儀式と携帯と焦り
知美
わたしは目隠しをされたまま室内に座らされていた。ここに来るまでに通った道はわからなかったが、エレベーターで昇ってきた長さと、座らされているソファの質感。そして真新しい壁紙糊の匂いが、ここがどこなのかをわたしに教えてくれた。
「ホントはこんな乱暴な事をするつもりじゃなかったんだよ」
目隠しのせいで正確な位置はわからないが、正面付近から男の声がする。嫌な声だった。今となっては目隠しされていることが少しだけ救いだった。きっと正面にはあのギラギラした眼があるからだ。
「飯塚さん。ですね」わたしはなるべく落ち着いた声を出した。不安も恐怖も悟られたくなかったからだ。実のところ心臓はこれ以上ないくらいに動いていたし、手のひらは汗ばんでいたし、アイマスクの下は涙が浮かんでいた。
「ああ、声でわかってもらえるなんて」
飯塚が近づいてくる気配がして体がこわばる。足音が背後で止まると、アイマスクが取られた。瞬間、飛び込んできた光に目がくらみ、わたしは恐る恐る目を開けた。
「どうだい。全て君のコーディネートだ。ここはね、僕と君が一緒に住むための部屋なんだ。だから全て君の好みに合わせたんだ」
そう言って手を広げる飯塚は背後から照らされた明かりにシルエットだけ浮かび、幾分芝居がかって見える。出来の悪い芝居だ。
「でも、あの山田っていう男の存在は予想外だった。君の周りをうろつくだけならまだしも、僕と君の愛の巣にまで入り込んでくるなんて、図々しいにもほどがあるじゃないか。君も君だよ。僕という存在がありながら、あんな男と付き合うなんて」
部屋を歩き回りながら喋り続ける飯塚をよそに、わたしのポケットの中で携帯が震えだした。たぶん仕事の仲間か、三浦くんだろう。わたしが帰ってこないから心配してかけてきたのだと思った。幸い、仕事中皆の邪魔にならないようにマナーモードにしておいたおかげで飯塚には気付かれていないようだった。
「でもね、僕は怒ってないよ。君が今まで誰と付き合っていようと、今こうして僕の元に居るんだから。それに、あの山田っていう男にはもう君に近づかないように制裁しておいたからね」
「山田先輩を襲ったのはあんただったのね」
「ああ、そうさ。君に付きまとううるさい虫を排除してあげたんだよ。ふふふ、地面に這いつくばる姿は虫けらそのものだったよ」そう言って飯塚は下品に笑った。
山田先輩の痛々しい姿が目に浮かんで、頭に血が上る。脳に達した血が沸騰して、悔しさがこみ上げた。許さない、と心の中で叫ぶ。
「さあ」飯塚はわたしを見つめて薄笑いを浮かべる。「今日から一緒に暮らすんだ。儀式をしようじゃないか」言いながら徐々に近づいてくる。「誓いの儀式だよ。僕は一生君を愛する」息がかかるほどの距離に飯塚の血走った目が近づく。「だから君も誓うんだ」わたしは背筋を駆け上がってくる悪寒と逆流する吐き気を必死にこらえながら目をそむけた。飯塚は構うことなく、耳元で囁く「これは結婚の儀式なんだよ」
達也
僕はさざめく鼓動を抑えながら携帯のアドレスから篠原を呼び出した。僕たちがたどり着いた答えが正しいとしたら、今仕事に行くことが最も危険な行為と言えるんじゃないか?
あの便箋には『準備が出来た』と書いてあった。妙な胸騒ぎがする。
電話の向こうでは無機質な呼び出し音が続く。昨日篠原にどうして休んだのかを訊ねたとき、『仕事がひと段落した』と言っていた。まだ電話がつながらない。『ひと段落した』『準備が出来た』頭の中をこの二つの言葉が繰り返し鳴り響いた。鼓動が治まらない。
いくら呼び出しても、一向につながらない電話が余計に胸騒ぎを掻き立てる。一旦呼び出しをあきらめて、アドレスを開いて山田氏の携帯にかけなおした。
短い呼び出しの後、コチラは何事もなく繋がる。「もしもし」
「山田さん、篠原はいますか?」嫌な予感が胸を突いて口がうまく動かない。
「篠原さんなら、さっき近くのコンビニに行くって出て行きましたけど」
「繋がらないんです、篠原の携帯」
「ええ?そんなバカな、だってほんのついさっきですよ」
「とにかく今からそっちに行きますから」