引越と春と長い夢
知美
わたしは引っ越しの作業を終えて、何もなくなった部屋を見渡した。今までベッドが置いてあった窓側の壁。自分で作った棚にニキがところ狭しと乗っていた東側の壁。初めて三浦くんにカレーを作ってあげたキッチン。そのカレーを一緒に食べたテーブルが置いてあった場所。その全てが今となっては何もない。改めてみてみると、意外と広かったんだなと実感する。
コンコンとドアをたたく音がして振り向くと、開け放したドアの前に山田先輩が立っていた。
「終わったんだ」
「終わっちゃいました」
入ってもいい?と声をかけて山田先輩が部屋に入ってくる。
「何もないとこんなに広いんだね」辺りを見渡しながら先輩は感心したように言った。
11月のあの事件の後、警察に捕まった飯塚が出てくる前に引っ越したほうがいいと助言してくれたのは先輩だった。「まぁ、そう簡単に出られないとは思うけど」と笑いながら、篠原さんがいなくなったらさみしいだろうなとも言った。
「さみしくなっちゃいますね。もう先輩と一緒に出勤できないんだ」言いながらわたしは朝ドアを出ると必ずあった先輩の笑顔を思い出した。
「引っ越し先は、どこだっけ?」
「柴又のほうです」
「そっか、そんなに遠くはないね」
窓から差し込む春の日差しが床に落ちて四角くスポットを作る。わたしはその淵をなぞるように歩きながら、去年のあの出来事を思い出していた。
しばらく二人とも黙っていた。きっと先輩もあの時の事を考えていたのかもしれない。その証拠に、先輩はわたしの顔を見ないようにして「もう、落ち着いたの?」と訊いた。
「・・・はい。さすがに、落ち着きました」
あの事件の後、三浦くんがあんなことになって、わたしは廃人同然だった。三浦くんがこうなったのは自分のせいだと、自分を責めて、ふさぎ込み、自暴自棄になって、一時は自殺まで本気で考えた。それでも時がたつにつれて、傷がゆっくりふさがるように、わたしも落ち着きを取り戻していった。それは三浦くんの先輩の吉田さんが言った一言がきっかけだった。
「三浦は本気であんたのこと心配して、本気であんたのことを助けようとしてた」
やけになり、部屋に閉じこもっていたわたしに、吉田さんは激怒していた。
「あいつは奥手だから、きっとあんたには何も言ってないんだろうけど、どうしてあんなに必死にあんたを助けようとしてたかわかる?必死にストーカーの正体を探して、あんたに危害が及ばないように単身で乗り込んで、あんたが捕まった時も、自分が不法侵入っていう罪を犯すこともお構いなしに助けに行って」
そこまで言って吉田さんは言葉を止めた。そして「そんで、あんなことになって」と口を開いた時には涙声になっていた。
「それでも、」吉田さんは必死に涙をこらえて、語調を強くした。「あいつはやり遂げた。あんたを守るっていう大業を。そのあいつが、今のあんたの姿をのぞむと思う?あたしから言うのもなんだけど、あいつはあんたの元気な姿が大好きだったはずだよ」
ふさぎこんでいたわたしにその時確かに響いた「大好き」という言葉。それはきっとわたしが三浦くんに抱いていた想いと同じだったから、三浦くんに伝えなきゃと強く思った。
「いつまでもふさぎこんでないで、外に出な。あんた一回も三浦の見舞いに来てないだろ」
事件から3日後、三浦くんは依然として意識が戻っていなかった。あの日、救急車で運ばれた病院で十時間にも及ぶ大手術の末、一命は取り留めたものの、わたしたちの前にもう一度顔を見せた三浦くんは以前の優しい笑顔を向けてはくれなかった。
「三浦くん。ごめんね」
ベッドの上で呼吸器をつけ、目を閉じたままの三浦くんにわたしは小さく謝った。それから三浦くんの髪に触れながら、こっちは大きな決意を込めて「わたし、三浦くんが好きなんだ」と言った。
聞こえているかどうかは関係なかった。それでも伝えること、届くまで何度でも伝えること。今のわたしに出来るのはそれしかないと思った。
「こないだ、三浦くんの先輩の吉田さんに怒られちゃった。聞いたよ?三浦くんもわたしが好きなんだって?言ってくれればよかったのに」
手に触れる三浦くんの髪は柔らかく指の間をすり抜けた。わたしは涙声になるのを必死にこらえて話し続ける。
「ホントはね、大学に入った当初から好きだったんだ。でも三浦くん当時付き合ってた人いたでしょ。だからね、わたしは一緒のサークルで一緒の時間を過ごすだけでいいって決めたんだ。三浦先輩の話。大好きだったから。隣で聴けるだけで満足だったんだよ。三浦くんが卒業して、そのうちにわたしも何人かと付き合ったりして、三浦くんの事忘れようともした。でも結局ダメで、みんなわたしから別れた。ホントに好きなのは変わらずに三浦くんだけだったから」
呼吸器の内側がリズミカルに曇る。三浦くんは生きてると感じた。
「ねぇ、三浦くん。聞こえてる?話がしたいよ。一緒に時代劇が見たいよ。一緒に買い物して、一緒にご飯食べて、一緒に・・・笑いたい」堪えていた涙があふれ出すと同時にわたしは無意識に訴えかけていた。
達也
夢を見ていた。とても長い夢だった気がする。
夢の中で篠原が何度も何度も僕の名前を呼んでいた。
「三浦くん」「三浦くん」
呼ばれる度にこたえようとするが、うまく声が出なくて、そのうちに篠原がいなくなる。僕は暗闇に取り残されて途方に暮れる。そして決まって一人になると声が出る
「篠原、来てくれてありがとな」でもその声は篠原には届かない。
とても悲しい夢だった。
まぶたの裏が眩しくて、僕は目をギュッとつぶった。なんだよ、もう朝かよ。
目を開けると不思議とぼんやりとしていて、周りが良く見えなかった。体も自由に動かないし、何より、初めに飛び込んできたのが知らない天井だったのが驚いた。
口元に違和感を感じて、かぶせてあった何かをはずした。ちょっと手を動かしただけで妙にだるい。ここ、どこだ?
しばらくして、部屋のドアが開く音がして、誰かが近づいてくる気配がした。
「・・・三浦くん?」篠原の声だ。驚いたような声だった。
頭を動かすのもだるくて眼だけで篠原のいる方向を見た。篠原は大きな花瓶に入った花束を持ってじっと僕を見ていた。
そうだ、今度こそ伝えなくちゃ、と思った。何のことなのかは分からなかったが、口を開くと自然と「篠原、来てくれてありがとな」と零れた。ようやく伝えられた。と思うと、なぜかすごく安心した。
篠原はあわてた様子で何かをしていたが、僕はまた深い眠りに落ちて行った。
「ようやく目が覚めたか。この大寝坊者が」
見舞いに来た吉田さんが見舞いの必需品の果物詰め合わせを突き出しながらぶっきらぼうに言った。
篠原から僕が一週間も意識不明だったと聞いて驚いた。その瞬間思ったのは、一週間も空手の練習をしてない。だった。
「見せてみろよ、傷」
そう言われて、僕は素直に傷を見せる。自分でも初めて見たときはここを刺されて良く生きてたな、と思った。傷は左胸の、鎖骨の5センチくらい下にあった。医者から聞いた話だと、あと2センチ右にずれていたら心臓に届いていたらしい。左の肺の機能は今までよりも落ちるらしいが、普段の生活に支障は無いと言っていた。
「つくづく、運のいい奴め」と吉田さんは笑った。
3月、僕は見慣れたアパートの前に車を停めて、早春の風を楽しんでいた。テレビで今年は桜の開花が例年よりも早いと言っていた通り、暖かな風は春の訪れをいち早く知らせていた。遠くから子供たちがはしゃぎながら駆けてくるのが見える。
このアパートに来るのもこれが最後かと思うとこの景色がとても感慨深く思えた。
去年のあの出来事が、鮮やかによみがえる。
「大変だったよなぁ」一時生死の境をさまよった割に、出てくる言葉はそんなものだった。
アパートの玄関から篠原が出てくる。大きな荷物はあらかじめ引っ越し業者が運んでくれたため、手荷物はボストンバッグ一つだ。
「おまたせ」
「じゃぁ、行くか」そう言って助手席のドアを開けて、篠原を乗せると、自分は運転席に回った。
エンジンをかけて、車を発進させる。走り慣れた道を通り、国道に入ると篠原が前を見ながらおもむろに口を開いた。「ねぇ、訊いてもいい?」
「なに?」
「わたしのこと、好き?」篠原の顔が赤くなるのを僕は見逃さなかった。
僕の答えは決まっていたのだから、仕方ないのかもしれないけど、僕が口を開く前に篠原の顔がほころんでいたことが、少し腑に落ちなかった。それでも僕はしっかりと言う。
「好きだよ。篠原」
広い車道を滑らかに滑って、車は広い街を進んでいく。日差しが穏やかに篠原を照らして、僕には輝いて見えた。
知美と三浦のお話は、これにて終了です。
長々と続いてしまった拙い文章に
最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
usk