雪解けを待つ
昨日の夜遅くに降り始めた雪は、朝にはすっかり積もっていた。
「綺麗だね」
白く息を吐く横顔と、世界でぼくにしか聞こえていないその声が、まだ頭に残っている。
台所から聞こえる物音に目を覚ます。いつもなら朝一番にぼくがスイッチを入れるガスストーブはすでに稼動していて、室内は暖かった。
枕元にあるはずのケータイがなかった。
視力0.1以下を誇る両目を細めて、周囲に目を凝らす。ケータイはベッドの下に転がっていた。
ケータイ開いて時間をチェック――am 9:22。
ベッドからもそもそ抜け出して、丸テーブルのメガネを拾い上げた。寝ぼけた頭と、鮮明になる視界。
ハンガーに掛かったブラウンのコートと、赤茶色のワニ皮を模したカバン。
台所で、まな板を叩く音が止んだ。
「おう、起きてたかい」
「おはよう」
「おはよ」
明るく染めたセミロングを揺らして笑った彼女は、止めていた手を再び動かした。
「外、もう真っ白だよ。昨日のうちに降ってたみたいで。ここ来るまでに何度足を滑らしたか」
「転ばなかった?」
「奇跡的に転倒ゼロ」
「変なとこで器用だよね」
「ほめてんの? けなしてんの?――ってこらこら」
「うん?」
テーブルを前に座ったぼくに、彼女の指がビシッと突き付けられる。
「あたしがいる時は全席禁煙です」
咥えたタバコがお気に召さなかったらしい。
「へい」
「吸うなら外で吸う!」
「へい」
朝からテンション高いなぁと思いつつ、ベランダへのドアを開けて、閉じた。
「あの、メイちゃんさん」
「何? いっくんさん」
「外、白いんですけど」
「雪、積もってますもん」
「むっちゃ寒いんですけど」
「じゃあタバコ吸わないでください」
「ちょっとだけ」
「ダメです」
「ほんと、ちょっとだけ」
「ダメです」
「先っちょだけでも」
「ダメです」
船長! 取り付く島もありません!
「かわいく言ってくれたら許す」
「おねがい♪」
「キモいから却下」
ばっさああ!
うぎゃああ!
ぼくの健闘は袈裟懸けに切り落とされた。
「彼氏にキモいって……」
「タバコ吸わなきゃいいだけじゃん」
すっぱり言い置いて調理を続ける彼女。
うーむ、譲る気はゼロか。
「……行ってきまーす」
「生きて帰っておいで〜」
腹いせに彼女のブラウンのコートを羽織って、灰皿片手にベランダへ。
くそう、むちゃくちゃ寒いじゃねーか。
駅から歩いて5分。7階建てマンションの3階から見下ろす街並はずっと向こうまで白く染まっていて、未だサラサラと雪が舞っていた。
昨晩から降り始めた雪は、街を純白に彩っています。
紫煙も吐息も平等に白くなる。
街は静かで、眼下を走るバスのタイヤチェーンがアスファルトを引っ掻く音だけ、甲高く響いた。
後に残るは無音。
「綺麗だね」
舞い落ちる雪を仰ぎ見るその横顔は、まだはっきりと憶えている。
日付変更線を全力で飛び越えた深夜。
こうして積もっている雪の、最初を一緒に眺めた横顔。
「終わりにしよう?」
言葉を紡いだ微笑は美しくて、ぼくから思考を奪った。
「もうこれ以上は続けられないよ。だから、終わりにしよう」
いやだ――ため息のように呟いて、恋した横顔を抱き締める。
離れたくない。
放したくない。
そばにいてよ。
そばにいたい。
「……うん」
先走った思考は幻のまま、ぼくの首は縦に揺れた。
「――生きてる〜?」
突然ベランダに顔を出した彼女は、ぼくの羽織っているコートを見るなり目を三角にした。
「ちょっと! 何着てんの! 自分の着りゃいいじゃん!」
「ロングコートだから丈はいいんだけど、袖が短いよね、これ」
「体のサイズが違うんだから当たり前でしょ! ありえない! 匂い付いたらどうすんの!」
コートを剥ぎ取ろうと躍起になる彼女を、ぼくの腕は絡み取る。引き寄せる。抱き寄せる。
ぼくの体重を少し乗せて、抱き締める。
雪がひらり舞い落ちるのが横目で見えて。
彼女の手が、ぼくの後頭部を撫でた。
「ねえ」
「へい」
「寒いからコート返しなさい」
「後でね」
「風邪ひかせるつもりか」
「看病したげる」
「できんの?」
「……お粥くらいなら作れる……かも」
しぼんでゆく自信。腕の中で、彼女の微笑がこすれた。
「今度、作り方教えたげる」
「お願いします」
「いいかげん、そろそろ入らないと本当に風邪ひくよ?」
身じろぐ体を一層強く抱き締めた。
「好きです」
「ん」
「大好きです」
言葉を、吐く。
「一緒にいます。幸せにします。話を聞きます。文句も聞きます。愚痴だって聞きます。歩調も合わせます。買い物も付き合うし、美味しい店見つけたら誘います。オハヨウも言うしオヤスミも言うし、その日感じたこととか友達と話したこと、ちょっと頭に来たこととか、全部言います」
「タバコは?」
「やめる……よう、努力します」
彼女の失笑を買った。
「愛してます」
「うん、わかった」
ゆっくりと、彼女が腕をほどく。
触れるようにキスをして、ドアを開けた。
「部屋、戻ろう?」
「……うん」
「あと、勝手にコート着ない」
「……はい」
ぼくの街に雪が降る。
彼女の作ってくれた朝ご飯は美味しくて、ちょっと泣きそうになったのは、たぶんそのせいじゃないのかもしれないけれど。
積もった雪が全部解けて、またいつもの風景に戻る頃には、もう大丈夫だと思うんだ。
大丈夫だと、思うんだよ。
さよなら、恋。