騎士 ミハエル・フォン・ヴァレンロード (十)
5/13 誤字の訂正に、修正に。
―――嘆きの剣を納めなさい、我らが子よ。
清浄なる天上からの声がミハエルの耳朶を打つ。
目を閉じ、残酷なる感触に耐え忍ぼうとしていたミハエルがハッ、と頭上を振り仰ぐ。ミハエルばかりではない、その場にいたすべてのものがただただ息をのんでいた。
そこにいたのは、まごうことなき。
神の、御姿であった――――。
しかし、完全にその御姿を拝せるわけではない。まばゆいばかりの、本物の、神々しい輝きに包まれかろうじてその存在を認識できるに過ぎない。
だが、間違えることはなかった。
体が、心が、魂が、全身全霊のすべてが、神の降臨に打ち震えているのがわかった。
自分たちよりはるかに高位の、自分たち汚れた地上に住まうものとはまさしく次元が違う、超越の存在だと、頭がわかるより以前に自分の存在のすべてが真実たる神を理解していた。
神格に至ったケット・シーのニーモですら、自分のより格上の存在の出現に呆然と見上げるのみだった。
ガガナト・プロンゾを捕縛していたディルツ騎士団の騎士、兵士たちも完全に脱力して必死に握っていたはずの縄を取り落とす。緊縛されていたガガナトも、ありえない状況に開放されたことすら、憤怒の激情を振ることすら忘れ、空を、神を見上げるのみだった。
―――すべてを、みておりました。この場はわたしが預かります。
神じきじきの裁定の宣言に、二の句を告げるものはいない。
―――驚かせたようです。我らの子の嘆きに、わたしが使わされたのです。
ニーモが衝撃を受ける。
あれほどの高位の神であろうと、それでも使走だというのか!
ならば、あれ以上の神がまだ存在するのだ。どれほどその上が果てしないのか。あまりの途方もなさにニーモですら実感がわかなかった。
―――憐れむべき、悲しむべきみ魂をすくい上げ、天に導きます。
「………ディ、ディディクトさんの魂も救ってくださるのですか………?」
陶酔のさなかにあり、まるで呆けたかのようなミハエルの声。自分たちの信仰の根源がそこにおわすのだ。それに感激しないものならば、信仰の道に生きていないことになる。
死んで、神のそば近くにゆくこと。これがクルダス教の最大の目標であり、幸福だ。
その神がおわす。
これ以上の幸福など、この地上のどこにも存在しないのだ。
―――はい。此度の一件、そこな愛しむべき御霊には、魔の介入がみられます。魔が、介入してくるのなら、こちらも手を出さざるをえません。バランスを保たねばならないのです。
ガガナトを指差して言う尊きお方。
魔の、介入。
そういって神が降臨してくるということは、今回のガガナトの出現の裏には、魔の、魔界の側でも相応の魔の神が仕組んだ事でもあったということなのだろうか。
しかし、それも恐るべき話であった。
「――――ざッけんなよッ、ふざッけんなよ! 誰が救ってくれなどと頼んだ! 誰が天国なんかに行くものかよッ!!」
衝撃からようよう我を取り戻したガガナトが、神の、上からの宣言に怒りだす。
しかし。
地獄の蓋を開けたかのように噴出させていた地獄の瘴気も、まばゆいばかりの神の御光の前に跡形もなく消し飛ばされていた。すでに、世界はもとの清浄を取り戻している。
―――落ち着きなさい。そなたの激情も、憎悪も、すべては使走。そなたを暴れさせて高みの見物としゃれこんでいる存在がいるのです。
「たとえそうであったとしても! このやり場のねェ怒りも、このこらえようもねェ憤りも、この俺様のモンよォッ! それに従うのが、それに流されるのが、何が悪いってンだよォォッ!!」
感情をほとばしらせるガガナト。
しかし、もはやその穢れた身からは何も出てこなかった。瘴気も、負のエネルギーも、何も。
この空間を完全に支配した神がその場にいる。下位に属する存在でしかない愚かな魑魅魍魎ごときに、もはや一切この地を汚すことなどできやしないのだ。
力の根源をすべて否定され、よって立つ所以を完全に抹消され、もはやただの怨霊に戻ったガガナトもあせりの色を隠せない。
―――そなたの言い分を聞くためにここにいるのではない。反発するのなら――――。
「ま、待ってくれ!」
神の裁きが下るのかと思われた瞬間、リリクル・プロンゾが待ったをかける。
力の根源を完膚なきまでに封鎖され、超常の力をなくしたガガナトに、ゆっくりと歩み寄る。ことの事態に、ビーククト・ブロンゾもまた、脱力のさなかにあった。まるで、最後の審判の前にひれ伏し恐れおののくもののように。
「わたしたちも遠くない未来に『ヴォールホン』に往くことだろう。その神聖なる楽天に、ガガ兄がいないのは、悲しいな」
静かに語りかけるリリクル。
「ネネ兄と、ディディ兄、家族そろって戦に明け暮れたいものじゃないか」
「お、俺をこんな姿にしたディルツを、許せっていうのかよッ!」
「ガガ兄だって、多くのディルツ兵を屠ってきたんだろう? だから、その報復をうけたんじゃないのか………?」
「………そ、そう、だけどよ………」
過日の、グナクトとのやりとりを知っているリリクル。すべては因果応報であることを理解しているのだ。先ほどの言動を見るにどうせガガナトのことだ。報復を受けるにふさわしい行いを数多行って来たに違いないのだろう。
「攻めてきたのはディルツだ。それは間違いない。でも、命のやり取りをする戦士ならば、死生は埒外じゃ、………なかったのか?」
目に涙をためたまま、ふんわりと微笑むリリクル。
プロンゾ戦士にとって、強敵にまみえ自身の力を思う存分振舞えるのが最大の、望外の喜びであるのだ。打ち倒すことができたとしても、また負けることがあろうとも恨みはしない。己が生を精一杯、思う存分振るい、自身の生命の躍動をご先祖様、神々に見てもらうことを何よりの喜びとする。
プロンゾ戦士が待ちに待った戦によって力を使い果たした後、生き残るも死するも、それらは勘案の外、思慮の埒外に置くのがプロンゾ戦士としての矜持、プライドなのだ。
そして、プロンゾは一瞬に己が生命を叩き込むからこそ、日々を大切に生きているのだ。
不惜身命なるがゆえに但惜身命なのである。
プロンゾ戦士は、身を、命を惜しまず戦に赴く。そして己が生命のすべてを強敵にぶつける。だからこそ、日々の生活を大切に生き、家族を、仲間を、大切に、本当に大切にする。一瞬にすべてをかけることができるのも、日々の生活を正しく生きればこそ、なのだ。
逆にいえば、悪事をなすもの、悪に手と心を染めたものは、後日の悪事の露見を恐れて死を恐れる。日々を正しく生きられなかったものこそ、死を恐れる。
日々を清く、正しく、美しく、心平らかに生きているからこそ、自分は一切間違った日々を生きなかった、という誇りと自負があるからこそ、戦という一瞬に己が生命のすべてを注ぎ込むことができる。
後悔も、心残りもない。
後は残ったものたちがしかるべくやってくれるだろう。仲むつまじく和やかに生きた家族が、自身の死をもって自身を神と拝んでくれるだろう。死んだ自分に恥じぬよう、死んだ自分に胸を張れるよう、また、誇り高く生きてくれるだろう。
プロンゾの戦士は、だからこそ、死を恐れない。
プロンゾの戦士は、だからこそ、日々を、家族を、何よりも大事にする。
だからこそ、プロンゾは誇り高く生を寿いできたはずなのだ。
「親父も、まだまだ元気だから、家族がそろうのはもうしばらくかかるだろうな。でも、………一人でも欠けるのは、………ごめんだ」
ガガナト、ディディクトの大きな胸に顔をうずめ、いとおしげに抱きしめるリリクル。
二の句を発することもできず、ガガナトは対応に窮す。
しかしその瞬間、ガガナトの、魂の性質が反転していた。
その瞳に確かに灯っていたはずの、魔の走狗であったはずの禍々しい濁りの炎は消えてなくなっていた。
ばつが悪そうに、顔にまとわり付いた血糊をぬぐう。
「………チッ! わかったよッ、こんなナリでなんだが、………毒気も抜かれちまった。こんな俺様が、いまさら楽天に、『ヴォールホン』に往けるとも思えねェが、………好きにすればいいさ」
―――よく、改心しました。大丈夫、そなたの魂の負は、たったいま正に向きました。悪霊、怨霊といえど、それは正負の方向性にすぎない。負だからといって一方的に滅ぼすのが、何も神の業ではない。改心して、天を、上を向けばそれは慈悲にすがったということなのです。そなたの魂をよりよい道に導きます。
神から、これ以上など存在しえない絶対の保証を得る。
心の底からの安堵に、リリクルが涙ぐむ。
「よ、よかったな! ガガ兄!」
「あ、ああ………! ………ミハエル、っていったか、すまねェ。迷惑をかけた。それに、いっぱい、………やっちまったな。こんな俺様が先に楽天『ヴォールホン』に召されるなんて、虫のいい話だが………」
周囲を見渡して、悔悟の言葉で謝罪するガガナト。
本来の、生あった頃のガガナトは、こういう、自身の行いを恥じることのできる温かみのある人間だったのだ。
「………いいえ、人々を救済するのが、修道騎士の本来の役目。それを果たせたことを誇りに思います。死んだ者たちも、神の下に召されたことでしょう。後のことは心配なされず、心安らかに、ご先祖様のもとにいってください」
先ほどのリリクルもそうだが、自分たちが改宗を迫る存在だということを伏せる。
彼らのいう楽天『ヴォールホン』と、いまおわす神々の住まう天国とは、世界が違うはずなのだ。
しかし、心安らかに安楽を迎えようとしている尊き御霊に、波風を立たせるような無粋なまねはさすがにしない。
そしてそもそも、ミハエルはここ最近のプロンゾ人の内側によりそって、改宗を迫るのが絶対の、大事な正義なのかどうかすら、わからなくなっていた。その民族伝統の、信仰や文化、風習、そういったものを残すことも、大切な人としての筋道なのではないか、と思うようになっていたのだ。
「………すまねェ。あのッ、俺が取り込んだ魂たちも、同様に救ってもらえるのかい?」
―――無論です。
「あ、ありがてェ………。じゃ、じゃあ、リリクル、ミミクル、ちょっと、替わるから、最後の言葉をネネムタにかけてやってくれるか?」
神の太鼓判を得て、ガガナトは歓喜の表情を浮かべた。
「もちろんだ。ミミ、おいで」
「はっ、はい!」
ノルベルトの治癒を終わらせていたミミクル。リリクルの後を追うようについてきていたのだ。
「え、あ、あんちゃん、僕がで、でても、………いいのかナ?」
ふいに入れ替わってネネムタの魂があらわれ、ネネムタも驚く。
「ネネ兄………」「ネネ兄様」
リリクル、ミミクルが、愛すべき兄を呼ぶ。
「あー、さい、最後のおわかれ、なのかナ、ふいのさい、再開が、さいこ、最後になっち、ちゃったけど、二人にまた会えて、とって、とても、うれしい、………ナ。ガガあんちゃんと、いっし、一緒に、見てたんだ………ヨ? ほ、僕が生きてた頃は、また、まだまだ小さかった妹が、こんなにかわ、い、かわいくて、僕はとてもうれしいヨ」
ネネムタが二人をいとおしげに抱きしめる。
「でも、よか、よかったネ、ガガあんちゃんがヴォ、『ヴォールホン』に往くことがてき、できるんだネ。よかった」
ネネムタは自分とのこれまでの経緯よりも、ガガナトの行く末に安堵したのだ。これが、プロンゾの家族なのだ。
「ああ………! ネネ兄も一緒にいって、ガガ兄が無茶しないように守ってやってくれ………!」
「わたしたちも、いつか参りますから、それまで見守っていてください………」
とめどなくあふれる涙で、二人はぐしょぐしょだった。
でも、悲しみの別離などではない。
正しき生を歩んだプロンゾ戦士の、晴れの門出なのだ。これから自分たちを守ってくれる神となる親族への祝福の挨拶なのである。
「うン………! 待ってるヨ! ああっ、きょっ、今日はなんていい日なんだろうネ。とても、しあ、幸せだ………ネ」
心の底からうれしそうな顔をして、ネネムタは笑った。
一瞬の静寂。
「………いっちまったな。………俺様も、そろそろいくわ。いろいろ、迷惑かけちまって、すまねェな。でも、オメェたちに手をかけなくって本当によかったと、思えるぜ。ミハエルさんよ!」
「は、はい!」
「リリクルと、ミミクルのこと、よろしく頼むぜ。どうせ、もう手篭めにしたんだろ?」
「してないです!」
「なんだ、まだかよ」
楽しげに笑うガガナト。
「まあ、どうせそうなる。安心していいぜ。うちは強い戦士こそ多妻であれ、って一族だからよ! ………まあ、何はともあれだ、俺様がいえたセリフじゃあねェが、終わりよければすべてよし、ってな。………またな。リリ。オメェのおかげで正しき神になれることに、本当に感謝するぜ。ミミ、ディディクトなきいま、リリクルが族長ってわけだ。ちょっとおっちょこちょいなところのある奴だから、ちゃんと補佐してやってくれや。オメェら二人なら、プロンゾに、かつての繁栄を取り戻すことも不可能じゃねェだろう。直接手助けはできなくとも、いつも見守っているからな!」
「ああ! もちろんだ。プロンゾの古き神々に誓って、もり立てることを約束する」
「リリ姉様を補佐して、プロンゾを守ってゆくことを誓います」
神明に誓う二人。
このわずかな期間で、二人には確固たる決意が、意思が、瞳に宿っているようだった。
二人の瞳の輝きをじっくりを眺めて、満足げに微笑むガガナト。
「ああ。………一安心だ。こんなに、心が安らかになったのは、いつ以来だろうなぁ。………本当に、こんな心地になるなんて、夢にもできなかったぜ。すべてに、感謝だ………」
すべての恨みや憎しみ、怒りから開放され、本当の自由な御霊になったガガナト。
すべての生あるものを憎み、すべての命あるものの死を望む存在から、もはや、すべてに感謝をささげる存在へと進化できたのである。
「ああ、そうだ、この体、持ち主に返すぜ。もう、俺様がしがみつくところでもなくなったしな。………じゃあ、あばよ」
すべてのくびき、しがらみから開放され、泥む必要もなくなったのだ。
もはや、そこはガガナトがいる必要もないところになったのである。
そして、しばしの静寂。
「………ようやく、自分の体の自由を取り戻せましたか」
「ディディ兄!」「ディディ兄様!」
ばつが悪そうにはにかむディディクト、本人だった。
「………お見苦しいところをお見せしました。でも、………まさか、あのガガ兄が、あそこまで浄化されるとは思いませんでした。リリは、すごいですね」
誇らしげにリリクルを見下ろすディディクト。
「そ、そんな、家族を思うプロンゾならば、当然だと思うぞ」
「………ですね。………いまほど、我が家族を誇りに思うことはありません。でも、本当によかった。すべてがうまくいきました。まさか、ここまでうまくゆくとは、いまでも信じがたい気持ちでいっぱいですけどね」
「………あ、ああ、そうだな」
「天に選ばれた子………、ミハエル殿、こんな奥の手があるとは、わたしは敬仰の念にたえません」
「あ、いえ、隠していたわけでは、ないんですけど………」
神がじきじきに降臨してさまよえる御霊を救ってくれるなど、さすがにミハエルとて予想できるはずもない。
「それとて、ミハエル殿あったればこそ。………本当に、これからのプロンゾは運がいい。………リリ、質問があります」
「………な、なんだ?」
「この、ヴィルグリカス平原でのプロンゾの凶行を、後世のプロンゾ人がみれば、どう思うでしょう?」
まるで、聖者が信者に教え諭すような、そんな表情を浮かべて、ディディクトはリリクルに言葉をつむぐ。
「………プロンゾの恨みを、一身に受けて晴らした、英雄的行動、では………、ないのか?」
「それで悪くはありません。ですが、少し付け加えますね。………我らの生も我らの死も、後世のプロンゾの子らがみたら茫漠たる歴史の一部にすぎないと思うでしょう。それはたとえば大きな一冊の本の片隅に載った歴史。ですが、その歴史を紐解いた子らは、その歴史を、どう思うでしょうね。わたしは、その歴史を、………物語にしたいのです」
「物語………」
「屈強なディルツ騎士団に屈服し、こびへつらって隷属した惰弱な民族であろうか、それとも頑強に抵抗し、その上で和解にこぎつけた優良なる民族か。後の子らが胸躍らせ瞳を輝かせて、自身の血に誇りをもつのはどういった物語でしょうか」
「そのための、決死の戦闘であった、と………?」
ゆっくりとうなずくディディクト。
「もしかすると、もっと後の世では、もはや、ディルツという境も、プロンゾという区切りも、なくなってしまうかもしれません。ですが、ふと、自分の、自身の血に流れる民族の歴史を振り返ったときに、かくありてこそ我が民族、と喝采を叫びたくなるような物語を、彼らのために、残しておいてあげたいではありませんか――――」
思わず、血が滾るような感覚に突き動かされたリリクル。
はたはた、と涙があふれディディクトを見つめる。
「そのための、やむを得ぬ死闘であった、と――――」
またもや、ゆっくりとうなずくディディクト。
自分も、プロンゾの未来を見据え、よりよい道を模索していたはずだった。
だが、ディディクトはもっとはるかな未来に、その眼を向けていたのだ。
いまのプロンゾの命運だけではなく、後の未来の、プロンゾの子孫のためにできることを――――。
プロンゾの血筋のために、いまを生きる自分が精一杯命を燃焼させること。
そんな、途方もないことをディディクトは成し遂げていたのだ。
到底、かなわない。リリクルは心の底から敬愛してやまない兄に打ちのめされた。しかし、とても心地よい敗北感だった。
「後の世では、馬鹿みたいに犬死した愚か者、とさげすむものも現れるでしょう。禁忌を犯した狼藉者とあざ笑うものもでてくるでしょう。………ですが、我らが命を賭して、いまこの瞬間に命を燃やした、敵味方にわかれて死力を尽くした、という物語は、絶対に消えてなくなったりはしません。プロンゾの血が、果てない限りは、永遠に、その輝きを失ったりはしないのです」
「そう………だな。ああ、絶やしたりするものか!」
涙ながらに微笑むリリクル。
「だからこそ、ディルツ騎士団がここまで我らの死力を真っ向から受けてくれたことに、わたしは感謝の念にたえません。ありがとう。ミハエル殿」
「――――いえ」
「これで、こちらが一方的に勝ってしまい、副作用で死に絶えていたら、とてもみっともない物語になるところでした」
ふふ、と笑うディディクト。
「ズルをしてまで戦ったプロンゾに対して、真っ向から受けてそれを退けたディルツ騎士団。そしてその、ディルツから手を差し伸べてくれることで成立した融和。完璧、とはいえませんが、まあ、上々の物語ではありませんか………?」
にっこりと微笑んで言うディディクト。
ディディクト以外の誰に、そんなスケールの大きい物語をつむげるであろうか。リリクルは自慢の兄の偉大さに胸がいっぱいになった。
「数は10対1。しかも、同じプロンゾの巫女の加護つきだ。こっちだってズルしまくりだからな。勝ったんじゃねぇ。ぎりぎり退けたにすぎねぇ。確かに、ディディクト殿の言うとおり、両者、死力を尽くした名勝負だった。後世に語り継ぐべき伝説になるぜ」
復活を遂げたノルベルト。ディディクトに同意する。
「そういっていただけますと、助かります。………わたしは幸せです。このような、歴史の一ページに立ち会えたことに。よもや、わたしの勝手な腹案に、ここまで賛同をたまわりかつ、鮮やかに成し遂げていただけるとは。ディルツ騎士団。本当に素晴らしい人たちです。ミハエル殿、重ね重ねで恐縮ではありますが、リリクルのこと、ミミクルのこと、お願いいたします」
「――――はい」
「リリ」
「ああ」
「胸を張って。いきなり貴方に族長を押し付けてしまいました、ですが、無理を押し付けた覚えなどありません。貴方ならそれを成し遂げられると確信して、お任せするのです。大丈夫。自信をもって、自分の信じた道を歩んでください。後は、時がたてばすべてがよくなります」
「――――ああ!」
「ミミ」
「はい」
「ここしばらくで、まるで見違えましたね。『アトゥーレトゥーロ』で小さくなって生きるのが己が宿命、と諦めてただ悄然と受け入れていたあの頃の面影は、もはやどこにもありませんね。この短期間で、一回りも二回りも人間として大きくなりました。その、元気な姿が、本来の貴方のあるがままの姿なのです。その元気なミミで、リリを、助けてあげてくださいね」
「――――はい!」
「ニーモ様、ビーククト、これからもどうかよろしくお願いいたします」
「当然だね」「かしこまりました」
ニーモとビーククトにも静かに頭を下げ、満足げに微笑んで、静かにディディクトは瞑目した。
「………本当に、本当に名残惜しいですが、わたしの中の心残りもそろそろなくなってきました。………心が軽くなってゆくのを感じます。苦悩や、不安や、懸念、ずっと、わたしの中に渦巻いていたものが、綺麗になくなってゆくのを感じます。………こんなに心が平らかになるのならば、死ぬのも悪くはない。いまなら、そう思えます」
「ディディ兄」「ディディ兄様」
「ふふ、とはいえ、貴方たちが来るのはまだまだ早いですからね。勘違いなきように。では、一時のお別れです」
「………ああ。ほんの、少しの別離だ」
「わたしたちも、命を精一杯燃やし尽くしたら、そちらに参ります」
「――――はい。次に会えたら、また見違えるほど成長した貴方たちに会えるのでしょうね。でも、わたしだってそれに負けず劣らず成長しますから、油断なきように」
本当に楽しそうに、にっこりと微笑むディディクト。
「ああ、競争だ」「負けませんから」
微笑むディディクトに負けないように、元気よく微笑む二人。目じりに、涙をためながら。
「こんなに幸福な最後を迎えることができる――――。ミハエル殿。そして、神に、感謝いたします。そして、すべての命に、幸いあれ――――」
神に。天に。
すべての存在に感謝をささげ、祝福を祈り、ディディクトは天を振り仰いだまま、――――召されたのであった。
―――最後の御霊を導きました。ここにいるすべての愛おしき御霊を鎮めました。これで、わたしの役目も終わりです。これにて戻ります。
「………救っていただき、本当にありがとうございました」
神に深々とお辞儀をするミハエル。
―――わたしはわたしの役目を果たしたにすぎません。ですが、我らが子よ。光差せば闇が濃くなるのも、また道理。この時代に我らが子が二人生まれてきたことが闇を深くする原因にもなりかねぬこともまた、事実なのです。気をつけろといってもどうしようもなきことですが、それでも、魔の、闇の蠢動には気をつけてください。
「は、はい」
神からのじきじきの警告にミハエルも身を引き締めずにはいられない。とはいえ、生まれたことが魔のものの活動の契機になる、といわれてもさすがに対応に窮する話である。
ミハエルが雲をつかむような感想を抱いたのに対して、常にミミクルの守護を担ってきたニーモには、心当たりのある警告ではあった。そして思う。いままではミミクルのみを守ってきたが、これからは二人を守ることになるのか、と。
やれやれ、と思いながらも、しかしやりがいのある使命ではないか、とニーモは微笑む。
世界から尊きお方の存在がなくなり、元の春の暖かさに立ち返る。
「ディディ兄帰ろうか、わたしたちの家に」
限界以上に酷使され続けたディディクトの肉体は、魂がなくなってもぴくりともしなくなっていた。天を振り仰いだままのその亡骸を、いとおしげに寝かせるリリクルとミミクル、ニーモとビーククト。
「………そうだな。俺たちも帰ろうぜ! アルクスネに!」
ノルベルトが晴れやかな気持ちで言う。
「はい! 全部隊帰還する!」
ミハエルの号令をもって、ヴィルグリカス平原での死闘は、ここに幕を閉じたのであった――――。




