恐怖と封筒と謎の文
知美
アレは何だったんだろう。今しがた自分の目に飛び込んできたものを未だに信じられずに、わたしは部屋の中で膝を抱えた。
理解できなかった。現実にあるものをあり得ないものとしてしか認識できなかった。あいつは何を考えているんだ。信じられない。考えられない。
時間がたつのが遅い気がする。時間が意地悪しているようだった。
「なるべく長く恐がってほしいので気持ち遅めに動かしています」時間の神様が気まぐれなのか、意地が悪いのか、時々こうしてわたしの周りの時間を遅くする。
真っ暗な部屋に一人でいると、頼んでもいないのに神経が鋭敏になって、わたしの耳はあたりの音を良く拾った。時計の針が進む音、風が葉を揺らす音、遠くで車が走る音、自分の心臓が動く音、ありとあらゆる音が洪水のように耳に押し寄せてくる。今わたしを外の世界とつないでいるのは耳と音のような気がして、あわてて耳を塞ぐ。最後に滑り込むように聞こえたのはアパートの前に車が止まる音だった。
達也
半ば強引にタクシーを拾い、脅迫気味に急がせて、アパートにたどり着いたのは奇跡的に店を出て10分後だった。うらみがましく睨む運転手に謝りながら、財布から5千円を取り出し投げつけ気味に渡す。釣りはいいと伝えると、運転手の顔が180度変わった。現金なものだ、またお願いしますね。と言われたが、きっと2度と会うこともないだろう。
ロビーに入ると異様な静けさに包まれた。部屋から漏れ出る音はおろか、虫の声すら聞こえない。しんと静まり返ったロビーは薄暗さも手伝って異空間に迷い込んだような錯覚を起させる。正面にそびえたつ大階段を一歩一歩上がっていくごとに軽いめまいを感じた。
自分の心音だけがやけにはっきりと聞こえる。僕は何にこんなに怯えているのだろう。ひどく嫌な予感だけが胸をつく。
2階に上がると、普段嗅ぎ慣れない匂いが廊下を伝ってきた。人工的な匂いじゃなく、自然の生々しい匂いだ。
花の匂いだと気付くのに時間はかからなかった。遠目からでもわかるほどに篠原の部屋の前に真っ赤なバラが敷き詰められている。一束や二束どころの話じゃない。何十束というバラの花束で廊下が埋め尽くされていた。窓から差し込む月明かりに照らされて妖艶な輝きを放っている。
部屋の前に来ると、強烈なバラの香りに吐き気が襲ってきた。むせかえるとはこのことだ。鼻を手で隠してようやく呼吸が出来るほどだった。
呼び鈴を鳴らす。隣の山田氏の部屋にも人の気配はなく、篠原の部屋からも何も聞こえない。篠原は無事なのか。それだけが心配だった。
しばらくしてゆっくりとドアが開いた。恐る恐る篠原が顔を出す。
「篠原、無事か?」
「三浦くん――」
篠原の声を聞いた僕は無意識に彼女を抱きしめていた。目の前の篠原の存在が不安や恐怖を取り去ってくれる。無事だった。それだけが僕を安心させた。
「み、三浦くん。どうしたの?」
「あ、ああ。ごめん」はたと我に返りあわてて手を離す。
「さっきの電話がちょっと心配だったから。もう一度確認するけど、篠原は無事なのか?何かされたりはしてないのか?」
「うん。大丈夫だよ。仕事から帰ってきたら部屋の前がこの状況で、わたし気が動転しちゃって、ごめんね、あわてて電話しちゃって」
「いいよ。早く電話してくれた方が、こうして僕も早く来られるから。それで、封筒は?」
「うん。そこに、三浦くんが触るなって言うから、まだ中は見てないの」篠原の指差す方向を見ると、大量の花束に埋もれて一通の白い封筒が置いてあった。
慎重に封筒の端をつまみ、僕はまず封筒に何かが繋がっていないかを確かめた。封筒が爆弾につながっていて、封筒を持ち上げると爆発。なんてことも映画などではあり得る。
ゆっくりと封筒を持ち上げて、何も繋がっていないことを確認すると、軽く振ってみた。剃刀が入っていれば、中で音がするはずだ。幸い、いくら振っても音はせず、重さからも剃刀は入っていないようだった。
「開けるよ」
丁寧に糊づけされた開け口を慎重に剥がして、中を見ると便箋が一枚入っていた。
「なんて書いてあるの?」不安そうに手を胸の前に当て、篠原が訊ねる。
ゆっくりと便箋を取り出し、広げる。きれいに整った字で中央に一行だけ
『ようやく準備が出来たね。邪魔者を排除したら迎えに行くよ』
と書かれていた。
「準備・・・?」一体何の準備が出来たの言うのだ。それに邪魔者を排除すると言うのはどういうことなのだろう。
「迎えに行くって、何?何を言ってるの」封筒の中身が便箋だったことで、軽く不安から解放された篠原は、今度は怒りをあらわにした。
『邪魔者を排除したら』僕はこの言葉が妙に気になっていた。邪魔者というのは恐らく篠原の周りにいる者。ということになる。ということは――
便箋を眺め、文章の意味を考えていると、突然「あ、」と声を上げ、篠原が部屋の中に入って行った。どうしたのかと中をのぞくと微かに携帯が鳴っていた。
篠原は電話に出て間もなく、大きな声を出した。明らかな驚きを含めている。「嘘」であるとか「だって」であるとか「先輩」であるとか言葉の端々から不穏な空気を感じたが、その口から「病院は」という言葉を聞き、僕の懸念が当たってしまったことを確信した。
〈元彼〉は邪魔者を排除したらと言っている。それはつまり、真っ先に狙われるのは、僕と山田氏だ。ふと、隣の部屋が目に入った。いつもなら温かな灯りとともに、薄い壁から生活の音が漏れる山田氏の部屋だ。しかし今は冷たく暗い暗闇に覆われている。
ほどなくして、動揺した青ざめた表情で篠原が部屋から飛び出してきた。
「先輩が、先輩が怪我したって。今、聡美さんから連絡がー」