病院と怪我と意外な人物
救急用の入り口を入ると、すぐに待合室に人の姿が確認できた。篠原と同じオフィスの人間だろう。皆、心配そうに処置室を眺めている。
驚いたのは、先ほどまでバーで一緒にいた岩崎の姿があったことだ。岩崎も同じオフィスで働いているのだろうか。だとしたらあの時の電話は山田氏からかかってきたものだったのか。
「聡美さん、先輩は?」篠原が急いで処置室の前に立つ女性の元へ駆け寄る。以前に名前を聞いたオフィスの室長だ。彼女は僕の想像からは程遠く、小柄な篠原と比べると頭一つ出るほどの長身で、透き通るような白い肌に艶やかな黒髪が印象的だった。うろたえる篠原をなだめるその姿は、室長としての威厳というよりは母のような優しさを感じさせる。年齢も思っていたよりはずっと若く見えた。20代のようにも見えるのは、服装や、化粧のため、というよりは男の僕から見てもわかるほどきめ細やかな肌のせいだろう。
「心配ないよ、知美。一応救急車は呼んだみたいだけど、幸い怪我は大したことないって。どこも折れたりとか、跡が残ったりとかは無いみたいだから」
「ああ、運のいいやつだよ。啓輔から電話かかってきたときはさすがに俺も驚いたけどな。けど、一体誰がこんなことしやがったんだか」
岩崎の口調には犯人への憎しみがありありと込められていた。腕を組み、落ち着きを装ってはいるが今にも噴き出してしまいそうな憤りを必死に抑えているようにも見える。
僕が居どころなく立ちすくんでいると、目が合い、岩崎は「あれ」と声をあげた。
「お前、さっきのヨッシーの後輩じゃねぇか。どうしてここにいるんだ?」
「僕も驚いてますよ。実は僕は篠原と大学が一緒でして、山田さんも篠原を通じて紹介してもらったんです」
「じゃあ、さっきの話ってのは――」
「あ、あの」岩崎の次の言葉を遮るように僕はあわてて口を開いた。「山田さんはどこで襲われたんですか?」
「そう言えばどこだったの?電話貰ったの拓実でしょ?」
「ん?ああ、安穏寺の近くだよ。ほら、あの辺てこの時間結構人通り少ないだろ。通り魔にはうってつけなのかもしれねぇな」そこまで言うと岩崎はまた突発的に怒りが湧いてきたように顔をしかめた。
「安穏寺ってどこだっけ?」
「それなら、わたしが住んでるアパートの近くです。歩いて20分かからないくらい」
ということは、山田氏は帰宅する途中で襲われたということになるのか。
「でもよ、安穏寺じゃお前らが降りる駅の近くじゃないよな?なんでそんなところにいたんだろうな。ってゆーかお前ら今日はコンビだったよな。確かトモちゃんのリピーターの」
「はい。今日は飯塚さんの家の最終確認に行ってきました。帰りも途中までは一緒だったんですけど、先輩用事があるからって先に電車を降りたんです」
処置室の扉が開き、医師とともに山田氏が出てくる。頭や腕にまかれた包帯が痛々しい。松葉杖をつき、右足をかばっている。山田氏は僕たちの顔を見渡し、照れたように笑った。
「ああ、みんな。心配掛けてごめんね」
「啓輔。大丈夫?拓実から電話貰って、あたし、啓輔にもしもの事があったらどうしようかと・・・」
真っ先に声をかけたのは聡美だった。さっきまでの室長として人を束ねるにふさわしいほどの落ち着いた雰囲気が一転、山田氏の顔を見たとたんにまるで別人のように弱弱しく、今にも泣き出しそうな顔をしている。彼女の変化が僕には意外だった。
「聡美さん。ごめんね。ほら、来週聡美さんの誕生日でしょ。プレゼントをさ、見に行ったら、その帰りにやられちゃった」
「バカ。そんなことのために、もし死んでたら絶対許さないから」
二人のやり取りが、妙に温かい印象を受ける。違和感なく見つめている岩崎や篠原を見ると、それが当たり前のやり取りなのだと思った。
「先生、どうなんですか?」医師に質問したのは岩崎だった。
「頭部、それから右腕、右足の打僕に、腹部の打ち身。それから右足首の捻挫ですね。一応、レントゲンと、頭部のCTも取りましたが異常は見られませんでした。まぁ、全治2週間ってとこでしょう。警察の方に訊きましたが、通り魔に襲われたにしては比較的軽症ですよ」
医師の言葉を聞き、岩崎は安堵のため息を吐いた。よほど山田氏のことが心配だったのだろう、さっきまでの態度と、山田氏の無事を確認した後の安心した様子から、さっきまでの僕が重なった。
「山田、てめぇ。いきなりあんな電話してくんじゃねぇよ。びっくりするだろうが」
「連絡しなくちゃ、と思ったときに真っ先に浮かんだのが岩さんだったんだ。ごめんね。とっちらかってて、何言ってるかわかんなかったでしょ」
「まったく、今にも死にそうな声出しやがって。寿命が縮まる思いだったよ」
じゃあ、今度は1週間後に来てください。と言って医師は扉の奥へと姿を消した。それを合図に僕たちも病院を出る。
外に出ると急激に寒くなった11月の風が、容赦なく襲ってきた。月を覆い隠す意地悪く厚い雲からは今にも雨が落ちてきそうだ。
慣れない松葉杖をつきながら前を歩く山田氏を後ろから眺めながら、僕はさっきの便箋の内容を思い出していた。
山田氏を襲った犯人は恐らく〈元彼〉に間違いは無いだろう。あの便箋を犯行声明だと考えると全てが繋がって見える。ならば次に狙われるのは僕ということになるのか。
考えてみれば山田氏は僕のせいでとばっちりを受けたのだ。僕が山田氏に篠原のことを頼まなければこんなことにはならなかったはずだ。彼の怪我は僕に責任がある。僕は急激に視野が狭くなっていくのを感じた。
「篠原、僕は先に帰るね。部屋の前の花束は明日片づけよう。今日は家に帰ったらじっとしてるんだよ」
篠原に耳打ちして、僕は皆から離れて別方向へ歩き出した。そして今日3度目のタクシーを拾うと、マンションへと急いだ。タクシーに乗り込む直前、立ち止ったままコチラを眺める篠原が目に入った。遠くて顔はよく見えなかったが、その姿が妙に目に焼きついた。
自分のせいで怪我人が出てしまったことの責任感が感情を抑えてきた理性という堅牢な扉を破り、〈元彼〉への怒りがあふれ出てくる。あの卑劣な犯罪者を許すことはできない。法律が勧善懲悪を妨げると言うのなら、僕が鉄槌を下す。たとえその後僕自身が罰を受けることになったとしても。