アパートと笑顔と火箸風鈴
突然の電話から2日後、僕は篠原のアパートの前にいた。大学時代に何回か送ってきたことのある懐かしいアパートだ。古い屋敷を改装して作った2階建てのアパートはレトロな外観と、そのイメージを損なわない内装が魅力の6畳ワンルーム。都心から近いうえに家賃も安く、大通りから一本奥に入ったところに建っているため驚くほど静かだ。篠原は3年の夏にここに引っ越してきたから、もう3年近く住んでいることになる。半年くらい前に連絡したときには同じオフィスの先輩が偶然同じアパートに住んでるとはしゃいでいたのを思い出した。
入口をはいると正面に大きな階段があり、左右に伸びた廊下に2部屋ずつの作りになっている。ロビーには元々の屋敷に飾られていた花瓶やら、置物がそのまま飾られていて当時の面影を残している。篠原の部屋は階段を上がって右側の奥部屋だった。
ドアの前で小さく深呼吸して呼び鈴を鳴らす。今日僕が訪れることはこないだの電話で言ってあるから大丈夫なはずだ。少ししてゆっくりとドアが開いた。ドアに取り付けてある火箸風鈴が澄んだ音を立てる。この音はあのころと何も変わっていなかった。
「よう。久しぶり」僕はつとめて明るくあいさつした。
「三浦くん。来てくれてありがとう。・・・あの」
「どこか外に行こう。ここじゃ落ち着いて話せないだろ?」
そう言うと篠原は少しだけ僕の知っている明るい笑顔を見せた。急いで支度するねと言ってドアを閉める。ほんの2~3分してまたドアが開く。その度に音を立てる火箸風鈴がとても懐かしかった。
「じゃ、行こうか」
話をする場所はあえてアパートから離れたファミレスにした。アパートの近くだと篠原の元彼に見られる可能性があるし、話す内容が内容だけに静かな所よりは賑やかな場所のほうが気がまぎれると思ったからだ。
さて、どう話を切り出そうかと考えていると、篠原から話し始めた。
「三浦くん、今日はホントにありがとう。今は一人で家にいるだけで怖くて、でも一人で外に出ることもできなくて・・・」
「仕事は?どうしてるんだ?」
「出勤する時は前に話した偶然同じアパートに住んでる先輩と一緒になるように時間を合わせて出ることにしてる。先輩にはまだ話せてないし、帰りは一緒になるとは限らないから、仕方なく一人で帰ってくるけど。」
篠原が日々感じている恐怖は僕なんかでは計り知れないものなのだろう。
僕の記憶にいる篠原はいつも笑っていて、いるだけで周囲を明るくしてしまう才能の持ち主だったのだが、当時の彼女の面影が今は感じられない。その姿が何より物語っていた。
「そうか・・・。その元彼氏とはいつ別れたんだ?」
「3か月前。わたしから言ったの、別れてほしいって」
「どうして別れたの?」そう聞くと篠原は一瞬戸惑った。恋人と別れる理由は色々あるが
えてして理由は言いたくないものだ。僕は無粋な質問だったと反省した。
「ごめん。こんなこと聞くもんじゃないな。いいよ、答えなくて。それで・・・」
ここで僕は少しだけ声を小さくした「ストーカー行為って言うのは具体的にどんなことをされているんだ?言える範囲だけでいい、教えてくれないか?」
篠原は「うん・・・」と小さく返事をすると湧き上がる恐怖を押さえつけるように両肩を抱えて少しずつ話し始めた。
「初めはメール。別れてから1カ月くらいたったころに送られてきたの、その日わたし服を買いに表参道まで行ったのね。そのついでに下着も見てきたんだけど、下着を選んでるところの写メと一緒に、『その下着トモに似合うよ』って。それから毎日、必ず写メと一緒にその日のわたしの行動が送られてくるの」
僕はメールを開いた時の篠原を想像して身震いした。携帯を開いた瞬間みるみるうちに青ざめて行く顔が目に浮かぶ。
「わたし気持ち悪くて、すぐ携帯もアドレスも変えたのね。そしたら今度はアパートのドアに紙が貼ってあって『アドレス変えてもオレとトモは離れられないよ』って。それからはわたしが仕事から帰ってくると必ず無言電話がかかってくるの。まるでわたしが帰ってきたことを知ってるかのように。毎日、毎日」
篠原はいっそう両手に力を込め肩をギュッと締め上げた。目にはうっすらと涙をためている。そして「わたし、見たの。夜いるはずのない時間にアパートの近くであいつの姿を」
そう言って嫌なものを振り払うように目を閉じてかぶりを振った。
「わかった。わかったよ。もう話さなくていいよ。よく話してくれた。辛かったな」
得体のしれない者に付きまとわれる恐怖とはこれほどのものか、と小さく震える篠原を見て僕はようやく事態の深刻さを理解した。
篠原が落ち着くまで少し時間を置き、僕はゆっくり切り出した。
「今まで一人で耐えてたんだね。もう大丈夫だ、後は僕に任せて」
とはいうものの、実際どうしたらいいのだろう。話を聞く限り、〈元彼〉が篠原の後を付け回しているのは明白だ。空手の師範として月一で道場に通っている僕ならとっ捕まえて体に言い聞かせることは簡単だろう、だがそれでは根本的な解決にはならない、やはり刑事罰を与えるのが一番の解決法なのだろうけど、これも難しい。どんなにひどくてもストーカー規制法が適応されないというケースはよく聞く話だ。
「一応聞くけど、警察には―――」僕が言い終える前に篠原は首を横に振った。
「・・・そうだよな、言えるわけないよな」
とはいえ警察の介入なしに現状を打破するのは難しいように思えた。とにかく今は篠原の身の安全の確保が最優先だ。〈元彼〉が彼女を付け回している以上、篠原に危害が加えられることも考えられる。それだけは絶対に避けなければいけなかった。
「じゃあ、そいつの名前と、出来れば顔が解るもの、写真か何かはないか?」
「名前は、遠藤光一。年はわたしと同じ。写真は・・・ごめん全部捨てちゃった」
そう言って篠原は目を伏せた。仕方ないと思った。いくら好きあって付き合っていた彼氏とは言え、ストーカーになり下がった男の写真なんていつまでも持っていたくは無いはずだ。名前が解っただけでよしとするしかない。
篠原の気持ちを落ち着かせようとそれからしばらく雑談をして、僕は篠原をアパートまで送ってきた。明日が休日ならこのまま朝まで時間をつぶして少しでもこの現状を忘れさせてあげることも出来たのだが、残念ながら明日は月曜日。一般的にも一週間のはじまりの日だ。僕も世間一般と同じく仕事がある。
「あ、先輩だ」
アパートの前に車をつけると篠原が声をあげた。視線の先では男性が駐輪スペースで自転車に鍵をかけているところだった。黒髪をふわりと後ろに流し、特徴的な黒縁の眼鏡をかけた、優しそうな男だった。見た目は二十歳と言っても信じられるほどのいわゆる童顔だが、篠原が先輩と呼んでいる以上、年上なのだろう。
「あの人が偶然同じアパートに住んでたっていう人?」
「うん、山田さんっていうの。うちのオフィスのエースなんだよ。すごく優しいし、仕事に関してはすごく頼りになる人」
篠原は彼がアパートの玄関に消えて行くのを確認してドアを開けた。
「ありがとね三浦くん。三浦くんに話せただけでちょっと気分が晴れたよ」
顔に少し笑顔が戻っていることが、その言葉が嘘ではないと教えてくれた。
「今はこんなことしか言えないけど、気をつけてね。何かあったらすぐ連絡してくれ、何時だろうと飛んでくるから」
気休めにしかならないことは言った僕も、篠原も承知だった。それでも篠原はありがとうと言って今日一番の笑顔を見せた。