マンションとエレベーターとストーカー
408と書かれた扉の前にたち、呼び鈴を鳴らす。心臓が早鐘を打っている。〈元彼〉と対峙する緊張と今や体の隅々まで行きわたった怒りが破裂寸前まで鼓動を速めていた。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。時計を見る。まだ呼び鈴を押してから少しも経っていない。
しばらくしてドアがチェーンの分だけ開き、訝しげに男が顔を出した。
「すみません、警察のものなのですが」僕が穏やかな声を出すと、男は予定されていたかのように取ってつけたようなセリフを口にした。
「警察が何の用ですか?何かあったんですか?」
恐らく、警察が来ることは予想していたんだろう。その為、僕が警察手帳を見せなくても、警察だと信じ込んでいる。もし来たらこう答えよう、こうしようとあらかじめ決めていた節があった。
「実は近隣で通り魔事件がありまして、周辺の住民の皆様に訊きこみをしているんです」
「俺は何も知りませんよ。今日はずっと家にいたので」
良く言う。男が帰ってくる現場を目撃していた僕には可笑しくてたまらない。何を白々しい、と言いたくなるのを堪える。
「実は、被害者の方に犯人の人相を訊きまして、それで、申し訳ないのですが、人相描きを見ていただきたいのですが、よろしければチェーンをはずしていただけますか?」
男は少し困った顔をして、ゴネていたのだが、僕がお時間は取られませんので、と言うと、ちょっと待ってください、と言い、渋々チェーンをはずす。
僕はこの瞬間を待っていた。開いたドアから素早く体をねじ込み、男が声を出さないように口を塞ぐ。男は「うぐ」と一瞬うめき声を出したが、僕が襟をつかみ、首をひねり上げるとそれも消えた。そのまま持ち上げ、素早く部屋の中へと移動する。誰にも見られていないはずだ。
男を乱暴に床に転がすと、苦しそうに咳をしながら、怒りと恐怖がまじりあった目つきで僕をにらんだ。
「な、何をするんだ」
それはこっちのセリフだった。むせる男に顔を近づけて冷たく言い放つ。
「お前のしたことは知っている」
男が一瞬体の動きを止めるのがわかった。一体何のことだ、と白を切るが言葉とは裏腹に声は小さくなっていた。
「僕は罰を与えに来た。身に覚えがないとは言わせない。僕はお前に慈悲など与えない。いいか、良く聞け」僕はさらに男に顔を近づけて耳打ちするように言う「お前を殺しに来た」
少しの膠着の後、逃げだそうと立ちあがる男の足を僕は落ち着いてすくい上げた。思いがけず足をすくわれた男は顔面から床に倒れ込む。受け身を取る余裕もなかったのか、それとも元々受け身自体を知らないのか、無様にうずくまる男にゆっくりと覆いかぶさり、腹に尻を乗せる。「うっ」と苦しそうな声を上げる男を見下ろす。
近くで見ると写真よりも幼く見えた。小さな顔に不釣り合いなほど大きな瞳が右左に泳いでいる。どうにか逃げようとしているのか、手足をじたばたと動かし、近くに何か武器になりそうなものがないか必死に目で探しているのがわかる。あわてるなよ。と心で呟く。
僕はゆっくりと確かめるように小指から順番に握り込み、右手に拳を作ると、一つ男の顔に叩きつけた。五分くらいの力だろうか、軽く振りぬいただけなのだが、男は大げさな声を上げて顔を覆った。指の隙間から覗く瞳には明らかな恐怖が見て取れた。
まだ、まだだよ。僕は自分に言い聞かせながら左右の拳を順に打ちつけていく。男は、拳が当たるたびに小さく呻いた。
殴る、呻く。殴る、呻く。殴る、呻く。殴る、呻く。殴る、呻く。殴る、呻かない。殴る、呻かない。殴る。殴る。殴る。
どれくらい続けただろうか、男の整った顔が徐々に崩れ、目の上が赤くはれ上がり、鼻が歪んで血があふれ、唇に数ヵ所亀裂が入ったところで、ひとまず手を止める。
少し前から男が声を出さなくなったので、息をしているのかどうか確認する。口元に耳を近づけると、小さくではあったが呼吸はしていたので安心する。まだまだ、これからじゃないか。
僕は男をバスルームに引き摺ると、乱暴にシャワーをかけた。突然冷水に襲われた男はビクン、と体を震わせ、あわてて体を起こそうとした。そこで体が動かない事に気がついたのか、必死に身をよじって水を避けようとしている。男が何かを言っているようなのでシャワーを止めて耳を近づけてみると「止めてください」「ごめんなさい」と必死に呟いていた。
意図せず大きなため息が出た。最初に言っただろう。「僕はお前に慈悲など与えない」と。今さら止めてください。じゃないだろうに。
「心配するなよ。じきに痛みも恐怖もなくなるから」男の耳元でそう呟いて、また部屋へと引き摺って行く。床にゴロンと寝かせて、さて、と考えた。さてどうするか。
どうせもうこいつは動けないんだから、じっくりやるか、と僕は目を閉じて次はどうしてやろうかと熟考した。深く考えれば考えるほどに、周りの音が小さくなり、次第に一人でいるような感覚に陥る。
僕はゆっくり目を開けた。するとおかしなことに今までいた男の部屋は消え、代わりに濃いえんじ色のドアが目に飛び込んできた。マンションのエレベーターの扉だ。表示は1階で止まっている。
わけがわからず呆然と立ち尽くした。僕は〈元彼〉の部屋に行って呼び鈴を押したんじゃなかったのか?反射的に時計を見る。先ほど呼び鈴を鳴らしたと思っていた時刻よりも時計の針は40分も進んでいた。これはどういうことだろう。怒りのあまりに幻覚を見ていたとでも言うのだろうか。
とにかく〈元彼〉の部屋に行かなくては。僕はエレベーターのボタンを押し、開いた扉からするりと箱の中に体をくぐらせ、4階のボタンを押した。断末魔の悲鳴のような金属の擦れる甲高い音を出し扉が閉まると、エレベーターは億劫だと言わんばかりに体を揺らし、渋々僕を4階へと運んで行く。扉の内側は鈍く僕の姿を反射していた。無意識に自分の顔が目に入る。
「テロが起きる理由って、自分たちが正義だと思い込んでいるからよね」不意に吉田さんの言葉が頭をよぎった。「人はね自分に正義があると思い込んだとき、自分の行為を正当化して、邪魔するものを悪とみなす。これがテロリストの思想」
その瞬間視界が開けたような気がした。僕は怒りにまかせて何をしようとしていた?
エレベーターの表示が4階に止まり、甲高い金属音を出して扉が開く。僕はこれから〈元彼〉の部屋に行き、報復とは名ばかりの自己満足的殺人をしようとしていた。短絡的思考で周りが見えなくなっていたのだと気付く。僕が〈元彼〉を殺してしまったら、篠原が悲しむだろう。自分のせいだと思い込んでしまうに違いない。
エレベーターを降りると、左右に通路が伸びている。〈元彼〉の部屋は右側の奥から3番目だ。怒りが治まったとは言えない。だけど、感情に任せるわけにはいかない。一歩一歩気持ちを落ち着かせながら、通路を進んだ。
扉の前に立ち、呼び鈴を鳴らす。今度は間違いなく現実だ。心臓が早鐘を打つ。ほどなくして扉が開き、男が顔を出した。間違いなくあの写真の男だ。
男は僕の顔を見るなり目を丸くして、扉を閉めようとする。僕は閉まる直前に足を隙間にねじ込んだ。鉄の扉に挟まれたつま先が、思いのほか痛かった。
「な、何ですか。誰ですかあなたは!」
「はじめまして。遠藤光一さんですね。あなたのほうは僕の事はご存知かと思いますが」
僕は自分が落ち着いた声を出したことに驚いた。さっきまでこの男を殺そうと考えていたのが嘘のようだ。間近でこの男の顔を見た瞬間。そのあまりの弱弱しさに気がそがれた、という感じだった。
「僕が来た理由はわかりますよね?中に入れていただけますか?」
そう訊ねると、僕の堅個な態度と、ねじ込まれた足に観念したのか、うなだれた様子で扉を開いた。
中に入ると、ワンルームの室内には見慣れない機械が大きなスペースを占めていた。一つ一つには計器やらダイヤルやらがついている。その中の一つから長いアンテナが伸びていて、電波を受信するものだとわかる。
「なるほど。これで篠原の部屋を盗聴していたんですね」
「あんた、三浦さん、だろ?あんたのことはトモから嫌って言うほど聞いたよ」
〈元彼〉遠藤は観念したように頭を垂れ、ぽつりと話し始めた。
「付き合ってた当時からそうだった。トモは事あるごとにあんたのことを話すんだ。『わたしの先輩はね』『三浦くんならこんな時どうするかな』『あの時こんなこと言ってたんだよ』いつもいつも何かと言えば三浦くん三浦くんだ。俺はその度にやきもちを焼いたよ。見たこともない三浦くんとやらにね。付き合ってるのは俺だ。トモだって好きだから付き合ってたんだろう?好きだから一緒に居て、好きだからキスして、好きだからセックスしたんだろ?」
遠藤の体が小刻みに震えだすのを僕は見逃さなかった。話しているうちに怒りが込み上げてきたのだろうか。襲いかかってくるかもしれないと、身構える用意をする。
「あの日、トモは急に別れを告げたんだ。正直わけがわからなかったよ。前の日に、次の休みにはどこに行こうかって話をしてたのに、一日経ったら急に別れようだ。問いただしたさ。理由もなく別れるなんて納得いかなかったから。そしたらなんて言ったと思う?」
僕はただ黙って聴いていた。答えたくないというのもあったが、全てを喋らせることで遠藤の中に渦巻いている黒いものを吐き出させたかった。
「トモはこういったよ。『光一君のことは好きだよ。でもホントの好きじゃない気がする。わたしと一緒に居てもきっとお互い幸せになれないと思うの』だとさ。それでサヨナラだよ。一年付き合って、たった一言で、だ。俺は納得いかなかった。他に男が出来たんじゃないかと思って、トモの行動を探ったよ。1週間、2週間探っても何もなかった。これだけじゃダメだと思って、盗聴器を仕掛けて、一日中ヘッドフォンから耳を離さなかった。だって、トモが好きなんだ。俺にはトモ以外いなかったんだよ」
そこまで言って、遠藤がいつの間にか涙声になっていることに気付いた。小刻みに震えていたのはそのせいだったのか。静かな室内に遠藤の鼻をすする音だけが聞こえる。同情するつもりはないが、好きな女の子にいきなり別れを告げられたら、どうにかなってしまうのは解らなくもなかった。
「それで、篠原の周りにいる僕たちが邪魔になったわけか」
遠藤は答えない。
「山田さんを襲って、殺すつもりだったのか?」僕がそう訊ねると、遠藤は「え?」と素っ頓狂な声をあげた。寝耳に水、と言わんばかりの反応だ。
「こ、殺すって、何言ってんだよ。俺は山田なんて人は知らない」
この期に及んで言い訳がましく、知らないと来たもんだ。僕は勤めて冷静に、尋問する刑事のように声を低くする。
「何を言ってる。山田さんを襲って怪我させたのはお前だろう?篠原を自分のものにしたくて僕たちが邪魔になったんだろう?」
「違う。確かにあんたのことは憎い。殺してやりたいと思ったこともある。けど俺にはそんなことをする勇気は無かったんだ。俺に出来たことと言えば、無言電話で少しでもトモの声を聞くくらいだったんだ」
そう言って遠藤は力なくうなだれた。嘘だ。山田さんを襲ったのが遠藤でないと言うのなら一体誰が襲ったというのだ。本当に通り魔だったとでも言うつもりか。
急に携帯が鳴り出したものだから飛び上がりそうになる。混乱した頭が携帯と言う存在を排除していたようだ。あわてて取り出す。
「もしもしー」
「三浦さん、俺です」山田氏だ。今ちょうどあなたのことを考えていたんです。
「さっきは心配かけて、どうもすみません。皆には言わなかったんですが、三浦さんには話しておこうと思って、電話したんですが」
「何ですか?」
「俺を襲った犯人。俺はてっきり〈元彼〉だと思ったんですけど、違うんです。顔は覆面で隠してたけど、体型が、あの写真の男とは似ても似つかないんですよ。三浦さん。きっとストーカーは別にいます。あの写真の男じゃないんですよ」
そこまで聞いて僕は携帯を落としそうになった。信じられなかった。実際僕は今〈元彼〉の部屋にいて、〈元彼〉のストーカー行為の告白を聞いていたんだ。それなのに山田氏を襲った犯人は別にいると言う。
「遠藤。もう一度訊く。お前がやったんだよな?」そうだと言ってくれ。
僕の希望はあっけなく破られ、遠藤は強くかぶりを振りながら「俺は何もしていない」と叫んだ。
僕は茫然自失としていた。携帯を握ったまま、ただ立ち尽くしていた。長い沈黙が続く。頭が真っ白になり何も考えられなかった。
しばらくして、聴き逃してしまいそうなほど小さな声で遠藤が喋り出した。
「俺、気づいてたんだ。盗聴を始めて、しばらくしてから、急にトモの声が明るくなった。
それまでは部屋に一人でいるときは何もしゃべらないことが多かったのに、ある日を境に鼻歌歌ってみたり、料理の時間が長くなったり。それからほどなくして盗聴器から知らない男の声が聞こえた。・・・あんたの声だ。それで全てが分かった。トモが俺と別れた理由。急に明るくなった理由。トモにとっての三浦と言う人物の存在がどれだけ大きいか」
遠藤は顔を上げ、袖で涙をぬぐった。白い肌に大きな瞳が二つ浮かんでいる。赤くはれた瞼は少し重そうだったが、その顔には何か吹っ切れたような清々しさが漂っていた。
「しばらくして、急に盗聴器が何も音を送ってこなくなった。つい3日前のことだよ。その時思ったんだ。終わったんだって。全てを終わりにして、人生をやり直そうって。トモにはトモの、俺には俺の幸せがきっとある。だから、全てをふっ切るつもりで引っ越ししようと思ったんだ」
嘘を言っているようには見えなかった。遠藤はストーカー行為をやめ、やり直そうとしている。その言葉は信頼に足る力強さを秘めていた。
部屋を出る直前遠藤は僕を呼びとめて「トモを頼む」と一言告げた。
遠藤はその一言に全てを込めたのだろうが、今の僕はそれどころではなかった。ここに来るまで、〈元彼〉と対決すれば全てが終わると思っていた。だが現実には混乱を招いただけだった。大きな動揺は地盤を揺るがし、足元を急激に奪っていく。篠原を救う手がかりが消えてしまった。そのことがショックだった。
足取りが重い。鉛がついたような足を動かすだけで一苦労だった。家に帰るまでどこをどう歩いたのかほとんど覚えていないが、玄関を開けたのは、明け方の4時過ぎだった。
着替えるのも億劫でそのままベッドに横たわる。疲れ果てていた。ゆっくりと目を閉じると目の前がぐるぐると回っているような感覚に襲われる。今までのことが次々と頭をよぎっていった。篠原から相談を受けた日のこと。ドアにされた落書きのこと
『浮気は許さない』と赤いペンキで狂気をつづったのは一体誰だったのだろう。
どこまでが遠藤の仕業でどこからが別人の仕業なのだろう。
鈍くなった思考では考えることも今は億劫だ。今はただ眠りたい。泥のように沈んでいく体が、このままベッドに埋まってしまえばいいと思った。