目を離したらふっと消えてしまいそうなおぼろげな雰囲気こそが魅力的な女性だった。思わず守ってあげなければ、支えてあげなければ、と思わせる女性だった。といっても蠱惑的(こわくてき)というのではない。高山に一輪咲く花のような清浄さがそこにはあった。


 とうてい、あのグナクト・プロンゾの妻とは思えない、間逆の性質だった。


 戦利品としてディーム族から掠奪されてリリクルとミミクルを生んだ二児の母でありながら、それでも見た目はリリクルと大差ないと思わせてしまう、年齢というものをあまり感じさせない瑞々しさをもつ。


「これは、とても甘いですね!」


「はい、わたしも蜂蜜が大好きです」


 蜂蜜をなめたミハエルが驚きの声をあげる。ミミクルがにっこりと微笑んだ。


 人類が古代から行っているのがこの養蜂であり、ユーロペタにおいても蜂蜜は出回ってはいるが、プロンゾ大森林で育てられる蜂蜜はまた格別な甘さがあった。


「きっと、この大森林で咲く花に特別な蜜をつくらせる秘訣があるのでしょうね。これをいっぱい作れば、裕福な貴族や商人が高値でも喜んで買うでしょうね」


「………そう、なのですね。プロンゾはもちろん、ディームでも養蜂などは自家消費しか考えていませんでしたから」


 プロンゾやディームは閉鎖的な社会であり、他者と積極的に交易するなどあまり考えない。


 これまでは自分たちの領土に閉じこもり、たいした理由もなしに侵略戦争などを画策してこなかった。そして、これまでは強大な王権の横槍もなかったのでこれ幸いと安穏と暮らしていたのだ。


「いえいえ、これはわたしが食べてきた蜂蜜の中でも一二を争う美味しさですよ。これが世に出回れば大きく外貨を稼ぐことができるでしょうね」


「そうか。プロンゾにも森林以外にも他に誇れるものがあって幸いだ」


 ほっと胸をなでおろすリリクル。


 大森林があるだけでもそこから発生する資源は膨大なものがあるが、それ以外にも特産がある、となれば大きな強みと誇りにもなる。族長として復興の指揮をとらねばならないリリクルが抱える重圧は決して軽いものではないのだ。


「………あの方が去られたいま、後を託されたわたしたちがプロンゾを導かねばならない。わたしも、頑張らねばなりませんね」


「母様………」


 たおやかに微笑むイーナム。


 族長という立場を退かされ、しかもレオポルトと共にプロンゾを去ったグナクトに代わって、いまいるみんなでプロンゾを立て直していかねばならない。重圧を抱えていたのは何もリリクルだけではないのだ。


 そんなイーナムに、リリクルは複雑な表情を見せる。


「母様は、親父がいないほうがのびのびできるのではないか………?」


 戦利品の母、その娘。


 イーナムやリリクルの立場はそういったものだった。


 族長の妻、その子として生きてはいても、周囲の対応はどこか戦利品という、しょせんよそ者という、よそよそしさが抜けきれるものではなかった。しかも、横暴なグナクトの妻として生きることはイーナムにとっても決して毎日は安寧とは言えなかった。また、イーナムは生来体が弱く、何とか二児を得たが、巫女ディレルの加護がなければどうなったかわかったものではない程だった。しかも、リリクルは一時はディレルの加護ですら、哀れな虜囚を殺さないための呪縛ではないか、と疑ったほどだ。


 本当に安心できる味方は周囲になく、グナクトの怒声におびえる日々。


 必然、母子は寄り添い、支え合って生きてきたのだ。


 そのグナクトももはやいない。


 そしてリリクルが族長となった。


 ようやく、母子は誰はばかることのない日々を生きることができるようになったのだ。


 よそ者として、日陰者のような想いをして生きてきた家族がプロンゾの復興を一身に担う指導者の地位に至ったのだ。それも、ある意味においては運命の皮肉ともいえたが。


「………そのようなことは、ありませんよ。あの方とて、右腕とともに、色々なものを無くされた………。心があらぶるのも仕方のないことです。それをお慰めできないのは、わたしの未熟。そして、あの方は、失ったものを取り戻すべく、前を向いて進まれたのです。わたしたちも、前を向いて進むのは当然ではありませんか?」


 穏やかに、しかしはっきりと妻としての本分を守ろうとするイーナム。


「母様………」


「貴方も、妻となって、夫を支えるようになれば、わかるかもですね」


 ちらり、とミハエルをみるイーナム。つられるように、リリクルもミハエルに視線を注いだ。


 ミハエルは言葉もなく咳払いをする。


「………まあ、婿取りはとにかく、いまはやるべきことが山積しています。できることから初めていきましょうね。わたしたちはミハエルさんに迷惑をかけっぱなしですが、よろしくお願いいたしますね」


「い、いえ、当然のことをするまでです」


 どれほど過酷な日々を生きていても、族長の妻として、そしていまは族長の母として、愚痴もこぼさず恨み言も言わず前を向いて自身に課せられた責務をまっとうしようとしている。リリクルは、イーナムの生来の体の弱さのどこからそんな強靭な心がわきあがってくるのかと内心舌を巻いた。


 しかし、それが母として生きた女の強さなのであろうか、とも思った。


 女は母ともなれば強くなる。


 自分も、いつかは母となればそんな、己の弱さを、強さで塗りつぶせるのであろうか、とリリクルはミハエルをみて思った。


 うまくことが運べば、プロンゾも貴族として一領地を任される地位になれるやもしれない、そうなればミハエルと肩を並べることができるはずだ。いまは修道騎士だから、とかたくなに拒むミハエルをどんな手を使ってでも篭絡してやろう、と企むリリクルである。そのためにもいまは眼前の問題だ。


「………んむ。ミハエルはプロンゾのためにボロ雑巾となるまで働く運命だ。せいぜい身をライ麦のように粉にして頑張ってもらわんとな」


「もう。そんなこと言って」


「しかし、蜂蜜にそこまでの価値があるのならプロンゾカエデの蜜も有用ではないのか?」


「メープルシロップのことだね」


「そういえば!」


 ニーモが同意し、ミミクルが妙案と手をたたく。


 プロンゾに自生するカエデからとれる樹液。メープルシロップ。


 養蜂と並んでプロンゾの女性が担っているのが樹液の採集、そのひとつがメープルシロップの採集である。日々の食料を求め狩りにでるのが男の仕事なら、採集が女の仕事だ。メープルシロップはカエデの蓄えた滋味をいただくことができる、プロンゾにとっては貴重な栄養源ともなっていた。しかも、巫女ディレルの魔力を注がれるプロンゾカエデは他のカエデよりはるかに味と栄養の面で優れていたのだ。


「これが………、そのカエデの樹液?」


 固形物となるまで煮詰められたメープル樹液の結晶をミハエルは手に取っていた。


「それはメープルシュガー。固形化するまで煮詰めて保存に適した状態だ。こっちがメープルシロップだ」


 ミハエルにとっても、メープルシュガーは初めて手に取る経験だった。


 小さなたるに入れられたメープルシロップを木さじですくってリリクルがミハエルに渡す。


「………これは! 蜂蜜をしのぐ甘さですね!」


 初めて味わうメープルシロップにミハエルも驚きの声をあげる。


「はい! ライ麦パンにつけて食べるとすっぱさとあいまってすっごく美味しいんです!」


 ミミクルがにこにこと笑いながら言う。


 小麦パンもディルツ本国なら出回っているが、ディルツ人の主食はライ麦パンである。酸味のあるのが特徴のパンだがバターなどの乳製品との相性も良く、さらに甘いジャムとバターを一緒に塗るのが富裕な貴族などには好まれている。


「どうだ、いけそうか?」


「はい、これはプロンゾの特産として世に絶賛される品になりますよ!」


「それはよかったです。どんどん集めないといけませんね。といっても、自家消費用なのでそんなにたくさんカエデがあるわけでもありませんが」


 防護ネットを外したイーナムが微笑みながら言う。


「………確かに、そんなに数はないな」


 ちらり、とリリクルの視線がミミクルに注がれる。


「これから、プロンゾカエデをいっぱい植えるの?」


「………ふっふっふ。こういう時に巫女のありがたみが感じられるな」


「リリクルが金の亡者になる日も近そうだね」


 巫女の魔力を注げば育成に数十年かかる木々もはやければ数年で立派に成熟する。


 プロンゾ産のメープルシロップがユーロペタを席巻する日もそう遠くないと思われた。


 養蜂やメープルシロップ、女性が活躍する仕事によってプロンゾ復興は進められる。女性の仕事に活路が見出されると次いで検討されたのが男性の活路であった。それが、傭兵というかたちでの戦力の輸出である。


 グナクトがディルツ騎士団の盟友として今後の戦場で活躍が期待されるということは、とりもなおさず男性プロンゾ人も戦場で活躍できる可能性を示している。ながきに渡って狩猟のみに力を示し生活を維持してきたがディルツ騎士団との戦争で十二分に強兵としての存在を誇示してきたからだ。さらに傭兵として活躍すればプロンゾの名を世に知らしめるだけにとどまらないはずだった。とはいえそれは復興を終えて余裕がでてから、ということだが。


 さらに変化を見せたのが家畜の飼育である。プロンゾにとって動物は狩猟の対象であり飼うものではなかったがついに豚や鶏、羊の飼育がすでにアルクスネで生活をしていた帰化したプロンゾ人の先導、さらにディルツ騎士団からの要請に応じてギルドから派遣された職人の指導のもと始められた。広大な森林で放し飼いにされる豚や鶏の飼育、草原における羊の飼育。秋の森林に落ちているどんぐりなどの人間が食べない木の実を豚が食べることによる、手間とえさ代のかからない飼育が可能となる。しかも豚は一年程度で生育する成長の早い動物でもある。また、森林や草原で放し飼いされる家畜を狙って襲ってくる狼やモンスターなども大事な狩猟対象となった。そして、家畜の飼育によって始まったのが食用肉とソーセージやベーコンと塩漬け肉などの加工保存肉、羊毛、羊毛を使った衣服、乳、乳製品などの品々である。プロンゾはこれまで手に入らなかった品々を自力にて入手できるようになっていった。そして、様々な品々を扱うことによる専業制も拡大していった。


 一気に、経済面においても食文化においてもプロンゾは急変化を迎えていた。伝統にのっとって、自らの殻に閉じこもって自給自足を重んじたプロンゾが、大きな変化を迎えていたのだ。それもこれもディレルとリリクルの後押しあってのことだった。


 伝統を重んじ、従来のありようを重視する、いうなれば頑固なプロンゾにとってこれほどまでの急変化は、すんなり順応できないものが現れることもある意味当然であった。それを、ディレルとリリクルが率先してディルツ文化を受け入れることによって発生する不平、不満を抑止していた。ましてや年若いリリクルはともかく、現巫女でありプロンゾの象徴であるディレルが積極的にディルツ文化を受容するのは、同様に象徴的なことであった。


 アルクスネの住人と同じ服装をし、同じものを食べる。これだけでも牢固とした因習に縛られるプロンゾ人には異質な文物を受容できる素地となっていった。


 ましてや、ミハエルの二年にわたる融和行動はプロンゾ人へのディルツに対する拒否反応を抑える役目も果たしており、こういったプロンゾ人の他文化への反感もそう根が深くはならずにすみそうであった。


 ミハエルらのプロンゾ復興の一年は瞬く間にすぎていった。

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