張り込みと疲れと甘口カレー
あの事件以来僕は、毎日篠原のアパートに来ていた。〈元彼〉の存在を確認する為、ある時は車の中から、ある時は木々に身を隠しながら〈元彼〉が現れるのを待った。が、待てども待てどもそれらしい人影は現れず、焦りだけが募っていった。
そしてドラマのように「張り込みご苦労様です」と、あんパンと牛乳を持って来てくれる若い刑事もいないさみしい張り込みは、夜の20時を過ぎたころ、買い物袋をぶら下げた篠原の帰宅を持って今日も空振りのまま終わりを迎えた。現実はドラマのように甘くはないと思い知らされる。山田氏がちゃんと一緒に来てくれている事が唯一の救いか。
落胆の色を隠せないまま車のキーを回し、エンジンをかけるとほぼ同時に携帯が鳴った。篠原からだ。
「今日も張り込み御苦労」
「なんだ、知ってたのか。だけどごめん、まだ見つけられないんだ。今日は?例の無言電話かかってきたのか?」
「うん。やっぱり帰ってきてすぐかかってきたよ」
「そうか・・・」
正直辟易していた。今もどこかでコチラを見て嘲笑う〈元彼〉を想像して、自分のしていることがまるで意味のないように思えて、心が折れそうになる。
「でもね―――」少しの沈黙の後、篠原が小さくつぶやいた
「三浦くんがいるのわかってたから、無言電話も恐くなかったよ。今日みたいに遠くに車が見える日はもちろん、一見、いないような日でも、近くにいることわかってたから。前みたいに帰ってくるの、怖くなくなったんだ。・・・ありがと」
篠原の言葉は腐りかけていた僕の心を洗い流してくれた。もう一度自分を奮い立たせる。
僕がくじけるわけにはいかない。今も本当に闘っているのは篠原なのだ。
「篠原。待ってろよ、僕が絶対何とかしてやるから」
「うん。あ、三浦くんご飯食べた?」
最近は仕事が終わるとこっちに直行していたので夕食はいつも22時過ぎだった。あまり夜遅くに食事の支度をする気も起きないのでほとんどが牛丼かコンビニの弁当だ。
「いや、まだだけど」
「じゃあさ、一緒に食べようよ。わたしが作ってあげる。こっちおいで」
申し出はありがたかったが、どこで〈元彼〉が見ているのかもわからない状況で何度も家に出入りするのは危険に思えた。あのドアに書かれていた文字を思い出す。
『浮気は許さない、トモはオレのものだ』
〈元彼〉はまだ篠原と別れたとは思っていない。その篠原の家に男が出入りしているということは〈元彼〉にとっては浮気に値するのだろう。
その瞬間ある考えが閃いた。〈元彼〉が今も付き合っているつもりなら、それを逆に利用してやれば、もしかするとこちらからおびき寄せることも出来るかもしれない。
「ちょっと待っててね、もうすぐできるから」
6畳の部屋にはカレーの匂いたちこめていた。キッチンではトントンとリズミカルな包丁の音が聞こえる、料理をする篠原を見ながら不謹慎ながら僕は少し幸せな気分になっていた。自分の好物を篠原に作ってもらう。料理が出来上がるまでの待ち時間すら、何にも代えがたい宝物のように思えた。
篠原の部屋はワンルーム特有の圧迫感にも似た狭さをあまり感じなかった。入口の左側にドアがあり、そこにバス、トイレがまとまっているせいもあったが、壁から天井まで全て白で統一されていて、不思議と奥行きを感じさせる。壁に取り付けられた棚には小さな小物や、ぬいぐるみなどがきれいに並べられていて、女の子らしさを感じさせた。そう言えばと、昔から何かとカワイイ物を集めていたことを思い出す。
「お待たせ~。さあ食べよ」
テーブルには大盛りに盛りつけられたカレーが一枚とサラダが並べられる。
「あれ?篠原は食べないの?」せっかく作ったカレーを僕の分しかよそわず、自分には何も用意していない。あるのはサラダ用の小皿だけだった。
「夜はあんまり食べないようにしてるの。わたし結構太りやすくて」そう言ってサラダを小皿に取り分ける。どうせ食べないのなら鍋いっぱいにカレーを作る必要ないのに。
「ほら、わたしのことは気にしないで、食べて」
「じゃあ、遠慮なく。いただきます」
ひとくち口に入れるとカレー特有のスパイスの香りが口内に広がる。しかし辛くはない。
炊きたてのご飯の甘みとほんの少しの辛みが絶妙に交差し、カレーの味を何倍にも高めている。まさに僕好みの味だ。
「うん、うまい!」
一旦動き始めた手は次から次へとカレーを口に運んで行く。一口頬張るごとに空腹を急速に満たしていった。
「ホント?良かった~。三浦くんむかし研究会の新人歓迎会の時『カレーは甘口だ』って言ってたでしょ。だから甘口のカレー買ってきたんだ」
それを聞いて篠原の帰宅時持っていた買い物袋を思い出した。あれは僕にご馳走してくれるために買ってきてくれたものだったのか。しかも大昔に一回言っただけのことを覚えていたことに驚いた。
食事が終わり、空いたお皿を片づける。ワンルームのお世辞にも広いとはいえないキッチンは二人で食器を片づけるには少し窮屈だったが、何もかも篠原にまかせっきりにするのは気が引けたので、僕も手伝うことにした。
篠原が食器を洗い、僕が水気を拭いて棚に戻す。僕は大学時代、会長の気まぐれで一度だけ行った合宿『必殺鑑賞人』(合宿とは名ばかりで、会長が愛してやまない必殺仕事人を延々と見せられただけだったけど)で篠原と二人で料理をしたときのことを思い出していた。
あの時、僕が篠原を好きだということに気付いた女子会員に半ば無理やり二人きりにされたけど、何も言えず自分の弱さを嘆いた。今もこうして二人きりになると、自分があの頃から何も成長していないことを実感する。
食器を洗う篠原の後姿を僕はじっと眺めた。篠原は僕のことをどう思っているのだろう。頼りになる先輩くらいにしか思っていないのかもしれないが僕はそれでもよかった。大学を卒業した時点で連絡すら取り合わなくなってしまった友達もいるなか、まだ篠原との関係は途切れていない。それだけで十分だと自分を納得させる。
コンロにはまだ半分以上残ったカレーがほんの少しの湯気を出していた。