表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/24

落書きと狂気とスプレー




「どうしたんですか?何かありました?」

 突然僕の携帯が鳴ったのはあの話しあいから5日後の朝だった。目覚ましが鳴るよりも早く僕は山田氏からの着信で目を覚ました。


「こんな朝早くにすみません。今からアパートに来られますか?ちょっと見てほしいものがあるんです」

電話の声から切羽詰まってはいないものの、ただならない気配を感じた僕は急いで支度をして車を飛ばした。7時前の道路は平日とはいえ車の数もそれほど多くは無く、朝の通勤渋滞に引っかかる前だったのでアパートには思ったよりも早く着くことが出来た。


 玄関を入って階段を駆け上がると篠原の部屋の前に山田氏の姿が見えた。念のため廊下は足音を経てないように進む。

「お待たせしました、どうしたんですか?」僕の問いかけに山田氏は言葉ではなく、ドアの方へ目線を向けた。視線の先に異様な光景が広がっている。


 鮮やかなグリーンで塗られた木製のドアにひときわ異彩を放ち、毒々しいほどのコントラストを奏でる赤いペンキ。木枠を額に見立てドアを画面とし、ソレはある種の絵画を思わせた。


 僕は自分の目に飛び込んできたものを頭で理解するのに時間がかかった。字だ。ドアいっぱいに赤いペンキで文字が書かれている。


『ウワキハユルサナイトモハオレノモノダ』

浮気は許さない、トモはオレのものだ。


うかつだった。〈元彼〉がいつも篠原を付け回しているなら、外で篠原と会うということは〈元彼〉に見られているということだったのだ。〈元彼〉は僕たちのどちらかが篠原と付き合っていると勘違いしている。


「これは、篠原は・・・?」

「おそらくまだ見てはいないと思います。うちのアパートはポストが玄関に集まっていて

俺は朝一で新聞を取りに行くのが日課なんです。俺が見つけたのが6時過ぎだから、たぶん篠原さんはまだ寝てるでしょう」

それを聞いて少し安心した。もし篠原がこれを見つけていたらきっと恐怖に耐えられなくなってしまうだろう。


「これを見て正直俺も恐ろしくなりましたよ・・・。彼はとっくに正気を失ってるとしか思えない」

「ストーカー行為をしている時点でもう正気じゃないですよ。それよりも、これからは甘い認識を改めないと。このままじゃいつ篠原に危害が及ぶかわからない」

僕たちはドアを見つめたまま動けなかった。10月も半ばを過ぎ、朝の気温はぐっと下がったにも関わらず、汗が流れる。冷や汗だ。赤いペンキはそのまま〈元彼〉の狂気を表しているようで恐ろしかった。


「とにかく、これを篠原に見せるわけにはいかないですね。何とかしないと。山田さんは篠原が部屋から出ないようにしていただけますか?」

「ええ、それはいいですけど、三浦さんは?」

「僕はドンキでスプレー買ってきます。文字だけでも隠さないと」


 僕はその場を山田氏に任せて車へと急いだ。アパートを出るとさっきまではまばらだった人影が徐々に増えている。時計を見ると針は7時10分を指していた。

「今日は仕事どころじゃないな・・・」僕は車に乗り込むと携帯を取り出した。入社して今まで有給なんて数えるほどした使ったことは無かったけど、こういう時にこそ使うべきだ。「やると決めた時がやるべき時だ」昔空手の先生が言っていた言葉を思い出す。

今がその時ですよね、先生。



 赤と黒のスプレー缶を購入し、アパートへ戻ると山田氏の姿が見当たらなかった。篠原はまだ部屋にいるのだろうかと不安になったが、ドアの前に来ると、中から声が聞こえてきた。どうやら電話で喋っているような感じだ。きっと山田氏が電話で足止めをしてくれているのだろう。僕は急いでスプレーを取り出し、一気にドアに吹き付けた。


瞬間、強いシンナーのにおいが鼻をつく。こんなところを誰かに見られたら僕が誤解されてしまいそうだ。まだ生乾きのペンキの臭いとスプレーの臭いが混ざって廊下は異様な臭いが充満した。一心不乱にスプレーを上下左右に振り回し、一通り文字を隠し終わると、僕は急いで廊下の窓を全て開け放った。元々が屋敷だったため廊下にはいつくもの窓が取り付けられている。全ての作業を終えると篠原の隣の部屋から山田氏が顔を出した。


「終わりましたか?」電話を手で隠し小声で僕に尋ねる。僕がうなずくと「じゃあ、もう少し時間を稼ぎますから、しばらくしてから今来たふりをして篠原さんの部屋に行ってあげてください」と言ってまた部屋に戻った。


 シンナーの臭いを吸いすぎたせいか、僕は少し頭がクラクラしていた。なるべく新鮮な空気をすいたくて窓の外に顔を出す。アパートの周りに植えられた背の低い木々が視界に入り、心を落ち着けてくれた。アパートの脇を通る道には小学生が列をなして歩いている。ちょうど登校する時間なのだろう。道を挟んで向かいには4、5階建だろうか、古びたマンションが建っていた。アパートの周りの木々に遮られて下からは分からなかったが、ここからなら向こうのマンションのベランダが丸見えだった。空き部屋だろうか、カーテンの掛かっていない部屋が目立つ。まぁ、あれほどボロボロのマンションには誰も住みたがらないだろう。


 そろそろ廊下に充満していたシンナーの臭いも和らいできたところで僕はドアの方へ向き直り、チャイムを押した。

「篠原、いるのか?」部屋にいることは分かっているけど、今来たことを装ってドア越しに声をかけた。しばらくするとガチャリと鍵をはずす音がしてドアが開く。

「三浦くん?どうしたの朝から・・・う、何この臭い―――」

篠原は顔を出した瞬間に、廊下に残るシンナーの臭いに気付き、口に手を当てる。

「篠原が心配で今日は有給を取って様子を見に来たんだけど・・・ちょっと大変なことになってて、・・・これ、しってるか?」


僕はしれっと嘘をついてドアを見せた。篠原は驚きのあまり声も出ないと言った感じで、ドアを見つめたまま口に手を当て動けないでいた。目はドアに向けられたまま、膝はガクガク震え、表情から血の気が引いていくのがまざまざとわかった。この様子ではさっきまで書かれていた文字を見たら卒倒する勢いだ。ドアをここまでひどい有様にしたことを心で詫びながら、篠原に見つかる前に文字を消せたことにホッとした。すると隣のドアが開き白々しく山田氏が顔を出す。

「あ、三浦さんおはよ、――なんですか?この臭い」山田氏も嘘がうまい。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ