その2/48 『出会い』
「痛ッ…なにしやがる!」
男達は密集していたので、ものの見事に全員すっころんだ。見るからに屈強そうな男達が無様に転ぶその光景は滑稽としか形容しようがない。
空也は足をかけた瞬間、違和感を覚えた。足に伝わってきた感触が妙に軽かったのだ。といっても空也が人に足を引っ掛けて転ばせたのはこれが初めてだったので、こんなものなのかな、としか気に留めなかった。
「おい小僧! 自分が何したのかわかってんのかァ!?」
「ふざけやがってこのガキ! 待ちやがれ!!」
空也は、男達が立ち上がる頃には駆け出していた。いつまでもその場にいたら自分もただではすまないことが明白だからだ。
男達はものすごい形相で空也を追いかけてくる。空也は走るのがそれほど得意なわけではないが、苦手というわけでもない。スタート時点でアドバンテージがあったことと、男達が武装していて重かったことが幸いして、まだ追いつかれそうな様子はない。しかしそれも時間の問題と考えた空也は、なんとかまく方法はないかと走りながら左右に視線を走らせる。
「あっ、あの路地裏は…そうだ!」
空也は商店の前に置いてあった樽を飛び越えつつ、そのまま左に急旋回した。狭い路地だが道は続いている。
「ん? あいつどこ行きやがった?」
「左に曲がったんでさ!」
「くそっ、樽が邪魔だな!」
男たちは荒々しく樽を倒しつつ裏路地へ突進する。しかし空也の姿は見当たらなかった。
「なんでえ、いねえじゃねえか!」
「あれっ、確かにこっちに曲がったのを見たのになあ」
「そもそも小娘も見失っちまった」
「しょうがねえ、分かれて探すぞ! ダストン達はさっきの道、俺たちはこっちだ!」
リーダーと思しき男は指令を出すやまっすぐに駆け出した。数人の部下たちが後に続く。
「……ひょっとしてこの樽に隠れてるんじゃねえのか? あのガキ、かなりチビだったからなあ」
ダストンと呼ばれた男はそう言いながら倒れた樽の蓋を開けてみた。
……出てきたのは、みずみずしいオレンジの山。少年など隠れてはいなかった。
「ちっ、やっぱいねえか。しょうがねえ、あっちを探すぞ!」
たちまちの内に鮮やかな橙色が地面に描いたまだら模様を一瞥もせずに、ダストンはそれまで向かっていた方向に走り出した。
「……行っちゃったみたいだな。それにしても『エッシャー・バックストリート』まであるなんて、本当にここは一体どこなんだろう……」
あちらこちらに散らばる男達を見下ろし、空也は安堵する。当面の間は見つかる心配もないだろう。
裏路地の両端の建物にかかるように階段が斜めに渡されている。その階段の先、ちょうど右手の建物のベランダのような張り出しに空也は立っていた。しかしこの階段が、歪んでいるとしか思えないおかしな形状をしているのだった。
「それにしても改めて見てみるとヘンテコな形だよなあ。当時の僕は一体どうやってこんなもの立体化したんだろ」
空也はマウリッツ・エッシャーの騙し絵を知った瞬間模型魂に火がつき、情熱の赴くまま1/48スケール(相当)にて造形したのだった。三次元では決して成立しえない『二次元のウソ』の塊のようなこの構造を立体化したらどのような構造になるのか、ぜひ自分の手で作り自分の目で確かめてみたかったからだ。立体として成立させるためにアレンジを余儀なくされた箇所も多々あったが、あの複雑怪奇な空間を、絵画と同アングル限定ではあるが再現できたことに空也は得意気になったのだった。彼がそれを自身のミニチュアワールドに組み込んだことは言うまでもない。
『エッシャー・バックストリート』の近くを通りかかったのはまさに僥倖であった。この空間を築き上げた彼はその構造を熟知しており、男達の死角に隠れることなど造作もなかったからだ。
空也は階段を少し降りて周囲を確認した。男たちの姿は見えない。
これならもう大丈夫だろう、と安心した空也は階段を降りた瞬間、飛び上がるほど驚いてしまった。
「……あなた、よくこの階段を上れたわね」
「わっ!?」
「きゃっ!?」
目の前に立っていた少女は、空也が吃驚して叫んだ頓狂な声に自分も驚いてしまった。
「き…君は、さっきの女の子?」
「あ、あなたこそさっきの男の子? びっくりしたあ」
二人ともそろって呼吸を整える。空也は人見知りするタイプだが、悪漢から無事に逃れることが出来た安堵からか、不思議と打ち解けられそうな気がした。この少女にどこか懐かしい雰囲気を感じたせいもあるだろう。
「……君もここに逃げてきたんだね。この裏路地のこと、知ってたの?」
「うん。この場所はお気に入りだからよく来るの。ここならあの人たちから逃げられると思って」
「君はなんであいつらに追われていたの?」
「わたしにもよく分からないの。わたしな~んにも悪いことなんてしてないのに」
「何も心当たりはないの?」
「ないわよう。きっと、わたしがかわいすぎるのがいけないのね」
「そ、そうなんだ……」
理由もなく武装集団が少女を追いかけ回すことなどあるのだろうか。この世界の常識は埼玉県の常識では推し量れないのかもしれない。
「あなた、この辺の人? 見かけない顔だし、変わった格好してるけど」
そう言われて、自分が高校の制服を着ていることに気づく。この世界に来る前は寝る前だったからパジャマを着ていたはずだ。それに、室内だったので裸足だったはずが、しっかり靴を履いている。
謎は深まるばかりだが、空也が現在おかれているこの状況の不可解さに比べれば、それほど驚くには値しないのかもしれない。
「この迷路みたいな裏通りのこと知ってるの、この辺の人だけだと思ってたあ。あの人たちはよそ者なの」
「だからここに逃げ込んだんだね。でも、僕もよそ者…だと思う、よ。多分」
「なにそれえ。それならなんで知ってたのお。この裏通り変なカタチしてるし、いつの間にか観光名所になっちゃってたの?」
空也は言葉に詰まった。そもそも自分がなぜ、どうやってこの世界に来たのかまったく分からない、しかもここが自分が作り上げた世界とそっくり、などと言ったところで信じてくれるものだろうか。
「そんなに答えづらいことだったあ? まっ、いいわ。あなた、名前は?」
「……空也。陸海空也、だよ」
「クーヤって言うんだ。いい名前ね」
「君は?」
「え?」
「君の、名前」
そう言われて少女は少しどきっとした表情を見せた。名前を聞かれることがそんなに困ることなのだろうか。それなら無理に言わなくてもいい、と空也は口を開きかけたが、先に発話したのは少女だった。
「……マリィ」
「……え?」
己が耳を疑う空也に、少女はもう一度名前を告げる。
「わたしの名前は『マリィ』、よ」
~その3/48に続く~