三題小説第四十六弾『潰す』『釣り』『雨』タイトル『青春の赤いシンボル』
コンパクトミラーの中の私は前髪のかかる目をしぱしぱさせている。額に出来ているニキビが覗かないように前髪を調整した。
「ねえ秋穂さん。手を動かしてくれない?」
「ご、ごめんなさい」
鏡を脇に置いて並べた机の上に手を戻す。机はクラスメートから集めた衣服が山盛りになっている。
暦の上では夏も終わり、文化祭まであと少し。私のクラスは劇をする事になった。題目はシンデレラだ。その主役の女の子である風美ちゃんが目の前で自分の為の服を縫っている。私も風美ちゃんに教わりつつ作業を進めている。とはいっても一から作る予算は無いのでクラスメートの古着をドレスっぽく改造していた。
クラス全体が各々の作業に取り組んでいて活気がある。
「秋穂さんってナルシストなの?」
「え? えええ? 何で? そんな事ないよ」
「だっていつも手鏡を見てるじゃない。よほど気に入ってるんじゃないの?」
「ほんとにそんな事ないってば。なんというかたまたまだよ」
気に入っていられたら良かったのに。実際はその逆だ。今、私の額には青春のシンボルがこれでもか、というほどに出来ている。
「とにかく。自分で選んだ仕事でしょ? きっちりしないと」
「う、うん。いやでも自分で選んだわけではないよ」
風美ちゃんがこちらを睨み付ける。
「いやもちろんちゃんと仕事はするよ。ただ役割決めの日に風邪で休んでて、勝手に決められちゃったんだよ」
「そうだったのね。私と同じね」
「あれ? 風美ちゃんシンデレラ役だよね? 何で衣装係してるの?」
風美ちゃんが吹き出す。私と違って端正な顔立ちで、色素が薄くて、つるつるの肌の風美ちゃんは笑う姿も可憐だった。
「今更? 秋穂さんってやっぱりトロいところあるわね」
「ううう。自覚はあります」
私の十二大短所の一つだ。
「私もその日休んでて勝手にシンデレラを押し付けられたのよ。でも衣装係をやりたかったから兼ねてるの。あとで体育館にも行かないと」
演者組は体育館で練習しているらしい。
「えええ? 主役をその日いない人に決めちゃったの?」
「そうなの。信じられないわよね、あの人達。自分がしたくないからって押し付けて」
その日休んでいた二人のうち、風美ちゃんの方にシンデレラを押し付けようとクラスメートが判断したのは私に対する中々の嫌味だ。でもまあ仕方ない。むしろ取り合いにならなかった事が不思議だ。誰も主役をやりたがらなかっただなんて。
「でも風美ちゃんがクラスで一番可愛いと思うから適任だよ」
嫌味なニュアンスに聞こえたかもしれない。でも本心でそう思う。
「そうね」
私も吹き出す。お見苦しい所をお見せしました。
「風美ちゃんはすごいね」
「ナルシストなだけよ」
風美ちゃんのような顔なら私もナルシストになれると思う。せめてニキビが無ければなあ。机の上のコンパクトをちらりと見て前髪を調整する。
「それにしてもいいなあ。シンデレラ役」
私は作業に戻りつつ何とはなしに呟いた。
「何? 秋穂さんシンデレラがしたかったの? 代わろうか?」
「いやいや駄目だよ。気軽に何言ってんのっていうかそうじゃなくて、ほら王子様役」
私は自然と声を潜める。
「誰だった?」
「江村君だよ」
「誰だった?」
「ひどい」
「冗談よ。江村君の事好きなの?」
「そういうわけじゃないよ。男子の中では素敵だなって、笑顔とかいいなって。単純にかっこいいなって思ってただけ。好きとかじゃないよ」
風美ちゃんがじっと私を見つめる。私の表情は揺るぎないポーカーフェイスだ。
「ふうん。そうなの。そうかしら?」
「まぁ好きなんだけど」
「何で嘘ついたの。そして何で一瞬で白状しちゃったの」
すぐ嘘をつく。そして大体すぐに白状する。それもまた私の十二大短所のうちの一つだ。というか二つだ。
「言わないでよ誰にも」
「言わないわよ誰にも。だけど応援は出来るわよ」
風美ちゃんはにやりと笑い、ハサミでチョキチョキと空中を切った。
「え?」
風美ちゃんが立ち上がる。
「文化祭実行委員さーん。今から役の変更って出来る?」
「ちょ、ちょ、ちょっと風美ちゃん。何言ってんの? 無理無理無理」
私も立ち上がり、風美ちゃんを座らせようとする。クラスの視線が集まってるのを背中に感じる。
「別に出来るなら構わないけど。他にやりたいって人もいなかったわけだし」という文化祭実行委員の羽嶋さんの声が後ろから聞こえてきた。
「駄目駄目駄目だって。風美ちゃんが一番シンデレラに相応しいって」
「それはそうかもしれないけど。文化祭なんだからやりたい事をやるべきよ。トニー賞を狙うわけじゃないんだから」
なんだか小競り合いじみてくる。事情を知らないクラスメートはむしろ主役の座を取り合っているように見えたりしないだろうか。
「とにかく私はやらないから。ほら座って座って。手が止まってるよ」
「でもせっかくのチャンスなのよ」
私が押さえつけて椅子に座らせようとする。風美ちゃんは立ち上がろうとして抵抗する。手にハサミを持っている事を失念したのだろう。ハサミは空中で一回チョキっと挟んだ。
見る見る顔面蒼白になる風美ちゃんを見て私も異変に気づいた。目の上の違和感が取り除かれてすっきりとしている。事の次第を理解しきれず頭の中で思考が暴走する。
私は教室を飛び出した。
トイレの鏡の中の私は前髪を失って涙目になっている。斜めになった僅かな前髪の下に赤いニキビが露になっていた。ニキビが白日の下に晒されてしまった。
どうしよう。どうすればいいんだろう。どうしようもないの?
鏡の中の私は両手で額を覆い、今にも泣きそうな顔でこちらを睨み付けている。指の隙間からにきびが見える。
こうなったら、もう、最後の手段だ。鏡の中の私はこちらに近づいて、そっと狙いを定めて指を這わせる。二本の指で挟みこみ、ニキビの一つを潰す。白い膿が噴き出て、鋭い痛みが額を走る。遅れて血が滲む。
「こらああああああああああああああああ!」
駆けつけた風美ちゃんが私を羽交い絞めにした。
「わ、わわ」
「何て事をしてるのよ!」
「それはこっちのセリフだよ!」
「それはそうなんだけど。ごめんなさい。でもニキビというか、しかも赤ニキビを潰すなんて! 何を考えてるのよ」
「赤ニキビだか何だか知らないけど、こんな、こんな」
視界が滲む。こんなの誰にも見られたくない。江村君に見られでもしたら死ぬ。
「白ニキビならともかく、赤ニキビは潰しちゃ駄目なのよ。下手したらいわゆるクレーターになるかもしれないのよ」
知らなかった。
「ど、どうしよう。風美ちゃん」
「潰してしまったものはどうしようもないわ。とにかく他のには手を出しちゃ駄目よ」
「そ、そんなあ。大体元はといえば風美ちゃんが前髪切っちゃうから」
「だから謝ったでしょう。とにかく赤ニキビは刺激を与えちゃ駄目なのよ。そもそもを言えば前髪で隠すのだって赤ニキビを悪化させる原因になるのだから。ほらこっち向いて秋穂さん」
私が振り返ると風美ちゃんはハサミを構えていた。
「な、何するの?」
「整えるだけよ。それとも自分でするの? 安心して。こういうの得意だから。ほら、目を瞑ってなさい」
私は覚悟を決めてぎゅっと目を瞑る。暗闇の中で前髪がチョキチョキと切られる音が聞こえる。最後にヘアピンで留められる。
「はい。いいわよ」
私は目を開けて鏡を振り返る。前髪を横に流しヘアピンで留めている私が鏡の中にいる。鏡の中だけだったら良かったのに。
「ニキビがあらわになってるんだけど」
「だから言ったでしょう。そもそも前髪の刺激が赤ニキビを悪化させるのよ」
「でもでもでもだからってこんなの人に見られたくない……」
「人のニキビをまじまじと見る人なんていやしないわよ」
「中にはいるかもしれないでしょ」
「中にはいるかもしれないけれど、そんな人はニキビがなくたって人の顔をまじまじと見るのよ。ほら教室に戻りましょう」
風美ちゃんがトイレを出て行く。数秒してまた戻ってくる。呆れた風な表情で私を見る。
「何してるの?」
「戻りたくない」
「衣装はどうするの? 仕事を放棄するの?」
「教室じゃなくても出来るし、なんなら宿題にする」
風美ちゃんはため息をついて言う。
「分かったわよ。空き教室を借りられるか交渉してくる。嘘つきの秋穂さんが何か言い訳を考えて」
そして意地悪な微笑を私に向けるのだった。
「衣装を作りつつお芝居の練習もしたいから。教室でお芝居をするわけにはいかないし、体育館で衣装を作るわけにもいかない。で、どう?」
私もまた意地悪な微笑を風美ちゃんに向けた。
「よくもまあすらすらと出て来るものね。それに私に言い訳させようって事かしら。まあいいわ。行きましょう」
トイレを出る前にもう一度鏡をちらりと見た。秋穂ちゃんは少しだけ元気が出たようだった。
私はあわててコンパクトを片付ける。誰かの足音が近づいていたからだ。
「触っちゃ駄目って言ってるでしょ! 秋穂さん」
空き教室の扉を開けた途端、見ていないはずなのに風美ちゃんはそう言った。
「見てただけで触ってないってば。あ、化粧水は付けたけどね。そんなに刺激は与えてないよ」
昨日散々風美ちゃんに教わったアドバイスには従っている。
「それなら良いんだけど」
「まぁ触ったんだけど」
基本的には従っているのだ。
じろりと風美ちゃんに睨まれる。
「ほんのちょっとだけだよ。それよりもうお芝居の練習は終わり? 短くない?」
「私には衣装の仕事もあるんだもの。まあでも正直助かったわ。体育館暑すぎるんだもの。ここは極楽ね」
風美ちゃんは椅子に座ってスカートを扇ぐ。
「パンツ見えるよ」
「そんな事より秋穂さん。足りない材料の買出しに行ってきて欲しいそうよ。衣装は足りない材料あるかしら」
「今の所ないけど。え? 私が行くの?」
「戻ってくる前に教室に寄って推薦しておいたわ。暇だろうと思って」
「そんな勝手な。っていうか暇じゃないでしょ」
「まあまあ。間に合わないって事はないじゃない。秋穂さんが抜けたって大して変わらないし」
「この正直者の薄情者!」
「後は任せてちょうだい。他の買出し班はもう下足室に向かってるはずだから。待たせちゃ悪いわ。ほら急いで」
私はつべこべ言いながらあわてて教室を出て行く。こういう時押し切られるのは私の駄目な所かもしれない。つまり十三番目の短所だ。私の足音がぱたぱたと廊下に響く。
下足室で待っていたのは江村君だった。つまり風美ちゃんの画策という事だ。回れ右して帰ろうとしたけど見つかってしまった。
その王子様然とした微笑で私を待ち受けていた。
「秋穂さん。ここだよここ」
広い草原に吹き渡る優しい春風のような声だ。
「うん。遅れてごめんね。風美ちゃんに突然聞かされたものだから」
「ああ、やっぱり本人の同意を得てなかったんだ」
「本当にびっくりしたよ」
「ところで靴を履き替えないの?」
江村君は下駄箱の前で待ち構えていた。あまり近づきたくない。額を間近で見られたくない。私は出来るだけ俯いて近づく。
「うん。今履き替える」
「どうかした?」
「どうかしたって何が? どうもしないよ?」
「ふうん。そう。いいけど」
「ところでお芝居はどんな感じ?」
早めに話題を変えてしまう。
「どうなんだろうね。セリフは覚えたけど演技出来てるかどうかって自分でもよく分からなくてさ。とりあえず演劇部員の指示に従ってるって感じだね」
私たちは近くのホームセンターに向かう。あまり離れすぎず近づきすぎず、面と向かい合う事がないように細心の注意を払う。地面を見ていても空が曇っている事はよく分かる。真昼間だけど薄暗い。暦の上では秋なのにまだまだ蒸し暑い。
私は江村君の斜め後ろを歩いてじっと斜め後ろ顔を眺める。いつこちらを向いても額を隠せるように警戒する。
せっかく風美ちゃんが作ってくれたチャンスだ。何かしらの収穫がないと怒られてしまう。何か話題、話題、話題。悪いけど出しに使わせてもらうよ。
「風美ちゃんはどんな感じ?」
風美ちゃんはあまりそこら辺を話してくれない。やりたくないけど、投げ出すのはもっと嫌、なのだそうだけど。
「うーん。あまり上手くいってはいないね」
意外と辛辣だ。
「そ、そうなの? 気にしてる風ではなかったけど」
「棒読みは、まあ人の事言えないけど台本を覚えきれてなかったね。でも真面目にやってるのは間違いない。立候補した人達よりよほど真面目だな。だからあまり悪い事は言いたくないけど、やっぱりどちらかの仕事に集中したほうが良いんじゃないかな、と思うんだけど」
江村君が振り向いた。既に私は俯き、スカートの裾を整えているふりをしている。
「そうなんだ。衣装は衣装で手一杯なんだよね」
ん? 手一杯って事もないか。このまま二人でこのペースなら余裕で間に合う。
「え? そうなの? 芝居練習に来てた時余裕があるって聞いたけど」
「うん。つまり風美ちゃんが抜けると、って事。私は教わりながら何とかって感じ」
「ああ、なるほど。そうだよな。主役なのに衣装係に立候補したって話だし得意なんだろうね。それに他の係は駄弁りながらやってんのに、衣装係の二人は集中できるように空き教室使って二人っきりでやってるって聞いて、すごいなって思ってたんだ」
「いやいやそんな」
本当にそんな理由ではないんだけど黙ってる事にする。これは嘘ではない。
「だけどこっちはこっちで主役だからやめる訳にはいかないし、秋穂さんの相棒には二束のわらじを頑張ってもらうしかないのかな」
声の感じで江村君が前を向いた事に気づくとまた前を向く。時に明後日の方向を見て看板を読むふりをし、時に通りすがりの散歩中のシーズーに目を奪われているふりをする。これって江村君の前を歩けばいいだけじゃない、と気づいたときにはホームセンターに到着していた。
必要なものは全て買い揃えた。買い物リストを何度も見て、抜けがないことを確認する。だけど私たちにはまだ必要なものがあった。
「土砂降りだね」と、私はホームセンターの軒先で真っ黒になったアスファルトに向かって呟く。
「予算のお釣りで傘買ってくるよ」
「いいのかな」
「仕方ないって」
仕方ない。江村君が買ってきた傘が一本だけだった事も仕方ない。予算なのだから仕方ない。そして江村君と同じ傘に入りたくないだなんて口が裂けても言えるわけがない。
それからは苦難の連続だった。江村君は紳士的に私が雨に降られないように気遣ってくれる。私だってできる事なら江村君に近づきたい。だけど私の真っ赤な額を見せたくない。そして江村君も紳士的な振る舞いとして一方では私に近づき過ぎないように気を使ってくれているようだ。そういうわけで私たちは傘のカバーできる範囲内を寄ったり離れたりしながら学校に戻る事になった。しかも荷物の大半を持ってくれた。
学校に着くと頭を下げる。下げてた頭をさらに下げる。
「ごめんね。江村君。なんかほとんど役に立ってなかったよね。江村君ばっかり濡れちゃって」
「いやいや十分助かったよ。雨は仕方ないしね。気にしないで顔を上げてよ」
そう言われたからつい顔をあげてしまった。前髪の濡れている江村君を見て、まさに水も滴る良い男だな、なんて馬鹿な事を考えて、それで。
「泣いてるの?」
「泣いちゃいないよ。泣いちゃいないけど泣きたい気分だよ」
私は空き教室の机に突っ伏して、風美ちゃんに指摘される前に額に何かが触れないように気をつけつつ、怨嗟の声をあげるのだった。
「それでせっかく上手くいっていたお買い物デートの締めで額のニキビを見られたくらいで逃げてきたと」
「ニキビを見られて笑われて逃げてきたんだよおおお」
「江村君はいつも笑顔だって言ってたじゃない」
「違うの! いつもとは違う笑みだったの!」
「って言われてもね。見てない私には分からないわね。多分実際に見たとしても違いが分からないでしょうけど」
「どうしよう」
「何がしたいかによるわ」
「何がしたいんだろう」
「秋穂さんの現状次第ね」
「現状?」
「こう言い換えれば良いわ。『どうする』はどのルートを通ればいいのか、という事。『何がしたい』は目的地がどこかという事。どちらも分からないならまずは現在地を把握する事ね」
私は改めて顔を上げる。頬杖をついた風美ちゃんが私をじっと見ている。
「現在地を把握する」
私はさっきから鸚鵡返しばかりしている。
「いい? 自分を肯定するのよ。全面的に! 徹底的に! だである調で断言するの。自分が何者であるかを」
「私はにきび面である……」
冷笑気味に呟いた。
「そうだけど違うわ秋穂さん! 開き直れって言ってるんじゃない。あなたはにきびを治そうとしているのだ。そもそもあなたのニキビを誰が気にするというのか甚だ疑問ではあるけれど、あなた自身が気にしてしまう気持ちは理解できるわ。仮に笑われるとして。一年笑われるか。四年笑われるか選びなさい」
「何で四年?」
「成人すれば皆それくらいの気遣いができるようになるでしょうよ」
「つまり心の中で笑われてるんだ……」
「仮の話の中の仮の話よ」
風美ちゃんは私の額に手を伸ばし、少し垂れていた前髪の何本かを正した。
「相も変わらず空き教室を使うのね」
体育館から戻ってきた風美ちゃんは開口一番文句を言うのだった。
「まだちょっと、その」
「いいわよ別に。江村君には面と向かえないんでしょ。他の子の前では顔を上げてたから、もう吹っ切れたのかと思ったけど」
「江村君は別だよ」
「秋穂さんにとってはね。笑われたーって泣いてたくせに」
「泣いてないし!」
「まあ、いいわ。さあ早速取り掛かろうかな」
風美ちゃんが腕まくりするジェスチャーをする。
「もう終わったよ」
「え?」
「お芝居の練習に行ってる間に残り全部作っちゃった。教わったとおりに出来てるはず」
「ちょっと、別に感謝しないわよ。私はやりたくてやってたのに仕事をなくしちゃうなんて」
怒るだろうなとは思っていたけど私も心を鬼にしなくてはならない。
「風美ちゃん!」
私は立ち上がり風美ちゃんの前に立ちはだかる。
「な、何よ」
「おお! 可愛そうなシンデレラ。私が舞踏会に連れて行ってあげましょう」
「え? え?」
風美ちゃんの困惑する顔というのは中々見られない。
「次のセリフ! 『でもドレスがないわ』でしょ?」
「何よ。何のつもり?」
「江村君に聞いたんだよ。お芝居上手くいってないんでしょ」
「あのお喋り!」
「衣装もそうだけど、ニキビのケアの事とか色々調べてくれたりして練習の時間奪っちゃったでしょ?」
「調べるくらい大した手間じゃないわ。前髪失った代償に比べればお釣りがくるわ」
風美ちゃんはくるくると巻いた台本を握り締めている。思いのほか気にしていたようだ。
「その事はもういいよ。それでどうするの? 何となくなお芝居を披露するの?」
「それは嫌」
風美ちゃんははっきりきっぱり言い切った。
「そう言うと思った。とにかくこれからは私も練習付き合うから。文化祭まで頑張ろう」
風美ちゃんの笑顔はとても素敵だった。まあ江村君の次くらいにだけど。
ようやく日々が涼しくなってきた。文化祭を前日に控え、私たちのクラスは体育館に集まった。本番同様のリハーサルだ。
これまでの練習のお陰で風美ちゃんの演技はまずまずといった所だと思う。早着替えはとても上手くいった。それにセリフを忘れたり噛んだりはしなかった。
「シンデレラ役ちょっと下手じゃない?」と言い出したのは文化祭実行委員の羽嶋さんだった。
クラス全体がざわめきだす。ほとんどの声が不審を意味していた。
『そうだけど、よくそんな事本人に言えるな』『そうだけど、前日に言い出してもどうにもならないだろう』『そうだけど、仕方ないだろう』
そういう雰囲気がクラスメイトから醸し出されている。
「羽嶋さんにそんな事を言う権利があるの?」
私はパイプ椅子から立ち上がり、強めの語気でそう言わざるを得なかった。羽嶋さんは間髪入れずに言い返す。
「こういう事を言う責任があるのよ。文化祭実行委員なんだから。より良くする提案をするのは当然でしょう?」
「提案? 文句言っただけじゃない」
「提案するのはこれからよ。秋穂さん。あなたがシンデレラをしてはいかが? そんな話何日か前にしてたでしょ?」
さっき以上にクラスメイトがざわめきたった。
『そんな事できる訳ないだろう』
それだけだ。
「私は演技なんて出来ないよ」
「嘘ね。私見たのよ。風美さんの練習に付き合っている所。シンデレラ以外の全ての役を見事にこなしてたわ。当然シンデレラも出来るはず。少なくとも台本を全部覚えてるでしょう? 違う?」
『どうなの? そうなの?』
「出来るよ。やろうと思えば」
クラスメイトたちのざわめきは控え目な歓喜の声に変わった。
「じゃあお願いしても良い?」
羽嶋さんは手を合わせて上目遣いでお願いしてきた。
「でもそんなのおかしい!」
クラス中の視線が集まる。額の所に手を持っていくのを何とか堪える。
「風美さんはどう? 秋穂さんに代わってもらってもいい?」
今度はステージ上の風美ちゃんに視線が集まる。
「私は、別に構わないけど」
「嘘!」
「本人がそう言ってるのよ秋穂さん」
「おかしいよ! 人に押し付けといて出来に文句を言うなんて。自分がやればよかったじゃない」
「最終的には役を務めることを了承したでしょう? 強制したわけではないわ。今だってそう。別に強制するわけじゃない」
「風美ちゃんはやりたくないの? 文化祭なんだからやりたい人がやりたい事をやるべきでしょ! トニー賞を狙うわけじゃないんだから」
「私は……」
「風美ちゃんが本当にやりたくないならその時は私がやるよ。仕方ないから嫌々完璧に演技してやる」
「私、別に劇に出たかったわけじゃないもの」
風美ちゃんはそう言って微笑み、ステージから降りた。あまり素敵ではない微笑だった。
風美ちゃんは演技も嘘も下手だ。
私たちの空き教室で一人、風美ちゃんは机に伏せてしくしくと泣いていた。沈みかけた赤い陽光が教室を照らしている。空調が利いていてとても涼しい。
「散々偉そうな事を言っていたのにね」
机に伏せたまま風美ちゃんはそう言った。篭った声は涙がかっている。
「泣いてるの?」
「言わなくても分かるでしょう?」
「泣き顔見せてよ」
「やだ」
「またニキビ潰しちゃった」
風美ちゃんが跳ね起きるように顔を上げる。
「あなた、なんて事を」
「嘘だよ」
泣き顔の風美ちゃんを笑顔で迎える。
「嘘つきは私の十二大短所の一つなの」
「何それ」
風美ちゃんも笑う。
「私は諦めてないからね。風美ちゃんがシンデレラをやる事」
「もう無理よ。やめると言ったのだから今更誰も納得しないわ」
「私はまさに今納得してないの! そりゃあ大して上手くはなかったけど」
「言うわね」
「でも演劇部員以外は五十歩百歩だよ。特別風美ちゃんだけ降ろされるなんておかしい。やっかみだか何だか知らないけど」
「やっかみ?」
「まあ今更理由は何だっていいよ。とにかく風美ちゃん。シンデレラやるよ」
「決定事項なの?」
「風美ちゃんが決定するんだよ。全面的に! 徹底的に!」
風美ちゃんが立ち上がる。私を見下ろし、両手で机を叩く。
「私が主役だ!」
二人して大いに笑った。風美ちゃんと二人でこんなに笑うのは初めてだ。
「作戦を考えてあるんだ。衣装係で良かったよ。前日は放課後も夜遅くまで残っていいらしいしね」
「ふむふむ。聞かせてくれたまえ」
薄暗い舞台裏で出演者の衣装チェックをし、着替えの手伝いをする。私と風美ちゃんで入念に。魔法をかけられるタイミングでみすぼらしい服を脱ぎ捨てる早着替えの動線もきっちりチェックした。何も問題はない。
さっきからずっと羽嶋さんが傍にいる。どうやら監視しているつもりでいるらしい。
「何か御用? 羽嶋さん」
私はドレスとみすぼらしい服の二着をちゃんと着ていることを確認していた。
「別に。もしかしたら関係ない人が間違ってきたりしないかと思ってね」
そう言って風美ちゃんの方を見る。風美ちゃんは早着替えする地点の書割の裏に待機している。
「そんな心配ないよ」
「風美さんが衣装の回収係?」
「そうだよ。あそこで私が上に着ている服を渡すの」
「ふうん」
「何か問題あるの?」
「いえ別に」
「おーい。羽嶋。文化祭実行委員呼ばれてるぞ」
そう言ってやって来たのは江村君だった。羽嶋さんは入れ替わりに奥に引っ込んだ。
私は慌てて俯くか後ろを向くか直接手で覆うか迷っているうちに、まじまじと江村君にニキビを見られてしまった。江村君が吹き出す。
「何も笑わなくても……」
「いやいやごめんごめん。やっぱりニキビ気にしてたんだな。困っちゃうよな」
そう言って江村君は額にかかる前髪を掻き分けた。そこにも私と同じような赤いニキビが姿を見せた。
「だ、駄目だよ。赤ニキビは刺激与えちゃ駄目なの。ほらこっち来て」
「え、そうなの?」
江村君の前髪を掻き揚げたり流したりしてニキビを露にさせる。
「そうだよ。私も受け売りだけどね」
視界の端で風美ちゃんがにやにやしているのが手に取るように分かった。
「ああ、だから突然前髪切ったんだ?」
違うけど。
「うん、そう。気分転換も兼ねてね」
開演時間が迫る。数人を書割の裏に残して私以外が舞台袖に引っ込む。
開演時間になり、緞帳が上がる。ナレーションと共にライトが照らされ、私は掃除をしている演技をする。意地悪な継母とその娘達に苛め抜かれる私。舞踏会の夜に一人家に残り、星を眺めて涙する。突如現れた魔法使いはカボチャを馬車にネズミを従者に変身させる。そしてみすぼらしいシンデレラの服を魔法でドレスに替えるシーンがやってきた。
紙吹雪や、カラフルなライトや、魔法そのものを演じる人々の演出と時間稼ぎに紛れて私は書割の裏に隠れる。そこにはドレスを着た風美ちゃんがいた。とっても綺麗だ。用意していたドレスより豪華なものを昨日の内に作った。重ね着しなくて済んだ分とても豪奢な出来だ。
下手袖で羽嶋さんが口ぱくで喚いている。私たちの『より良くする提案』を受け入れてはくれないようだ。
「じゃあまた魔法が解ける時にね」と、風美ちゃんは言った。
私は横に首を振る。
「それだと私が締めになるから、もう最後まで風美ちゃんが演じ切って」
「でも」
「いいの。風美ちゃんならトニー賞も夢じゃないよ」
「もちろんよ」
「ナルシストめ」
二人して声を出さないように笑う。
「ありがとう」
「こっちのセリフだよ」
ハイタッチすると風美ちゃんは書割の裏から出て行った。私は両手を合わせて握り締めて、目を瞑る。確かに観客のどよめきと歓声が聞こえた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
ご意見ご感想ご質問お待ちしております。
色々と脚本術を試行中。