ハケとピザと時代劇
こうなってしまった以上警察に連絡しないわけにもいかず、篠原の同意のもと、警察に来てもらったのだが、来てくれた警察官は悪質ないたずらとしか見てはくれなかった。篠原は実際にうけたストーカー被害のことも勇気を出して切り出したのだが、被害届を出すなら一度署のほうに来てくださいと国家公務員らしく事務的な処理で済まされてしまった。
それからしばらくは3人ともどうしたらいいのかわからないまま、時間だけが過ぎて行った。2人も仕事場へ連絡して休みをもらっていたが、ひどい現状を前に何もできずにいる。僕は気を紛らわせるためにあえて明るい声を出して「よし」と自分を奮い立たせた。
「よし、塗りなおしちゃおう」
「え?」2人が同時に声を上げる。
「だってこのままじゃ気分悪いし、それに、2度塗りしちゃえばこんなのわからなくなるよ」そう言ってわざと大げさに手を広げてみせる。篠原も山田氏もキョトンとしていたが、僕の突飛な提案に「それもいいね」と笑いながら篠原が同意した。
2度塗りの作業は始まってみると案外難しく、僕は手やら顔やらにペンキをつけながら慣れないハケに四苦八苦していた。2人はと言うとさすがデザイナーの仕事をしているだけあってハケの使い方もうまくどこも汚れていない。篠原は僕を指差し「へたくそ~」とからかい山田氏は「でも目はいいですよね」と僕が買ってきたペンキの色をほめてくれた。
途中騒ぎすぎたためか、大家さんがやってきて僕たちはてっきり怒られるものだと思ったけど、大家さんは実にいい人で、こんなことをされた篠原を気遣い、僕たちの作業を「うまいものですね」と感心してくれた。
作業が終わるころには篠原も元気を取り戻し、思い出したかのように「お腹空いたね」と、こぼした。そう言えば色々あったせいで忘れていたが、今日は朝から何も食べていない。時刻は正午をとっくに過ぎていた。
「ピザでも取ろうよ。どこかに行くにしても、僕はこの有様だし」僕は両手を広げてあちこちに着いたペンキの汚れを見せる。
「それは三浦くんが下手なせいだよね」そう言って篠原は意地悪に笑った。
一生懸命やった結果がこれなのだから笑われるのは心外だったが、篠原に笑顔が戻っていることがせめてもの救いだった。
知美
時計の針がカチカチと音を立てて進んでいく。真夜中の1時を過ぎていた。
布団に入ったのが23時前だからもう2時間も目を閉じては開けるを繰り返している。
眠れなかった。目を閉じると朝の光景がまぶたに浮かび、言い知れない恐怖が襲ってくる。今でも信じられなかった。まさかあそこまでするとは思ってもいなかったから。
この状況になっても、まだあいつのことを少しだけ信じていたんだと思った。付き合っていた時は確かにあった気持ちを終わってもまだ信じたかったんだと。
赤と黒でグチャグチャに塗りつぶされたドアが脳裏から離れない。甘かった。あいつはもう、わたしのことを憎んでいるに違いない。
窓の外で音がしてあわてて布団にもぐりこむ。こみ上げてくる震えを止めることができない。この暗闇が恐怖の正体だと言わんばかりに、布団の中は目を開けても、閉じても真っ暗だった。
わたしはそれほど悪いことをしたのだろうか?確かに別れを切り出したのはわたしのほうだけど、これほどまで憎まれる事なのか?
理由を教えてくれと詰め寄るあいつに理由を言わなかったからなのか。あの時正直に話していればこうはならなかったのだろうか。
恐る恐る顔を出すと、風が木の葉を擦り合わせる音が緩やかに窓を揺らしていた。
枕元に置いた携帯を取り、アドレスを開く。もう何回目だろう。三浦くんに連絡したい気持ちを必死に抑える。きっと連絡すれば三浦くんは来てくれる。でもきっと面倒に思われてしまう。そこまで迷惑をかけるわけにはいかない。
携帯を枕の下に放り込んで、顔をうずめる。眠ってしまえと半ばやけくそ気味に言い聞かせて、ぎゅっと目を閉じた。
「『三匹が斬る』は殿様が主役っぽく描かれてるけど、実は一番活躍してるのは千石なんだ」
三浦先輩が持ってきた資料を見せながら説明する。わたしたちは研究会の活動で、各自時代劇についてのレポートを作っていた。わたしはというと、もともと友達に誘われて入っただけで時代劇に詳しいわけじゃなし、何から始めればいいのかいいのか分からず、三浦先輩に相談していた。
「時代劇の見せ場は何と言っても悪人と闘うシーンだよね。物語のクライマックスに、必ずある、殺陣のシーンだ。一時間の番組だとしたら、10分あるかないかくらいだけど、悪をなぎ倒す爽快さはやっぱり時代劇の醍醐味だよ」
三浦先輩はホントに楽しそうに時代劇の話をする。わたしは三浦先輩の話が好きだった。
「そこで、統計をとってみたんだ。クライマックスのシーンで誰が一番悪人を斬っているのか。そしたら、意外なことに千石が一番斬ってるんだ。最後に一番の悪人を殿様が斬っちゃうから、かすんで見えるけど、実は千石が一番活躍してるんだよ」
「じゃあ、一番の主役は千石って言う人なんですか?」
わたしが質問すると三浦先輩は少し残念そうに
「いや、それでもやっぱり主役は殿様なんだ」と答えた。
「物語は殿様を中心に進んでいくし、まず困っている人を見つけるのも殿様が一番多い。でもね」そこで三浦先輩は子供のように目を輝かせた。
「僕が思うに、現代劇と時代劇の違う所って、悪が栄えないところだと思うんだ。悪人は必ず懲らしめられる。『天網恢恢疎にして漏らさず』ってね。だから一番悪人を多く斬る人物が僕は一番好きだな」
「てんもうかいかい?・・・なんですかそれ」
「ことわざだよ。悪事を天は見逃さない。悪人は必ず罰を受けるっていう意味だよ。勧善懲悪。まさに時代劇そのものだろ?あ、篠原はあんまり時代劇知らないんだっけ」
三浦先輩は持ってきた資料を眺めながら「じゃあ」と語気を強めて「篠原が知ってる時代劇を教えて」と屈託のない笑顔を見せた。わたしが知っている唯一と言っていい時代劇は『水戸黄門』だったので、そう答える。すると三浦先輩は吹き出し気味に「『水戸黄門』こそ、勧善懲悪の元祖じゃないか」と言った。
「よし、じゃあ一緒に『水戸黄門』を見てみよう。それで何を調べたいかを考えよう」
三浦先輩はそう言って、一瞬不思議そうに周りを見渡すと「ところで」と指を上に向けた。「篠原、目覚ましなってるぞ」
「え?」
カーテンの隙間から朝日が差し込み、ちょうどわたしの顔を照らす。頭の上で目覚ましがけたたましく鳴っていた。
いつものように手を伸ばして目覚ましを止めると、這うように布団から降りる。
頭が重い。いつの間にか眠っていたようだが、明らかに寝不足だった。薄い壁が隣の部屋の音を小さく伝えてくれた。いつもと変わらない朝がわたしを安心させた。
ふと、さっきまで見ていた夢を思い出し、なぜ今あの時の夢を見たのか不思議に思い、噴き出しそうになる。そう言えば三浦くんはあの頃から少しも変わっていない。あの優しさは今も昔もわたしの支えなのだと思った。