雨と喫茶店と嫌な予感
知美
「今日はどうして休んだんだ?」初めて入る喫茶店でコーヒーを啜りながら三浦くんが訊ねた。
「仕事がね、ひと段落したから、今は時間が結構自由なんだ。報告書くらいなら家でも作れるからね」
木目の丸テーブルに置かれたオレンジジュースにストローを差し込み、混ぜるふりをしながら、わたしはどう切り出せばいいか迷っていた。平日の昼間の喫茶店は、カウンターの奥で店員の雑談が聞こえる以外、店内に人の姿は無かった。申し訳程度に流れる有線からは知らないアイドルのどこかで聞いたような曲が聴こえる。窓の外は黒々とした雲から落ちる雨が路面を濡らし、外を歩く人々を鈍く反射していた。
テーブルをはさんで正面に座る三浦くんはまっすぐにわたしを見つめている。わたしの言葉を待っているようだった。まるでわたしの訊きたいことを知っているかのようだ。わたしはなるべく普段通りに、精いっぱいさりげなく「ねぇ」と声をかけた。「昨日、あの後どこに行ったの?」
「どうして、そんなこと訊くの?」
三浦くんは質問の意味を知ってか知らずか、意地悪く訊ねる。どうしてそんなにまっすぐに見つめられるのか知りたかった。わたしの言いたいことをわかった上で覚悟を決めているのか、それとも何も知らずにただ純粋に見ているだけなのか。
少しの沈黙の後、わたしは意を決して口を開く。「三浦くん。様子が変だった」自分でも驚くほど弱弱しい声だったけど、一旦口から零れると一気にあふれだす。
「何か良くないことをする前のような、そんな顔してた。なんて言ったらいいかわかんないけど、漠然とした不安が昨日から消えないの。ねぇ、教えて。あの後どこに行ったの?」
訊きたい事を全て吐き出してまっすぐに三浦くんを見つめ返す。三浦くんの表情が曇ったような気がして、目をそらしたくなるが、わたしから目をそらしてはいけないと、全力で眼球の動きを固定した。やがてひとつ小さなため息をつき、三浦くんは「昨日、あの後、遠藤に会ってきた」と言った。
「遠藤」という名前に一瞬体が反応する。三浦くんはそのまま流れに乗るようにもう一言だけ呟く。聞いてはいけないと、耳が拒絶した。
「殺そうと思ってた」
三浦くんの口から発した振動は、店内を流れる音楽や、外の雑踏をかき分けて、クリアにわたしの耳に届いた。届いたが、理解が出来ない。目の前が真っ暗になって体から力が抜けて行った。「殺そうと」頭の中でゆっくり響く。「思ってた」
首が頭を支えきれず、意思とは関係なしに、顔が下を向く。目をそらしてはいけないと何度も頭を上げようとするがうまくいかなかった。
それから三浦くんは、今までのことを話していた。わたしは断片的に聞こえる言葉をすくい上げることしかできない。「しばらく前に遠藤の姿は確認していた」であるとか、「盗聴されていたから、近くに住んでいると思っていた」であるとか、「山田さんが襲われたことで我を忘れた」であるとか、ところどころ耳には入っていたが、わたしの頭には届くことは無く、入ったそばから言葉が流れ出て行く。
いつの間にか涙が零れていた。泣こうと思ったわけじゃなく、気がつくと涙があふれ出ていた。昨日から漠然と感じていた不安が現実のものになってしまう、そう思うと、止めることが出来ない。
三浦くんがいなくなってしまう。現実感の無いわたしのなかでそのことだけが強く現実として重くのしかかる。わたしが泣いていることに気付いたのか、三浦くんは言葉を止めた。
しばらく二人とも押し黙ったまま、雨音だけが二人の間に流れた。やがて三浦くんは声のトーンを少し上げて「昨日、」と言った。店内に流れる有線の曲が明るい曲に変わった事に呼応しているかのようだった。「昨日、遠藤の家には行った。確かに行くまでは、」ここで言葉を区切り、少しの間をおいて「殺そうと、思っていた、と思う」と物騒な単語を言うことに少し躊躇した。「でも、何もしなかった」
「遠藤は確かに篠原をストーカーしてたよ。それはあいつも認めた。でも山田さんを襲ったのはあいつじゃないみたいだ」
耳から入ってきた言葉が流れ出る直前にもう一度引き戻す。それでも一瞬理解が出来なくてわたしは「え?」と上ずった声を出した。「何も、しなかったの?」顔を上げると、三浦くんの優しい笑顔が目に入る。
「何もしなかったの?あいつの家に行って、殺そうと思ったのに、何もしなかったの?」
「うん」
三浦くんは飄々と答えたが、嘘を言っているようには見えなかった。それでも安心したくて何度も訊いてしまう。
「ホントに?」「うん」「ホントに?」「うん」
「じゃあ、わたしの前からいなくなったりしない?三浦くんが警察に連れて行かれるようなことは無いの?」
「無いよ。僕は何も悪いことはしていない」
無意識にため息が出た。自分でも信じられないほどの大きな安堵のため息だった。
「良かった。わたしのせいで三浦くんが警察に連れて行かれちゃうんじゃないかって、わたしそればかり心配で」
そう言うと三浦くんは申し訳ないような笑顔を浮かべた。
「ごめんね、心配掛けた。大丈夫、僕は絶対に警察に捕まるようなことはしないから」
達也
「篠原は何か心当たりはないか?山田さんを襲った犯人」
不安から解放された篠原が、空腹に負けて注文したフレンチトーストを切り分けるのを見ながら、僕は篠原なら何か分かるかもしれないと思い、訊ねてみることにした。
「わかんない・・・ホントにあいつじゃないの?」
「残念ながら、遠藤じゃないみたいなんだ」
昨日去り際に遠藤が「トモを頼む」と言っていたことを思い出す。あの言葉に嘘は無かった。
「きっと、あの便箋と繋がってるんだと思うんだ。『邪魔者』は恐らく篠原の周りにいる男のことだ。だから山田さんが襲われた」
「そんな、だって先輩とは一緒に働いてるだけで、何もないのに」
「ところが、封筒の送り主はそうは思わなかったらしい。きっと一緒に通勤してた山田さんを篠原と関係が深いと思ったんだろう」
僕がそう言うと、篠原は困惑した表情を見せた。
「あの文章には『準備が出来た』と書いてあったよね。あれはなんだろう?昨日、もしくは一昨日とか、何か思い当たる節は無いか?」
「そんなこと訊かれても、昨日も一昨日も仕事だったし・・・。ほら前に話したことあると思うけど、昨日までリピーターの、飯塚さんの家の仕事だったの」
一体、第2のストーカーは何の準備が出来たと言っているのだろう。『迎えに行く』と言っているのだから、その為の準備と言うことなのだろうか。
アパートに戻るとちょうど部屋から出てきた山田氏とはち合わせた。昨日はよく見えなかったが、明るい所で見ると右目の上が腫れあがっている。山田氏は僕たちに気がつくと恥ずかしそうな顔をして昨日はさすがに眠れなかった、と笑った。
「そう言えば昨日帰ってきたときの、あのバラの花束は何だったの?すごい量だったけど」
「それが――」篠原は、帰ってきたらすでに花束が置かれていたこと、そして封筒の中身のことを山田氏に説明した。山田氏は慣れない松葉杖が窮屈なのか、体を預ける松葉杖から時折体を起こしながら、黙って聞いていた。
「なるほど。じゃあ、やっぱり俺を襲ったのは〈元彼〉って事になるのかな。いや、ただの通り魔にしては覆面してるから怪しいなとは思ったんだけどね、俺、喧嘩とかしたことないから、やられる一方でさ」
「それが、そうじゃないみたいなんです」僕はあの後、遠藤の家に行ったことを話した。遠藤がストーカーをしていたことを認めたこと、ただ、バラの花束や、山田氏を襲ったりはしていないということ。
「どういうことですか?〈元彼〉がストーカーで間違いないのに、俺を襲った犯人は別にいるってこと?」
「ええ。しかもどうやらそっちが諸悪の根源のようです。山田さんのほうに何か心当たりは無いですかね?」僕はダメもとで訊いてみることにした。
山田氏はしばらく黙ったまま考えていたが、やがて何か記憶に引っ掛かりがあるのか、首をひねった。必死に何かを思い出そうとしているようだった。
「何かあるんですか?」
「いや、俺を襲った犯人が去り際に何か言ったような気がするんです」山田氏はただ、と付け加えて「殴られた痛みでもうろうとしてたから、はっきりとは覚えてないんですけど、『こいつがいなくなれば』とか『もうすぐ』とか、ぶつぶつと言ってたんですよね」と言い、役には立たないですね、と謝った。
「ちょっと待ってください、『こいつがいなくなれば』って言ったんですか?『こいつら』じゃなくて?」
「ええ、『こいつら』では無かったですね。そこだけははっきり覚えてます」
どういうことだろう。邪魔者を排除するつもりなら、山田氏だけじゃなく、僕のことも襲うはずなのに、『こいつら』じゃなく『こいつ』と言っていたということは、第2のストーカーは僕のことは邪魔者として認識していないことにならないだろうか。
なぜだ?山田氏ほどじゃなくても、僕もここ最近は篠原と一緒にいることが多い。篠原を付け回していたら、当然僕のことも邪魔になるはずだ。
それよりも、もし邪魔者の排除が終わっているとしたら、第2のストーカーは文字通り篠原を迎えに来るのではないか?
「大丈夫ですか?」茫然とする僕を見かねて山田氏が口を開いた。
「どうかしたの?」顔を窺いながら篠原が訊ねた。
「やばい、かも?」不安そうな二人を見ながら僕はそれしか言えなかった。