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怒りと空手と勧善懲悪




             知美




「いつまでも黙ってないで、さぁ。誓うんだ。僕を愛するって」

 どうやら飯塚は、逃げ出さないように縛ってはいるものの、まだわたしに危害を加えるつもりは無いらしい。でも、恐らくわたしが『誓い』を立てるまではロープをほどくつもりはないようだ。


 ポケットの中でまた携帯が震える。わたしは何とか自力でロープをほどこうと手を動かしてみるが、ロープが手首に食い込むばかりで一向にほどける気配は無かった。

「無理だよ。きつく縛ったからそれはほどけないよ。我慢してないでさ、言っちゃいなよ」

 飯塚は、すでに目的を達したような満足感を浮かべて、うろうろと部屋を歩き回っている。子供のような喋り方に無性に腹が立った。同時に何もできない自分が悔しくてたまらない。

「泣かないでよ、君のためにしてるんだから」飯塚はわたしの顔を見るなり露骨に悲しそうな顔をした。そう言われて自分が泣いていることに気づく。悲しいわけじゃなく、恐いわけでもない。このむかつく男に何もできない自分が悔しくて涙が出ていた。

「君と一緒になるために、僕は見合いも全部断ったんだよ。代議士の娘とか、大手企業の総帥の孫娘とか、そんな女共なんかより、君の方が何倍も素敵だ。もう君と一緒になるって決めたんだ。もう父さんにも報告しちゃったもん」

 何もできない代わりに、精いっぱいの憎しみをこめて飯塚を睨んだ。今までこの男に与えられた苦痛や恐怖。そして山田先輩の無念を目線に込めて飯塚を射抜くつもりで睨みつける。鼓動が速くなり呼吸が乱れた。


「反抗的な目だねぇ。仕方ない。やりたくないけど、ちょっとしつけが必要だな」

 飯塚の顔から笑顔が消えた。今まで絶えず熱を帯びていた眸が冷たく光る。

「僕を一生愛すると誓え。でないとちょっと痛い思いをすることになるよ」

 言いながら近づいてくる飯塚を、わたしは睨み続けた。絶対に誓うもんかと口には出さず、心で叫ぶ。飯塚は一つ大きなため息をつき、手を振り上げる。これからわたしに降りかかる痛みと恐怖を瞬時に覚悟して、それでもまだ睨み続けた。




             達也




 制限速度を大幅に超えて車は夜のビル街を滑空していった。エンジンが悲鳴を上げ、路上にならんだ車を次々に追い越していく。助手席の吉田さんが体をシートに押し付け、必死に恐怖と闘っているのが横目に見えたが、僕は急いでいた。

「アレです、あのタワーマンションが飯塚さんの自宅です」

後ろのシートから山田氏が前方のひときわ高いシルエットを指差した。

「篠原はまだ連絡つかないですか?」迫りくる車にぶつからないよう、運転に集中しながら、山田氏に訊ねる。

「ええ、さっきから何度もかけてはいるんですけど、全然繋がりません」

 焦りが募って行く。篠原と連絡が取れなくなってからもう1時間以上経過していた。朝の光景が脳裡によみがえる。やっぱり今は篠原から離れるべきじゃなかった。


 左からレインボーブリッジが徐々に近づいてきたところで高速を降りる、もうマンションは目の前だ。

 一般道に出るとさすがにスピードを出すわけにもいかなくなり、ようやく恐怖から解放された吉田さんが口を開いた。

「あのさ、彼女がそこに居るかどうかは別として、どうやって入るの?ピンポン押しても出てくれないよ、きっと」

「あ」篠原のことが心配でそこまで考えてなかった。

「あ」シートの後ろから山田氏も同じような声を出した。

「全く、これだから男どもは」呆れた様子で吉田さんは目を伏せた。



 マンションの前をゆっくりと通り過ぎ、少し離れたところに駐車する。

下から見上げるタワーマンションはさながら天をつき刺す塔のようにそびえたっており、見る者に憧れと少しの威圧感を抱かせる気がした。見ただけでは何階建てなのかもわからない、あっけにとられて見上げていると首が痛くなった。


 正面入り口は階段を数段上ったところにあり、文字通り敷居が高い。

「で、どうするの?」自動ドアの前で吉田さんが冷静に訊く。

「とにかく行ってみないことにはわかりませんよ」


 エントランスロビーに入ると、その広さに圧倒された。大きな柱が等間隔に並んでいて、どこか神殿を思わせる作りだ。大理石の床に自分の姿が反射する。奥行きのある壁は黒で統一されていて、庶民を寄せ付けまいと威圧していた。奥に大きな階段があり、その下に受付が見える。受付の脇には3メートルはあろうかという大きなエレベーターの扉が2つあった。


「しかたない。あたしに任せなさい」吉田さんはドンと胸を張ると、大股で歩き出した。この異様な光景にも全くひるんだ様子がない。高級感に圧倒され、たじろいでしまった自分が情けなかった。

 まっすぐに受付に向かうと、吉田さんは名刺を差し出しながら、「すみません、飯塚の部下のものなのですが、コチラにお住まいだと伺ってきたんですけれども。いらっしゃいますでしょうか?」と流ちょうに質問した。受付嬢は疑うそぶりも見せずに、名刺を受け取り、少々お待ちください、と言って確認を取る。しばらくして「35階にお住まいの飯塚様でしょうか?」と訊ねてきた。

「はい、そうだと思います。飯塚さん家でパーティするからって言っておきながら何階に住んでるのか言わないで帰っちゃうんですもの。困った人です」

そう言って吉田さんが首をすぼめると、受付嬢は笑いながらどうぞ、と言ってエレベーターへ案内してくれた。


 重厚なドアが両側に開く。全面ガラス張りのエレベーター内は広くは無いながらも圧迫感は感じなかった。35階のボタンを押して扉を閉めると、ふわっと浮くような感覚がしてエレベーターが動き出した。

「簡単だったでしょ」吉田さんは得意げに僕たちを見つめた。

「さすが、ですね」言いながら、一体この人は何者なんだろう、と思った。

「あなた、何者ですか?」山田氏は直球だ。

「あたしはただのOLだよ」

「いや、ただの、じゃないです」

「ですよね、ただのOLにあんな度胸は無いでしょう」

「失礼な」


 エレベーターはぐんぐん加速してあっという間に僕たちを35階へと運んだ。お待たせ致しました、と礼儀正しくお辞儀するホテルマンのようにすっと止まると、音もなくドアが開く。

 35階は贅沢にワンフロアに4件しか部屋がなかった。


「こっちです」山田氏が先頭に立ち、案内する。松葉杖に体重をかける姿が痛々しい。

 フロアの一番奥に飯塚の部屋はあった。レインボーブリッジに面した、恐らく一番見晴らしのいい部屋だと思われた。

「ここまで来たんだから、後はピンポンを押すだけなんだけど、カメラに映っちゃうからねぇ、出てきてくれないだろうなぁ」

「出てくるまで押してやりますよ」

「まぁ、待ちなって」そう言って吉田さんはドアを調べ始めた。ドアノブを回して鍵がかかっていることを確かめると、今度は鍵穴を入念に覗きこむ。

「へぇ、意外。こんな高級マンションなのに、こんな鍵使ってるなんて」

 吉田さんはバッグの中を漁ると、何か細いピンのようなものを取り出した。

「ピッキングってさ、意外と簡単なんだよね、コツさえ知ってれば。それに、この鍵なら―」

言いながら、鍵穴の周りを触る。と間もなく小さくカチャリと音がしていとも簡単にドアが開いた。

 思わず目が点になる、手品を見ているようで拍手を送りたくなった。

「何をしたんですか?」山田氏が訊ねる。

吉田さんはピンをバッグにしまって「こいつはピッキング対策はしてあるけど、ある特殊な方法で簡単にあいちゃうんだよね。あたしに言わせれば、こんな鍵使ってたら、泥棒さんいらっしゃいって言ってるようなもんだよ」と言って鍵穴をたたいた。

「いや、普通の人はその特殊な方法も知らないと思いますけど」

「人生に必要なものは知識だよ、三浦。なんでも知っておいて損は無い」

この人はOLは仮の姿で本当は怪盗か何かでもしてるんじゃないかと本気で思った。


 玄関をくぐると左右に廊下が伸びており、左側にはドアが3つ集中していた、恐らくこっちはバスルームやトイレなどがあるのだろう。靴を脱いで慎重に上がる。不法侵入、という言葉が頭に浮かぶが、すぐに振り払う。今は一刻を争う、もし間違っていたら謝ればいい。

 廊下の右側を進むと、正面のドアから明かりがもれていることに気づく。そっと耳を近づけると、微かに声が聞こえた。

「飯塚さんの声です」後ろから声を殺して山田氏が教えてくれた。ひとり言のようにぶつぶつと何かを言っている。誰かに話しかけているようにも聞こえるが、相手の声は聞こえなかった。篠原なのか?


 僕は後ろを振り返り、二人の顔を見ながら、ゆっくり頷いた。「行きますよ」の合図だ。二人も神妙な顔つきで頷く。

 大きく深呼吸をして、一気に扉を開いた。中に入ると同時に辺りを瞬時に見渡す。目に飛び込んできたのは、拳を振り上げる男と、ソファに不自然な格好で座らされている篠原だった。「ビンゴ!」頭の中で叫ぶ。


 男はなぜ鍵を閉めたはずの家に見知らぬ人間が3人もいるのか理解できない様子で、振り上げた拳をおろすことを忘れている。こいつが飯塚か。篠原はこわばった目つきで飯塚を睨んでいた。見たところ怪我はしていないようだったが、不自然な格好は後ろ手に縛られているからだと気付いた。

「篠原、助けに来たぞ」飯塚を睨みつけていた篠原も、僕の声が耳に入ると、ゆっくりとコチラを向き、唖然とした。ただその目に安堵の色がにじむのがありありとわかった。

「お、お前ら何だ、どうやって入った」

 飯塚は口から泡を飛ばしながら激昂した。侵入者に対する恐怖なのか、突然現れた僕たちに対しての怒りなのか、声が上ずり、震えていた。

「あんたのやってること、拉致、監禁だから。3年~7年は出てこられないよ」

「それに、俺に対する暴行も含めて・・・どれくらいになりますかね?」

「合わせて10年ってとこじゃない。警察、呼ぶよ」相変わらずこの状況でも吉田さんは冷静だった。携帯を取り出して開く。とそれを見た飯塚が大声で何かをわめき、吉田さんの携帯を払い落した。

「ここは任せてください。」

 僕はすかさず身構えて、吉田さんと山田氏を後ろに下げた。

「人の家に勝手に入り込んで好き勝手言いやがって、僕は未来の花嫁を迎えに行っただけだ。拉致?監禁?何をバカな。僕たちは愛し合ってるんだ」

 飯塚は自分勝手な言い分を、さも当然のように言い放った。これが本物のストーカーか、と寒気が全身を走る。前に読んだ本に書いてあった通り、自分の好意を押し付け、成就するまでなんでもする。まさに目の前の飯塚を見て書いたかのようだ。

「三浦くん、勧善懲悪!」

 篠原の声を合図に、瞬時に構えを取る。子供の頃から何度も繰り返し練習した構えだ。

 相手は素人だ、一撃で終わらせるつもりで、一歩前に出ると床を踏みしめる左足にぐっと力を込めて、勢いをつけて左手を前に出した。


「これが、追い突きだ。」子供の頃先生に正拳突きを始めて教えてもらった時のことを思い出した。

「出した足と同じ手を前に出す。威力は腰をひねる逆突きに比べれば少ないが、基本的な正拳突きだ。全てはこれから始まる」そう言って先生の繰り出した正拳はとてもカッコよくて、風を切る音が耳から離れなかった。あれから二十年、ほぼ毎日欠かさず続けた僕の正拳はあの時の先生の正拳に少しは近づけたのだろうか?


 僕の放った正拳突きは風を切り、飯塚の肋骨の上から2本目の間、いわゆる『みぞおち』に突き刺さった。はずだった。全く予想していなかったことだが、飯塚は素早く体をひねり、右手で僕の拳を払った。明らかに素人の動きではなかった。

 あわてて構えを戻す。飯塚はさっきまでの狼狽は演技だったとでも言うかのように、落ち着いた様子で半身に構えた。重心がやや前傾気味だ。

「古武術・・・いや、日本拳法か?」

「うちの家系のたしなみでね、男は日拳、女は日本舞踊を習わされた。家に道場があって毎日しごかれたよ。おかげでこの年になっても体が覚えている」


 相手が素人じゃないとすると、スーツ姿は不利に思えた。僕は飯塚から目を離さないように気をつけながら、背広を脱ぎ、ネクタイを緩めた。

「参ったね、ただのストーカーだと思ってたのに、ここまでたちの悪いストーカーだったとは」言いながら僕はじっと相手の出方を待った。お互い一撃の間合いをずらしているので緊張が解けない。

 飯塚が体重を前にかけるのが見えた。その直後飯塚の拳が顔の前に迫った。ギリギリのところでかわす。空手と違い、一挙手で突きを放つ日本拳法は突きの早さが空手とは比べ物にならない。


 だが、今ので少し安心もした。早いとは言え、40過ぎの男の突きはかわせないほどではない。今でも毎日練習を欠かさない僕の方が動きは良かった。

 先手必勝、と僕から攻撃を仕掛ける。腰をひねり、回転をつけ右足を振りぬいた。ドンと肉がぶつかる音がして飯塚の膝に当たる。中段に放った蹴りは膝でガードされ、反射的に飛んでくる飯塚の拳を頭をひねってかわし、下からえぐるように突き上げる。今度こそ飯塚のみぞおちに僕の拳が深々と突き刺さった。右手の拳に飯塚の横隔膜が痙攣する様子が伝わってくる。飯塚はうっとうなり声をあげてひざから崩れ、そのまま苦しそうに悶えた。

「やったぁ!」篠原が嬉しそうに体を上下させた。

「意外とあっけなかったね。三浦、結構やるじゃん」吉田さんが近づいて、ポンと肩をたたく。

「俺もそれくらい強ければなぁ」言いながらも山田氏は爽快さをにじませていた。


 手首にきつく巻きつけられたロープを何とかほどくと、篠原は両手を上にあげて、うんと背伸びをした。

「やっぱり来てくれたね、正義の味方」篠原は僕に向き直り、ほほ笑んだ。

「やばくなったら呼べって言ったのに」僕は篠原に怪我がなくて安心した。

「だって縛られてたんだもん、しょうがないじゃん」

「じゃあ今度から篠原には発信機でもつけておこうかな」

「あ~、それって犯罪になるんじゃない?」篠原が意地悪く言うと

「発信機をつけるだけなら罪にはならないね。ただ、それじゃストーカーと変わらない」と吉田さんが払い落された携帯を取りながら呆れた声を出した。4人の笑い声が重なる。

「ありがと、三浦くん」篠原がポツリと呟いた。僕は少し恥ずかしくなって聞こえないふりをした。「え?なんか言った?」言った後で後悔する。

「ううん。何でもない」篠原の笑顔がその時だけ少しさみしそうに見えた。

「今、警察呼んだから」

「え?あ、はい」


 警察、という言葉に誰からとでもなく飯塚の方に顔が向いた。これで終わりだ。飯塚がいなくなればもう篠原を脅かす者はいないし、僕の出番も、もう終わりだ。

「あれ?飯塚は?」山田氏が辺りを見ながら言う。誰もがさっきまで飯塚がうずくまっていた場所を見つめ、誰もが同じことを思っただろう。「あれ?飯塚は?」


「やっぱり邪魔者は殺しておくべきだったんだ」

 思いもよらぬ方向から飯塚の声がした。

 リビングの奥、対面式のシステムキッチンの陰から飯塚が顔を出した。表情はまだ苦しそうだったが、その右手には包丁が握られている。

 その場にいた全員のうぶ毛がそば立つのを感じた。空気が一瞬にして張り詰める。

「2、3人殺しても、もみ消すくらい簡単なことなんだから。最初からこうしておけば良かったんだ」

 飯塚は左手でみぞおちの辺りを抑えながらも、ゆっくり僕たちに近づいてくる。僕はとっさに一歩前に出た。3人を後ろに下がらせて、構える。それを見た飯塚も半身になり、右手を前に突き出した。


 後ろで誰かののどが鳴る。

「もうすぐ警察が来るから、そんなことしても無駄よ」毅然とした声で吉田さんが言う。

「その前に終わらせる。邪魔なのはお前だよ」そう言って飯塚は包丁の切っ先を僕に向けた。

「お前を先にやっちゃえば、後の二人は簡単だ」飯塚の顔が醜く歪む。

 額に汗がにじんだ。あの時の通り魔を思い出して、無意識に左手の傷が目に入った。

「三浦くん・・・」篠原も思い出していたのかもしれない。声が恐怖で震えていた。

「大丈夫。僕に任せて」


 あの時も篠原に無様な姿を見られたくなくて、同じようなことを言ったんだっけ。あの通り魔はナイフをただ振り回すだけだったから何とかよけられたけど、正直飯塚の突きのスピードで飛んでくる包丁をよける自信は無いな。

 どうすればいいのかをイメージする。勝負は一回だけだ。飯塚の初撃をよけて、カウンターを狙うしかない。ただ、どこに飛んでくるかわからない包丁はよけようがない。確実に狙う場所がわかればいいんだけど。

 飯塚は包丁を前に突き出したまま、じりじりと間合いを詰める。元々後ろに3人を背負った僕に下がる場所は無く、徐々に近づいてくる飯塚を見ているだけしかできなかった。

 どこに来るんだ?頭か?体か?足か?

飯塚が一歩で踏み込める間合いに入ってくる。もう考えている時間もなくなった。

 僕は構えを変えて、両手を顔の前に上げた。一か八かの賭けだ。顔をガードすることで狙いを体に向けさせる。もし誘いに乗ってくれば、僕の勝ち。誘いに乗らなければ、負けだ。


 飯塚の目の色が変わる。その瞬間周りから音が消えた。後ろに居るはずの3人の気配も感じない。視野が狭くなって飯塚の姿だけがはっきりと見えた。

 飯塚の体重が右足にかかる、と同時に軽く曲げていた右手が伸びる。その動きが全てスローモーションのように見えた。全てが手に取るようにわかる。飯塚は僕の誘いに乗った。

狙いは心臓だ。徐々に迫ってくる包丁を体をひねってかわす。後はもう一度みぞおちに打ち込めば今度こそ動けなくなる。

包丁がシャツをかすめる、よけきった。と思った。僕の勝ちだ。


 自分が思っていたのと違う動きをしたような気がした。みぞおちを狙ったはずの左手がなぜが飯塚のあごに当たっている。まぁ、いいか。と思い。力を込めて振りぬく。

 飯塚のあごが跳ね上がる、骨が折れたのかもしれない、と思うほど顔が歪んだ。首が直角になるほど曲がって白目をむくのが見えた。まさか首は折れてないよな、と少し不安になった。拳がずるりとあごからはずれ、糸を切られたマリオネットのように緩やかに飯塚が倒れて行く。


 飯塚の倒れる音とともに周りの音が戻ってきた。真っ先に飛び込んできた自分の心臓の音がこれ以上ないくらいに早く動いていたことに驚いた。

 今の一瞬で神経を使い果たしたのか、足が体を支えるのを拒否して、僕は膝をついた。

振り向くと、倒れて気絶している飯塚と、その向こうに3人の無事な姿が確認できた。

「やったよ、篠原」と言おうと口を開くが、うまく声が出ない。あれ?おかしいな。

「三浦くん――」篠原の顔から血の気が引くのが見えた。やけに声が遠くに聞こえる。

 吉田さんが険しい表情で駆け寄ってくる。何をそんなにあわててるんだろう。もう、終わったのに。

「三浦、動くな。じっとしてろ」吉田さんの顔が正面に見える、その先に天井が見えて、僕が倒れていることに気がついた。起き上がろうと体を起こすと、左胸のあたりから黒い突起物が生えているのが目に入った。何だこれ?

「救急車、救急車を呼んで」必死の形相で騒ぐ吉田さんが珍しくて、噴き出しそうになった。吉田さんでもあわてることがあるんだ。と思いながら、目の前が暗くなっていくのを感じた。遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。あぁ、きっとここに向かってるんだ。





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