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思い出と通り魔と左手の傷




 大学の頃、通り魔を捕まえたことがあった。あれは2年生の頃だ。大学の周りで通り魔事件が頻発していて、生徒が数人切りつけられる事件があった。

 当時から空手の段を持っていた僕は、研究会の仲間や、友達からボディーガードを頼まれることがあった。

 当時の僕は自分の腕に自信があったし、人に頼まれるのは心地よかったせいもあって、「僕に任せておけば犯人なんて一瞬でたたきのめしてやる」などと息巻いていた。今考えれば随分軽率だったと思う。


 その日は文化祭の準備で帰りが遅くなってしまったのを覚えている。そう言えばその頃は篠原も僕に敬語を使っていたっけ。


「遅くなっちゃいましたね」と篠原が時計を見る。時刻はすでに20時を回っていた。そう言えば何度も警備員が見回りに来て、早く帰れと注意されていたな、と思った。


その時にあれは通り魔のことを危惧して注意していたのだと、気がつけばよかったのかもしれない。でもその時の僕はそんなことすっかり頭から抜けていた。


「会長が悪いんだよ。いい加減な指示しかしないから一向に作業が進まない。そのくせ自分は早いうちに帰っちゃうんだから」

 部室には僕と篠原しか残っていなかった。僕は腹立たしい演技をしながら、内心ではこの状況をありがたいとさえ思っていた。

「もう帰りましょうよ。わたし達だけ頑張るのは不公平です」

 辺りに散らばった板を片づけながら篠原はむくれていた。それもそのはずだ、新人とはいえ一人だけ残されているのだからあまりいい気はしない。要領のいい新人は口々に言い訳を言い、そそくさと帰ってしまっていた。

「そうだね。帰ろう。後は他のみんなに任せればいいさ。僕たちはよくやったと思うよ」

僕はと言えば、篠原が残っているから手伝っていただけで、文化祭の準備にはこれっぽっちも興味は無かった。


 僕たちは精いっぱいの皮肉をこめて「僕たちの仕事は終わりました」と書置きを残し、部室をあとにした。帰り際に警備員にようやく帰るのか、と嫌味交じりに言われた。


 大学から駅までは歩いて15分程度の距離だった為、僕たちは会長の悪口やら、学食のメニューの好き嫌いやら、たわいもない会話をしながら歩いていた。


 その男には篠原が先に気がついた。黒いパーカーのポケットに手を突っ込み、頭からフードをかぶって、足取りは軽やかに、道の真ん中を踊るように前から歩いてくる。あの男の人変じゃないですか、と言われた時、僕はふざけたやつだとしか思わなかった。どうせ酔っ払っているだけだと。

 男を挟むように左右によけて通り過ぎる際、横目でちらりと覗いたが、フードに隠れて顔はよく見えなかった。

 その瞬間背筋に寒気が走った。なぜかは分からないがこの男は危険だと本能がそう告げた。嫌な予感がして振り返ると、同時に目の前が一瞬光った。何かが目の前を通り過ぎたようだった。とっさに手で顔をかばう。


 男はすれ違いざまにポケットからナイフを取り出していた。フードの中の暗闇に白い歯が浮かんでいる。興奮しているのか、呼吸が荒い。大型の肉食獣が獲物を前に飛びかかる準備をしているようだった。これは何だ?突然の出来事に、まるで現実感がわかない。

「ひっ」と声にならない悲鳴が僕の後ろから聞こえた。そうだ、篠原だけは守らなくてはいけないと男の前に立ちはだかる。

「大丈夫だ、篠原。僕にまかせて」

そう。僕には空手がある。毎日練習してきた空手が。

「でも、先輩、左手が――」そう言われてようやく気がついた。すれ違いざまに切りつけられたときにナイフは僕の左手をかすっていたようだ。手の甲が真一文字に切れて血が流れていた。不思議なもので、傷に気がついた瞬間から痛みが襲ってくる。

「これくらい、なんてことない」

 傷の痛みをごまかして強がりを言う。篠原に情けない姿を見せたくなかった。男はケタケタと笑い声をあげて手に持ったナイフを顔の前にかざす。

刃に光が反射して一瞬血走った眼が見えた。


 風が街路樹の葉を揺らしてざわざわと音を立てる。それを合図と言わんばかりに男が飛びかかってきた。振り上げたナイフが空を切る。僕は必死に道場の稽古のことを思い出していた。「相手がナイフを持っていたら、一目さんに逃げろよ」先生が言っていた言葉が頭に浮かぶ。「空手っていうのは実戦向きだけど、本当に闘うときってのは自分の力なんて半分も出せないもんだ。相手が武器を持ってればなおさらだ。なぜかわかるか?」


 奇声を上げて男はナイフを振り回す、僕は次々に襲い来るナイフをかわすのが精いっぱいだった。


 あれほど練習した空手が役に立たない。体が一切の動きを忘れてしまっていた。

「それは恐怖だ。いいか?ナイフってのは、簡単にお前の命を奪う。一度体にあたってしまうだけであっけなくな。恐怖は体の動きを鈍くする。いくら稽古しても本物の恐怖を前にすると誰だって足がすくんで動けなくなるもんだ。だからナイフを持っている奴がいたら、逃げろ」


 男の動きはそれほど早くは無かったが、ナイフから目が離せない。恐怖が体を支配する


 でも逃げるわけにはいかなかった。篠原を守らないと。必死に先生の言葉を思い出す。「どうしても逃げられない状況になったら―――」

 飛んでくるナイフをすんでのところで振り払って男と距離を取った。

それほど動いたわけでもないのに額を汗が流れた。息が上がって膝が震えている。左手がズキズキと痛んだ、血が止まらない。あの時先生は何と言っていた?頭が混乱して考えが

まとまらない。思い出せ。思い出せ。


 男は甲高い笑い声をあげて。右に左にナイフを揺さぶる。夜の闇を声で切り裂いているようだ。篠原のことが気になるが男から目を離すことが出来ない。気持ちを落ち着かせようと必死に男との間合いを測る。男が近寄れば、同じ距離だけ後ろに下がる。何とか間合いの取り方だけは体が覚えてくれていたが、どうすればナイフを持った男と闘えるか考えがまとまらない。


 気付くと、すぐ後ろから篠原の息遣いが聞こえた。腰を抜かしているのか、ずいぶん下から聞こえる。これ以上下がれない。

「どうした?僕に任せろって言ってたじゃねぇか。お前に何が出来るんだ?」

 男がじりじりと距離を詰める。一か八か前に出るしかないと覚悟を決め、一歩足を踏み出すと同時に男が飛びかかってきた。一瞬反応が遅れた僕はあっけなく押し倒されてしまった。後頭部を打ちつけ、目の中に星が散る。

 

「女の前だからカッコつけちゃったのか?俺ぁお前みたいなのが一番嫌いなんだよ。いいや、お前が俺の殺人第一号だ」


 下から見上げる男の顔は人間には到底見えなかった。野獣に睨まれているようで体が動かない。


 振り下ろされるナイフがやけにゆっくり見えた。僕は死ぬのか?先生は何と言っていたっけ。僕が殺されたら次は篠原が殺されてしまうのだろうか?どうしても逃げられないときは?この男はなぜ無差別に人を襲うのだろうか?逃げられないときは?なぜ僕たちでなければいけなかったのだろうか?何と言っていた?思い出せ。


ゆっくりとナイフが近づいてくる。先生、もうダメみたいです。

「どうしても逃げられないときは、自分を信じろ。お前がやってきたことは決して無駄じゃない」

 先生の声が聞こえた気がしてとっさに体が動いた。頭をひねってナイフをかわす。耳元で大きな金属音がして目の前に火花が飛んだ。間一髪だ。


 よけられると思っていなかったのか、一瞬男がたじろいだ。あわてて体勢を立て直そうとするが、その瞬間を僕は見逃さなかった。手頸をひねり上げて、思い切り股間を蹴り上げる。鈍い感触が足を伝わってきて、背筋にぞくりと寒気が走った。うめき声を上げる男からナイフを取り上げて遠くへ投げると、体を入れ替えて立ち上がった。


 「先輩!先輩!」篠原があわてて駆け寄ってくる。涙でぐしゃぐしゃだ。よほど恐かったのだろう。僕の左手を取り、血が止まらないと何度もつぶやいている。篠原の無事を確認してようやく僕は肩の力が抜けた。男は泡を吹いて横たわっている。強く蹴りすぎたかな、と痛みを想像して少し身震いした。



 「ご協力、感謝します」警官の一人が敬礼をする。その後ろでは男がパトカーに乗せられるところだった。さほど広くない道はパトカーと救急車で塞がれている。赤色灯があたりを赤く染めていた。僕はそれを見ながら、漠然と何かすごい事件でもあったみたいだと思った。救急隊員に促されて、救急車に乗り込む。救急車の扉が閉まると、ようやく現実感が戻ってきた。


 左手の傷は思ったよりも深く、7針も縫うはめになった。病院に着くころには僕も篠原も落ち着きを取り戻していたが、依然として篠原は青い顔をしていた「わたし、血、苦手なんです」と言いながら、それでも僕の左手から目を離さなかった。



「三浦くん?」

不意に名前を呼ばれて我に帰る。篠原が絆創膏を持って立っていた。

「どうしたの?急にぼーっとして」

「あ、いや、ちょっと昔を思い出してね」左手を見る。あの時の傷はすっかり薄くなっていた。ありがとうと言って絆創膏を受け取る。


「僕のことより、篠原は大丈夫なのか?とりあえず盗聴器はこれ一つしかなかったみたいだけど」

「うん。大丈夫だよ。盗聴されてたと思うと気持ち悪いけど、それ以上に腹が立ってるのあんな奴に負けてたまるかって」

その言葉を聞いて安心した。嘘を言っているようにも見えなかった。


「これからどうするかだな。盗聴器が使えなくなったとわかったら、何か行動を起こすはずだよ。これ以上振り回されないためにも、先に手を打たなくちゃ」

 盗聴できなくなった〈元彼〉はどういう行動に出るのだろうか?もう一度仕掛けるのか嫌がらせをするのか、篠原に危害を加えるのか、なんにせよ身の危険は一層増したと考えるべきだろう。盗聴器を壊したことで選択肢は一つに絞られた。篠原のそばにいること。そのうえで篠原に危害が及ばないように先手を打たなければならない。


「篠原、クライマックスが近いよ」

「三浦くんの好きな時代劇は?」

「それはもちろん――」

「勧善懲悪。」二人の声が重なり、吹き出す。


「むかし、三浦くん言ってたでしょ?『世の中は悪い奴が栄えて、正しいことをする人が虐げられてる。だから人は悪に走りやすくて、正しいことを行うことを恥ずかしがる風潮がある。そんな世の中間違ってると思わないか?僕は自分が正しいと思うことは絶対曲げない。困ってる人がいたら助けてあげるのが当たり前だ』って」

「僕?そんなこと言ってた?」

「うん。わたし、それ聞いた時思ったんだ。この人は絶対正義の味方になるんだって」

「篠原の好きな、桃太郎侍みたいな?」

篠原は恥ずかしそうに笑う、その顔に一瞬、不安がよぎったような気がした。

「だからかな、今回あいつにストーカーされて、毎日不安で、怖くて、わたし一人じゃどうしようもなくて、誰か助けてって思ったら、真っ先に三浦くんのことが頭にうかんだんだ。三浦くんなら助けてくれる気がして。気がついたら連絡してた」


 僕は急に自分がはずかしい人間に思えた。社会に出て、少なからず大人になった僕は、青臭い正義論なんてかなわないと、とっくにあきらめて、困っている人がいても忙しいからと言い訳をしてみて見ぬふりをしてきた。正義なんてテレビの中でしか実現されないと思い込んでいた。篠原はむかし僕が言ったことを信じてくれていたのに。


「わたしのこと守ってね、正義の味方」篠原がつぶやく。若干冗談めかして。

「任せとけって。篠原がピンチの時は颯爽と現れるさ」

 願わくば、世の中の悪を滅ぼすなんてバカみたいなことは言わない。でもせめて僕の周りだけは守りたい。大事な人くらいは守れる人間になりたい。


 『勧善懲悪』という言葉が頭の中で繰り返されていた。





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